雨降るやしろに棲む神さま

顎木あくみ

 祖母から『おやしろ』のことを聞いたのは、私が村にきてから数日後のことだった。


「へえ……『おやしろ』かあ。その神社、なんていう名前なの?」

「さあねえ。誰も呼ばないから」

「え~」


 何か面白い逸話でもあるのかと期待した私は、がっくりして不満の声を上げた。

 しかし再びごろごろしながらスマホを弄ろうとするも、祖母の真剣な表情になんとなく気まずくなって座りなおす。


 この村にやってきて、何をするでもなく日々を過ごす私を見かねたのかもしれない。

 ここはちゃんと話を聞いておいたほうがよさそうだと、私が耳を傾けると、祖母は『おやしろ』のことを詳しく教えてくれた。


 村の北のほうに、小高い森――というか、小山というか――があり、そこには神社が建っている。その神社のことを、このあたりの人々は『おやしろ』と呼んでいるらしい。

 なぜかというと、おかしなことに、神社の名前を誰も知らないから。

 古くからそこにあって、村の人が時折、自主的に掃除したり、修繕したり、参拝もしているのに、その神社の名はおろか、祀られている神の名もわからない。

 普段は『おやしろ』とか『かみさん』とか、『おやしろの神さん』などと呼べば、それで通じるから困らないのだという。


「でも名前って、鳥居とかに書いてない? なんとか神社って」


 私の問いに、祖母は首を横に振った。


「わからないよ。塗りつぶされているから。汚れかもしれないけれどねえ」


 さすがにそこまで掃除の手が回らないし、と眉を下げる。

 私は、「ふーん。そんなものか」と単純に納得した。けれども、次いで投げかけられた「ごろごろしているんだったら、『おやしろ』に散歩にでも行ってきたら」の言葉で、顔をしかめる。


「神さんもきっと退屈しているはずだから、行って何か面白い話でもして差し上げるといいよ」


 祖母は大真面目にそんなことを言う。


(めんどくさい……)


 神さまが退屈って、なに。

 私の荒んだ内心は、ぶつくさと反抗的な態度で文句たらたらだ。散歩は嫌いではないけれど、今はあまり動きたくない。何をするにも、どん底の精神状態に引っ張られ、身体が億劫だ、と訴えてくる。

 ただ、あんまり態度が悪いと祖母から母親に連絡がいって、実家へ連れ戻されてしまうかもしれない。それは嫌だ。

 仕方なく、私はスマホをズボンのポケットに突っ込み、踵の低いパンプスをつっかけて外へ出た。


 村といっても、広くもなく、地名だけのこの場所は、大きな市の中の一地区だ。いつ頃かは知らないが、ひとつの村として運営されていたのを、隣市が吸収合併したのだと思われる。

 視界を占めるのは田畑や山々ばかりで、市街地へ出るには車で最低でも十五分はかかるような土地。不便で、若者は次々と離れていき、古びた空き家がそこらじゅうにある。

 ただ、今の私にとっては、こんな田舎でも立派な新天地だった。

 スマホの電波も届くし、運転免許と車さえ持っていれば、別にさほど困ることもない。そもそも周りに住んでいる人も少ないから、大して気を遣うこともないし。


(神社かあ……)


 神さまが何とかしてくれる、なんて、まったく思っていない。

 私の中に巣食うこのもやもやを解決するのは、自分自身か、あるいは時間だろう。


『恨みっこなしだからね』


 私が馬鹿だった。あの子の、あんな言葉にうなずいたりして。

 もうずっと、ここにくる前から、後悔に苛まれている。こうしてひとりになると、必ずよみがえってくる厄介な記憶たち。いつまで経っても消えてくれない。


 極力、嫌なことを思い出さないように脳内で格闘しながら歩いていると、『おやしろ』まではすぐだった。およそ、二十分くらいだろうか。ひたすら北へ、ひび割れたアスファルトの細い道を、微かな虫の声や水音を聞きつつ進んだ。

 こんもりと木々の生い茂る小山に、ちょっとうんざりしそうな長さの石段が上へと続いている。肝心の『おやしろ』は下からだと見えない。その代わり、石でできた、かなり大きな鳥居の一部を確認できた。


(意外と大きい神社なのかな)


 神社といってももっとこぢんまりした、祠より少し大きいくらいのものを想像していたから、ちょっと驚きだ。

 けれど神主や氏子はいないというから、やっぱりよくわからない。


(まあ、この村のことも神社のことも詳しいことはよく知らないし。行ってみればわかるでしょ)


 そう思いなおし、目の前の石段を一段あがる。


 瞬間。一線、何かを踏み越えた感覚が、全身を駆け抜けた。


 空気が変わったのだ。例えるなら、真冬に暖かい家から一歩、外に出た時のような。あるいは、異空間に迷い込んだようでもある。のほほんとした村の雰囲気とはまるで違う、ぴんと張りつめた空気。けれど息苦しさはない。どちらかというと清々しい心地がする。

 これが、神聖な空気、というものなのだろうか。

 俗物にまみれた現代人の自分でも、そのちょっとした変化を感じられたことに、少し感動を覚える。

 よく見ると、あたりに生えているのはほとんど杉の木。純粋な樹木の茶色よりやや白っぽい、真っ直ぐな幹の杉が、長い石段の脇にたくさん並んでいる。

 神の存在は信じていないが、こういう、なんだかいかにもな景色は嫌いではない。むしろ好きだ。


「あれ……?」


 ところが、空気が変わったのは『おやしろ』のもつ雰囲気のせいだけでなかったらしい。


 ――雨のにおいがする。


 いつの間にやら日は翳り、湿り気を含んだ冷たい風が、独特のにおいを運んでくる。


「やだ、傘もってないのに」


 そう言っている間にも、ぽつり、と小さな水滴が石段に落ちた。

 なぜか先ほどまで晴れていたはずなのに、空は見渡す限り灰色。振り返ると、どんよりした雲が、ずっと村のほうまで続いている。

 この分では、きっと祖母の家のほうでも降りだしているに違いない。


 わずかに迷ってから、私は止めていた足を動かし、再び階段を上がり始めた。

 このまま雨が強くなったら確実に濡れるが、引き返すよりは『おやしろ』で雨宿りするほうがまだ被害は少ないはず。距離的に。


 思ったとおり、私が石段を上がるにつれてますます雨は激しさを増し、『おやしろ』が見えてくる頃には本降りだった。

 三十段くらいずつ、踊り場を挟んで三つに分かれた、全部で百段近い石段をだいぶ急いで上ると、運動不足だったこともあり息切れをしてしまう。

 しかし立ち止まっている暇はない。すでに土砂降り一歩手前の状態で、全身ずぶ濡れ。体温が着々と奪われていくのを感じる。


 鳥居の向こうは、まっすぐに石畳が『おやしろ』まで続いていて、砂利は敷かれていない。

 私は石畳の上を小走りで進み、やっと社殿の軒下に入ると息を吐いた。


「はあ、もうびしょびしょ……」


 頭からバケツいっぱいの水を浴びたみたいだ。

 前髪は濡れて額にはりつき、ぽたぽたと水滴を落としているし、服も身体にぴったり纏わりついている。……幸い、下着が透ける事態にはなっていないけれど。

 とりあえず疲れた足を休ませるために、私はきざはしの上から二段目に腰かけた。

 信仰心はないのに、こうして『おやしろ』を濡らしてしまうと思うと、途端に申し訳なさが湧き上がってくるから不思議である。


(ちょっとだけ、雨が上がるまでお邪魔します。あとでちゃんとお礼はするので)


 心の中で念じてから、ポケットに入っていたハンカチで顔や髪を拭く。

 けれど、濡れ方がひどすぎてハンカチ程度では追いつかない。そのうち、寒気が襲ってきて、私はつい不平を漏らした。


「……もうっ」

「拭くもの、何か貸そうか?」

「え、あ、はい。…………ん?」


 背後から聞こえた声に、一度普通に返事をしてしまってから、違和感に気がついて私は首を傾げた。


(――ここに、私以外の人、いたっけ?)


 いや、いなかった。はず。いなかった、よね……?

 何しろ、階段を上って息切れをしていたし、身体はびしょ濡れで必死だった。ゆえに気づかなかった、ということもなくはない。ない、けど。

 す、と背筋が冷えた。え、なにこれ。もしかしてホラー的な何かが始まってる?

 振り向いたら何かヤバいやつがいるのか。もしくは後ろを見たら誰もいなくて、ほっとして前を向いたらどーん、みたいな……。


(無理! それは、むりです……!)


「…………」

「…………」


 沈黙がひどく重苦しい。その後何も聞こえないけれど、もしや、さっきのは空耳だったということなのか。

 落ち着こう。何もないならそれでいい。


 私は一回、深呼吸をしてから無言で立ち上がり、軒下から出ないぎりぎりまで前に進む。

 そう、まずそうなところからできるだけ距離をとってから確認しようという作戦だ。

 大丈夫、大丈夫。聞こえた声は若い男性のもののようだったし、典型的な黒髪に白装束の女性の霊とかではない。そして、仮にもここは神社。おかしなモノはいないはず。

 どくどくとせわしなく脈打つ心臓をなだめるように言い聞かせて、私は、思いきり勢いよく振り向いた。


(…………?)


 振り向いた。振り向いたけれど、目の前のものが異様すぎてしばらくフリーズした。


「ふふ、そんなところで固まっていないで、こちらに戻っておいで」


 異様な『彼』は、笑顔で手招きしている。いや、理解はできる。『彼』はちゃんと人型をしていて、幽霊のようなおどろおどろしい見た目ではない。

 ただ、ただ、これは、そう――。


紫陽花アジサイのおばけ……?」

「…………」


 私の呆然とした呟きに、笑顔のままぴたりと動きを止める、紫陽花のおばけ(仮)。


 若い男性だ。それは間違いない。すらりとした細身の男性が、私の腰かけていた階の上、高欄に囲まれた、今風にいうとバルコニーのようになっている部分の、木板の床に横たわっていた。

 いわゆる、テレビの前に寝転がるオヤジ……より妙にいかがわしいポーズで。

 だがしかし、問題はそこではない。私が言及したいのは、この男の外見である。

 薄藍のさらりとした髪は、肩につくくらいの長さで切り揃えられており、深みのある赤紫色の上等な着物を色気たっぷりに着流している。完成された美を体現したかのごとき整いすぎた美貌には、艶然と笑みが浮かび、澄んだ緑青色の瞳が嵌め込まれた宝石のように輝く。

 傾国の美女も真っ青の、匂いたつような美青年。なのだが。


 おわかりいただけただろうか。

 いま一度、想像してみてほしい。薄藍色の髪と、赤紫色の着物と、緑青色の瞳が共存した光景を。これはまさに――。


(紫陽花カラー……)


 ざあざあと音を立てて降る雨と、古びた神社、そして全身紫陽花カラーの男。こんな絶妙な組み合わせがあり得るか。

 奇跡的ベストマッチ。そんな言葉が脳裏に浮かんだ。多少、現実逃避しかけていたことは否定しない。


 げこげこげこ、とどこからか蛙の鳴き声がした。


(しっかりしろ、私! まだ五月の初旬だし、季節を先どりしすぎ!)


「あー……えーっと」


 何を言えばいいんだ、こんなとき!

 と、私の思考は焦って空回りする。空回りしすぎて、紫陽花、紫陽花……となぜかやや季節外れの花の名前がぐるぐると駆け巡った。


「……あ」

「あ?」


 何かな? という様子で、しゃらり、と銀細工の耳飾りを揺らしながら、男が聞き返す。

 動揺しきった私は、いろいろとぶっ飛んでしまっていた。たぶん、無自覚に相当混乱していたのだろう。自分を落ち着かせようとすればするほど、ドツボにはまっていって。


「あ、頭は酸性、身体はアルカリ性……」


 ――紫陽花の花の色は土壌の酸性度によって変わるんですよ、はい。


 あとから考えると、なぜにこんなことを言ったのか、まったくわからない。なんでこの切り口で会話になると思った、私。

 しかし心優しい紫陽花のおばけ(仮)は、私のとんちんかんなコメントにも、笑顔をやや引きつらせながら答えてくれた。


「あー……うん、あ、紫陽花……?」


(そうだよね! 反応に困るよね!)


 くだらないこと言ってすみません!

 しかもその後、「あ、そういえば僕、紫陽花みたいな色だよね。確かに。気づかなかったよ」とフォローされ、恥ずかしさと申し訳なさで、もう泣きそうだ。

 顔は火が出そうなほど熱くなっていた私だが、ぐっしょり濡れた身体は完全に冷え切っていた。


「は、はくしょんっ」


 くしゃみをすると、ぶるりと震えが上ってくる。

 今日は比較的暖かいとはいえ、まだ五月初旬。しかも暖かいからと薄着だった私は、雨に濡れて寒くて仕方ない。

 歯ががちがちと鳴ってしまう。


「ほら、こちらへおいで。風邪を引いてしまうよ」

「す、すみません」


 親切な紫陽花のおばけ、もとい、紫陽花カラーの美貌の青年は、どこからともなく手ぬぐいとバスタオルを取り出し、私に貸してくれた。まるであらかじめ貸すために置いてあったようで不審に思ったけれど、あまり気にしないことにする。

 ちなみに、手ぬぐいの柄が白地に紫陽花だったことは……触れないでおいた。


 濡れた髪と身体を大雑把に拭い、ふかふかの大きなバスタオルに包まる。しばらくすると、幾分寒気が和らぎ、落ち着いた。


「ありがとうございます、助かりました。えっと」

「気にしなくていいよ。君のために用意しておいたのだから。――僕のことは雨(あめ)の君(きみ)、とでも呼んでほしいな」

「…………はあ」


(雨の君って、おいおい)


 もしやこの人は、かなり痛い人ではなかろうか。

 『○○の君』という呼び名の存在は知っているが、現代に、しかも自分からそう名乗る人はまずいない。雨の日に会ったから、ということであろう由来もなかなか痛い。

 外見は相当おかしいけど、いい人だと思ったのに。


 だいたい、「君のために用意しておいた」ってなんだ。私がここにびしょ濡れでやってくることを知っていたとでも言いたいのか。

 そんなこと、普通に考えてありえない。超能力があるとか、物語に登場する探偵のように、並外れた洞察力があるとか?

 馬鹿馬鹿しい。いわゆる、中二病というやつを患っているのかもしれない。

 彼の優しさに対する感動や感謝も、残念ながらこれでほぼ帳消しだ。


 今現在、尖りに尖ったメンタルの私は、呆れを隠そうともせずに紫陽花カラーの美青年――雨の君を見遣った。


「雨の君……さんは、この村の人、なんですか?」

「うーん、どうだろう。強いていえば、この神社の者、だろうか」


 私の少しとげとげしい口調の問いに、ぱちぱちと瞬きしてから、雨の君は答えた。

 彼のあざとい仕草はともかく、この答えには、首を傾げる。


「この神社に、決まった管理者はいないって聞いてますけど」


 神社を管理する者がいないから、村人が自主的に世話をしているのだと、祖母ははっきり言った。

 すると、この男の言うことと辻褄があわない。


 私のつっこみに、雨の君は慌てるでもなく、にこにこと笑っている。


「僕は管理者ではないからね。この神社に棲んでいるんだ」

「……? つまり、代々この神社を継いできた一族、ということ?」


 自分でもおかしいと思いつつ、私は再び問う。

 どうにも、彼のことが気になった。明らかな変人であり、中二病であり、でも親切な人。その印象以上の何かを、私は彼に感じていたのかもしれない。


「一族、は、いないなあ……」


 その声音が少しだけ寂しそうで、嫌なことを聞いたかと、後悔しかける。だが後に続いた言葉で目が点になった。


「僕は、人ではないから」


 ん? なんて?


「代々、ではないけれど、長くここに棲んでいるのは確かかな。ここに祀られてから、人の時間ではずいぶん経つよ」


 んんん?


「祀られて、とは……」


 おそるおそる尋ねると、雨の君は当たり前だというふうに、何気ない調子で爆弾発言をかました。


「うん。ほら僕、神さまだから」


 直後、私はしばし、ぽかんと口を半開きにしてあほ面をさらした。そして言葉の意味を理解した瞬間、私の中の何かがものすごい勢いでぱあん、と弾け、背筋に悪寒が走る。

 自分でもよくわからない、むず痒いような、何とも言えない寒気らしきものが、身体中を駆け回った。


「か、神……」

「うん、そうだよ」

「神……」


 このとき、私は思い知った。――人間、本当におかしいと感じたときには、笑えない。

 中二病という彼の持病は、かなり重篤だったのだ。笑うことも、ドン引くこともできず、呆然としてしまうほどに。


「あの、今、すごく失礼なことを考えていない?」

「考えてる……」


 呆気にとられ、恩もへったくれもなくなった私は、タメ口で正直に答えた。

 雨の君は、もちろん、中学二年生ではない。私といくらも変わらない年齢の、成人男性だ。たぶん。


「うーん。信じていないみたいだね」


 信じられるものか。中二病の戯言を。

 多少落ち着いてきた私は、胡乱な目で痛々しい神さまを見る。けれども、彼はまったく気にしない様子で、変わらず微笑んでいた。


「あなたが神で、ここに祀られているなら、あなたは『おやしろの神さん』ってことよね」

「うん。このあたりの人は皆、そう呼ぶよ」

「証拠は?」


 神だと自称するなら、それなりの証拠はあるんだろうな……?

 と、私は少々、意地悪な気持ちで聞いてみた。すると、雨の君はしばし考え込む。


「証拠、証拠かあ……。君は、神って何ができる存在だと思う?」

「は?」

「だから、君は僕がどんな行動をとったら神だと信じられるのか。それがわからないと証明できないよ」


 私は、ぐ、と言葉に詰まった。

 質問に質問を返されたのは微妙に気に入らないが、彼の言うことは正しい。何を以てして神であると証明できるのか。難しい問題だ。


「うーん」


 なんだか、こんなことで頭を悩ませるのも馬鹿らしい話だと思う。

 神なんて、いるはずがない。もし万が一いたとしても、それが何になる。神なんていう都合のいい、万能の存在が本当にいるのだとしたら、今ごろとっくに世界平和は成されているに違いない。

 そしてきっと、私が今のように悩みを抱えることもなかった。


 そう考えると、彼が神か否かなど、どうでもよくなってくる。


「……神さまって、人の願いを聞くでしょ?」

「そうだね」

「なら、私の……願い、というか、悩みを聞いてくれる?」


 このときの私は無自覚だったけれど。

 おそらく、もうどうにも、悩みを抱え続けるのに疲れていたのかもしれない。どこかに吐き出したくてたまらなくて、でも、身近すぎる家族にはすべて打ち明けることができなかった。

 だからこうして、見ず知らずの誰かに話そうと思ったのだろう。


 雨はまだ当分止みそうにないほど、ざあざあと音を立てて降っている。

 私はひとり抱え込んできた悩みを、行きずりの青年に語った。




 ◇◇◇




 私こと、空賀くが天里あまりは、普通の女子大生だ。


 友だちは特別多くもないが、皆無なわけでもなく、人付き合いもまあ普通。成績はそこそこ、サークルには入っていないけれど、絵を描くのが好きで趣味にしている。

 たぶん、どこにでもいる、一般的な大学生だった。


 ただ、ひとつだけ変わっていることがあった。

 それは、小学校からずっと一緒の幼なじみが、同じ大学の同じ学部に所属していること。

 おそらくだけど、一貫校でも附属学校でもないのに、小中高大とずっと同じ学校の幼なじみというのはまあまあ珍しいと思う。友だちだけれど親友というほどでもなく、だからもちろん示し合わせて学校をそろえたわけではない。

 でも確かに幼なじみである彼女、古田ふるた七穂ななほと私は、奇妙な縁があるんだろう。


「天里ちゃん、また一緒だね。よろしく!」

「うん、よろしく」


 大学の入学式で、そんな言葉を交わしたことを覚えている。


 見知った人物が近くにいるというのは、大学入学と同時にひとり暮らしを始めた私には思っていた以上に心強くて、安心した。




「ふむ」


 雨の君は、適当に相槌を打ちつつ私の話を静かに聞いている。

 それがなんだか話しやすくて、私はためらうことなく語り続けることができた。


「七穂は顔も可愛くて、すごくフレンドリーだから、友だちが多くてね。大学ですれ違う人、ほとんどと親しげに挨拶できちゃうような子だった」

「それはすごい」

「うん。あの子のそばにはいつも誰かいたなあ。男女問わず。そりゃあ、親しさの度合いは相手によってまちまちだったけど、すごいのは確かだよ」


 ぼうっと降りしきる雨を眺めて、記憶を掘り起こしていく。

 激しい雨音は、しかし慣れると耳に心地よく、私を思い出の波の中へと徐々に誘っていった。




 私は、七穂のことを純粋に尊敬していた。

 誰とでもすぐに仲良くなって、大勢の友人がいて。誰にでもできることじゃない。少なくとも、自分には無理だとはっきり言える。

 どちらかというと私はおしゃべりではないし、趣味の合う人以外とは、あまり会話が続かなかったりする。特に、絵を描くときなどはひとりでいたい性分だ。

 それでも七穂は私とでも顔を合わせると話しかけ、上手く会話をつなげてくれる。本当にすごい技術だと思う。


 幼なじみで同じ大学の同じ学部といっても、週に何度か、共通の講義のときなどに世間話をする程度で、私と七穂の仲はそう深いものではなかった。

 彼女は彼女で広い交友関係を持っていて、私は私で、趣味の合う女友だちや、同じ研究室の友人とつるんでいたからだ。


 だから、私は七穂とは何も関係のないところで、恋をした。


 同じ研究室に所属している、学年がひとつ上の先輩。

 彼――吉木よしき先輩は、優しく、爽やかな人だった。何かと気遣いができる人で、困っていることがあるとこちらが何か言う前に気づいて助けてくれるし、ちょっとしたことでも嫌がらずに相談に乗ってくれる。嫌味なところがなく、一緒にいて気持ちが良かった。

 私が所属する研究室の男女比は半々くらいで、周りには男子学生も少なくなかったけれど、先輩以上に波長が合う人はいなくて、私は顔を合わせるたび、彼に惹かれていった。

 先輩のほうも、後輩のひとりでしかない私のことをよく気にかけてくれて、同じ講義を受けるときなどは隣同士の席に座ったり、そのうち一緒にご飯を食べたりするようなった。


 共通の趣味があるとか、そういうことではなくて、なんというか、私と先輩は日々の生活の細かいところが似通っていたのだと思う。言動とか、思考とか。具体的に言葉にするのは難しいけれど。


 でも、そうやって私と吉木先輩の距離が近づいてきたときのことだ。七穂と話す機会があって。彼女はこう言った。


「天里ちゃんのとこの研究室に、吉木さんって先輩、いるでしょ? あたし、あの人のこと好きなの」


 七穂と吉木先輩につながりがあると、私は知らなかった。いや、七穂のことだから、学部内のどんな人とかかわりがあったとしても不思議はない。

 でも、よりにもよって七穂が先輩を好きだなんて、それほどの接点があったなんて寝耳に水で、動揺した。


「あたし、吉木さんとペア組んでるんだけど、すごく優しいし親切でかっこいいよね~」


 なんてことないように、七穂は先輩の話をする。

 嘘だとは思わなかった。とある講義で彼女と吉木先輩は一緒にペアワークをしていると言っていて、私は先輩自身から彼がその講義を受けていることを聞いていたからだ。

 組んでいる相手が七穂だとは聞いていなかったけれど、私と七穂のつながりを先輩は知らないから、あえて話すことでもない。




「今思えば、七穂が私に先輩のことが好きだなんて打ち明けることからして、不自然だった」


 もやもやする。思い出すだけで、気分が悪くなりそうだった。

 雨の君は何も言わず、身体を起こして私の隣に座った。ふわり、と花のような香りが漂う。


「だって私、そこまで七穂と親しいわけじゃなかったし。いくら先輩がうちの研究室の学生だからって、いきなり好きとか、言わないでしょう。普通」


 七穂は知っていたのだ。私と吉木先輩の仲が良いことを。そして、おそらく私の気持ちも。

 だから牽制のために話した。あるいは、これが最初の宣戦布告だったのかもしれない。


「あのとき、そのことに気づいていたら――」


 何か変わっていたのだろうか。もう何度も自問したことを、私はまた後悔とともに思った。

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