2-2

 コンコンコン

 分厚いドアを叩くノックは三回。ハリスの部屋の前で護衛に立っている陸兵の来客を告げる合図だ。

「艦長です、サー!」

 ドアに厚みがあるので、大音量の兵士の声も若干遠い。

 ちなみにセレネア号はメルセルダ国王の海軍所属だが、ジルド公爵家が保有する全艦隊の旗艦でもある。

 伝統的に軍艦には保安要員として陸軍兵士がある程度の数乗り込むものであり、ハリスが乗艦しているときは更にその数が増える。

 扉の前で三交代制で立ち番をしているのは二名。部屋に至る通路には更に何か所か微動だにせず守衛の任についている兵士たちがいる。いつものことだが、ご苦労様だ。


 ドン、と木槌で床を叩くような音がして、デニス・キャンベル旗艦艦長が部屋の前に立ったのがわかった。

 トーマスがバケツを持ったまま立ち上がろうとしたので多少強引に椅子に引き戻し、ハリス自らドアの方へ向かった。

 本来であれば使用人が開くはずのドアに手をかけているのがハリスだと気づき、キャンベル艦長がその太い眉と眉の間にしわを作る。

「お寛ぎのところ申し訳ございません。閣下」

 分厚い胸板で作られる海の男の声は低くしわがれている。実は小動物が好きな気のいい男だと知っているが、外見上は見上げるほどに厳つい巨漢だ。

「カ国艦からボートが下ろされました」

 キャンベル艦長の視線がちらりとトーマスの方を向いた。

 キャンベル一族は男系の多産家族なうえに、親兄弟も親戚もほとんどが海軍に所属している。キャンベルという姓を名乗る者が多すぎて、艦長名簿の数ページがその名前で埋まっているというのは有名な話だ。

 彼のように根っからの海の男、文字通り海水を産湯のように生まれ育った者から見れば、揺れの少ない大型艦に乗り、しかもまだ港の中に錨を下ろしている状態で、重病人のようなトーマスの症状が理解しがたいのだろう。

 しかし心優しい彼はそれについて何を言うこともなく、ひたすらバケツと仲良くしている執事服の男に心配そうな目を向けている。

 トーマスもなんとか取り繕いたいのだが、いつものように姿勢を正そうとしても、すぐにバケツを抱え込む羽目になる。


「お着替えを、閣下」

 寝台のある続き部屋から濃紺の軍服を手にしたウェインが出てきた。

 促されるままに着替えをして、髪形を整えられる。

 プレスしたところなのだろう、装飾を最低限まで減らさせた軍服は温かく、己が随分と緊張していることを気づかされた。

「大丈夫ですか? 執事長。そんなんじゃ軍医に酔い止めをもらってきても意味ないんじゃ」

「……薬が効くまでは死ぬ気で吐かん」

「こればっかりは身体が慣れるまでどうしようもないんですから、横になっていてくださいよ。吐きすぎて脱水症状にならないように気を付けてください」

 面倒見のいいウェインは、ハリスの手伝いが終わると次はトーマスの世話を焼き始めた。

 性格は真逆なのに、なんだかんだと相性のいい二人の様子をしばらく見守る。

 いつもの光景だ。

 もう十数年……それこそ、結婚する前から変わらぬ二人の掛け合いに、ハリスは強張っていた肩から力を抜いた。



 沖合に停泊している大型艦は、七つの海を知るメルセルダの船乗りたちにとっても見慣れない形をしていた。

 全長はセレネア号より小型だが、胴幅がでっぷりとある。軍艦というよりも、積載量を重視する交易に向いているように見える。

 ただし船腹にはびっしりと小窓が並んでいて、おそらくはそこから砲身が出せるようになっているのだろう。

 戦闘能力もそれなりにありそうだ。

 先端が細く切れ上がった独特の舳先をしていて、遠眼鏡で観察してみると木彫りで細かな装飾がなされている。

 マストの数は三本。帆に細かく張られたロープは複雑で、既知のものとは違う操帆技術があるとわかる。


 やがて総員注目の中、梯子を上ってきたのは淡い草色の民族衣装を着た黒髪細身の男だった。

 カ国の民特有のアーモンド形の切れ長の目をしていて、髪同様その色も黒い。

 にこやかに微笑む目じりには深いしわ。顎の下だけに綺麗に整えられた髭がある。

「ジルド公爵閣下」

 ユハ大使は、年齢のわかりづらい顔に柔和な表情を浮かべ、丁寧に頭を下げた。

 見慣れない仕草で両手を前に組み、軽く口もとまで持ち上げる。

「お招きいただきまして有難うございます」

 イントネーションが多少おかしいが、十分に聞き取りやすいメルセルダ近辺の公用語だった。

 カ国の主要言語はハリスが知るどの言葉とも違う。多様な国々の言葉を操るメルセルダの民でも、カ国の日常会話以上をマスターしている者はいないだろう。

 ユハ大使の斜め後ろには、十五年間必要に迫られてだがその言語を学んできたボイドが控えていた。

 十分に流暢にしゃべる大使を見ていると、意思疎通に関する不安はないように思えるが、やはりこちらの言葉に精通した通訳がいると安心感が違った。


 ボイドと視線が合って、丁寧に目礼された。

 彼の帰参は未だかなっていない。いつでも戻ってこいと言ったのだが、もう少し待ってほしいと頭を下げられた。

 強制などできなかった。未だ多くが語られていない彼の十五年を軽く見ることなどできない。

 彼はいまだカ国の船に乗っている。数日ぶりに見るその顔色は良いとは言えず、幾分やつれたように見えた。

 ボイドはカ国に籍があり、ユハ大使の護衛という身分がある。確かに、閉鎖的なかの国で動くにはそちらの方が都合がいい。


 声を掛けてやりたかったが、自制した。

 己と彼との間に横たわる長い年月が、まるで目に見えぬ裂け目として横たわっているように思えた。

 気軽に話しかけることを躊躇う空気は気のせいでも何もない。

 ボイド自身が、ハリス達を拒んでいる。


 着飾った儀仗兵が一糸乱れぬ仕草でかかとを合わせる。

 その振動が甲板を伝い、ハリスは鷹揚にひとつ頷いて背筋を伸ばす。

「ようこそ、我が旗艦へ。メルセルダの料理が口に合えばいいのだが。酒も用意した。イケる口だときいている」

 ハリスは改めて、武人というにはいささか頼りない身体つきの大使に目を向けた。

 まっすぐに視線が合って、丁寧に目礼された。

「おお、貴国のブドウの酒でしょうか。あの赤い飲み物は非常に美味です」

「ぶどう酒はメルセルダの特産品だ」

「美味なる酒は他に代えようもない御馳走です」

「ちがいない」


 ハリスは長身の大使を、会食の準備が整えられた高級士官用の食堂へと先に立って案内した。

 長身といってもカ国民としては、という注釈がつく。

 ハリスとあまり変わらぬ目線だが、体重は二割以上軽いだろう。ひょろりと針金のような体格で、常に微笑みを浮かべている目は一重で切れ長だ。

 船乗りにしては歩く重心が高く、おそらく国では海とは関係のない職分にいるのだとわかる。


 カ国には握手という習慣がない。そもそも握手とは、利き腕に武器は握っていませんよ、あなたに危害を加えませんよ、という友好を示すあいさつだが、彼らにとっては武器の攻撃範囲に安易に踏み込むのはマナー違反であるらしい。

 パーソナルスペースを無視して踏み込むのは非常に礼を逸した行為になるし、掌のみとはいえ肉体の一部を触れ合わせるなどありえないそうだ。

 ハリスはカ国の風習をなんとなくだが知っていたので、最初から丁寧だが十分に距離をとった態度で相対してきた。

 しかしユハ大使は初対面の挨拶をしたときに、彼の方から握手を求めてきた。

 積極的にこちらの習慣に合わせようとするその態度は、鎖国という閉鎖的国策を持つ国の外交官にしては随分と友好的だ。


 そして握った彼の手は、思いのほかに大きくて、一見文官のように見える彼が、剣を使う者特有の硬い掌をしていることに驚かされた。

 至近距離で見たその目は、一瞬だが微笑みを掃き落として無風だった。

 もともとカ国の人間の顔は表情が読み取りにくい。

 微笑みに覆い隠された彼の本質が垣間見えたが、明らかに意図的に見せられたその情報が何を意味しているのまでは理解することができずにいた。

 この先長い航海を共にするのだから、せめて最低限の信頼関係は築きたい。

 ユハ大使のほうもこちらに歩み寄ろうとしてくれているのはわかるのだが、その意図を読み取るのはなかなか難しそうだ。


「そろそろ出航できそうだとうちの艦長がいっております」

「そうだな、波も風も頃合いだ」

 会食用の部屋に案内しながら、並んで歩く。

 ユハ大使はハリスを見上げ、どことなく嬉しそうな雰囲気で幾度か頷いた。

 他民族と話をする機会は多いが、国交もない相手にここまで友好的な態度の外交官は珍しいと思う。

 特にカ国の民は排他的な気質が強く、余所者に向ける目は厳しいのだ。

 この気質だから外交官となったのか、外交官としてフレンドリーに徹しているのか……出航を待つたった十日ほどの付き合いでは、判別しがたかった。

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銀の龍金の姫 安東真波 @enjyu007

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