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ゆるくウエーブした美しい黒髪は、多民族国家のメルセルダでは珍しくない。
ただその射干玉のような黒髪も、若干浅黒い肌も、角度によっては照りのあるチョコレート色に見える黒い目も、メルセルダ王家にとっては珍しい色合いだ。
王族の多くが色白で金髪、瞳の色は鮮やかな紫色であることが伝統的とされてきた。
当代メルセルダ国王エルザ二世陛下は、先々代の国王が娶った南国の姫の血統を受け継いでいる。
本来であれば遺伝的に強いそちらの血が濃く出そうなものであるが、以後も王家の色は色白路線を保ったままで、ここまで強く南国の血がでているのは彼女だけだ。
一時先代王妃の不貞説もささやかれたが、即位するより前に結婚していたエルザが産んだ子供たちが全員王家特有の金髪だったので、すっかりその噂は立ち消えている。
ハリスはそんな彼女の前に立ち、手紙の上を何度も滑る黒い双眸の動きを見守った。
ハリスの妻は、エルザに溺愛されていた。
エルザは家長らしくどの兄弟の面倒も親身に見ていたが、体の弱い末の妹のことは特別に目をかけていた。
レイナも長姉のことを慕い、時に恋人か! というほど近しい付き合いをしていたので、二人の夫であるハリスやロベルトは大いに嫉妬に駆られたものだ。
そんな蜜月の中不幸にあった妹のことは、ハリス同様、女王エルザにとっても大きな傷になっていた。
たとえ十五年経とうとも、その痛みを忘れるはずもない。
「……本物だと思うか?」
やがて、短い手紙を随分長い時間をかけて隅々まで読み切って、女王はようやく顔を上げた。
「わかりません」
巨大な執務机の前に直立不動で立ち続けたハリスが、小さく首を振る。
「ボイドの言葉だけではなんとも。手紙の内容では判断しようがありませんし」
「それでも、行くというのだな」
「はい、女王陛下」
まるで猫のようなアーモンド形の黒い目が、まっすぐにハリスを見上げる。
「国王としては、許可できない」
「……」
「だが、レイナの姉としては、代わりに押しかけたいぐらいだ」
「いやそれは勘弁してください」
「わかっている!!」
今日も男装姿の麗人は、ダン! とこぶしで分厚い執務机の天板を叩いた。
「私はここを離れられない。国王としての責務があるからだ。そしてそれは、義弟殿、そなたも同じだ」
低い、軋むような声だった。ギリリと奥歯を食いしばり、極端に瞬きの回数が少ないその目には、うっすらと涙の幕が滲んでいる。
「一族の長として、姪の婚礼の引き出物と持参金は用意する。そなたも娘の婚礼の品を至急用立て、旅団が出発する前に預けるがいい。特使を立てることは許す。それ以上の妥協はできない」
「陛下!!」
「姪と名乗るこの女が事実レイナの娘であるかの判断は、レイナが死んだのであれば永久にはっきりしないだろう。ジルド公爵家の継嗣の座を狙ったものではないとどうして言える?」
「……娘は、嫁ぐのだと書かれています。メルセルダへ帰国するつもりがあるようには」
「手紙には、そうあるな」
ハリスには血を分けた子供がいない。近く跡継ぎとして優秀な従兄の子供を養子にとろうとしていたが、家系的には本流から少し外れるので、たとえばレイナの娘と名乗る者が帰国すればそちらのほうが継承権が高くなる。
ジルド公爵家は国内随一の大貴族であり、権力も財力も王族にならぶほどに飛びぬけている。今はハリスが健在だから小動ぎもしないが、十年二十年後にはどうか。
たとえば養子を後継者として指名したとしても、嫡出子だと名乗る娘が対抗馬となってしまう可能性は十分にあった。
「そもそも、レイナは本当に死んだのか?」
見開かれた黒い双眸から、ぼろりと大粒の涙が零れ落ちた。
無言で傍らに立っていた王配ロベルト・ハイラムが、そっとエルザの肩に手を置く。
「娘とやらよりも、私はそちらのほうが知りたい」
それはハリスも同様だった。
脳裏に、柔らかな黄金色の髪と妖精のように笑う笑顔が過る。
「……ボイドは」
視線が義姉の持つ手紙へと落ちた。
「手紙を差し出す前に、私に継嗣がいるのかと尋ねました」
軍服を着てはいるが、軍人ではないので、指先は綺麗に整えられている。爪は長くはないが美しく磨かれており、薄いその紙が破れそうな強さで握られていた。
「もしレイナのほかに妻を娶り、子があるなら、手紙のことは秘すようにと命じられていたそうです」
「……何故だ? 帰国するつもりがないなら、お前に妻子があろうがなかろうが気にする必要はあるまい」
そうだ、床に額を擦り付け滂沱の涙を流しながら謝罪していたあの男が、何故ふたこと目にあんな事を尋ねたのか。
「……生きているのか?」
ハリスの口から、ぼとり、低くそんな言葉がこぼれ落ちた。
いやボイドは死んだと言った。断言し切った。彼女は死んだのだ。もう帰ってはこないのだ。
それを認めたくないから、こんな疑惑を抱くのだ。
「そういえば、あの男がハリスの身辺を探っていたと言っていたな」
「はい、妻や側室、愛人などはいるのかと」
「今さら調べようというのも妙な話だな」
頭に何かがつまったように、考えがまとまらない。
女王の執務室は広く、普段は事務官や侍従に女官、メイドなどが控えているのだが、今は人払いをして三人だけである。
機密が漏れないよう特殊な細工のしてある室内なので、声が反響することはまずないのだが、わんわんと鼓膜に義姉の声が響いて眩暈がした。
「ハリス!!」
ファーストネームを呼ばれて、はっと我に返る。
歴代の国王が使用してきた大きな執務机をはさんで、義姉が椅子から腰を浮かせて身を乗り出している。
「……大丈夫か?」
「はい」
反射的にそう答えたが、ふわふわと足元がおぼつかない感じは失せていなかった。
「ソファーに座れ。ひどい顔色だ」
「いえ……」
「ロベルト、その棚の中に酒が隠してある。公に一杯ついでやってくれ」
気づくとハリスはソファーに腰を下ろし、手にショットグラスを握っていた。
ぎょっとするほど間近に膝をついたロベルトの顔があって、思わず身体を背もたれまで引く。
気質的に相性の良い相手ではないので、パーソナルスペース内にこられると反射的に身構えてしまうのだ。
真向いのソファーにはエルザが、軍服に覆われた長い脚を組んで座っていた。
グラスは彼女の手にもあり、難しい顔をしてちびりちびりと舐めるように飲んでいる。
「……半年だ」
しばらくして、女性にしては低く太い声でエルザは決断を下した。
「そなたに許せるのは、最大限に見積もってもそれだけだ」
ハリスははっと息を飲み、妻の姉であるメルセルダ国女王の浅黒い顔を見返す。
「カ国までの航路は順風であれば二か月程度だろう。往復で五か月をみればなんとかなるか。滞在は三十日以上は認めない」
ぶるり、と全身が震えた。
何をして彼女にその決断を下させたのか。それが、愛する妻レイナの生存の可能性であることに気づいたからだ。
本音を言えば、レイナはもはやこの世にはいないという予感がしている。
それはエルザも同様だろう。
だが万が一、事情があって戻ってこれないというのであれば。その理由がなんであれ、何があったのだとしても、万難を排して迎えに行きたい。
「……真実を突き止めろ」
ハリスの藁にもすがるような想いは、レイナを溺愛していたエルザもまた抱いているにちがいなかった。
二人の視線が重なり合う。
ハリスは右手に握りしめたショットグラスをぐい、とあおった。
焼けるような強い酒が喉を下っていく。
カツン、とガラスのグラスをテーブルの上に置く。
「良い知らせをお待ちください……偉大なる女王陛下」
立ち上がったハリスは、身についた所作で主君に対する礼を取る。
しかしそれに対する返礼を視界に捉えることはなく、心ははるか遠い異国の大陸へと飛び立とうとしていた。
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