最終話 とある喫茶店の話

 人通りの少ない路地裏に、ポツンとある喫茶店。あまり人が来なかった喫茶店は、今では常連客で少しだけ賑わっている。


 そんな喫茶店のマスターの名前は玲美。

 優しく綺麗な女性だ。そして、そんな玲美と一緒に喫茶店にいるのは、犬のトシさん。

 1人と1匹は、今日も喫茶店で色んな人たちの悩みや相談を、いや、ただ話を聞くだけだったり、話をするだけの、ただの何気ない時間を過ごしていた。


「聞いてくださいよ! 玲美さん!」


 店にやって来た美咲は、入ってくるなり怒った様子で声を荒げていた。


「あらあら、どうかしたのですか? 美咲さん」

「海人ったら、同じクラスの女の子と2人でデートに行ってたんですよ!」

「あらあら、それはそれは……」

「ちょっと待ったー! それは誤解だって!」


 そして少し遅れて入ってきたのは、焦った様子の海人だ。


 海人は玲美のジトッと向けられた半目に怯みながらも、必死に弁明を口にする。


「あれは、別にデートに行った訳じゃなくて。ただちょっと、相談に乗ってもらっただけで」

「相談? 私にじゃなくて?」

「それは……」


 美咲は海人の言い分を言い訳だと思っているようで、疑うような眼差しは変わらない。


 しかし、海人の様子から、事情をある程度察した玲美は微笑ましく笑う。そして、海人に助け船を出すのだった。


「まあまあ、海人さんも悪気がある訳じゃなさそうですし、そう頭ごなしに否定するのも可哀想ですよ」

「でも……」

「それに、私から見ても、海人さんは、美咲に夢中ですし、心配なんてありませんよ」

「え? ほんとうですか?」

「なっ! そっ!」


 玲美の言葉に、海人はすぐに否定しようとしたが、ここで否定するとまた問い詰められると思ったようで、寸前で言葉を飲み込む。


「それより、今日も何か飲みますか?」

「あ、はい。今日はコーヒーをお願いします」


 玲美は知っていた。

 来月には、美咲の誕生日があるということを。そして、その誕生日プレゼントを買うために、海人が悩んでいたということを。


 海人が美咲を差し置いて、他の女の子の所に行くとは考えづらい。となると、答えは自ずと決まってくる。


 まだ完全ではない部分もあるが、それでも最初に出会った時よりも、素直になれるようになったようだった。


 そんな変化が、玲美は嬉しかった。



「こんにちは、玲美さん」

「あ、一葉さん、有咲さん、こんにちは」


 海人たちが帰るのと入れ替わるように、次にやって来たのは一葉たちだった。

 2人は学校帰りに寄ってくれたようだ。


「玲美さん、聞いてください。私たち、遂に同じ大学の推薦が決まったんです」

「わあ! おめでとうございます!」


 玲美は自分のことのように喜ぶ。

 親友として、同じ大学に行こうと努力していた2人を見ていた玲美としては、その報告は自分のことのように嬉しいことだった。


「それにしても、お2人も来年は大学生ですか。早いものですね」

「えへへ、あまり、実感はないんですけどね」


 感慨深げに話す玲美は、改めて2人の姿を眺める。一葉が初めて喫茶店に来た時、その表情は暗いものだった。

 しかし、今ではその印象も変わっていて、有咲と共にいる一葉は自分らしさを見つけ、以前よりも生き生きとしている。



「邪魔するぞ」

「帝さん、お久しぶりですね。皐さんも」

「こんにちは」


 次の日に来たのは、帝と皐だった。

 皐はよく店に来るが、帝と一緒というのはほとんどない。先日の誕生日パーティーに来た時が、久しぶりの再会だったくらいだ。


「何、飲むんだ?」

「私はコーヒーでいいよ。帝くんは?」


 2人はコーヒーとランチセットを注文する。

 それは、本当に普通のデートのようで、普通の恋仲のようだった。


 皐からの話を聞いている玲美は、帝の変化を知っていた。


 少しずつでも変わろうとする帝は、今までの自分と戦っている。積み重ねてきたイメージは、帝の周りの人たちの脳に染み付いていた。

 他から見れば、突然変わり始めた帝に、離れていく者も少なくない。


 しかしそれでも、帝は変わろうとしている。


 喫茶店に来た頃の帝を思い出しても、そんな変化が起きるとは想像もできなかった。


 しかし。


「ふふ、仲がよろしいですね」

「あ、そう見えますか?」

「ええ、とっても」


 皐の笑顔を見れば、帝の変化は良い方向に進んでいるというのはよくわかった。


「ちっ。面倒くせぇな」


 悪態をつく帝だったが、それでも皐を責めることはない。むしろ、恥ずかしさを隠しているだけのように見えた。


 可愛らしく変わっていく帝に、玲美はニヤニヤと笑っていた。



 1人1人、様々な客がやってくる。

 初めての客がいれば、常連客もいる。


 いつも同じじゃない。喫茶店に訪れる人たちに変化があるように、この喫茶店も日々変化が起きていた。


 その変化は玲美にも影響を与え、トシさんにも影響している。そして、その影響は、また喫茶店に訪れる人たちへ伝播する。


 誰かが変われるきっかけになる喫茶店。

 玲美の目指す理想がそこにはあった。



「玲美。盛況ですわね」

「英玲奈。ええ、お陰さまで」


 今日の客は英玲奈だ。英玲奈は玲美に挨拶をすると、トシさんの方に目を向ける。


「トシさんは、まったく。いつものようにぐうたらですの?」

「別に怠けてる訳ではねぇよ」

「どうだか?」


 英玲奈は、トシさんが喋ることを知っている。以前の玲美の誕生日パーティーの際に、それを知った。

 そして、玲美とトシさんが、あの日どんな話をしたのかも聞いていた。


「玲美のお手伝いをするのなら、テレビでよく見るような愛嬌たっぷりな犬を演じてもよろしいのではなくて? 人気も出ますわよ?」

「そんな俺を見てぇのか?」

「おえっ」

「てめぇ……」


 その上で、英玲奈はトシさんを、少しだけ友人として認めていた。まるで昔からずっと知っている仲のような2人に、玲美も穏やかに笑う。


「トシさんは、このままでいいのですよ。無理に変わる必要はありません」

「玲美はトシさんに甘すぎますわ。働かざる者食うべからず。もっとこきを使わないと」

「あー、うるせぇ、うるせぇ」


 それは、利樹が生きていた時のような会話。

 昔を思い出すような会話。


 しかし、そこには確かに利樹はいない。

 利樹の代わりだっていない。そこにいるのは、紛れもなくトシさんという犬だけ。

 その認識は、玲美と英玲奈の中にあった。


「英玲奈。ありがとうございます」


 その認識は玲美にとって、大切なものだった。


「あの日、私はやっと、利樹がもういないのだと理解することができたような気がします」


 トシさんは、利樹ではない。

 当たり前だが、信じたくなかった事。


 それを信じなかったからこそ、玲美は踏みとどまることができて、そして、時間が止まってしまったのだ。


 その時間が、あの誕生日パーティーの日に動き出した。それは、玲美が未来に向けて一歩、足を踏み出したということ。


 玲美の曇りのない笑顔に、英玲奈は泣きそうになっていた。


「お礼を言われるようなことはしてませんわ。私たちは親友なんですから、当然のことですわ」

「ふふ、ええ、そう言うと思った。でも、それでも、私は嬉しかったから。ありがとう」


 もう一度言われて、英玲奈は本気で涙が出そうになった。


 玲美が立ち直れず、受け入れることもできず止まったまま。しかし、止まっているからこそ、生きているという、歪んだ状態をずっと見てきた英玲奈は、その笑顔をずっと待ち望んでいた。


「そ、それにしても、トシさんは、どうして喋れるのかしらね?」


 これ以上話を続けると涙が止まらないと思ったのか、英玲奈は無理やり話を変える。


「それは流石に私もわかりませんね」


 トシさんを知る者はトシさんが喋れることを受け入れているが、どう考えてもおかしなことだ。

 科学的に説明できることではない。


 それでも、トシさんはふと思うことがあった。


「よく知らねぇが、そんな不思議なこともあるってことだろ」

「あなたは、他人事のように」

「それだけ、利樹の想いが強かったってことじゃねぇのか?」

「え?」


 トシさんの言葉に、2人は耳を傾ける。


「自分がいなくなった時、玲美がどうなるのか、あいつはわかってただろ。そんで、時間がかかっても、いつかは立ち直れるって信じてもいたはずだ。だから、そのために、時間稼ぎをしたい。そう思ったんだろ。自分にはできないそれを、どうにかしてしたい。絶対に、玲美を救いたい。そんな想いが俺に宿った。確かに俺は利樹じゃねぇ。それは変わらねぇが、あいつの意思は、今も生きてるんじゃねぇかってことだ。玲美の心の中にな」


 トシさんの話に、2人は呆気に取られていた。

 非科学的な話。結局、理由にも、何の根拠にもならない。しかし、そう思えば、そうなんじゃないかと思える不思議な話。信じたいと思える素敵な話だった。


「クサイ台詞ですわ」

「ちっ。茶化してんじゃねぇよ」


 またも言い争いを始めてしまった英玲奈とトシさんを他所に、玲美は目を瞑り、トシさんの話を反芻するように頭に浮かべていた。


 利樹が自分を守るために、トシさんを生み出した。それはまったく意味のわからない話だ。

 しかし、現実的なあり得ないことでも、利樹は玲美を守るために、無理やりそれをねじ曲げてしまうことができた。


 それだけ自分を想ってくれた。そう信じたら、胸の仲が暖かくなるような気がした。


「そうだったら、素敵ですよね」


 呟く玲美に、英玲奈は諦めたように笑い、トシさんは照れ臭そうに顔をそらした。


「私の中に、ずっと利樹がいる。それだけで、私は生きていけそうです」

「そう。それなら、よかったですわ」



 誰もが変われるきっかけになる喫茶店。

 背中を後押しする時もあったり、ただ寄り添うだけの時もあったり、ただ話を聞くだけだったり。人によって様々だ。


 それでも、確かにこの喫茶店では、人に変化を与えていった。良い方向に変わっていけた。


 それはこれからも続いていく。

 少なくとも玲美は続けていきたいと思った。



 そんな喫茶店に新たな足音が聞こえてくる。

 訪れたことのない人の足音だ。


 玲美は新たな出会いに心を弾ませ、トシさんは新たな厄介事に辟易するように溜息を漏らしながらも、その表情は穏やかだった。


 今日も今日とて客は来る。


 玲美の理想の喫茶店を目指し続けるために、今日も喫茶店は営業するのだった。


 カランカランと客の来店を知らせる鈴が鳴り響く。そうして、玲美はいつものように客を出迎えるのだ。


「いらっしゃいませ」




 不思議な不思議な喫茶店。

 悩みがあるなら、あなたも一度来てみては?

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喫茶店のマスターは聞き上手 奈那七菜菜菜 @mosty

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