恋とはまるで桜のように

春告草

第1話

 恋に落ちたのは、何気ない一瞬だった。

 幼稚園の時からずっと一緒にいた、幼馴染の女の子。小学六年生の、新学期が始まる始業式の朝、今年はクラスが同じだねと微笑む彼女の笑顔に、僕は心を奪われてしまった。

 廊下を並んで歩く時、歩幅が広い僕に追いつこうとしてトコトコと駆け足で追いかけてきてくれるのも、僕が歩幅を合わせると、嬉しそうに少しだけ笑う顔も、新しいクラスに緊張してなかなか教室に入れない気弱な僕に、大丈夫だよと背中を押してくれるのも、今までは何でもなかった日常が、途端に鮮やかに色づきだした。

「先生、誰になるかな?」

「……え?ああ…誰だろうね」

「松山先生だったらいいなあ。綺麗だし優しいし、宿題あんまり出さないし!」

「宿題、ちゃんとやらないと成績落ちて受験受からないぞ。行きたい所あるんでしょ?」

「うっ、それ言うの禁止!受験生になんてなりたくなかったのに…」

 にこにこと笑っていたかと思えば、今度は眉間に皺を寄せて怒ったような表情になる。しかし、僕が宿題が出たら答え教えてあげるよと言えば、また明るい笑顔になって、本当!?と嬉しそうに声を上げる。コロコロと変わる表情が、今はとても愛おしい。上がってしまう口角をなんとか戻して、僕は何でもない風を装った。

 程なくしてたどり着いた教室に入り座席を確認すると、僕は窓側の一番後ろの席、彼女は真ん中の列の一番前だとわかった。

「ええ、嫌だよこんな席!」

「授業中に寝たら、すぐに見つかるね」

「そっちは…ええ!?いいなあ、代わってよ!」

「嫌だよ。そもそも名前順なんだから、先生にバレるよ?」

「もう、優等生め!」

 思春期の男女の微妙な距離感なんて関係ないとでも言うように、彼女は遠慮なく僕の頬をつねる。痛い痛いと文句を言いながら、それでも幼馴染だから許されたこの距離がどうしようもなく嬉しくてたまらない。

 おかしいな、今までもこんなことは何度もあったのに。浮かれきった僕の心は、ふわふわと風船のようにどこかへ飛んで行ってしまいそうで、慌てて彼女から離れて自分の席へと向かった。

 まだ教科書も入っていないため軽いリュックを机に置き、恥ずかしくてのぼせたように熱くなった顔を冷やそうと一番近い窓を開ける。

 うちの学校は一、二年生の教室が一階、三、四年生の教室が二階、五、六年生の教室が三階に集められていた。

 大きく開けた窓から、ふわりと爽やかな風が吹く。頬を撫で、鼻を掠めるそれに乗って甘い花の香りがして、僕は窓から地上を見下ろした。校庭は廊下に面しているため、ここから見えるのは小さな中庭だ。校舎に囲まれた広くはないスペースの中央にたった一本佇むそれは。


 校庭の満開の桜からひと月も遅れた、開花したばかりの桜だった。


***


「うええ…」

 教室の窓側の一番後ろの席に座る僕の、一つ前の席に座り、僕の机にうなだれるのは幼馴染の女の子。

「また先生に怒られたの?」

「だって、たった一日だよ!?たった一日宿題出すの遅れちゃったくらいで…」

 僕たちのクラスの担任は、彼女の望みは叶わず宿題の提出期限に厳しいことで有名な竹川先生になった。勉強が苦手で人と話すことやスポーツが好きな彼女としては、とても相性の悪い先生なのだ。

「たしかに遅れたのは私が悪いけど…だからって、ペナルティのプリント多すぎるよ!」

 どん、と僕の机に彼女が持っていた紙の束を置く。『算数 宿題プリント』と一番上に題された紙は、途中式を書くスペースが取られてあり、一ページに二十個の問題が書かれている。パラパラと紙をめくると、どうやら裏表印刷のようで裏ページにも同じくらいの分量の問題が記されていた。最後の十枚は証明問題らしく、問題数が少ない代わりに解くのにきっと相当な時間がかかるだろう。トントンと、流し見たことで少しバラけた紙束を机で整えて改めて見れば、束の厚さはおよそ一センチ。枚数で言うなら百枚ほどだろうか。根っからの文系女子である彼女にはあまりにも酷な問題数である。しかめっ面で嫌悪感を隠そうとしないのも頷けてしまった。

 それはさておき、唇を尖らせ嫌だ嫌だとわめく彼女もやっぱり可愛い。最初はあまりにも突然変化した世界に戸惑っていたが、最近はだいぶ慣れて可愛いな、と心の中で呟くようになった。風になびく長い黒髪が、忙しなくキョロキョロと動く大きな黒目が、楽しそうに僕にいろんな話をしてくれる声が、彼女の全部が、僕は愛おしく感じた。

 今までも、軽口を言い合いながら彼女と過ごす日々はとても楽しかったけれど、今はそれだけじゃない。彼女と会話する一言一言が、彼女を見つめる一分一秒が、今まで生きてきた人生で一番輝いている。花盛りの青春期とは、まさにこのことなんだろう。間違いない。僕は、今が一番幸せだ。

 膨らんだ想いは、まだ言わずにいたい。まだ、この幸せな時間を僕だけのものにしたい。いつか、訪れる終わりなんて無いと信じていたい。

「プリント、手伝おうか?」

「本当!?ありがとう、神!」

「大袈裟だなあ」

 じゃあ放課後!と言って彼女は自分の席に戻る。それと同時に、間延びした予鈴の鐘が鳴った。次の授業まであと五分。たしか歴史だったっけ、と机の中から教科書と資料集を出すと、ふわりと窓から入り込んだ風が桜の匂いを運んできた。始業式の時より強くなっているその匂いに誘われるように窓から中庭を見下ろせば。


 前はまだちらほらと咲いている程度だった桜が、今は見事な満開だった。


***


「ねえねえ、聞いて!」

 頬を赤く染め、僕の前に駆け寄ってくる彼女に僕の心は危険信号を出す。しかし、彼女の聞いてほしくてたまらないというワクワクした様子に負け、どうしたの、と返してしまった。

「好きな人ができたの!」

 ガツン、と頭を鈍器で殴られるような衝撃に襲われた。

「隣のクラスの人なんだけど、昨日私が階段で転びそうになったら支えてくれて、すごくカッコよかったんだ!」

 そのぐらい、僕だってするよ。口から出そうになったその言葉を、慌てて飲み込む。

 わかってる。僕はカッコよくないんだ。スポーツは苦手だし、幼馴染の彼女以外と話すのも得意じゃない。背は高い方だけど、顔はお世辞にも良いとは言えない。でも、彼女の一番近くにいたのは、ずっと僕だったのに。彼女を誰よりも好きなのは、家族以外なら絶対僕なのに。

 どうして。どうして。どうして僕じゃないんだ。

 こんなことなら言えばよかった。一番幸せだったあの時に。たとえ終わりが訪れたとしても、幸せなまま終われただろうに。

 気づいて。今からでいい。ほんの少しでもいいから、僕を見て。

 君はもう、僕を見てくれないなんて。

 苦しくて、呼吸が浅くなる僕を彼女は心配そうに見つめてくれる。

「……大丈夫だよ」

 彼女と、自分に言い聞かせる。

 彼女はまだ、僕を見てくれるじゃないか。伝えなかったことで、『一番の友達』でいられるんだ。それでいい。彼女の笑った顔が好きだ。そして今、彼女は今までで一番素敵な笑顔で僕に話しかけてくれている。それでいい。

「それで、続きは?」

 開けていた窓から突風が吹いて。


 三階の教室にこの教室の中にまでたくさんの散った桜の花弁が入って来た。


***


 放課後、彼女から呼び止められて、僕たちは他に誰もいない教室で、いつものように向かい合って座っている。

 彼女は先ほどからソワソワと、忙しなく視線を動かしている。そんなところも好きなんだ、と頭では気づいてる『終わり』を無視して心はときめいてしまうんだ。

「あ、あのね!」

 いつも物事をはっきりと口にする彼女にしては歯切れの悪い言い方に、心のどこかで絶望して、心のどこかで愛しいと思う。そんな器用なこと僕にできたんだなと苦笑して、覚悟を決める。

 泣かない覚悟だ。

「遂にね、付き合うことになったの!」

 しばらくはモゴモゴと口を動かしていたけれど、ついに彼女も決心したのか、真っ直ぐに僕を見つめてそう告げた。

 あらかじめ覚悟をしていたからだろうか、涙は出ない。苦しさも、悲しさも、悔しさも、以前ほどではなくなっていた。

 彼女は僕を真っ直ぐに見たまま、話を続けた。告白した時の言葉、相手の返事、嬉しさのあまりに泣いてしまったこと、彼が涙を拭ってキスしてくれたこと。そうしたらもっと泣いてしまって、泣き止むまで側にいてくれたこと。

 彼のことを話す彼女はとても幸せそうだった。少し前の自分も、きっと似たような顔をしていたのだろう。

 話し終えた彼女は、話を聞いてくれてありがとう、と嬉しそうに笑って教室を出て行った。彼と二人で帰るのだという。

 ざあざあと、激しい雨の音が近くに聞こえる。開けていた窓から雨粒が数滴入ってきた。そのまま少しの間動けずに、雨の音だけが響き渡る教室の静けさを感じていた。寂しさは、もう無い。

 教室を出る前に窓を閉めようと思い、ふと窓の外を眺める。

 見下ろした中庭にたたずむ一本の桜の木は。


 全ての花弁が、だれにも言えない恋と一緒に雨に押し流されていた。

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