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 心がいくら逸ったとしても、カ国との間には物理的な距離がある。

 海は果てがないほどに広く、波も風も気まぐれだ。しかも時期的に荒れている日が多く、出向にふさわしい風向きを待つだけで十日もかかった。


 もともとメルセルダは海の王国とも呼ばれる国である。貿易が盛んで、海賊たちの相手を務める機会も多いことから、海軍も強い。

 ジルド公爵家も自前の艦隊を保有していて、その規模は国の正規軍と比べても遜色ないものだった。

 もちろん注目度も高く、特にハリスの旗艦はどこに行ってもすぐにそうと知れるほどに有名だ。

 不在が知られわけにはいかないので、本来であれば別の艦で隠密行動を取るべきなのだが、カ国という見知らぬ異国へ向かうということもあり、ハリス自身の安全を考慮され、精鋭中の精鋭が選抜された。

 つまりはいつもの旗艦と、その艦隊の主要艦たちである。

 公爵家の家臣団はハリスがカ国まで直接出向くことを止めようとするよりも、いかに安全に帰還させるかに心血を注ぐことにしたようだ。


 遠洋航海が可能な四艦の大型軍艦が、長い航海に耐えられるだけの物資を積み込んで自領から駆け付けるのは早かった。

 ただし、本来であれば領主の行軍にあわせて航海の前にペンキを塗りなおしたり、装飾を新たにしたりするものだが、航海の名目は演習なので、ことさらに派手に装ったりはしていない。

 使い古しの帆に古傷がまだそのままになっている船体、歴戦の勇者然とした旗艦の名前はセレネア号。見た目にはそぐわぬ可憐な月の女神の名前を冠している。

 最新艦ではないが士官及び水兵たちの練度が高く、この艦さえあれば大抵の海を越えていけるだろう。ハリスにとっても心強い同行者だ。


「……ううっ」

「まだ湾内なんだが」

 ハリスの傍らで、ジルド公爵家の執事長トーマスが木のバケツを抱えて青い顔をしている。酸っぱい臭いが船室内に充満し、また吐いたのだとわかる。

「冬場の外洋は荒れるぞ。大型艦だからまだマシだが」

「わかっていま……っ」

 言葉を発したことでまた吐き気が誘発されたらしく、慌ててバケツに顔を突っ込んだ。

 ハリスはため息をついた。


 トーマスは昔から船上が苦手で、小さいボートに数分乗ることさえ嫌がった。理由は、すぐにこのような状態になってしまうからだ。

 本来執事とは、主人の身の回りの世話をしている使用人たちの総代、要するに内向きの仕事をする存在である。戦闘職ではもちろんないし、監督する屋敷を離れることもまずない。

 しかし忠実なこの男は、長い戦乱のさなかでもハリスの傍らを離れなかった。どんな死臭漂う前線にもついてきたし、時には剣を握ることすらあった。

 そんな彼が唯一ハリスの傍から離れるのは、海軍行動と海路を使った移動の時である。

 出立の際に深々と頭を下げ見送ったかと思えば、次の港に到着すると一部の隙も無い身なりで出迎えられる。つまりは酷い船酔いに耐えるぐらいなら不眠不休で馬を乗りつぶした方がマジと考えているのだ。


 そんな男にとって、片道二か月の航海など拷問だろう。

 体質的に船旅に向いていないのだから、おとなしく留守番をしてくれたらいいのに。

 もちろん何度もそう言ったのだが、トーマスの返答は一貫して『否』だった。

 心配してくれているのはわかる。その目の奥にある決意の色が強いものだという事も。

 おそらく娘だという相手を直接見極め、必要であれば強硬手段も辞さないと考えているのだろう。

 この男は、ハリスに害を成すものを絶対に許さない。

 その徹底ぶりが地味に怖いとずっと思ってきたが、今回のことに関しては何も言えない。

 事実、ハリスが最も危惧するのがジルド公爵家の後継狙いかということなのだから。

 いや本心を言えば、家のことも娘のことも二の次だ。

 レイナの消息を確かめたい。本当に死んだのか? 生きているのではないか? そのかすかな希望に縋っている。


 ハリスは自分自身を信用していなかった。レイナの事が絡めば、平静でいられる自信など微塵もない。情報に踊らされ、はるばる遠い国まで連れ出されようとしているのではないかという危惧はずっとある。

 故に、ストッパーとしてのトーマスの同行を許したのだ。

「うげぇ……っ」

「……横になっていた方がいいんじゃないか?」

 たとえ、四六時中酸っぱい臭いを漂わせていようとも。

「っ、いえ! カ国の特使とお会いになるのでしたら、私がお側に……うぐ」

「特別な情報は何も渡さない。言質をとられるようなこともしない。心配しなくともジャスティンが同席する。給仕としてウェインもな」

 ジャスティン・パールマー子爵はジルド公爵家の麾下で一等書記官、今回は文官筆頭として同行する。ちなみに武官筆頭はエドワード・ヘルマン卿で陸軍の大佐。ここ数年の公式な場所では彼がハリスの護衛隊長を務めている。

 二人とも公爵家代々の家臣の出だった。トーマスも彼らのことを疑っているわけではあるまい。


「心配するな」

 ここ連日よく眠れていないハリスのことを、皆が心配しているのはわかっている。

 極端に口数が減っている自覚はあるし、食事の量も少なくなった。おそらく顔色も相当に悪いのだろう。

「お体の具合が優れないのでしたら、会食は延期して」

「トーマス」

 具合が悪いのはお前の方だろう、と言いかけた口を閉じ、ハリスは少し眦を下げた。

「……大丈夫だ」

 そう、今はまだ。

「当たり障りのない挨拶をして、食事をして、少量の酒を飲みながら談笑するだけだ」

 果たして耐えられるのだろうか。例えば彼女の死が無残なものであったなら。苦しみながら死んだと聞かされたなら。

 想像するだけで胸がつぶれそうになる。物理的な痛みが心臓を締め上げ、呼吸すら苦しくなる。


―――駄目かもしれない。

 ハリスは思う。

 彼女を失って十五年。幾度となく最悪の想像をした。一人の寝室で、枕に顔をうずめて絶叫したことなど数えきれず。前線で血まみれになれば何も考えずに済むと、好んで前線に立ったりもした。

 時が忘れさせてくれると誰かが言った。

 しかしどんなに歳月がたとうとも、常に胸の内でわだかまっていたこの狂気の欠片は失せたりはしなかった。

 今まで守り続けたものなどどうでも良い。

 ハリスは、家も家臣も何もかもを手放してもいいと思っている己を自覚していた。


「いいから休んでいろ。今のうちに少しでも眠っておけ」

 そんな感情を念入りにしまい込んで、バケツを両腕に抱え込んだ長身の男に笑みを向ける。

「先は長いぞ」

 なお一層顔色を失せさせた忠臣の肩をポンと叩く。

 反射的にバケツに顔を突っ込んだその背中を撫でてやりながら、昏い目で虚空に視線を滑らせた。

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