②
私は、七穂から話を聞いたその日のうちに、先輩に確認した。古田七穂を知っているか、と。
「古田さん? 知っているよ。例のペアワークで組んでる子。それが、どうかした?」
「あの子……その、幼なじみ、なんです。小中高ずうっと同じ学校で。今も話とか、します」
まさか、「あの子、先輩のこと好きらしいです」なんて言うわけにもいかず、咄嗟に明確な事実のみを説明した。
吉木先輩は目を丸くして驚いていた。
「へえ……初耳。そうだったんだ」
「はい、実は。さっき七穂に先輩と組んでるって聞いて、私もびっくりしました」
複雑な心境を悟られないように、努めて明るい声でうなずく。そしてわざと冗談めかした口調で、
「先輩のこと、優しくてかっこいいって言ってましたよ」
と、口にした。すると先輩も本気に思わなかったのか、笑いながら
「それは光栄だね。彼女、友人も多いようだし、俺より断然かっこいいやつたくさん知ってるだろうに」
そう言って、肩をすくめていた。
吉木先輩の態度を見て、このとき私は少なからず安堵していた。
先輩は、七穂のことをなんとも思っていないだろうと。七穂のことが好きなら、もっと喜ぶはずだと。
私には多少の自信もあった。先輩はかなり頻繁に昼休みを一緒に過ごしてくれるし、空き時間には勉強にもよく付き合ってくれる。休日に会うことだってある。先輩はイベントごとを欠かさないような、いわゆるリア充のグループには所属しておらず、そちら側に属する七穂とさほど相性がいいとも思えない。
私のほうが、七穂よりも先輩と親しい。だから大丈夫。
そうして、ある日。私は七穂に呼び出された。
「七穂、話って……?」
「わかってるでしょ」
七穂は不機嫌さを全開にしながら、睨むように私のほうを見た。
「天里ちゃん、吉木さんのこと、好きなの?」
これも、後から考えたら演技だったのだろう。彼女はとっくの昔に私の気持ちに気づいていたはずだ。
でもこのときの私は、どうしよう、どうしよう、とそればかりで、まったく頭が回っていなかった。「どうして言ってくれなかったの? ひどい」、そんなふうに言われてしまえば、急に後ろめたくなり、さらにまともな思考はできなくなった。
「あたしばっかり正直に打ち明けて、馬鹿みたい」
「あ、あの、七穂……その、ごめんね」
謝罪の言葉を口にすると、七穂は眉間にしわを寄せ、大きくため息をついた。
「別に、謝ってくれなくてもいいよ。天里ちゃんがそういう人だったってだけでしょ。まだ吉木さんと付き合ってないんだよね? ならあたし、遠慮しない。吉木さんのこと、絶対振り向かせるから。例え、天里ちゃんが吉木さんを好きでも」
七穂の言い方にはさすがにカチンときたけれど、私は罪悪感から何も言い返せなかった。
私がうつむくと、七穂はふっと笑う。
「これからは同じ人を好きな女同士、天里ちゃんとはライバルだね。絶対負ける気はないけど、でも、どっちが付き合うことになっても、恨みっこなしだからね」
うなずく以外に、選択肢はなかった。私は吉木先輩が好きだから。そうやって、誰かを奪い合うのは気が進まない、なんて言えない。
吉木先輩と過ごす、穏やかな時間が好きだった。特別じゃない、ただ一緒に勉強したり、ご飯を食べたり……そんな些細なことで私は幸せで、それが急に大きく変化してしまうのは私の望むところではない。
でも、どうしようもない。ここでうなずかなければ、七穂は容赦なく私から先輩を奪うだろうとわかっていた。
そうして、私の悪夢のような日々は始まった。
はじめは――なんだったか。
そうだ、吉木先輩が、私と一緒にいるときによく考え事をするようになった。いつも通りに見えて、ふとした瞬間に、何とも言えない表情で考え込んでいる。
どうしたのか訊ねても、なんでもない、としか答えない先輩。その言葉を信じたくても、七穂のことがいつも頭の片隅にあって、不安になった。
先輩と会う頻度はどんどん落ちた。
今日の昼休みはそっちに行けない、ごめん約束が入ったからまた今度。いったい、この文句が何度メッセージアプリに届いたことか。
先輩は友だちと約束が、と言っていたけれど、私は七穂だろうと思った。七穂のコミュ力は半端ではないから、普段、あまり遊び歩いたりしないインドア派の先輩を連れ出すことだって簡単なはず。
私よりも、七穂を優先した。そのことは、想像よりもずっと私の心を抉った。
だって私のほうが先輩と親しかったのに。それなりの時間をかけて、私と先輩は穏やかな関係を築いた。お互いに心地よい関係だったと思う。でもそれを、七穂はいとも簡単に、たった数週間で覆す。
メッセージアプリを開くのが億劫になって、私はアプリの通知を切った。
いつの間にか、ごめんとか、また今度とか、そういうメッセージすら来なくなる。
私には相変わらず先輩の気を引くスキルはなく、ただ、先輩と七穂が一緒にいるところを遠目に見る。
共通の講義のときも、今までのように先輩が私の隣に自然に座ることはない。逆に私も、気まずくて先輩の隣に座れない。
その頃からだろうか。
妙に、誰かに注目されることが増えた。講義室にいても、廊下を歩いていても。明らかに、同じ学部の学生たちが私を見て、何かひそひそと噂話をしている。別に私は、周りがこそこそ話していても気になる性質ではなくて、自意識過剰でもない。いつもなら気にならない程度のこと。
でも、それが間違いなく自分へと向かっていたら、さすがに気づくし気分も悪い。
噂されるような、特別なことをした覚えはまったくなかった。良いことも悪いことも。自分のことを言われているのをわかっていて、大して知りもしない人たちに「何の話?」と訊ねるのも、私にはハードルが高い。
たまに、「ありえなーい」とか「最悪じゃない?」とか、どこか面白がる口調の中に嫌悪を含んだ言葉を聞いて、知らないうちに私の悪い噂が学部内に蔓延していることだけはわかった。
噂の内容は、一度だけ、知る機会があった。
研究室に顔を出した際、明らかに気落ちした私を見かけた同学年の子が教えてくれたのだ。
曰く、古田七穂は吉木が好きであると空賀天里に打ち明けた、すると空賀天里はまるで見せつけるように彼と仲良くしだして、古田七穂を嘲笑した。しかも似たようなことが、今回だけでなく、小中高とずっと行われていた――。
そんな内容らしい。
まったくのでたらめだ。私が吉木先輩と仲良くなったのは、七穂に気持ちを打ち明けられる前だし、嘲笑なんてしていない。ましてや、過去にだってそんな事実はない。
内容からして、噂の出どころは七穂だろう。彼女は顔が広いから、相談といっていろいろな人に同じ話をして広めたに違いない。
「ひどいものだよ。この話を聞いて、少しでもあなたの肩を持つようなコメントを返すと、どこからか古田のオトモダチが出てきて、呼び出されて散々な目にあうんだって。それで皆、古田の味方になるの」
こんなことバラしたって知られたら、ただじゃすまないかもね、わたしも。なんて、笑いながらその同学年の子は言っていた。
「教えてくれてありがとう」
「いいよ。どうせ、わたしはもうすぐ留学するし。古田一派に目をつけられても問題ないから」
さすがの古田も、海外にまでオトモダチはいないでしょ、と皮肉っぽく笑う彼女の心遣いがうれしかった。
学部内は、今までないほど一体感を醸し出していた。私という、古田七穂にとっての敵を、全体の敵とすることで。
もちろん、あまり人とつるまず、七穂の味方をしない学生もいるけれども、そういう人たちは私の味方にもなってはくれない。
「大人しそうな顔して、見かけによらないね」
「古田さん可愛いから、嫉妬してるんじゃない」
「小学校の頃からずっとって、執念深すぎて怖い」
「目をつけられたら、彼氏とられそう」
向けられる敵意はいよいよ遠慮がなくなり、私の耳にも直接、こういう言葉が入ってくるようになった。
七穂や彼女の属するグループに睨まれるのが怖いのか、私の周りからは人が遠ざかる。友人たちともほとんど切れた状態で、私はひとりぼっちだった。
噂を消す方法など知らない。その場で訂正しても焼け石に水で、学部内に一大派閥を形成する七穂のグループに対抗などできない。
研究室に出入りするとき、挨拶をしても返ってこなくなったのはいつからだろう。知らない学生に眉を顰められるようになったのは。メッセージアプリで罵詈雑言が送られてくるようになったのは。すれ違いざまに大げさに避けられるようになったのは――。
ひとつひとつは小さいことかもしれない。でも確実に私の中に蓄積され、だんだん人の目が怖くなった。
そんなときだ、吉木先輩に呼び出されたのは。
待ち合わせに指定された、大学の敷地内の、建物の陰になっている人目につかない場所に行くと、険しい表情の吉木先輩がいた。
「さっさと本題に入るけどさ、俺、古田と付き合うことにしたから」
「…………」
上手く、声が出せない。
「最初は、君が古田の言うようなことをする子じゃないって思っていたけど。でも、古田はいい子だし嘘を吐く子でもないと今は思ってる」
「…………」
「周りも皆、君じゃなくて古田のほうが絶対いいって言うし、俺もそうかなって考え始めてさ。じゃあやっぱり、君は古田が言うようなことをしたってことだよね?」
先輩は、七穂を信じてしまった。自分の目で私と七穂を見て、それでも。
ここまでくると悔しくて、情けなくて、涙が出てきた。けれどまだ、先輩のことを信じたくて、私のことをちゃんと知っている先輩なら、その誤解も解くことができるのではないかと淡い期待を抱いて、私は訴えた。
「違います! 私、噂されてるようなこと、まったく身に覚えありません!」
「でも、小中高とずっと同じ学校だって言ってたよな?」
「同じ学校だっただけです。七穂の好きな人なんて知らないし、ましてやとったなんてこと、絶対ありません」
「なら、古田が嘘を吐いてるって?」
「……そう、いうことに、なります」
そういう答えしか、見つからない。
苦々しく思いながら、呻くように言った私の言葉は――鼻で笑われた。
「誰が信じるの? それ」
先輩のその一言は、私の心をぽっきりと折った。
誰が信じるの?
誰が……。
ああ、その通りだ。今ここで、誰が、私のことを信じてくれるんだろう。
皆、離れていった。同じ研究室で学ぶ仲間も、同じ趣味で話の合う友人も。特別に仲良くしていたはずの……吉木先輩自身も。
誰も私を信じない。誰も、私が悪だと疑わない。
私だけが間違いだと知っていても、皆が噂を正しいと言えば、ここではそれが真実になる。
私が悪い。私が、悪。悪だ。私ひとりが、悪いのだ。
声が、震えた。鼻の奥が痛くなってきて、私は自分の膝に突っ伏す。
「……それから私、学校に行けなくなったの」
「…………」
「それまでは多少無理をしてでも、ちゃんと出席してたんだけど。さすがに先輩の言葉がショックで一度休んだら、もう行けなくなっちゃった」
それどころか、一歩外に出れば誰かに悪口を言われているんじゃないかと、他人の目がやたら気になるようになった。近所から聞こえる子どもの声にすら怯えた。
「でも、家族や先生には本当のこと、言いにくくて。だって、好きな人を取りあって……とか、言えないでしょう。それに、その程度のことで何を深刻になっているんだって、噂なんて気にしなければいいだけだって、そう言われるのも怖かったの」
雨の君は、私の話をただ黙って聞いていた。彼の表情は、膝を抱えてうずくまる私からは見えない。でも隣でじっとしている気配だけは伝わってくる。
「どうしても学校に行けなくて、今は休学してるんだ。……休学してからも、大学の近くには行けなかった。知っている顔を見るのが怖くて。私が逃げたとか、今度はそういう噂をされてるんじゃないかって思ってしまって」
同じ大学の学生がよく利用する店や施設などにも、いっさい近づけない。もし顔を合わせてしまったら、そのせいでまた噂が広がったら、悪者を見る目で見られたら……。
他者の目も言葉も全部、私が悪いという。何もかも、私の自業自得だという。そんな妄想にとりつかれ、外に出られなくなった私は今、ここにいる。
「ここなら、大学での私を知っている人は誰もいない。大学とも実家とも、すごく離れているから、噂なんて届かない。だから、来たの」
話し終わってしばらく、雨の君は何も言わなかった。けれど、雨音にまぎれるようにぽつりと一言こぼす。
「……災難だったね」
視界が滲んだ。
彼は、私の悩みを認めてくれたのだ。くだらないと言わずにちゃんと聞いて、理解してくれた。
「君は十分、がんばったよ」
ひんやりとした手が私の頭の上に乗って、励ますように撫でた。
今までため込んでいたものが、一気にあふれ出す。
涙の止まらない私を、雨の君はただ優しく、静かに、まるで雨のように見守っていてくれた。
◇◇◇
あんなにびしょ濡れだった服も、話しているうちに多少マシになった。まだ湿っているけれど、動けないほどじゃない。
「それで結局、どうするの?」
そろそろ帰ろうか……なんて考えていた私に、雨の君が問う。
「どうするって、何を?」
聞き返すと、雨の君は少しだけ呆れたような表情になった。
「君が言ったんだよ? 僕が神なのかどうかって」
「あ」
すっかり忘れていた。そういえば、話の発端はそれだった。
でも雨の君が本当に神なのかどうか、証明する方法を考えているうちにどうでもよくなってきて、それで勝手に悩み相談を始めたんだ。
「君がどうしても悩みを解決したいと望むなら、力になれなくもないよ」
「え……」
悩みは、そりゃあもちろん、解決したいに決まっている。ずっと大学を休学しているわけにもいかないんだし、そうしたらまた、七穂や吉木先輩とも会わなくてはいけなくなる。噂だって、まだ残っているかもしれない。
「僕は神だよ。人の願いを聞くのが仕事。君が願うなら、それを叶えるための努力を、僕はする」
悠然と言う雨の君は、本物の神さまのように見えた。自称神ではあるけれど、本当に願いを叶えてくれるような、それだけの力を彼が持っているような印象を受ける。
なんとなくもう、彼を中二病患者呼ばわりはできないと思った。
「絶対叶える、とは言わないんだね」
「僕は万能ではないからね。絶対、なんてものはないんだよ」
確かに、神社に行き神に願ったからといって、その願いが必ず叶うわけじゃない。
そもそも私は最初、神なんていない、神頼みなんて無駄という気持ちでここに来た。なら、ダメもとで願ってみるのもいいかもしれない。
「……時間を、戻してほしい」
少しだけ迷って、口から出てきたのはそんな願いだった。
時間を戻して。私が、吉木先輩と出会う前に。
そうしたら、私はもう、先輩に近づかないから。仲良くしたりしない。七穂の邪魔はしないから。
「時間を戻す――そうだね、できないことはないかな。大がかりになるから、何かしらの対価は必要になるけれど」
「対価?」
「そう。でもまあ、命を奪ったりとか、そういうことではないよ。安心して」
願いが叶っても死んでしまっては意味がないけど、そうじゃないなら問題ない。
「じゃあ――」
「でも、本当にいいの?」
雨の君の緑青色の瞳が、静かにこちらを向く。その美しさと、底知れない深さに呑まれて、私は息をするのを忘れた。
「時間を戻す、というのは、そう都合のいいものではないよ。君が戻りたい時点から、今までの出来事がすべてなかったことになる。当然、君がここへ来たことも、僕に願ったことも、君の悩みそのものさえ、なかったことになって記憶からも消えてしまう。それでも、いいの? それでも、君は今へ至る道と違う道を選べるのかな?」
ああ、そうか。私の記憶もなくなってしまうのか。
私はひどく落胆した。
だって、この後悔がなくなってしまったら、同じ道を進むしかない。私が私でしかない以上、何度時間を戻しやり直したところで、同じ選択をし続けるに決まっているのだ。
七穂と同じ大学に進学し、吉木先輩と仲良くなり、七穂に手ひどくやられても引きこもる。何も知らない私の運命は、ひとつだ。
そんな時間遡行、何の意味もない。
「……時間戻すのは、やっぱやめる」
「そう。なら、ほかには?」
ほかの、願い……。
何事にも動じない、鋼の心がほしい、とか? でも、鋼の心って……私、ロボットみたいになってしまうんだろうか。何を言われても何をされても、何も感じない。それは、嫌だな。
七穂がいなくなってほしいとか、そういうのも違う。吉木先輩のことだって、神さまにお願いして振り向いてもらうのは間違っているだろうし。第一、私は先輩をもう信じられない。
あれは嫌、これはダメ。自分勝手なわがままを頭の中で繰り返し、そして、ひとつの心からの願いが残った。
「……味方が、友だちがほしい。ちゃんと私の話を聞いてくれて、信じてくれて、裏切らない、離れていかない友だちが」
馬鹿なことを言った、と思う。友だちなんて、それこそ、誰かに願って作ってもらうものじゃない。
でも、ひとりぼっちは嫌なの。周りに誰もいなくなってしまうのは、もう、嫌。そばにいてほしい。私を、信じてほしい。悪者と決めつけないで、味方でいて。
「いいよ」
「え?」
勢いよく顔を上げて雨の君を見ると、彼は優しく微笑んでいた。
「その願い、叶えよう」
「えっと、どうやって……?」
雨の君は疑念を隠そうともしない私を見て、ふふふ、となんとも妖艶に笑う。
「君は、友だちがほしいんだよね」
「うん。あ、でも対価が……」
「対価はいらないよ。特別な労力を必要とするものでもないから」
私には残念ながら、彼の考えていることはまったくわからない。対価が必要と言ったり、いらないと言ったり。そもそも本当に神でもあるまいし、人の願いなどどうやって叶える気なのか。
そんな不信感たっぷりな私に対し、雨の君自身はずっと笑顔のままだ。
「簡単な話さ。僕が、君の味方になる」
「は?」
「僕ならいつだって君の相談に乗るし、裏切らないし、ここに棲んでるからいつでも会えるし、離れてもいかない。どうかな、理想的な友人だと思うけれど」
そんなわけあるか、とつっこみたかったものの、よく考えてみれば彼の言う通りだと気づいた。
この神社に棲んでいる、というのはいささか信じがたいが、彼にはもう私の一番の悩みを打ち明けてしまったから気軽に相談できそうだし、大学や七穂とはなんの関係もないので裏切りを心配する必要もない。
ただの中二病の変人だったらおことわりだけれど、彼は優しいし、神を自称する以外の言動はいたってまとも。
彼が悪人で、騙されて何かひどいことをされる可能性もあるだろう。でも、どうしてか、そういうことはない気がした。別に彼が悪人だって構わないし。私には失うものがない。
うん、まったく問題がなかった。
それに、雨の君の人並外れた美貌を間近で眺めていられる友人特権は、なかなか美味しい。
(なんだ、こんなところにいたんだ。理想の友だち)
私は立ち上がって、雨の君を見下ろす形で手を差し出した。自然に口元が緩んでしまう。
「ぜひ、お友だちになって。雨の君」
「もちろんだよ、天里」
雨の君は優しく微笑んで私の手をとった。
こうして私は、紫陽花色をした、自称・神の友人を得た。
雨は、まだ勢いよく降っている。
あまり長居をしてもおばあちゃんが心配するので、私は雨の君に傘を借りて帰ることにした。
「本当にもう帰ってしまうのかい?」
「服ももうだいぶ乾いたし、おばあちゃんが心配するといけないから」
残念だよ……と肩を落とす雨の君は、本当に悲しそうだ。
そんなに寂しいのだろうか。
「僕は人と話す機会がないから、寂しいし、とっても退屈なんだ」
退屈している神さま。どこかで聞いたけど、気のせいだ、うん。
「大丈夫。また明日も来るから」
「本当に?」
「うん。本当」
私がうなずくと、彼は悲壮感にあふれた顔を、ぱあ、と輝かせる。
「絶対だよ」
「うん、絶対ね」
「待っているから」
そこまで念を押さなくても、と苦笑しつつ、借りた濃紫の番傘を広げた。
昔ながらの番傘は、普段使っている傘よりも重い。でも、雨の君がこの傘を使っているところを想像したら、とてもぴったりで少し面白い。
「天里」
「なに?」
「今夜、君のその〝すまーとふぉん〟に僕から連絡するよ」
「わかった。……じゃあね、また明日」
私が手を振ると、雨の君もにこやかに手を振り返した。
土砂降りの雨の中を、石畳で滑らないように気をつけつつ、鳥居をくぐって私は『おやしろ』をあとにした。
「……あれ?」
長い石段の最後の一段を下りて、首を傾げる。
――雨が降っていない。
傘を閉じて、私は周囲によく目を凝らす。
そこは来たときと同じ、ぽかぽかとした陽気の、田畑ばかりの景色。雨雲なんてひとつも見当たらない青空で、アスファルトには湿った形跡もない。
雨が止んだわけではなくて、はじめから降っていなかった。
その結論に達して、私はぞっとして背後の石段を見上げた。
(嘘、でしょ? え、どういうこと?)
私の視界に入る限り、『おやしろ』の周りにだけ雨雲がかかっている、ということもなく、晴れているはずだ。ほんの数分前まであんなに土砂降りだったのが、こんなに急に晴れることなんて、きっとない。
まさに、狐につままれた気分。
雨の君は実は神ではなく、狐狸の類いだったのか……ううん、違う。
彼はやっぱり紫陽花のおばけだったんだ。間違いない。
世にも奇妙な体験をしてしまった、と私は傘を握りしめ、帰路についた。
◇◇◇
その夜。
通知を切っていたはずのメッセージアプリが、メッセージを受信し、私のスマホを鳴らした。
おそるおそるアプリを開いてみると、まったく身に覚えのないトークルーム『おやしろふれんず』なるものに私のアカウントが追加されている。震える指で『おやしろふれんず』をタップ。すると……
≪やあ、僕だよ。こんばんは≫
雨の君とかいうアカウントが、まるでなんちゃら詐欺のようなメッセージを残している。
「そういえば私、連絡先教えてないし……というか、自称神さまが堂々とスマホを使っていいの?」
なんとなく笑えるような、気味が悪いような奇妙な友人に、私はため息をついたのだった。
雨降るやしろに棲む神さま 顎木あくみ @agitogi_akumi
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