第13話 とある喫茶店のマスターの話 四
パーティーが行われている部屋を抜け出して、玲美とトシさんはバルコニーまで出てきた。
「英玲奈にも話したのですか?」
「……ああ」
部屋の方を見ると、英玲奈たちが楽しげに談笑していた。しかし、視線こそ向いていないものの、意識はこちらに向いており、気にしているのは雰囲気で伝わってきた。
「変な気を使わせてしまったみたいですね」
玲美は申し訳なさそうに顔を曇らせる。
それは以前よりも暗い表情で、トシさんの見たくない表情だった。
「そういう話じゃねぇだろ」
そんな玲美を、トシさんは強めの口調で諌めるが、玲美の表情は変わらなかった。
「はぁ。お前は気にしすぎなんだよ」
玲美の性格を熟知しているトシさんは、玲美の反応もある程度は予測していた。その上で、気の利いた台詞なんて言えないと割り切っている。
そして、言えないからこそ、トシさんは正直に自分の思うことを話そうとしていた。英玲奈たちが用意してくれたこの場を、無駄にしないためにも。
「お前が他人に弱音を吐かないのは知ってる。だがな、俺たちはそんなお前が心配なんだよ」
「わかってますよ。その気持ちは本当に嬉しいと思いますから」
玲美は笑う。しかし、その笑顔は嬉しさと悲しさが同居しているような表情だ。トシさんの言いたいことは、全く伝わっていない。
「違う。そうじゃねぇ。そうじゃねぇんだ。俺たちは、いや、俺は、お前にそんな顔をさせたいんじゃねぇんだよ」
「トシさん?」
「玲美。お前はもう、利樹から解放されるべきなんだよ」
「……え?」
玲美の瞳が不安げに揺れた。そして、徐々に絶望するように瞳の色が失われていった。
「どうして、そんなことを言うのですか?」
玲美の声は冷たかった。これまで聞いたことがないくらい。
トシさんはその声にも怯まずに話を続ける。
「お前が利樹のことを、どれだけ大切にしていたのかはわかっているつもりだ。でもな、利樹は今のお前を望んじゃいないはずだ」
玲美は何も言わない。口を閉じたまま。瞳は黒く、感情も感じられない。唯一わかることは、トシさんの言葉に、玲美が悲しんでいるということだけ。
それでも、トシさんは止まる訳にはいかなかった。
「利樹は縛り付けたい訳じゃねぇ。自由に、幸せになってほしかったはずだ。お前なら、それがわかるだろ?」
利樹の言葉を借りることは、玲美にとっては辛いはずだ。してほしくないはずだ。それはトシさんもわかっていた。
しかし、玲美には言わなければ伝わらない。気付かせなければ、一生、気付くことはない。
いや、気付いていても、自分でそれを否定する。してしまっている。
だからこそ、トシさんは地雷にもなりうる言葉を使った。
案の定、玲美の瞳に感情が込もる。
激怒という感情が。
「そんなこと、あなたに言われたくなかった」
腹の底から押し出すような声で、玲美はトシさんを睨み付けた。
しかし、トシさんは冷静だった。
冷静にトシさんは、本当のことを白状する。
「俺は、利樹じゃねぇぞ」
「っ!」
玲美は一瞬、驚きに目を見開いた。
その瞬間を見逃さず、トシさんが畳み掛ける。
「お前が俺を利樹の代わりにしてきたのは気付いていた。だがな、俺は利樹じゃねぇんだよ」
「……嘘ですよ」
玲美は笑った。渇いた笑いだ。
信じられない出来事に頭が働いていないように、縋りつくように笑う。
「だって、あなたは、私と利樹の記憶を知っていた。利樹と同じ言葉をくれた。いつも私を見守ってくれた。私が……。私が利樹を見間違えるはずがありません! あなたは、死んでも、私の近くにいてくれたのでしょう? 私を守ってくれていたのでしょう? そうに違いありません。絶対に、そうなんです!」
玲美の悲痛な叫びは、無理やり自分に言い聞かせているようだった。
「正直に言う。すべてをな」
トシさんは、ゆっくりと語り始めた。
玲美にとって、残酷な真実を。
「俺は利樹じゃねぇ。だが、確かにお前が言うように、利樹って奴の記憶は持っている。断片的にだがな」
「ほら! だったら!」
「だが、記憶があるだけだ。その時の利樹の感情も、思っていたことも、俺にはわからねぇ。想像するしかできねぇんだ。それでも、俺が利樹と同一だと言えるか?」
「それ、は……」
玲美は言葉に詰まった。
記憶を共有している。しかし、その瞬間に利樹が何を思っていたのかはわからない。あくまで第三者としての記憶しかない。
それで同一人物と言えるのか。その質問は、玲美にとって、受け入れがたい答えを孕んだ難しい質問だった。
「お前は、俺の姿に利樹を重ねていた。それがお前の生きる糧になっていた。だから、ずっと本当のことを言えなかったんだ。もし言っていたら、またお前は、以前のように生きる希望を失うかも知れねぇって思ったからな」
トシさんが言う通り、トシさんが利樹でなかった時、玲美は自分がどういう行動を取るかわからなかった。しかし、少なくとも正気でいられる自信がなかった。
「でも、あなたが利樹なのは間違いありません。今はまだ、すべてを思い出していないだけで、あなたは、利樹なんです。私が見間違えるなんてありえません!」
「本当にそう言えるのか? そう思い込みたかっただけじゃないと、心の底から言えるのか?」
「でも……、だって……」
すぐに答えることができない時点で、答えになっていた。
トシさんが初めて現れた時、玲美はトシさんが利樹と似ていると思った。
その理由は、利樹と同じようなことを言って、利樹の声と似ていたからだった。
しかし、その会話も、声も、同一人物であるという証拠にしては乏しかった。利樹でなければ言わない言葉、という訳でもない。声だって、あくまで似ているだけだった。
それを無理やり利樹と同じだと思ったのは、そうであってほしいという思いがあったから。そう言われると、否定することはできなかった。
「でも……、だって……」
玲美は壊れたレコードのように、同じ言葉を繰り返すことしかできない。その瞳は、少し昔の、利樹を失った時と同じように、絶望に染まった色をしていた。
変わってなんかいなかった。
玲美が利樹を失った時に踏みとどまれたのは、あくまでトシさんの存在があったからだ。
トシさんを利樹の代わりとして、そして、利樹の生まれ変わりとして思っていたから、立ち直ることができた。
それが間違いだったとわかった時、玲美は立ち直ってなんかいないのだと、改めて思い知らされたのだ。
絶望が心を埋め尽くす。
思い知らされた事実に言葉がなかった。
暗い海の底に落とされたように、身体が悲鳴を上げて、どんどんと沈んでいく。身体が冷たくなっていく。
どうして生きているのか。
それすらも見失って、玲美は身動きが取れなくなっていた。
そんな時。
「それでも、俺がそのことを言った理由が、お前にわかるか?」
「……え?」
何も考えられなくなっていた玲美に、トシさんの声が届いた。
「俺が利樹じゃないとわかって。生きる希望を見失って、また絶望の淵に落ちる。それがわかっていて、俺がそのことを口にした理由が、お前にわかるか?」
トシさんの声は優しい。
口調はいつもと変わらない、ぶっきらぼうなままなのに、その声は暖かかった。
玲美はトシさんを見て、首を横に振る。
それはまるで幼い子供のようだった。
トシさんは、そんな玲美に仕方がないとばかりに溜息を溢した。しかし、その表情は、声と同様に優しげなものだった。
「それはな、お前にとっての生きる意味は、もうたくさんあるからだよ」
「え?」
トシさんは、鼻先でクイッと部屋の方を示す。
その仕草に玲美が振り向くと、そこには玲美の誕生日パーティーに来てくれたたくさんの人たちがいた。
「あ」
玲美ならば、すぐに気付けることだ。
トシさんの言わんとすることを。
「でも」
ただそれを、受け入れられないだけで。
「わかってるよ。利樹の存在が、お前にとっては、何よりも大切で、大切にしたいことだってのは。でもよ、それでもよ、あいつらのことだって大切にしてぇんだろ?」
「それは……。その通りです」
「それでいいんだよ。お前にとって譲れない唯一の大切なものはある。だが、それとは別に大切なものもある。それでいいじゃねぇか」
玲美の喫茶店での出来事は、出会った人たちは、玲美にとってかけがえのない出会いだ。大切にしたいものだ。
それが増えていくことは嬉しくて、その時だけは利樹を失った悲しみが、少しだけ薄れるような気がしていた。
「お前はそれを利樹への裏切りと思ってるのかも知れねぇが、そんなことはねぇ」
トシさんの瞳が真っ直ぐに玲美を見つめる。
その瞳は、利樹のそれと全く同じだった。
信じられる唯一の瞳だった。
「お前にとっての生きる意味は、もう他にあるんだよ。利樹の存在だけじゃねぇ。あの喫茶店でのすべてが、お前の生きる意味になってるんだよ」
「私にとっての、生きる、意味」
玲美にとって、利樹は生きる意味そのものだった。いつからそうだったのかは覚えていない。気付いたらそうなっていた。
それは今でも変わらず、これからも変わることはないと断言できる。
そして、玲美にとっての生きる意味は、それさえあれば良いと思っていた。いや、むしろ、それ以外を持ってはいけないと思っていたのかもしれない。
利樹が何よりも大切であるからこそ、それだけを求めていると思い込んでいたのかもしれない。
だが。
「今なら、意味がわかるだろ? 玲美。お前はもう、利樹から解放されるべきなんだよ」
「私はまた、利樹を言い訳にしていた?」
玲美が中学生の頃、利樹以外に友だちなんていらないと思っていた。
しかしそれは、友だちを作らなくても良いという言い訳のための、都合の良い理由でしかなかった。
その時も、玲美は利樹に諭された。
そして今も、トシさんに諭される。
自分にとっての生きる意味は1つしかない。1つでなければならない。何故なら、利樹は玲美にとって、唯一無二の存在だから。
だがそれは、生きる意味を見つけられない、ただの言い訳だった。
「やはり私は、子供の頃から、何も変わってないのですね」
自嘲する玲美に、トシさんは首を振った。
「変わってるじゃねぇか」
「ふふ、そんな、慰めは」
玲美の言葉を遮って、トシさんが言う。
「慰めじゃねぇよ。お前はもうすでに答えを持ってるんだから。無意識でも、お前はちゃんと生きる意味を探してたんだよ」
「あ」
言われて気付いた。
トシさんが教えてくれた生きる意味は、これまでの玲美の積み重ね。喫茶店での1日1日の出来事だ。
それらは、トシさんがいたから求めたものではない。ましてや、利樹が手伝ってくれたものでもない。
紛れもなく、玲美と出会ってくれた1人1人のお陰だった。
「そっか。そうだったんですね」
学生の頃とは違う。答えが見えていなくても、答えを手にしていた。
ただ気付けていなかっただけだ。
しかし、一度それに気付いてしまえば、あとは簡単な話だった。
「トシさん」
「行けよ。そろそろ主役がいねぇと、場が持たねぇだろうからな」
「……一緒に来てくれないのですね」
「ああ、もう、大丈夫だろ?」
トシさんは笑う。
もう一度部屋の方を見ると、英玲奈が心配そうにこちらを見ていた。それだけじゃない。美咲も海人も、他にもたくさん。
その視線が、玲美は嬉しかった。
「ええ。ええ、大丈夫です」
彼らがいる所に戻ることは、玲美にとって家に帰ることと同じだった。
利樹と一緒に過ごした家だけが、玲美の帰る家だと思っていた。しかし、帰る家ならとっくに増えていたのだ。
「行ってきます」
「ああ、行ってこい」
不思議な気持ちだった。ついさっきまでの心が嘘のように、スッキリとした思いだ。
トシさんがいてくれるから。皆がいてくれるから。利樹との記憶があるから。1つだけじゃない。すべてがあるから、玲美は生きていく。
これからも。
玲美は心から微笑み、皆の元へと戻っていった。
「皆さん、ただいま」
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