泡沫と謎
黒猫のプルゥ
第1話
わたしは店の入り口を施錠し、窓のカーテンを引き下ろした。最後の客が残していった食器類を下げて、アルコールスプレーとダスターでテーブルを拭き上げていく。
この居酒屋でわたしが働き始めたのは半年前のことだった。両親の反対を押し切って家出も同然で上京したわたしは、生活費を自分で稼がなければならず、深夜に、しかも高い時給で働かせてくれるここのバイトは都合が良かったのだ。学費は給付奨学金に頼るほかなく、勉学の手を抜くわけにもいかない。多忙で、しかし充実した有意義な日々をわたしは送っている。
「いやあ、暇だったね今日は」
バックヤードから出てきた男が、長い腕を頭の上にやって大きく伸びをした。
「
「もうだいたい終わってるよ。終盤は料理の注文がほとんど入らなかったからね。ぼくはいまからレジ締めをやるから、ドリンクの方は
「了解です」
わたしは洗いものをあとに回して、ビールサーバーの洗浄にとりかかった。
黒宮さんはバイトの先輩だ。もう二年近く働き続けているらしく、店の仕事はなんでもできるし、店長からの信頼も厚い。今日も店長が帰ってから閉店までの責任者を任されている。バイトの先輩としては尊敬できるが、人としてはどうかというと、わたしの評価はあまり高くない。今年で二十七になるそうだが、いまだ定職にもつかずフリーターをやっている。店長から聞いた話では推理作家を志しているとのことだが、その実力は定かでない。
「今日のあのオッサンは本当に最悪だったね」黒宮さんは硬貨をコインカウンターに並べながら言った。「騒ぎのせいで他のお客さんたちも帰っちゃったし」
「もう来ないといいんですけどね」
あのオッサン、とは迷惑な常連客のことを指している。いつもひとりで来店してはカウンター席の真ん中に陣取り、お通しカットでビールを三杯だけ注文する。それだけでも有り難くない客だが、もっと悪いのはセクハラジジイであることだ。女性従業員に声をかけては個人情報や連絡先を聞き出そうとするし、隙あらばお触りしようとする。あげくにつれない対応をされると居眠りを始め、閉店時間に追い出されるまで居座るのだった。
わたしはビール樽からヘッドを外して洗浄ボトルに付け替えた。コックを倒して回路の水通し洗浄を行う。この作業を終えると、今度はコックを取り外して内部の構造を逆向きに組み替え、再度取り付けた。そうしないと次にやるスポンジ洗浄で、ホースを通すスポンジが注ぎ口の手前に引っかかって出てこないのだ。
「ところで、オッサンが言ってたドリンクに変なものが入れられていたって話、白浜ちゃんはどう思う?」
黒宮さんが手元から目を離し、こちらを見て言った。
オッサンは今夜も店にやってきていつもの席に座った。わたしに気持ちの悪い視線を送ったり、二言も三言も余計な注文をしたりしながらビールを三杯飲み干した。そこまでは見慣れた光景だったのだが、オッサンはお手洗いに立つと二十分も戻ってこなかった。他の客から苦情を受けて店長が様子を見にいくと、オッサンは出てきて騒ぎだしたのだった。いわく、ビールに何かが混入していたせいで腹を下したと。店長が平謝りすることでなんとかその場はおさまったが、店内にいた客のほとんどは迷惑がって帰ってしまっていた。
「さあ? ビールを注いだのはわたしですけど、少なくともわたしは何も入れてないですよ」
「ふぅん、そうか」黒宮さんは興味なさそうに言った。「時間から考えて、仮に何かが入れられていたとすると、一杯目か二杯目だったと思うんだよね。一杯目は来店してすぐの注文だったし、白浜ちゃんが注いだのをぼくが提供しに行ったから、問題なかったのは知ってる。だから、検証しなきゃいけないのは二杯目だ」
わたしは黒宮さんの言葉の意味を考えながら、ヘッドからホースを外して中にスポンジを押し込んだ。
「検証することって、たとえばその間に店長がガスボンベを換えたこととかですか?」
「ああ、炭酸ガスか。さっき店が閑散としてたタイミングで店長と店内監視カメラの映像を見たから知ってるよ。確かに一杯目を注いだあとにガスを交換していたね。なるほど、『緑は危険』か……。いや、考えるだけバカらしいね。どう考えてもその緑のボンベに入っているのは二酸化炭素以外の何ものでもないし、もしそこに細工があるなら以降のビール全てに異変が生じるはずだ」
「うーん。なら、それよりあとにわたしがビールの樽を交換しましたけど……」
「それも知ってるよ。少し交換に手こずっているようにも見えたけど、何か悪さでもしていたのかな?」
黒宮さんは軽い調子で訊いてきた。
「ただ固く締まっていて、回すのに手こずっただけです」わたしはふくれっ面をしてみせる。「それに、樽を交換してからすぐに注いだ三杯のビールは別のテーブルに持っていきましたから」
「わかってるよ。オッサンが二杯目の注文をしたのは、それからしばらくあとだったね」
黒宮さんはそこでレジ締めを終えたようで、お金を金庫にしまいにバックヤードへと姿を消した。その間にわたしはビールサーバー洗浄の残った工程を手際よく終わらせ、洗いものを片付けていった。
「さて、じゃああとは掃除だけして終わりかな」
再び姿を現した黒宮さんはそう言って、頭に巻いていたバンダナを外した。抑えられていた長い前髪が落ちて、目を覆い隠す。
「黒宮さん、前見えてるんですか、それで」
「見えてるよ。……三パーセントぐらいは」
「ビールのアルコール度数より低いじゃないですか」
身なりがだらしなくなければ容姿は悪くない気がするのに、もったいない。
黒宮さんは、ほうきとちりとりを持ってきてホールの床掃除を始めた。
「オッサンの話の続きだけどね、それからしばらくはビールの注文が入らなくて、オッサンが頼んだのが次の一杯だったよね。監視カメラの映像を見た限りでは普通に注いでいたし、提供の途中でカメラに映らない瞬間はあったけど——」
「そのときは別のテーブルに持っていくハイボールで反対の手が塞がっていたはずです」
わたしは話を遮るように言った。どうも先ほどからわたしに対する詮索が多い気がする。少し口調に棘があったかなとも思ったが、あえては言い直さなかった。
「うん、ちゃんと見たから知ってるよ。ビールは問題なく提供された。それから飲み干されるまでだけど、店員もお客さんも、誰もオッサンの席には近づかなかった。というより、基本的に動線上にないんだよね、そこの席は」
テーブルの足下をほうきで掃きながら、黒宮さんは空いた手でカウンター席を指さした。
「ならやっぱり、ビールには何も入ってなかったか、オッサンの自作自演かのどっちかなんですよ」
「ところでなんだけど、白浜ちゃんは普段、下剤とか持ち歩いてる?」
黒宮さんはなんの悪気もない調子で訊いた。こういうことを平気で言える無神経さは、残念としか表現のしようがない。
「それ、ワンチャンセクハラにあたりますよ」
わたしが言うと、黒宮さんはしどろもどろになって言いわけした。慌てる様子を見てしばらく楽しんでから、わたしは質問に答える。
「便秘薬なら持ってます。乙女は殿方よりお通じの悩みを抱えやすいものなんです。荷物を調べられたりしたら最悪なので先に申告しておきますね。で、なんでそんなことを訊くんです?」
「あ、うん」黒宮さんは誤魔化すように咳払いした。「小さなカプセル状の薬なら、混入させることができたかもしれないと思ってね」
「どうやってですか? 薬を入れる余地がないことは黒宮さんが証明したじゃないですか」
「それはどうかな。ビール樽を交換するときになら、こっそり薬を入れることができたんじゃないだろうか」
黒宮さんは掃除の手を止めて、全身でこちらを向いた。伸ばしっぱなしの髪に顔の半分が隠れてしまっているため、表情はよくわからない。
やはり勘違いではなかったらしい。わたしは間違いなく、疑われている。
「交換してからの三杯は他の客に出したじゃないですか。もう忘れちゃったんですか?」
「いや、ホースの中に薬を入れてもすぐには出てこない。普段からサーバーのスポンジ洗浄をやっているきみならよく知っているはずだよ。コックを組み替えない限り、スポンジは注ぎ口の手前で止まるんだ。当然、薬だって同じことさ。もしそれがカプセルタイプなら、溶ける頃合いを見計らってオッサンに提供することもできたんじゃないかな」
「でも」わたしは目を逸らし、ゴミ箱から袋を引っぱり出した。「そんなタイミングよく注文が入るとは限らないじゃないですか」
「オッサンがいつも通りビールを三杯飲むことは容易に想像できただろう。もし他の客からの注文が先に入ってしまった場合は、こぼしてしまうなり、注ぎ方を失敗したふりをするなりして捨てればよかったんだ。実際に、きみはオッサンに出したあとの次の一杯はそうやって捨てたじゃないか、ちゃんとそこまで見たよ。これは万が一にも間違って他の客に薬入りを提供したりしないための配慮だよね」
黒宮さんは淀みなく言った。
わたしはゴミ袋の口を縛ると、覚悟を決めて彼と対峙した。わたしより二十センチ高いところにある顔を見上げる。
「確かにその方法なら薬を入れることはできたかもしれません。でも、それは犯行が不可能ではなかった証明にはなっても、わたしがやったという証明にはなりません」
わたしが言い切ると、黒宮さんは無言で受け止めた。
時間が止まってしまったかのように誰も動かなかった。そうやって圧をかければ自白するとでも思っているのだろうか。しかしわたしは、決して意志を曲げたりしない——。
「うーん、そうなんだよなあ」黒宮さんは急に砕けた口調で言った。「結局はあのオッサンの証言に基づいているからいけないんだ。これじゃあ本当に異物が混入してたかわからない。いっそ毒殺でもされててくれれば、毒を盛る機会のあった唯一の人物が犯人と証明できるのに」
あっけに取られて、わたしはしばらく何も言えなかった。真相を暴こうとしているのだと思っていたのに、まったく意図がわからなくなってしまった。
「いや、さすがにそこまではやらないでしょ……」
「そう? ぼくはあんな女性を下に見ているようなクソ野郎は死んだ方がいいと思うけどね」
黒宮さんは身を翻して遠ざかると、床掃除を再開した。
もう驚きを通り越して呆れてしまった。一体これまでの推理はなんだったのか。どういう思考回路でこんな不可解な言動に至るのだろうか。
「黒宮さん、もし仮にですよ、もし本当にビールに薬が入っていたとして、そこまでわかっている黒宮さんはどうするつもりなんですか?」
「どうって、どうもしないけど。あのオッサンの顔をもう見なくて済むならせいせいするし、ぼくにとって不利益なことは何もないからね。——それに、もしこれが白浜ちゃんとオッサンのどちらが本当のことを言っているかという問題なら、当然ぼくは白浜ちゃんのことを信じるよ」
黒宮さんは戯けたような仕草で首を傾げた。斜めに流れた前髪の隙間から片目が覗く。その瞳は、落ち着いた理知の煌めきと、子供のように無邪気な輝きとを同時に湛えていた。
「う、そうですか」
わたしはとっさに視線を逸らして、足元にあったゴミ袋を拾い上げた。いけない、危うく変な気分になるところだった。
「でも、そうだなあ」わたしの心中など我関せずのていで、黒宮さんは言った。「もし仮にだけど、白浜ちゃんが何か悪いことをやったんだとしたら、次は誰にもバレないように上手くやることだね。それと、店長にも迷惑をかけないように。これ以上ストレスが増えると、おでこが首の後ろまで繋がっちゃうからね」
「黒宮さん……。あ、そこ、足元にゴキ——」
「うへあっ!」
黒宮さんは垂直に跳び上がった。着地すると同時に掃除道具をほっぽり出し、バックヤードまで全速力で駆け抜けていった。
「白浜ちゃん、早くそいつを殺してくれ! やり方は問わない!」
姿の見えない情けない声が奥から聞こえてくる。
はあ……。せっかく人としての評価も見直そうかと思ったのに。
もう少しだけ、その決定は保留にしておこうかな。
了
泡沫と謎 黒猫のプルゥ @plutheblackcat
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