幻想悲曲
@miyukiokumoto
第一幕 一場
幻想悲曲
私が来たのは、地上に火を投ずるためである。
あなたがたは、私が地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。
父は子と、子は父と、
母は娘と、娘は母と、
しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、
対立して分かれる。
ルカによる福音書十二、三十八ノ五十三
第一幕 第一場
光が淵に街は落ち、月は爛々、夜空から星たちを蹴落としては哄笑している。宵の花々、咲く灯たちはそんな哀れのなれの果て。人の咲かすその数知れず、夢まぼろしに同じくして。吹き抜く風に揺すられて灯は千々切れに、影もまた。塵芥どもは舞い上がり暑苦しさを更に汚す、淀んだ空気の初夏、今宵この夜、歓楽街はそのあるべき様相を呈していた。常通り、人々でごった返していたわけである。
誰も意に介さぬぞといったふうなわがままな足音がそこらより沸き立つ―だが溶けあわない―各々が調べの中に、目の前に何が現れても蹴散らしていくのではないかと思われるほどの決意の固さを見せびらかせつつも、同時にそれとは真逆の、ある種恐れにも似た、決して他の誰をも邪魔しまいと意図して遠ざかる響きをもそこに孕んでいるから。そうした足音の主たちが行き交うのを蔑むかのように、馬上から―通りには馬もちらほらと見受けられる―貴人、おそらくは領主の雇われ騎士といった、金持ちの道楽人のような手合いたちが、にやにやとした笑みをたたえながら見渡していた。それは本当に些細な相違になるのだが―身分も、とりわけ物理的高度に於いても他に優る彼らは、ここにおいてどんな愉悦をも持ちうるに違いない。彼らの駆る馬たちは、大して腿を上げないのに、通りを滑らかに進んで行く。それでなくても、あるいは無意味な足踏みをしたりする―静かな動作とは対照的に、それに伴う小気味の良い蹄鉄の音は、虚栄心の満足を主人に代わって弄んでいるかにも思われた。だが断っておくと、誇れるような身分を持つ人間は、こんな街に足を踏み入れたりはしないものである。
通りに居並ぶ酒場の中からは、杯をぶつけ合う音や、給仕の走り回る足音、あるいは、食器の擦れ合いといった料理店につきものの音が外にまで飛び出してくる。そしてそれらを伴奏するかのように、人の発する声―即ち、耳を覆いたくなるほどに下品な言葉、言い合い、笑い声などが、細く間延びしたり、あるいは騒音の主旋律を時折突き破ったりしながら、薄靄のように街を支配する喧噪の底にきらめいていた。中には、本当の旋律が聞えてくる酒場もある―本当の、と言うには少しの語弊があって、なぜならそれらは安酒場より流れてくるジプシーたちの奏でる音楽であり、へたくそな手琴、調子はずれなアリアといった、芸術家という人間には思うべくもないものだから。こうした音楽が赦され愛でられるのは、下卑た街、俗悪を鏡で移したようなこうした街においてのみなのであって、酒に酔いでもしなければ常ならぬ悪趣味な音を甘美だとは思わないから、それは、聞き手のみでなく歌い手の精神や肉体もまた退廃の毒物に侵されていると示すことだし、事実この場においてはそうなのであった。とどのつまり、こうしたたくさんの不快さが街の音色なのである。
だが聴くと、今、酷く場違いな音が近づいて来る。それは足音―せわしげに、しかし控えめに、こつこつと石畳を叩きながら寄ってくる。乾いた響き―まるで一歩踏む毎に穴を開けようとして、奇妙な執心を地に向けて放っているかのよう。周囲の何者にも近寄りたくないという、たとえば、危険だと思われる人物の目前を横切る際に我々が足音に込めるようなあの遠慮深さを同じように含みながら。だが、過剰なまでに身をはばかろうとするその心遣いが却って周囲とは隔絶された空気を放つのであって、退廃の街のどの調べにも隠れきることのできない響きをそこに聞かせるから、音はそれ程大きなものでもなかったけれど、それを耳にする者の鼓膜を大きく揺するのだった。舞台上で、俳優が重大な感情のこめられた台詞を述べる場合に、たとえどれだけ声音が小さかろうとも人ははっきりとそれを聞き分ける事が出来る、ちょうどそうしたように、小さな足音は聞くものに、周囲のどんな騒音すら問題にさせず、その音源を抽出させようとするあの集中力を、そこに込められた常ならぬ感情によって与えているのだった。通りの中央に出てくればいっそう高く冴え渡る―たとえどんな快楽の業火が行きずりにほとばしっていたとしても心の一糸すら焦がされることはないと、その一本気な調子は頑なな雄弁さを添えて。
「よう、尼さんが、こんなところに一体何の用だ?」
通りの脇に卓を並べて商売している酒場の影から、若い男がひょっこり顔を突き出して、ちょうど前を通りかかった尼僧に声をかけた。尼僧は一瞬ハッとしたように顔を強ばらせて見上げたが、しかし、すぐに視線をそらしてつま先の向きを転じると、避けるようにしてそのまま通り過ぎてしまった。男が背後で何やらわめくのを、遠ざかりながら耳にした彼女は、その文句をはっきりと聞き取れたわけでもないが、それが好色な、つまり、あけすけな誘い文句と、その希望が達せられないことによって発せられた痛憤の言葉であると推したのだった。(酔ってるんだ…… ああ、あいつ! 酔ってるんだ)男の声高な物言いに、行き交う通行人たちが皆こちらを振り向いて、単なる好奇の、あるいは物色の、いやらしい視線を体一杯にあびせてくる、それを感じた彼女は、唇の片端を吊り上げ、忌々しさに鼻を鳴らしたのだった。(うっちゃっといてちょうだい!)
通りの空気は耐え切れない。ずらりと建ち並んだ商店はほとんど灯を消しているので、眼につくものといえば酒場だけ。建物たちは先ほど述べたような喧騒とともに、煌々とした灯、それにアルコール、料理の臭いといったものもまた通りに向かって投げ捨てていたが、そのいやらしい光を浴びた痰―酔っ払いたちの吐いた―がそこかしこでべとべととした鈍い輝きを放っていて、それを避けながら歩かねばならないのはなんとも癪に障る話だった。酒場の灯はちかちかとそれは目障りな輝きを放ち、そこへ蜻蛉のように集い来てたむろしている連中―下等な商売女やならず者などの勝手気ままな振る舞いは、もう見るだけでむかむかするくらいである。陽が落ちてからもう大分時が経っていたので、ここの通りにしたってそれほど暑くはなかったが、ときおり吹き抜けてくるほこりっぽい空気が、情景の印象をより不快なものとしていた。だが、これらのことは、ここの退廃さを表現するにおいてまだ不十分である。他に、もっと核心をついた別のものをここに添えておかねばならない。それは、笑い顔―先ほど述べた様々な事柄であってしても、ここをうろつく人間の笑い顔のそれはいやらしいことに比べてみると、遥かにましなものなのである。確かに、そうしたものたち―アルコールの香り、劈くような哄笑、散らばった汚物、いやがおうにも神経を苛んでくるこれらの要素に対しては、尼僧はしばしばその澄ました顔つきをしかめさせたものだったが、この通りの住人に特有のあの笑い―男が女を物色する時のような、あるいは、女が男を誘惑する時のような笑い―即ち、まるで肉欲の虜となったように恍惚とし、脂ぎってぎとぎととした光を放つ―まるで錯乱したみたいに醜く歪んでいるこれらの笑い顔に対しては、もう我慢がならなかった。ここでは誰もがそんな顔をして笑うのだ。それらひとつひとつが瞳の隅をちらちらとほとばしってゆくとき、それは、まるで胃の底に鉛を詰めたようなむかつきを覚えたのである。情はいよいよ不穏に昂ぶるのだった。
その時、広場に面した市庁舎の屋上から突き出るようにして聳え立つ時計塔が、午後九時のけたたましい鐘をついた。広場は通りと直接繋がったものなので、ここに立っていると、まるで、頭のすぐ後ろで鐘が鳴るような感覚に陥ったのである。響き渡る大音響に背を小突かれて、尼僧はびくりと大きな身震いをすると同時に顔をあげた。途端に、それまで物思いに沈んだように俯き加減だったその顔を、街の灯が煌々と照らしつけた。尼僧の顔は、何かの精神的苦悶に、歪むまではいかなくとも強張って見えた。彫刻刀ですっと削ったように直線的な鼻の突き出た、どちらかというと端正な方であろうが、今ではその特徴的な鼻よりも頬の方が―表情筋を支配するほとんどひきつりと言ってよい強張りにより却って人目を引くようだった。被り物を被っているので前髪は隠れて見えない、しかしその代わりに、やぎの角のように弓なりな眉の色が、その濡れたような黒色を暗示しているのだった。異様なまでに浅黒い肌によって奇妙な異国情緒を振りまくこの尼僧の唇は、東方の陽に焼けた女達の例に漏れず、色あせ、干からびているように見える。行き交う通行人たちは、しげしげとその顔に見入った。尼僧の碧をした瞳はぎらぎらと、退廃の光を受けてより一層強迫観念的な輝きを放ち、緊張によって鞭打たれた表情、穿たれたその感情の傷たちもまた、街の灯によってゆらゆらと陰影を付けられてゆくのだった。通行人たちは、均整の取れた目鼻立ちと共に、そうしたものにも見入っているようなのである。だが彼女は、忌々しく思われるそんな視線も、今は気に留めるようなこともしない。心にそれだけの余裕が無かったのである。それはまるで、広場の鐘が鳴り響く度に、背中を刃物でなぞられるような心地がしていたほどであったのだから。(ああ…… また! また鐘が鳴る! もうそんな時間、私ったら、どんなにとろとろ歩いてたんだろう!)病的な痙攣、執拗な反復となって背中に押し寄せてくる鐘の響きに足を速めた。息遣いは荒く、頬は熱病患者みたいに赤みがかっていた。興奮が見て取れた。(これでいったい何人になるだろう…… いたるところに火が灯される…… なんてふしあわせな人たち! 罪も無いのに地獄のような目に…… ああ、悪夢! 悪夢のような仕打ち! いったい、悪夢に終わりはあるのだろうか?)
足をいくら速めても、体が軽く感じられることはない。それどころか、踵を持ち上げるたびに、自分は引き摺るような歩みをしているのだとはっきりと知らしめられる。それで彼女は、これから行うことが大変不本意なものであると、もう何度も思い知らされていた。そう、もしこの尼僧が、その行為はよいものか、よからぬものかと人に問われたのならば、間違いなくよからぬものと答えただろう…… その行為は残酷で欺瞞に満ち、悪意によって覆われた陰惨なものだった。だって…… いったいあれが陰惨でないわけがあるだろうか? また、彼女は生まれつき迷妄的な性質を持ち合わせていなかったので、たとえそれが神性の名のもとに行われているものであったにせよ、それを首肯して捉えられた試しは無かったのである。いったいこれは必要か、必要なことか? 彼女は幾度も自問した。それならばなぜ、自分は今ここを歩いているのだろう…… それはともかく、また尼僧は、自分がこれからしようとしていることと同様の、過去に行われたそれの顛末を見届けたことが何度もある。そう、これが初めてではなかった。だが、幾度となく同様の経験をしていたとして、経験したことがあるというその事実がそのまま気休めとなるようなことは無い。凄惨な記憶は、もう何度も何度も黒く上塗りされて、ぞっとするような深遠の色を放っている。それは経験の度により陰惨さを増してゆく。足で地を踏む度、あの恐ろしい香り、音、光が、ひとつまたひとつと蘇っては発想されてくる。忘れることが出来ない―ああ、あの人も、あの人も! 焼かれたのは、こうした音のする広場の石畳の上だった! 彼女は今、この街の通り―目的地への道のりと共に、その凄惨な記憶をも辿っていたのである。
(ああ、つらい…… だけど、なぜ私は逃げないのだろうか? なぜ、重くのしかかるこの責務を投げ捨ててしまわないのか? 大体なんで私はこんなところを歩いているんだろう。なぜって…… そんなこと分かり切っているじゃないか…… 司祭の言うことを聞かないなんて、そんなこと! いや、恐くないわ、正しい心を持っているのなら、恐いものなんてなにもない…… いや、だけど、そうよ、実際恐いのかしら! だって、あいつらに逆らったら何をされるかわかりゃしないものね!)尼僧の自嘲は、退廃の光を浴びて煌めいた。(では、慣れに身を浸して、空ろに精神を委ねても良かったのではないか。だけど、そんなことが私にできるだろうか? それなら、今こんなところでくよくよ悩んでいるものかしら? …… そんなことも出来ずに、目下悪いことが過ぎ去るのを、ただびくびくしながら、そのまま、そのまま…… うふ、これはいったいなんだろう…… 怯懦、そうだ、怯懦だ! そうだ、そうよ! だって…… 逃げることが臆病だなんて、卑怯だなんて! 逃げ出すにしたって、はっきりとした意志がそこにあるじゃない。ならば私はどうだろう? 悪いさなかに置かれながら、一歩も動こうとせずここで足踏みをしている。私のこの歩みは…… 自分さえ良ければ後はどうだって良いっていうんだから! ただ時と共に悪い状況が過ぎてくれるのを待つだけ…… だけど、私にいったい何ができるっていうんだろう? ただ私は、自分になにごとも無く、今こうして立っているこの場所に、いつまでも同じようにして立っていられたらと思っている…… いや、だけどやっぱり嫌だ! 苦しいもの…… ここにいるのも嫌だ! あっは! まるで兎みたいね! ぶるぶると、少しの物音にも飛び跳ねて…… ああ、まったく…… こんなに惨めな思いをするくらいだったら、いっそのこと、分別も無い、思慮も無い、惚けた石のようなものに生まれてくれば良かった! だけど、私はなれるだろうか? 石のように…… よしんばなれないとして、それのいったいどこがいけないっていうんだろう?)尼僧はこんなことを考えていた。この強迫的ともいう思いが、砂漠の太陽みたいに頭をぎらぎらと照らして、まるで理性という水分が蒸発してゆくみたいに、意識をぼうっとさせていたのだ。目をはっきりと見開いて、見えもしない何かを前方の宙に感じ取り、怯えたように強張っているこの顔は、傍から見ると正気を失っているようにも感じられただろう。実際、正気ではなかったのかも知れない。彼女の瞳の中は、ぼんやりと霞がかったようになっていたのである、それは先ほどの、車輪のように繰り返し何度も駆け巡る、強迫的な思いがもたらしたものなのであった。
彷徨人のように、相変わらずふらふらとした足取りを進めていた尼僧は、とある一角に差し掛かった途端、我に返った。その一角が常と違っていたためである。目の前に立つ灰色の壁は、その巨大さのために城壁のような趣を持ち、認識の持つ力はこれが一つの建物であるという事実を告げることに遅れたのだった。
建物は三階建てで、正面には木で出来た大きな扉、壁のところどころに、ぽつぽつと取って付けられたような四角い窓がある。一階の窓からは、数人の野次馬と思われる連中たちが中を覗き込んでいた。それは料理店だった。建物の瀟洒な、しかし清潔なたたずまいを見るとすぐに分かった―建物はなんの為に作られたかではなく、どんな扱われ方をするかによってその性質を外見として見事にあらわすことがあるが、ここもその例に漏れないのだ。野次馬たちがなにやらこそこそと囁き合っているほかは、何も動きらしい動きが見えない。窓より灯が漏れ出している、ただそれだけなのである…… こうした建物につきものであるはずの姦しい喧噪は全く聞こえてこない。この事実は、とりわけ静的な印象をこの一角に振りまいているかのようにみえた。…… 野次馬たちは一体何をこそこそと囁き合っているのだろう? 静かな内部の様子を見て、それによってかきたてられた分析欲が行き場を失い奔出しているのだろうか? 尼僧が耳にした囁き合いの言葉の中には、何やらものものしい慎重さにも似た要素があるようにも思われた。尼僧はその言葉たちをはっきりと聞き取れたわけではない。というよりむしろそれは全然聞こえないくらいであったが、彼女の妄執的な若い感情は、そこでどんな会話が交わされているかということを、いとも簡単に思い及ぶことが出来るのである。(知っている? この人たちは知っているのだろうか? これからここで、どのようなことが起こるのかということを)こうして、尼僧自身の空想の力は薄絹のように、次第に建物の周りを不穏に取り巻いていくのだった。一般的に人間は、今の彼女がそうであるように、自分の目指していた場所がここであると、それとなく知ることが出来るような能力を持っている。料理店の細々な情景の異様さ、しかし尼僧自身の空想が作り出したものでもある異様さ、それを目にすれば、自分がこの料理店を目的として歩いていたということを本能的に感じ取ったのである。それに、目的地として教えられた「大きな料理店」は、この界隈において他にありそうもなかったから。尼僧は深呼吸をした。念のため、看板を見上げて、教えられた目的地の名前と実際に目にする文字とを重ね合わせてみた。(大きなE・Hの看板…… ああ! ここね! おそらくここだ…… あっは! 私ったら、どうして〈おそらく〉なんて思ったんだろう? 間違いなく、ここよ) 彼女は唇をきゅっと結んで、不安定な精神状態を周りに悟られまいとした。澄ました顔で建物の扉に近づくと、大きな観音開きの扉の取っ手に手をかけ、ゆっくりとそれを押した。近くに門の番をしている給仕が一人立っていたが、彼はこちらを見ても何も言わなかった。それにしてもこの一連の動作を、野次馬たちが興味深そうに眺めてくるのが感じられて、尼僧はとても不快に思った(うっちゃっといてちょうだい!)。しかしそんな素振りは見せず、ただ黙って扉を開けて中に入ってゆくのだった。
照明がたくさんある店内は、明るいどころか少し眩しいくらいに感じて、それがこの空間を一層清潔なものと見せていた。外から見た時分には分からなかったが、多くの客がいた。尼僧が扉を閉めて中に入った途端、「尼さんがきたぞ!」と、誰かが言い放ち、どよめきが起こった。広い店内の卓がたくさん並べてある間を、せかせかと通り抜けるようにして、一人の小男が彼女に近づいてきた。
「少し遅かったですね!」
人の良さそうな笑みを浮かべて彼女を迎えたが、彼の顔には何やら用心するような、警戒が漂っていた。
「まあ、そんなことはどうでもいい! こうして、ちゃんとやってきてくれたんですからね」
「どうもごめんなさい。それで……」
尼僧は、自分にとって都合の良い間をとるかのように、咳払いをしてから続けた、
「その方は、〈魔女〉として告発された方は、一体どこに?」
「ああ、あいつなら…… あいつのことは、私、よく知っているんですよ。いえ、本当に! 数年来のお得意さんです、一人でよくここへ来て酒を飲んでおりましたよ。たまに友人も連れてきていましたっけな。え、ご存じない? あいつは、ずいぶんと羽振りの良いやつです」
「彼はどこにいるのかしら?」
「…… 二階の小部屋にいます。いま、自警団の方がお縄を付けているところですよ…… さあ、こっち、こっちですよ……」
小男は歩き始めた。その動作は機敏で、急な感じを与えた。迎えにきた時と同じく、彼は妙に足早で、尼僧はついていくのがやっとであった。階段に行くまでには店内を大きく横切らなければならない。衆人は、場違いな尼僧の出現に注目した。尼僧は歩きながらも、ちらちらと視界の隅を過ぎって行く卓をそれとなく覗いていた。小奇麗な料理店とはいえ、座っている客は金持ちだけではないようである。卓の上に置かれた指たち、華奢で指輪を嵌めたものもあれば、中にはごつごつとした職人風のものもある。そうした手の持ち主たちの顔を見上げてみれば、やはり洒落てはいるけどどこか野暮ったい服の着こなしをしている女性だったり、やはり刈り込んだ頭に、彫られたような顔をした親方だったりする。どの卓にもぶどう酒の詰まった入れ物が一つずつ、果実のように実っていて、それと並んで、ご馳走たちの油は金色の蜜のように、香しい湯気を漂わせているのだった。尼僧はそうしたものたちに目を奪われざるをえない。しかし、客たちは、殆ど誰も卓の上の料理に注意してはいなかった。時々酒をあおっている者はいたけれど。皆はじっとこちらを見てくるのだった。灯を反射させた彼らの瞳は一様に鋭く見えるが、それだけではなく、食卓の上の燭台、そして火の光の反射を受けて輝く食器たちもまた厳しい光をたたえていた。(ああ、みんな知っているのだわ。これから行われることを。そりゃそうだわね、じゃなければ、こんな物々しい瞳をしているはずがない。噂が立たないわけがない…… 誰がこのことを言いふらしたのか? 前をいくこの男かしら? でも、本当にそうだろうか? この人たちは知っているんだろうか? …… いやいや、そんなことどうだっていいわ。それで、このどぎつい眼差しは、恐がっているのかしら、私を? いいえ、ひょっとしたら…… 私の悪さを知ってむしろ責めているのかもしれない。いや、そんなわけがない…… いったい誰に私の心の中が分かるっていうんだろう?)分析欲に満たされた眼差しというものは、持ち主に全然その気が無くても概して厳しいもので、なにやらこちらを批難してくるかのような、残酷な色を帯びるのであるから、そう考えてみると、衆人たちのそうした目に侵されて、尼僧がこう感じたことにも無理はないのだった。だが、気の弱い人間がそうした眼差しに侵されまいとして、同様に残酷な色を自らの瞳に構えて対抗しようとするみたいに、尼僧もまた瞳を尖らせる―だが彼女はちゃんと知っていた―そうした行為それ自体が、自らの感覚内における緊張状態を増しているのだと。
「それにしても、あなた、〈恐ろしい〉ですね」
狭い階段を登る途中、前を行く小男が声をかけてきた。短い言葉ではあるが、仰々しく言いたてることによって滑稽さを風味として付け加え、言葉の刺々しさを弱めようとするような話し手の働きかけがよく篭っていた。
「そうですね」
「そこら中が火の海! ある日突然、お前は魔女だ、と言われるわけですからね! そりゃ驚くでしょうよ! たまったもんじゃない」
尼僧は無用なおしゃべりをするほど心が広くなかったので、冷たく言って話をさっさと切り上げさせようとした。
「他人事ですよ。あなたが何も悪さをしていないのなら、お気になさることはない……」
「いや、それがね……」
しかし相手はべらべらとしゃべり始めたのだった。
「そうでもないですよ…… 先ほども言いましたが、そいつのことは、よく知っているんです。私はここの支配人ですからな、客の顔は覚えてしまうんですよ。なぜって、そりゃ…… 実はそいつは私どもの商売相手なんでして、私と、つまりこの料理店ですな! ここと、香辛料や薬草を取引していました、やつの店はちょっと値が張るが、質が良いものを置いています。それにしても、そんな悪い奴には見えなかったんですけれどねえ、ちょっと鼻につくところもあるけど、人の良いやつですよ。あなただって、すぐにそうと分かるはずですよ…… だけど、まさかそんな大罪人だったとはね。ね、尼僧さん、あなたどう思われます? …… まったく、ありえないことですよ……」
「〈ありえない〉…… それはいったいどういう意味かしら? まさか、あなた……」
彼女は言葉が気にかかって、不用意に鋭くなった声で以て聞き返したのだった。
「とんでもない!」
先に階段を登り切った小男が急に振り返って、尼僧を見下ろしながら答えた。
「誤解ですよ…… 教会の方がそう言うなら、きっとそうなんでしょうな。私には何も分からんから。ええ、本当ですよ。私は何も思っていません。さあ、早く、早くいらっしゃい、こっちですよ……」
二階は静けさに満ちていて、尼僧は自分の足音を少し煩いくらいに感じた。自分しかここにいないのではないか、という刹那的な考えが頭をふとよぎって、また、そうであれば良いのに、と思ったりもしたけれど、まさかそんなことはないだろう、自分は確かにここに呼ばれたのだ、と究極的にひとりごちたのであった。事実、案内された個室の中には二人の男が佇んでいた。部屋を覗いた時に、彼らは素早くこちらに顔を向けたので、彼女はそうして、自分が待ちわびられていたことを知ったのである。彼女は個室に通されてからというもの、一言も口にせず、時折、目を伏せるようにちらちらと視線を落としていた。階下の物音が時折床を突き抜けて聞えてくるのだった。部屋の中央にある卓の上には、豪華な酒や果物、そして料理たちが並んでいて、実はそうした、自分とは無縁な暮らしぶりを示すものたちも、尼僧が引け目を感じた原因なのかもしれない。長い間待たせてしまったという申し訳なさからなのか、それとも、男たちの厳かなたたずまいからなのか、彼女は明らかに辟易していた。蝋燭の燈った明るい部屋の中では、彼女の怯えたような様子がはっきりと分かったのであるが、男たちは別に何も言わなかった。二人が二人とも塞ぎ込んだように真面目くさった顔をして、こちらを見るというよりは睨み付けてくる格好であった。一人は椅子に座って手を組んで鷹揚としている、年のころはだいたい二十代半ばからそれ以上に見える。それにしては髪の毛が少なく、本人もそれを気にしてか時折頭を手で搔いていた。顔の彫りが深く、小奇麗な身なりをした彼は、一見すると伊達男、洒落者のようでもあったが、妙にぎとぎとと脂ぎった顔が見るものにいやらしい感じを与えていた。彼が息を吐く度にちらちらと薄い唇から覗くその歯は、長年の放蕩がたたったのか、やせ細って空いているようで、見るからに悪臭を放ちそうなのだった。彼の隣には自警団の男が立っていた。どこの自警団員もそうであるような、恣意的にこちらを威圧してくるようなたたずまい―筋肉質な体つきと、岩のように冷たい表情を和らげようとはしないで、却ってもっと厳しくしようと砥石で磨いているような振る舞い―二人が二人ともこんなふうに、厳しい態度をたたえていたから、それらをまともに受けて立っているのはそれは気苦労が要った。だから、尼僧がどうにも困ったように目を伏せていたのも、それは無理の無い話なのである。しかしながら男たちのこのような態度が、この空間における静けさに、重苦しさというか、冷たさといったものを付け足すに一役買っていたことは間違いない。やがて尼僧は、やはり始めに口を開くべきは自分だと思ったらしい、
「申し訳ないのです…… 遅くなってしまって」
と、おずおずとした、だが取って付けたような弁明らしい言葉を述べた。すると、
「まったくだ!」
座った男が、彼女の言葉の終わらないうちにいらいらとして批難がましい言葉を投げかけてきた。なんだか怒ったふうに瞳が血走っていて、引き攣った表情筋を微動だにさせないでこちらを見てくるその態度、意識の傾注振りが彼の精神の緊張状態をよく現していた。
「まあ、ごもっともですけれど、そう腹を立てずに、どうぞお怒りを収めてください。今こうして、謝りますから。ご挨拶が遅れたことをお詫び致します。ごきげんよう、ベルグハルト・ヒュンフゲシュマックさん、私は聖マリア修道院のエノイッサと申します……」
「ああ、なんて礼儀知らずな連中だ! 貴様らは、皆こうなんだ!」
この座っている男―尼僧にヒュンフゲシュマックと呼ばれた男は、腹立たしい様子を隠そうともせずに、むしろそれをひけらかすように彼女から顔をそむけると、人が呆れた時によくする仕草―手のひらを顔の高さまで振り上げ、こちらを追っぱらうようなあの仕草をした。それとは逆に、彼の言った言葉は、刺々しかったが、それほど大きなものでもなかった。この落差は一見矛盾しているかもしれないが、尼僧は、彼が―それが自分のせいにせよ、これから行われることのせいにせよ―腹を立てていないわけがないとよく知っていたので、そこから、何かに掴みかかりたい衝動を抑えねばならないが、却って行動に出すことによって―むしろそうせざるをえないのかもしれないが―そうして彼は怒りを消散させているのだと感じ取ったのだった。そうして頭を冷やしているのだ、だから、彼の言葉はこんなに静かでいられるのではないか。行き場を失った義憤が形を変えて一際騒々しくなろうとしている、それをなんとかしておさえつけようとしている、そんな彼の様子を見て、尼僧は奇妙な哀れみを催したのだった。尚も静かなこの場の空気によって、空騒ぎは一層虚しいものに感じられた。
「大人しくしていろ」
自警団の男が彼を小突いて言った。ヒュンフゲシュマックは不満そうに鼻を鳴らすと、顔を俯き加減にして、黙り込んでしまった。数秒の間、エノイッサも自警団の彼も、(料理店の支配人は部屋の中に入ってこなかった、しかし部屋の扉は開け放されていたので、ここでのやりとりはすべて筒抜けになっているに違いない)、その挙動を静かに注視したが、ヒュンフゲシュマックはもう何もしようとはしない。なので、二人は顔を上げ、互いに了承し合わせたような目配せで、各々が会話の催促を行った。先に口を開いたのは自警団員、
「そう、尼さん。あなたの目の前に座っているこいつがベルグハルト・ヒュンフゲシュマックですよ。それにしても、一体どうしたわけなんですかね、遣いをやってから既に一時間も経ちますが、あなたはこんなにも我々を待ちくたびれさせたんですよ。何かあったんですか?」
言葉には、尋問の際に特有の、あの突き刺すような鋭さがあった。役目を終えた薄い唇が閉ざされると、大きな瞳がまっすぐにこちらを見据えてくる。返答を待ち侘びる瞳の冷たい輝きに、エノイッサは気おされてしまったのか、言葉を口にした時、それが妙に口ごもって聞えたのである。
「それについては…… ごめんなさい、私は、歩くのが遅いものですから」
言い訳にもならない言い訳であると―彼女自身でも、彼らを待たせてしまったのがまったく自分のせいであると分かっていたので、どうにもばつが悪そうに顔を赤らめた。
「まあいい」
自警団の彼は、彼女をじろじろと眺めながら言った。
「…… そんなことより、これはあなたのせいでもあるんだが、もうすっかり遅くなっているんだから、さっさと連行しましょう、こいつを」
ヒュンフゲシュマックの肩に手をかけて揺らしながら言った。
「連行…… 連行って、あなたはさっきからそればかり言うけれど、俺をいったいどこへ連れて行くというのかね?」
それまで黙っていたヒュンフゲシュマックが顔を上げて言った。自警団員の言葉に再び火がつけられたようで、半ば激昂したような様子の彼を、エノイッサがたしなめて言った、
「ヒュンフゲシュマックさん。あんまり取り乱した様子をお見せになると、こちらとしてもあなたを有罪としないわけにはまいりません。それは何よりも強い証拠とみなされてしまうんですからね、どうか……」
「有罪? 有罪だって? へえ、馬鹿な、この俺が?」
ベルグハルトの怒りは納まる気配を見せない。それどころか、エノイッサが単語を発する度―その意味などはまるでお構い無しに―段々と彼の表情には熱が篭ってゆくのだ。まるで火に油を一滴ずつ垂らしていくかのように、ぱっぱと燃え上がる。確かにエノイッサの言葉は却って彼を挑発することになってしまったのかもしれないが、今では、この小部屋の中にあるどんなものであっても、例えば壁にかかってある鏡でも脇に置かれたランプであっても、悪戯に彼の神経を刺激する要素となっていたに違いない。ヒュンフゲシュマックの精神は、自分で壁に体当たりをして「痛い」と怒っている、そんな始末に負えない輩のようなものであった。
「これはでたらめだ! みんなでたらめなことなんだ! いったい俺が何をしたというのだ? これは貴様らが…… 誰かは知らんが、貴様らのうちの何者かが、俺を陥れようとして仕組んだ茶番だろう? ああ、何も言わなくて良い…… ぜんぶ分かっているから。ああ、分かっているのさ。目的はなんだ? 俺の財産か? 名誉か? 言え、犬どもめ! 俺はお前たちに屈したりはせんからな! 決して!」
ヒュンフゲシュマックは激しい身ぶりでもって怒鳴り散らした。エノイッサと自警団の彼は黙っていたので、彼の穏やかならぬ挙動と、それがもたらす激しい息遣いの音とが小部屋の中を満たしていった。ふとエノイッサが聴いた、
「あなた、酔ってらっしゃるんですね」
「そうなんですよ! こいつは…… 今までこうやってここで飲んだくれていたんですよ」
と、自警団員は答えた。卓上、ヒュンフゲシュマックの前に置かれた杯―縁のところで、唇の形にぶどう酒の赤が凝結した杯を指しながら。
「まあまあ、だからこの方、これほど興奮されているのね。いけませんよ、少し冷静になって頂かないと…… だけど、お酒を飲むのは、それは、あなたの勝手ですね」
「いやいや、それがね!」
エノイッサの言葉を妨げるようにして、自警団の彼はどうしても横からものを申さないではおれないらしい。
「こいつは、友人の一人が死んだばかりだというのに、ここでこうして放蕩していたんです! 私が追い出してしまいましたがね、さっきまで女を一人はべらしていたんですよ。ろくでもない男なんです、こいつは…… 見てください、酒を煽りながらげらげらやってたんですよ」
特に批難に値しない人物を批難したいような場合、最終的に、どうしてもその行為をごく個人的な道徳に照らし合わせて批難せざるを得なくなる。自警団の男の言葉を聞いていると、彼のヒュンフゲシュマックに対するごく個人的な嫌悪が、エノイッサにもよく感じられた。理由はいろいろと考えつく…… とりわけ高くもない身分を持った人間に特有の、豪奢な生活に対する羨望や嫉妬だとか、偏狭な倫理法典にだとか…… だがそんなことはどうでもよい。尼僧は憎悪に満ちた自警団員の言葉を全然考えに入れようとないで、自分の疑問を口にした。饒舌な弁護士の詭弁を上手く避けながら、あくまで形式的な質問に終始せざるを得ない、裁判官のような形で。
「死んだ? 友人がどうしたんですって? お友達が亡くなったの?」
「ああ、尼さんは知らないんですな…… そうです、こいつの友人が死んだんです……」
「へえ、それで、お酒をね! ええ…… でも、それとこれとは……」
「そう、そうなんですがね」
自警団の男は急き立てて付け加えた。
「その友人の死というのが、こいつが告発された原因なのですよ! おや、尼さん、さてはあなた、何も聞いていないんですね」
そう言うと彼は、さも煩わしいとでも言いたげに嘆息した―全部説明しないといけないのか―しかしそこには、他人の知らないことを自分が知っているという、人を饒舌にしないではおかないあの優越感も若干混ざっていたようである。
「尼さん…… その友人というのをね、殺したのが、他ならぬこいつなんですよ。こいつは薬屋の主人なんです。毒を手に入れやすい自らの立場を利用して、友人を亡き者にしたんです。にも関わらず、彼はこうして、ここで、こうして…… ね、こいつはとんでもないろくでなしでしょう?」
そう言うと、肩をそびやかしてみせた。
「まあ」
わざとらしい驚嘆の言葉を発して、エノイッサは、ヒュンフゲシュマックをじろじろと眺め始めた。その視線を受けた彼はぽつり、
「だって…… そりゃ、酒くらい、飲みますよ……」
と漏らし、先ほどとはうって変わって沈んだ調子に、顔をうつむけたのだった。自警団の男が勢いづいて喋り始めた、
「そんなのだから、こいつが告発通りに魔女であったとして、私はべつに驚きませんよ! それに、さっきの取り乱し方を見てると、あれはもう追い詰められた悪党のものです。往生際が悪いんですよ。さあ、早くこいつをしょっぴいていきましょう! こいつは、速やかに断罪されねばならない…… この男は魔女なんです。何をためらうことがある? さっさと処刑しちまうべき悪魔の僕ですよ」
「いいえ、魔女かもしれない、ですよ」
そう言ってエノイッサは、被告として椅子に腰掛けるヒュンフゲシュマックを見下ろした。彼女自身、自分のこの視線がとても冷たなものとして相手に映るだろう、と感じずにはおれなかった。不意に顔を上げた彼と目が合った。先ほどはあれほど騒ぎ立てていたのに、どうしたことか、今はまるで縮こまったように小さくなっている、そんな彼の様子を眺めるのは哀しくもあった。彼はびくびくしていた。顔にはかの興奮の名残、頬の赤みといったものが多少なりとも見て取れたが、おとなしい、というよりは物怖じしたようにうって変わったその静けさ、先ほどの燃え立てるようなやかましさとの落差が、胸底から吐き気のようにせり上がってくる憐憫の情を、これでもかとかきたてたのであった。ヒュンフゲシュマックは奇妙に顔を引き攣らせて問いかけた、
「尼さん あなたも…… あなたも、私が魔女だと思いますか?」
と、喉の底から這い上がる声……
「先ほどのあれは…… 私も度が過ぎてしまいました。しかし、人が、いわれの無い嫌疑をかけられて、それでも尚取り乱さずにいられると思いますか? そんなことが出来るのは、とんでもない度胸を持った奴かもしくは阿呆くらいなものですよ。私はこの通り、ただの人間なんですからね。尼さん、お願いですから、黙ったりなどしないで教えてください。あなたも、私が魔女だと思いますか?」
エノイッサは、どう答えたものかと一瞬困ったが、うまいはぐらかしを考えようとして瞳をちょっと閉じた時、
「あなたが魔女かどうかなんて、主のお定めになることです」
と、ごく自然に出した。突き放すような冷たいその響きに、彼女は自分でも驚いたほどである。
「いやいや、こいつは魔女ですよ」
自警団員は断定して言った。
「それはとても確かなことなんです。こいつを告発された方は、とても偉い方なんですよ」
「ああ! あいつだ…… あいつのしわざだ! 分かっているぞ! 俺には……」
ヒュンフゲシュマックが卓を拳で叩きながら叫んだ。食器やランプが飛び跳ねるのと同様に、びくりとするエノイッサ。
「ガイスの野郎だ! ああ…… 分かりきっていることじゃないか! あいつは権力者なんですよ! 俺が近頃すっかり勢いづいてきたのが気に入らないんだな! …… やつの魂胆はこうだ、こうして魔女裁判を使って、俺を合法的に始末して、財産を奪ってしまおうというわけだ、そうだな? ええ、腹立たしい…… これほど頭に来ることがあるか? 尼さん、なんとか言ったらどうなんだ、黙ってないで!」
尼僧が怖気づいているのもお構い無しに、ヒュンフゲシュマックはまくし立てた。尼僧にとっては、彼が自分を責めるのは、ただ自分がここに立っているからだろう、という気がしてならなかった。エノイッサは何も言えずにいた。尼僧の沈黙から何かを読み取り、自分の愚かさに気付かされたのか、ヒュンフゲシュマックは、次第に呼吸を整えていって呟いた。
「これは、すいません、私は、頭に血が上りやすい性質でして」
冷め切らない興奮と、気恥ずかしさとで、瞳を落とした彼の顔は真っ赤だった。エノイッサは嘆息を吐いた。それが、一瞬たりとも憤怒によって体を乗っ取られてしまった彼への侮蔑からきたものなのか、もしくはそれと逆に、憤怒が和らいだことへの安堵からきたものなのか、自分でも分からなかった。彼女は彼に言った、
「いえいえ、お腹立ちになるのも無理ないです。あなたが無実であるというなら、それは至極当然のことです…… ええ、本当に。だけど、仔細お聞かせ願えませんか? 私、何も知りませんもの」
「私が話しますよ」
横から自警団員が言った。ずけずけとした調子の中に、話をうまく誇張してヒュンフゲシュマックの有罪を決定的なものにしようという魂胆が隠れているかどうかは分からなかったけれど、エノイッサは自警団の彼の態度になんとなく嫌な気がしていた。だから彼女は、ちらりとそちらを見やっただけなのである。しかしすぐに、彼が説明するも全くの無益ではない、その無理やりな態度によってこちらをいらだたせるだけのものではない、と悟ったのだった。というのは、仔細を聞くことの必要性、というよりはむしろ、ヒュンフゲシュマックが何も話そうとしないことから、彼の説明に有用性が出てきたので。要するに、ヒュンフゲシュマックは、罪状を尋ねられた被告の多くがそうするように―たとえそれが身に覚えの無いことであっても、あるいは、それがために―自分の犯したとされる罪を話すことに、すっかりと口をつぐんでしまったのである。言葉にするのも憚られるといった具合で。
「つい先日、行政長官の邸宅で催された晩餐会において…… 行政長官というのは、その、ガイスという男のことなんですがね、そこで、一人の若者が死んだんです…… そうですよ、それは殺人だったんです。殺された若者の名前はクラフト・ワーゲルといいました。どうやら飲み物か何かに砒素を仕込まれたようでしてね…… いや、私が直接関わったものではないのですが、同僚に話を聞く機会がありましてね……」
「まあ、毒を盛られたの! それで、盛ったのが、この方……? 失礼ですが、あなたの今おっしゃられた、砒素とはいったいなんのことですか? 私、知りません。それは、毒物かなにかの名前かしら?」
「その通り、その通りですよ」
自警団の彼は力強く肯定した、エノイッサは、またこうも尋ねるのだった。
「それは、その…… 砒素を口にした方は、その…… どのようなことになったのですか?」
「死にましたよ! 苦しみもだえてね」
自警団員の言ったこの言葉は、残虐性をことさら強調しようとして大仰に発せられたものであったので、エノイッサの耳には空っ風のようにむなしく、不快な響きが残ったのである。彼女はちょっとうんざりしたような感じで、
「砒素とは、どんなものなの? 人が口にするとどうなるの?」
と、若干言葉を変えてヒュンフゲシュマックに尋ね直した。先ほどから黙り込んでいる彼から話を引き出す口実を見つけた、とでもいった具合に。個人的な領分に関する質問は、頭の潤滑油のようなものであると、多くの人はなぜか無意識に知っていて、そうしたわざとらしい質問をするものである。突然聞かれて、座っている彼はちょっと面食らったようだったけど、エノイッサをまっすぐに見つめ返し、丁寧な口調で述ベるのだった。
「とんでもない猛毒ですよ…… 砒素がどんなものかというと、それはね、殺虫剤とか、防腐剤とか、そんなものに使われているものです…… 人が口にするものじゃない」
ここまで言うと、彼は突然急き立てて、
「尼さん、あなたも知っているかもしれないが、私たち薬局店をやっている者はね、砒素の毒性を必要としている人間に、その恩恵を売り与えているというわけなんです。我々の扱う毒は、人に利益をもたらすものでなくてはなりませんから、人間を殺すためなんぞ、私は、そんな目的のためにあの毒物を手にしたことはございませんよ、分かってくださるでしょうね?」
自警団員が彼を睨みつけて、
「本当か?」
「ああ、誓って! 毒物を有害なものとして世にもたらすということは、我々自身の名誉に関わることだ」
「だが、砒素はお前の薬局にたくさんある」
「…… あなたはなにが言いたいのだ?」
「クラフト・ワーゲルを殺したのはお前をおいて他にいないということだ」
自警団員は、ヒュンフゲシュマックの顔を覗き込んで言った。その有無を言わさぬような決然とした感じは、蝋燭の光が言い手の顔を明滅させることにより、ことさらに増していた。こうした灯が、なにか神秘的なものを対象にかぶせるものだから、明滅する光の薄幕に覆われた彼の表情の向こう側には、何か抗いがたい深遠があると、その深遠が今、ヒュンフゲシュマックの有罪を宣告しているのだと、エノイッサは、そう錯覚しそうな自分がいることを感じたのである。そして彼女の考えでは、自警団員である彼自身もそうした錯覚を引き起こす効果を狙いながら、ヒュンフゲシュマックにちょっと顔を近づけては覗き込むようにしながら言ったのだった。
「それは、お前がどう抗弁しようが確かなことなのだ」
彼は最後に付け足した。エノイッサは、ぽつりと呟いた。
「そう、あなたがそうおっしゃるのなら、そうなのでしょうね」
すると意外なことに、自警団の彼は怪訝そうに言った、
「なにをおっしゃる? 私たちは、自分たちのそれよりも、もっと確かな判断を求めてここに立っているんです。彼が魔女だという証を…… それは、ほかならぬ神性な判断でしょう。しっかりしてください、そのためにこそ今夜あなたは……」
「そう、そうでしたわね」
エノイッサは、慌てて遮るふうにした。
「それで、口にすると?」
再びヒュンフゲシュマックに聞いた。
「どう、だって? 分かってるじゃないか、そいつは、とても苦しいものですよ…… 胸の底から突き上げるような吐き気、腹痛、喉の渇き…… それに、あんまり量が多いと、血を吐いて、苦しみのあまり痙攣を起こすんですよ」
エノイッサは眉間に皺を寄せた。ヒュンフゲシュマックはそれを見ると、ふっと吹き出して、
「恐ろしいですか? そりゃそうだ、そんな苦しみが世の中に存在しているなんて、またそうした苦しみを故意に人の口に流し込むような人間がいるなんて、あなたらには信じられないでしょうからね、尼さん、あなたらにはね…… おれもそうだったよ。毒を飲んだ人間なんて、見たことも無かったから…… あいつが、初めての人間になったんだよ」
彼は、にやりと引き攣ったような笑みを浮べて。
「尼さん、あの晩、俺があそこで見てきたことを話しましょうか…… このままじゃ、あいつが報われないからね」
「おっしゃってください」
エノイッサは言った。好きにさせて良いですね? こんな視線でちらりと自警団員の方を見やったが、相手は腕組をして黙って立っている。仏頂面―精神の力が、鼻の先、あるいは眉間、といった一点に凝縮している表情。また、今はヒュンフゲシュマックの言うことにすっかり傾聴しきっているその態度。エノイッサは、あえて自由に語らせて、そこから何か決定的な要素を引き出してやろう、という考えをこの男が持っているのはほぼ間違いが無いと思ったのだった。彼の職責からするとそれは当然、といえば当然なのだが、エノイッサは、その動物的な、ほとんど無意識にやっているらしい理知が恐ろしかったのである。ヒュンフゲシュマックがそうしたことに気付いているのかは分からないが、もし仮に気付いていたにしても彼は語っただろう。エノイッサは、黙って耳を傾けたのだった。 ……
「…… ええ、じゃあ手短に話しましょうかね。あの晩、あの広い食堂で…… 我々は愉快な饗宴を共にしておりました。大勢いましたよ…… 単なる商売敵から、それにこの街の経済、政治を動かす大物まで。私の右手には、輸入ワインで財を為したとかいう有名な人物が座ってましたよ。まあもちろん、取り立てて語るまでもない連中もたくさんいましたがね…… それに、画家とかいう親子もね。私は全然芸術に興味が無いんですけどね。まあいい、とにかくそんな風にして様々な人物がいて、大変にぎやかな晩餐会が催されていたわけですよ。数百人は入ろうかという大食堂、天井からは何本も明かりがぶら下がって、その眩い光が銀の皿や燭台、ナイフやフォークといったものに降り注いできらきらと…… あなたがたは経験したことが無いだろうから言っておくが、こんなものじゃない(と言って彼は部屋をぐるっと顎で指し示して見せた)。本当に目が開けられないと思われるほど眩しいものですよ…… 暗い夜とはまったくお話にならない…… ミサの明るい無数の蝋燭のようなものだ」
「ああ、それなら」
と、言ってエノイサは頷いた、
「なんとなく想像できます」
「そう、そうですか…… おっと! だが、ミサと暴飲暴食の宴とは正反対なものだったな!」
ヒュンフゲシュマックは自分の言った喩えをけなして笑った。
「商人たちの、いや、もっと突き詰めて言うと、大金持ちたちの宴会な訳ですから、貴族趣味が少ない俗なものとはいえ、それはもう大変贅沢な、あなた方に言わせると非道徳なことこの上ないものでしょうね。色んなものを飲み食いできますからね。スペイン産のワインとかね。いや、あそこで食った豆料理は絶品でしたよ……」
そこから料理に関する講釈がしばらく続いた…… ヒュンフゲシュマックはかなりの食通であるらしく、晩餐に出された料理のこともすべて記憶しているみたいだった。具体性を欠く味覚の話、という料理には、空想の香辛料をふりかける余地が十分にあり、本来の味などするべくもない。だがそれでも、口の中をその香辛料の芳しい香りで満たしたエノイッサは、自らの唾液が沸き出ることを禁じえなかった。もう先ほどから幾度もおいしそうな料理を目にしていた彼女だったが、それほど欲を覚えなかった。見ただけではたいしたことはない、視覚ではなく、空想によって味が口に入り込んできた今、彼女ははっきりと自分の欲望を自覚したのである。こんな時にあさましいと、動物的で不可避な生理現象に、嫌気がさすのである。
「…… そのようなものたちを楽しみながら、我々は各々がやり方で、自由に夕食のひと時を過ごしていました。近隣に座るものに商談を持ちかけたり、なにやら不穏な内緒話をしたりしているものもあれば、大声で持論をぶちまけているものもいましたよ…… これはまあ、アーベルのことなんですが。ところで私はといえば、この業界に於いては新参者の一人に過ぎなかったのですから、それは慎ましやかに食事しておりました。しかし、私の友人は、それと反対に、最近頭角を現してきた商人なのでね、あちらこちらで挨拶されて、王様みたいでしたよ…… だけどあいつは、少し人を見下すようなところがあったが、それが却って自信家に見えるようであったので、皆に好かれていたんでしょうね。ところで、アーベルの演説なんですがね、《関税と需要》とか、確かそんな内容だったように記憶しております…… はっきり言って、興味深い話とは思わなんだですが、私自身、こういう時は得てして静かに聞いている方が良いと思っていましたからね。それにね、あなたらにとっては意外かもしれんがね、私は自分が未熟者であると自覚しているので、彼の言葉から何か得られるのではないかという期待のもと、静かに拝聴をつづけていたのです…… まあ、そんなものは何も無かったんですけどね! 相も変わらず食事は続けておりましたよ。豚のように…… 私と同じように振舞う人物もたくさんいました。もう私らは完全に料理の虜でしたのでね、ことの異変に気付くのが遅れてしまったわけですよ…… それはちょうど、肉料理に喰らいついていた時のことですよ あなたはあれを食ったことがありますか? まあ、ないでしょうな! あなたのような宗教家なんぞは…… あれを食う時にはナイフが必要ですね? 思えばさっき、クラフトのところで一本余ってたように感じたものですから…… 私は彼に、こう尋ねたわけです、クラフト、もし君がナイフを持っているのなら、それを貸してはくれまいか…… 返事が無かったんですよ、不思議に思った私が、彼に目を向けてみると、驚いたことに…… クラフトはこう、肩を揺らす感じで震えておりましたよ。それは一見、彼が悪ふざけをしているようにも思えたのですから、私はこう言った、クラフトどうしたんだい、やめたまえ、そんな真似をするのは。その次のことでしたよ! 彼はどんと頭から突っ伏して、テーブルクロスを深くぎゅっと掴んだのでした。私は驚いた…… なぜだかはわからなかったが、彼が苦しんでいるのはもう明らかでした。顔からびっしょりと脂汗が吹き出して、だけど真っ青で… 哀れな彼は、歯をかちかちと鳴らしていました、とても高い音で。どうした、なにを食った、と尋ねましたが、彼は答えない。しばらくは低いうなり声のようなものを上げていましたが、ついに、水をくれ、と虚ろな瞳を私に向けて言うのです。ええ、もちろんです、もちろん飲ませてやりましたよ…… そして彼は、二度大きな呼吸をしました、しかし二度目に息を吐くとき、それはもう呼吸ではなかったのです、彼は喉になにか詰まっているような声で、ああ、つらい、ああ、と叫んだのです。とたんに、食堂は凪の海のように静まり返りました。皆が一斉にこちらを見てきました。私はもうすっかり気が動転してしまって、ただこう言うことしかできなかった、彼の様子がおかしいのです、助けてください、助けてください…… その間にもクラフトの受難は続いておりました、ついに、彼は血の混ざった咳を始めたんです……」
ヒュンフゲシュマックはそこまで言うと、おお、と呻き声を漏らして顔を覆った。自警団員の男とエノイッサは、静かに傾聴を続けていた。二人は、彼の話の内容のみならず、その挙動までに注意を払っているのだった。そんなだから、ヒュンフゲシュマックが言葉を切ると、部屋はしんと静まり返ったのである。
「これは毒を飲んだらしいぞ、と誰かが言うと、場は騒然となりました。おそろしいことですよ。皆立ち上がって、医者だ、医者を呼べ、と口々に叫ぶ。ちらほらいた婦人たちは皆外に連れ出されて、言葉どおり医者が呼ばれました。私はもうわけが分からず、ただひたすら友人の背中をさすりつづけるほかありませんでしたね。私が、どうだ、苦しいのか、死ぬほど苦しいのか、と何度か聞くと、驚いたことに、うんとかすんとか答えていたので、彼にはどうやらはっきりとした意識があったようです…… それが却って酷で…… 医者は、入ってくるなり、まっすぐにこちらへやってきて…… 私は払い除けられたのです! …… こんな時に、処方箋の知識がどれだけあったって、役に立たないんです。医者は彼をまさぐって、毒ですな、こいつは助かりません、と、はっきりこう申しました。そうして我々は、彼を邸の寝室に運んだわけです……」
ベルグハルトはとても早い口ぶりで、どこで呼吸を行ったかも忘れてしまうほどに性急にまくしたてながら一連の出来事を語ったのだった。
「我が友は死ぬまで苦しみ続けました。…… 誰も彼の苦しみを和らげて上げることは出来ませんでした。医者でさえ。それはもう、今思い出しても……」
おそらく、語るに忍びない、と言おうとしたベルグハルトは、もうすっかり声がかすれてしまって、言葉をおしまいまで言い終わることが出来なかったようである。彼は再び顔を覆って、しばらく時の流れるままにまかせ、それはどうやら、自分がまともに喋られるようになるのを待っているようなのであった。彼はちょっと経ってから口にした。
「歳も同じ頃だし、よく気も合って、一緒になって希望を語ったりもしたものです…… よく考えてください、それを、そんな友人をですよ、あんな残忍な方法で死にいたらしめるなんて、そんなことがありえますか? 一晩で死ぬ毒の量なんて、とんでもないものですよ…… そこには、底知れぬ悪意が…… この私がやったって? 幸せの絶頂にいた彼を…… 殺すなんて」
「…… アーメン」
エノイッサは瞳を伏せて小さく十字を切った。しかし、それを目敏く見つけた自警団員が言った、
「尼さん、言っておきますが、その残忍な方法を、こいつはやったんですよ! ぜんぶ、こいつがやったことなんですよ! ようく考えておいてくださいね! こいつは、自分のもたらした残酷を、今ちょうど披瀝し終わったところなんです…… だから、哀れむのは、死んだ彼だけにしておいてください。もし仮に、あなたがそのしるしをこいつにも向けていたのなら、私は言っておきますがね」
「言いがかりだといっているだろう!」
ヒュンフゲシュマックが言った、
「クラフトを殺したのは俺じゃない! 貴様は、始めっから決めてかかっているのだな! とんでもない悪意だ! 俺にいったい何の恨みが?」
「言い訳がましいことは辞めにするんだ」
二人は睨み合った。しばらくして、自警団の彼が、ゆっくりとエノイッサの方を振り向いて述べ始めた。そのばかに静まった丁寧な口調は、まるで、今までのことはすべて茶番であった、私はここでそれを終わらせよう、とでもいうようだった。
「どうです? 尼さん、こいつは、もうずっとこんな感じなんですよ。ところで、こいつが毒殺犯であることには違いがない」
「俺は無実だ」
「いいや! …… 尼さん、とにかくそれはもう決まったことなんだ、こいつの有罪は。しかしね、その毒薬を黒魔術によって調合したかどうか、これが今のところの問題なわけです。そうした証言が、あったわけなんですよ。こいつが黒魔術を使うという、証言がね。ほら、今はやりの…… 魔女がよく使う手ですからな…… 世に災いをもたらしたこいつをこのまま放っておけますか? さっさとおしまいにして連れていきましょう。でないと、こいつはずっとこんな感じですよ。尼さん、早く言ってください。私はもう待ちわびている…… こいつは、連行に値する……」
自警団の男は求めたが、尼僧はなんだか煮えきらず「それは……」とまた妙に口ごもって呟くだけなのだった。男は、明らかに苛々としていた。口調こそ落ち着いてはいるが、それは彼が頭をゆするのを見ると、恣意によって過分に作り出されてしまった落ち着きなのだと傍目にも分かるのだった。彼は急き立てて言った、
「あなたがおっしゃってくだされば、私はこいつを連行します。魔女裁判にね」
「ええ……」
エノイッサは、それまで伏せがちだった瞳をはっきりと開いた。すると目の前で自警団の彼が、無言で一度大きくうなずいたのだった。彼女はまたベルグハルトの方も見やった。被告は、少々おっかなびっくりした様子で、こちらを見上げていた。
「尼さん、お願いです、信じてください…… 私は魔女なんかではありません、それどころか友人を殺してもいない…… どうかおっしゃってください、信じてください……」
「私は……」
その切願に、エノイッサは胸を締め付けられるのだった。(ああ、どうしても、と言うのね! なんと哀れな方…… ご存知かしら、私は、たとえ自分でどう思っていようが、あなたを連れて行かねばならない…… あなたは本当に…… ねえ、あなた。もしかしたら、本当に、その…… 殺したんじゃないの? 黒魔術も使って…… いや、分からない、分からないわ! 私には分からない……) エノイッサには被告が有罪であるかどうかなど分からなかったけれど、もしも精神的苦痛を覚えているとすればそれは、彼に対する哀れみというよりはむしろ、自分の感情とは逆に行わねばならない行為のためだった。その点がぎしぎしと、狂った歯車みたいに齟齬をきたして、瞬きをする時、その影響を受けた目の奥の筋肉が不快な音を頭一杯に鳴り響かすのだった。尼僧は胸の前で手を組み合わせて、しばらく何かにじっと耐えるように突っ立っていた。だがやがて、さっと右手を差し伸べて言った、
「私は、あなたを裁判につれていかねばなりません…… ベルグハルト・ヒュンフゲシュマック。とても申し訳ないことに。あなたが魔女かどうかは、そこで明らかになることでしょう……」
エノイッサが言い終わっても、二人は静まり返っていた、それが意外な答えで驚かされたからか、あるいは―当然の答えで何も言う必要がなかったからか。だが、突如としてベルグハルトが笑い出した。黒い隙間ばかりの醜い歯の間からくつくつと音を絞り出しながら、
「分かっていましたよ…… こうなることは、すべて分かっていましたよ!」
彼は音を発てて椅子から立ち上がった。そして両手を広げると、
「さあ、早く連れて行ってくれ! 僅かな望みでも持とうとした俺が馬鹿だった……! それが全然期待されるものでないと分かったら、こんなことになんの意味がある? さあ、やるならさっさとやりなさい」
「だめです、いけませんよ、ベルグハルト」
エノイッサが、彼の手を取って囁きかけた。
「自暴自棄になってはいけません。希望を捨てずに…… もしあなたに罪がないというのなら、神はあなたの善良な魂を証してくださいます。だから…… 落ち着いて下さい」
これを聞いたベルグハルトは、忌々しそうに尼僧の手を振り解いた。ただならぬ気配を見て取った自警団員が、横から二人の間に割って入った。ヒュンフゲシュマックはただ、尼僧を恐ろしい目つきによって睨みつけているのみだった。
「よく聞け、尼さん。俺も単なる馬鹿ではないからな…… 魔女裁判に連れて行かれた人間が、二度と生きて帰れたためしのないことくらい知ってるんですよ…… あなたの言う、神なんてくそくらえだ! 知ったことか! そんなものは嘘っぱちだ!」
エノイッサはびくりとした。自警団員が、
「なんという不信心な輩だ!」
と、怒気込めて叫んだ。彼は、ベルグハルトの腕を引っつかむと、腰のところに垂らしていた縄を解いてそれを結わえ始めた。
「尼さん……」
ヒュンフゲシュマックがぞっとするような声で、慄くままの尼僧に声かけた。
「…… あなたら…… ええ? 貧乏人め! 私はね、悔しいんですよ…… ええ、見なさい! このざまですよ!」
エノイッサは顔を背けた。彼女は、怒りの言葉を正面から受けて立つほど気丈ではないからである。視線は、部屋の中をほとんど無意味に泳ぎ始めたのだった。卓の上には、出来上がったばかりの温もりをすっかり失ってしまった食べくさしの肉料理やら、果物といったものやらが並んでいた。成り上がりの金持ちたちは、このようして食べもしない料理を注文するのが大得意である…… 大きなぶどう酒の入れ物や銀器だけでなく、こうした料理たちの脂ぎったてかりも、蝋燭の輝きを受け、ぎらぎらとする。そして、優雅な彫刻を施された長椅子や、壁にとりつけてある鏡や飾り窓、つまり、この部屋の瀟洒であるものの要素すべてが―ヒュンフゲシュマックが失うであろう生活のすべてが、このようにして冷酷な光を撒き散らしていたのである。一見無差別にただ反射される光、しかしそれらは、エノイッサから見ると、明らかにヒュンフゲシュマックの方へ収束しているふうに見えた。この男の運命とはもう関係のなくなった料理たち、これから彼がどうなるかなどまるで知らない調度品たち―いや、ひょっとすると知っているのかもしれない―彼らの放つ光は、哀れな男の体を無邪気に嘗め回していて、エノイッサには、その光の中に隠れた笑い声、無惨な滑稽を笑う声が聞えるかのようだった。
「《魔女だ》だなんて、たった一言で、このざまですよ! …… だけどな、尼さん、それで良いんだと思いますよ…… 私がかつて薬を売っていたように、何も考えずにね、あなたらはただ私を裁くと良い! それがあなた方の使命なんでしょうからな…… だが、いいか、よく覚えておけ! 決して忘れるんじゃないぞ! 貴様らの一言一言が、罪の無い俺を奈落に落としこめるのだ…… ずたずたにするのだ…… ただ、それだけのことだ……」
ヒュンフゲシュマックは自分では気がついていなかったのかも知れないが、話している途中からぽろぽろと涙を流していた。それが目に入ったエノイッサは、またとっさに顔を背けたのである。実は彼女は、彼の言葉をそれこそ貪るように聞いていたのだけれど、それは、自分はまるで当を得ない、といったふうな澄まし顔をして。縄を結び終えた自警団の彼に言った、
「行きましょう」
そうして三人は、部屋を出た。
階下には、食後の倦怠―満足による憂鬱、あるいは、退屈による焦燥といった、おしゃべりの声が渦巻いていた。階段を降りてくる時、そうしたものの切れ端が、厄介な通行人みたいに飛んできてはぶつかって、そ知らぬふうをしてはどこかへ消えて行くのだった、こちらの不快などおかまいなしに。それでエノイッサは、できれば、ここを通りたくないと思った。暇を持て余している顧客たち、皆がこちらを、好奇の眼差しによって一斉に振り返るだろうから。むしろ、そのためにこそ、だらだらと居座っている連中もいただろう。大勢の客たちが引き上げるにはもう良い時分だろうに、おしゃべりの声がなおも姦しいのを聞くと、むしろそちらが自然であるかに思われる。しかし彼女の思惑とは別に、支配人はこちらを案内した。厨房の勝手口を通すわけにはいかないので、通常の通り道として外へ出るには、一度大食堂を通らなければならないのだろうから。エノイッサは、第三者の眼差しというものが、こちらの立場をはっきりと照らし出すものであると分かっていたから、大食堂を通り抜ける途中で、そうした光に当てられて、自らの立場の奇妙さを、またいちいちと悟らされるのが嫌だった。もう何度も、忘れよう、無感覚になろう、と努めてきたのに…… たった一人で考えている分にはまだよい。しかし、そうした衆人の眼差しにあてられ、たくさんの常と自分との間にある隔たりのことを思えば、おそらく引け目を覚えるのだろうと、一人で考える場合より多くの引け目を覚えるのであろうと、それが恐いのだった。だが、それは考え過ぎなのかもしれない…… 結局、少し前にも同じことがあったが、弱気を隠すために、それとは真逆の強気を見せびらかすことによって、相手を自分の感覚内に近づけまいとする、あの精神の働きによって、彼女は再び武装をするのである―なぜそんなことをしなければいけないのか全然分からないけれども、自分の足音によく耳を傾けて、わざとそれが小さくならないように努めるのだった。履物が階段の終わりの方を二度、三度叩く、それと同様に、大小さまざまな卓の並んだ一階に渦巻くおしゃべりの声も、ふたつ、みっつと減っていく気がする。こちらを振り向く顔は、ふたつ、みっつと増えていく。あたかも、小さな水滴が集まって大きな水溜りとなるかのように、エノイッサの感覚の中では、衆人たちの意識が、ひとつの集合体として肥大化していくのだった。そして、ぶよぶよとした卵のような、その意識の集合体が、膨張することのできない限界を極めた時に、空間にさっと化け物のような静寂が現れたのである―それはつまり、一番先に降りてきた尼僧に続いて、ベルグハルトがこの階下に姿を現した瞬間のことだった。縄をかけられた哀れな男の姿は、衆人の監視を一挙にして奪い取ったのである。エノイッサは、そ知らぬふうを装い、足早に、衆人たちの沈黙の住処を通り抜けようとした。卓の間をすり抜けてゆく時、視線によって体中を嘗め回され、それこそ怖気をふるうところであった。こちらを遠慮なしに見つめてくる顔という顔を、はっきりと睨み返してやりたい衝動に駆られはしたが、あえてそうしようとはしなかった。(さあさあ、みなさん…… なぜこちらを見てらっしゃるの? あなたたちには、全然関係の無いことなんですからね……) 背後から、ベルグハルトと自警団員が着いて来るのを感じたが、さっさと歩いて欲しいと、彼女はいらいらしていた。しかし、思うようにはいかないもので―道の途中において、ベルグハルトが挑発を受けた。悪趣味な客の一人が、「おお、お前はいったいどんな悪さをしたっていうんだい?」と、彼をからかったのである。まずいことに、この狭い店内、激昂した人間が手を伸ばせば、必ず誰かしらには当たってしまいそうなものだというのに。愚かな彼は、青年だったが、ベルグハルトに思い切り肘鉄を食らわされたのである。途端に、誰か、おそらく女性の、あっ、という叫び声がこだました。自警団員がベルグハルトをしたたかに殴りつける音がした。料理店の中は騒然となった。皆立ち上がって、てんでばらばらに、ある者たちは自らの身を顧みて遠ざかり、またある者たちは好奇の念により近づいた。エノイッサが振り返った時には、もうここまでが終わっていたわけである。
「みなさん、落ち着いてください! ほら、この通り、彼も無事ですよ……」
と、支配人は叫んでいた。しかし、椅子の上に倒れ込んだ青年の額からは血が流れていた。
「痛い、痛い、こいつがやったんだ、畜生……」
「あなた、それだけ声が出るなら、大丈夫ですよ、あちらで手当てをしてもらいなさい……」
支配人は手を差し伸べて、泣きながら訴える彼を慰めているのだった。
「立て! さあ、歩け」
自警団員がこう言ってベルグハルトを引き立ててくるのを、先に扉口のところに着いたエノイッサは静かに眺めていた。一見なんでもないふうに見えるが、実はこの一波乱によって、彼女は尋常ではないほどの動揺を受けたのである。先ほどの、ベルグハルトを焚き付けることになった挑発的な言葉を聞いた途端、真っ青になったのだった。ぶるぶると震え出し、(知っている…… やはり知っているのだわ!)呆然として立ち尽くした。(そりゃ知らない訳が無いわ…… それで、私のことは…… 極悪非道で残虐なやつだとでも思っているんだろうか? ああ、教会の……)そこで、尼僧は自分を見てくる衆人たちの視線に意識をやった。(ああ…… どうしてそんな目で私を見るの……? この人が殴られたのは私のせいじゃない…… ええそうよ、私のせいじゃないわ! この人が今、こんな目にあっているのは……)だが彼らは、ただ突っ立っているだけのこちらを、何やら軽蔑するような眼差しで見つめてくる……
「だって…… 私にいったいどうしろっていうの!?」
誰に聞こえるのでもなかったが、エノイッサは思わず口にしたのである。自警団員と被告が近づいてくると、エノイッサは落ち着きを取り戻した。扉の取っ手に手をかけて…… 殴られたことによって眼がとろんとなった、意識の朦朧としているようなベルグハルトを遠慮深げにちらちらと見やりながら、彼女は自警団の男に問いかけた、
「どうして…… ええ、どうして毒殺の罪でこの方を捕らえてしまわないの? もし言われたとおりの罪を犯していたとすると、この方は、それだけで……」
すると相手は、ちょっと人目をはばかるような感じで左右に眼球を動かした後、こちらの耳にそっと囁いた。エノイッサはこう感じた―この際行われるこうした働きは、通例どおりの意味を持つものではない―つまり、彼は別に人目をはばかっているわけではなくて、こちらの質問した事柄があまりおおっぴらにできるようなものではないと、そのような質問は本来されるべきではないと、こちらに悟らせるためにそうした働きをしたのだ。
「なぜかって、それは…… こんなことあなたに話す必要など全然無いんですがね…… 証拠が無いんですよ。しかし、先ほども言ったとおり、とても偉い方が告発したんでね、こいつは有罪なんですよ、いや、なにね…… あなたも不思議に思うかもしれんが、これだって、全然確証の無いことではないんですよ。それだけでなく、我々の調査でも、こいつの有罪は十中八九間違いのない…… ええ、本当ですとも! 信じてくださいよ、こいつが毒殺したのは間違いがない。ええ、それは本当に確かなことなんだ。それに、ええ、黒魔術の道具だって…… とにかく、魔女裁判でこいつを裁かないといけないのです…… 悪魔の僕を逃してはならないから」
それにしても、当然のことながら、彼はヒュンフゲシュマックに聞えないように言ったのだった。
「なるほどね……」
エノイッサは、合点がいったと相手に示してみせた。二人はどうやら、喧騒の中に会話を滑り込ませ包み込んでしまうという術を心得ていたようである。一連のやり取りは周囲の誰にも悟られることなく、全く無関係に隔絶されてよどみなく流れたのであった。
「なるほどね……」
エノイッサはもう一度言いながら、料理店の扉を開いた。
「先に出ておいてください、すぐに参りますから…… ええ、本当に、すぐに参りますよ……」
こう言って男たちを喧騒から退場させた。するとなぜか彼女は、騒々しさの中を再び店内に戻り始めた。青年を介抱し終えた支配人に近づいて言った、
「お願いです」
言葉と共に、彼女は幾枚かの貨幣を相手に握らせたのだった。支配人は一瞬驚いたように目を見張った。貨幣を握らされた自身の手と、尼僧の顔とを交互に見やっている。しかしどうやら、ちらちらと、なにやら卓の方を横目で示している尼僧のもの言いたげな視線に、彼は気付いたようである…… みるみるうちにその唇を歪めていき、
「…… そう、そうですな! これが無いと始まりませんものな! 分かりますよ…… 私にはすべて、分かっていますよ」
嬉しそうに瓶を手にとって、近くにあった手付かずの杯にぶどう酒を注ぎ始めたのであった。姦しさと、好奇な視線の渦巻く中で、尼僧は、一心にその様子を見守っていた
幻想悲曲 @miyukiokumoto
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