レンタル

岸正真宙

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 やっと僕の手の届く範囲に彼女が居る。喉が異様に乾く。彼女の顔の表情の動きが見えてくる。いつものような冷たい硬さは無いが、かといって親密を滲ましているわけじゃない瞳。それでも僕は彼女に手を伸ばす。一瞬触れた彼女の髪は、クラゲの髭のようで、毒針を撃ち込まれたように僕はしびれる。それでも少しずつ、二人の空白を埋める。ほんの少し鼻頭が当たった。そこにある彼女の産毛が揺れるのを感じた。黄金色に光るそれは、僕の耳の裏にある刺激物を火薬のように破裂させる。焦れるほど、この距離を保っている。彼女の瞳は閉じ切っていないのだから。僕はその距離を保ったまま、彼女の背中に手をまわしてみる。華奢な身体ながら、美しい肌触りのそれは、この世界の全ての高級な車のシートが彼女のそれを真似るべきで、僕はこの手を上にずらしていくことさえ、背徳を感じるほどの美しさであった。


 彼女の名前は奈未。キャンパスで一、二を争う美人だ。サークルがたまたま同じだったことから知り合いになったが、普通に大学生をしていたら、とてもお近づきになれる存在ではない。大学一年の頃から、一緒に居たせいか、だんだんと美人に慣れて、冗談を普通に交わすぐらいになり、奈未が緊張せずに居られる相手が僕だったせいか、よく食事にも誘われた。そんなに意識をしていなかったのに、二年の時にふと見せられた弱音のせいで、異性として見るようになってしまった。それからは、地獄のような日々が続く。彼女の一挙手一投足が僕を魅了させて、嫉妬させて、そして手に入らないという焦燥感を産み出した。砂漠の真ん中に居るような、常に渇き、渇望するようになった。強すぎる太陽は僕には毒だ。奈未も僕の変化に気付き、以前のように接することも、遠ざけることもしながら、距離を半歩だけ後ろに下げたような態度でいてくれた。友人としての配慮だたのかもしれない。

 奈未は一般社会人の男性と付き合っていた。恐らく相当の企業に勤めているのではないかと思う。お金の羽振りもよく、どこに行ったなどの話は大学生の僕からすると随分と別世界に見えた。

「そうね、世界が違うなって、私も思う。私のことを、多分幾らもいる女性のうちの一つぐらいにしか感じてないんじゃないかな。冷静になれば、彼に深いりすべきじゃないのかな」

 奈未は、美人なんて人によっては腐るほど居ると言った。僕にとっては君だけなのに。選べる中から、たまたま奈未を見つけただけで、その男は他の女とも一緒にいるらしい。

「沢山ある一つじゃなく、一つしかない奈未を、僕なら選ぶよ」

 そう言ったら、少しだけ哀しい顔をして奈未が笑った。


 今日は奈未の誕生日だった。おそらく予定があると思っていたから、どうしようもないとは分かっていても、僕は夜の食事から、プレゼントから、それからホテルまで全て手配して、少し背伸びをしたスーツに袖を通して、あほみたいな顔して、新宿で独り過ごす気でいた。

「予定、無くなっちゃった」

 奈未は悲しい声でそう言った。あほみたいな顔をした僕は、どうしようもなく哀しくなった。その日の準備の良さに、奈未はここ数週間で久しぶりに笑ったと言った。「私が来なかったらどうしてたのよ?」と言われて、僕も考えが無かったと笑って返した。せっかくだから全部堪能するって言った奈未は、ほんの少しやけくそだったんだと思う。お酒のペースも早く、僕も心配するほどだった。


 そうして、二人で低層階のホテルのこじんまりとした部屋の一室で、ベットで横に座っていたときだ。彼女の瞳は酔いが回っているのに、しっかりとしていたのに、僕は誤って、見えていない境界線を越えてしまった。友人を辞める、あるいは失う。その境界線を。


 背中に回した手が、彼女を滑るように撫であがる。そのせいで、わずかな吐息が彼女の声として昇る。それでも目線を合わせず、閉じない彼女を見ながらも、僕の全身の感覚が拡大し行くのを止められないでいた。自分の身体を支えるためにベットに置いた手を彼女の手に重ねてみる。指の隙間に僕の指を絡めに行く。反対の手は彼女のうなじのところに入り、少しだけ顔をもたげさせた。さっきよりも直線の到達距離が近くなった、彼女の唇が固く閉じては居ないのを感じる。僕はほんの少しだけ拡げた唇を被せにいった。もう、彼女の瞳は閉じられていた。彼女の唇に触れると、下半身に血が集まっていく。彼女は嫌がるでもなく、唇を何度か重ねるうちに、ほんのりと僕の舌先がはいれるほどの入り口を開けてくれた。僕はそこへ舌を滑り込ませる。彼女の綺麗な肌が、ほんのりと色香を魅せ、僕の鼻腔にそれを運ぶ。彼女の手が、僕の指に絡まってきた。僕は彼女の背中にもう一度手を回した。今度は彼女の身体を支えて受け止めるために。僕はそのまま彼女を、ベットの方へと倒した。







「昔の文献を見たところ、このような形で情の不釣り合いな交換が良くなされていたことが読み取れます。今の時代ではありえませんね。この時代の人々たちは、相手の感情と自分との感情との差分に気付くことができませんでした」

 心理化学の教師の、並河は僕らに向かってそう言った。僕はこの文献を見ながら、自分の股間が誤って反応を示さないか、不安で居たら、近くの安川が同じ心配をしていたのか、ディナシーが反応色をピンク色に変えた。

「うむ、安川反応しても構わない。思春期はコントロールが難しいものだ。ちょっと待て、今好反応除去プログラムを伝達させる」

 並河は何も大したことが起こっていないという風にそう言った。

 僕らの時代には、空中にナノマシンである、ディナシーが徘徊をする。これは静電気ほどの荷電動く、感知センサー、放電システムである。一つ一つのディナシーは人体への影響は無い。そのため空気中、特に荷電される人間の周りに濃く散布されている。このディナシーは他人の感情で出るあらゆるホルモンを感知する。そして、逆に自分たちを繋がり方を変えて形式を変更することで化学物質と似た構造を介して人間に感情のプログラムを流すことができる。

「あ、収まった」

 安川は笑ってそう言った。

 並河が作ったプログラムに反応し、安川の周りのディノシーが変異して、情緒を抑える組成になったのだろう。ディノシーのおかげで安川の勃起は収まったに違いない。


「話が途中で途切れてしまったが、今の時代では、この時代はお互いの感情の差異を認識できないまま、恋をすることがあった。えー、大事な心理化学なので、しっかりとメモしておいて欲しいが、感情量の差異をLとする。このLは臨界点量が複数の輪に関わっており、その輪の範囲量をf(x^4)で求められる。このxに入れるべき数値は、対象の年齢値に有名なミッサル・オーランド予測を入れた数値を掛ければ良い」

 僕はその値を目のまえのタブレットを使って探し、例となる、自分の数値を入れた。目の前に波紋が広がるような輪が出てきた。

「なるべく動的な動きをするようにしたいが、単純なモデルからスタートする。今出てきた輪の中の範囲3を見て欲しい。ここを越えると恋人にさえなれない。また範囲1以下は誤差になる。したがって、1<L<=3の範囲に入るような恋をした場合は、レンタルになる」

 並河はボード出てきたその文字をタップした。僕らのタブレットに同様の文字が出てきて説明書きが表示された。

【レンタル】

 1.[名](スル)賃貸し。賃借り。「―料」「―ルーム」「―ビデオ」「引っ越し用にトラックを―する」

 2.[心理化学]対象相手との感情の差異を補うために、差し出された善意、あるいは悪意の量を差す。必ず返却を求められることが確認されている。



「どういうことかと言うと、さきほどの例を使えば、この男は女性と恋愛上の差異が発生している。男の方が女性よりも女性のことを好きな状況である。男性と女性の差がLに値し、このLが先ほどの範囲に入る。この間、男は女性から差分の気持ち分を善意としてレンタルすることになる。これによって、しばらくの間、つり合いが取れるが、のちのちこの善意を返却することを求めらる。例えば金銭や、態度、行動、といったことである。この善意については返却が滞納されれば、すぐにレンタルは終了されるとされているというわけだ」

 饒舌に並河は語った。それもそのはずで、ディナシーがある現代の人間には基本的には相手の感情も見え、対処もできる時代で、なかなか誤ることは無いからだ。そんな風になるなよと言外に彼の意志が見え隠れする。

 僕の斜め前の友梨佳が、ちらりと僕を見た。

 分かっている。

「まあ、そうなったから不幸とは言えないが、だが少し効率が悪いぞ」

 友梨佳はほくそ笑んで、また前を見た。

「じゃあ、以上だ。次の授業は数学だ、教室はこのままー」

 僕は密かに、さっきの式に僕と友梨佳の関係を表す値を入れた。

 ——2.3——

 やっぱりね。まあ、良いけども。






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レンタル 岸正真宙 @kishimasamahiro

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