1-5
夢を見る。
また、夢を見る。
胸がつぶれそうな幸せが、手の届く場所にある。
レイナが笑う。
真っ白な絹手袋の腕に、同じ白いレースのおくるみを抱いて、朗らかに笑う。
これまでは一度としてみたことのないその情景は、涙が出るほどに眩く、愛おしかった。
まだ日も登りきらぬ暗がりで目覚めて、孤独の中冷たい息を飲む。
夢との落差への絶望は慣れた感覚だったが、カサリと聞こえた音が常とは違った。
手に握りしめているのは薄い紙の感触。
しわになってしまったかと慌てて持ち上げて、軽く伸ばす。
娘からだという手紙は、ボイドの服に縫い込まれていた。油紙に包まれていたのに身体検査をしても気づかなかったほどに薄く、丈夫そうな紙だ。
恐る恐る開いてみた手紙には、拍子抜けするほどに何の情報も含まれていなかった。
固有名詞は娘のものだという名前だけで、住んでいる場所のことも、どういう生活をしているのかも何も書かれていない。
途中で他者の手に渡る可能性を考慮してか、宛先すらないのだ。
ただ、時候の挨拶と、突然の手紙への謝罪と……結婚の報告と。
もしかするとこれは己ではなく別のだれかに充てたものではないか。そう勘繰りたくなるほどに現実感に乏しい。
あの事故の後、レイナと少数の遭難者たちはカ国へと流れつき、その土地の貴族に保護されたのだという。
本当に彼女は生き残ったのか。
本当にカ国で娘を産んだのか。
ボイドの言葉以外なにひとつ確証がないままに、信じてしまっていいものか。
答えが出ない自問を数えきれないほどに繰り返す。
しかも娘は結婚するというのだ。幼馴染だという、保護してくれた貴族の子息と。
生まれてくるはずだった子供の年齢を数え、じき成人するはずだと思いはしたが、まさか他国で嫁ぐなど想像もしていなかった。
メルセルダ貴族の女子としては、少々早いかぐらいの年回りではある。
しかし、愛しい妻の腹のふくらみでしかその存在を知らないハリスにとっては、結婚どころか娘の存在そのものが現実味からほど遠い。
無意識のうちに手紙を掌にのせ、体温が伝わってくるほどにゆっくり撫でさすっていたことに気づき、ため息をついた。
意図的に抑えないと際限なく漏れてしまう嘆息に唇を引き結び、早々に去ってしまった眠気を追うことなくベッドから足を下ろす。
気候が温暖なメルセルダには四季があり、今は晩秋。
冬に向かって外気は冷え込み始め、落葉樹が鮮やかに色づいている。
ハリスは窓に近づき、鮮やかに赤く紅葉した園庭を見下ろした。レイナを娶る前に、彼女のために作らせたバラ園だ。彼女の名前を冠したバラを一緒に植えたのは、もはや遠い記憶。
二人がともにいた時間は短くて、このバラ園が満開に花開く情景を彼女はついぞ見ることはなかった。
ハリスはこみあげてくるものを反射的に飲み込んだ。
泣き言も、苦悶の声も、そうやって飲み込むことに慣れ過ぎてしまった。
十五年は長い。
痛みにさらされ続け、その苦痛が当たり前のようになって、しかし薄れることも消え去ることもなかった。
ハリスは再び手紙に視線を落とした。
娘の事はわからない。実感もないし、この不安定な感情の処理をどうしていいのか不明だ。
しかし、レイナの事は違う。
彼女は己の妻だ。ハリスがまだ十代の半ばだったころに出会い、幸運に恵まれて愛し愛され、永遠を誓った愛しい女。
十五年たとうが、二十年たとうが、その事実は神の名のもとに不変だ。
「……レイナ」
久々に、その名前を唇にのせてみる。
目を閉じて、思い出そうとしてみても、応えの声は記憶からほとんど消えつつある。
これ以上、何も奪わせる気はない。
彼女を、この国に連れて帰ろう。
その髪の一筋でも、骨の一片でもいい。己のもとに、生まれ育った地に取り戻そう。
「待っていてくれ、今度こそ迎えに行く」
それは、誰にも聞かれることのない誓いの言葉だった。
「おはようございます」
「……ああ」
いつものように従僕のウェインが手桶の水を持って入室してくる。
ハリスは窓際に寄せた椅子に座ったまま、視線も上げずにおざなりに返答する。
「だいぶん寒くなってきましたね。そろそろ暖炉に火を入れましょうか」
テキパキとハリスの身支度を整える手際は迷いなく、髭を剃るのも髪に整髪料を塗り整えるのも慣れたものだ
もちろんハリスとて自分でしようと思えばできるのだが、やれ剃り残しがあるだのもっときれいに髪を整えろだの小言を言われるので、己よりも手際がよく器用なウェインに任せることのほうが多い。
促されるままに顔を洗い、用意された服に袖を通す。
さすがにシャツのボタンは己で閉めようとするのだが、それもモタモタしているとさっさとウェインに手伝われてしまう。
もちろん生まれた時からこういう環境にいるので、甲斐甲斐しい従僕の手助けをうっとおしいと思うこともない。
おそらくは自分でする半分ほどの時間で身支度が整い、見計らったようなタイミングで執事のトーマスが入り口のドアをノックする。
「トーマスです」
名乗りの後ドアを開け、入れ違いで部屋をでようとしていたウェインのために道を譲る。
汚れ物と水量の減った手桶を抱えたウェインとトーマスが、すれ違いざまに視線を交わすのに気付いた。
「おはようございます」
いい年になってきたので、寝不足はとたんに顔に出る。最近またよく眠れなくなってきていて、そろそろトーマスから睡眠薬を飲むように促されるのだろう。
覚悟してお小言に備えていたハリスだが、しかしトーマスが余計な口を開くことはなかった。
手に持っていたティーセットをサイドテーブルの上に置き、小脇に抱えていたプレスの効いた新聞をハリスに手渡してから、いつもの濃いめの紅茶を入れ始める。
新聞の一面を読み終わる頃に、若干柑橘系のフルーティな香りが広がった。
トーマスはどんなメイドよりも上手に紅茶を入れる。
それこそ、戦時中の前線基地であろうと、旅先の野営中だろうと。
思えばもう二十年以上、彼の入れる紅茶を飲むことから一日がスタートしていた。
「……陛下にお会いしたいと知らせを送れ」
新聞をめくりながら、ハリスは言った。
トーマスはテーブルの上に白磁のティーセットを置き、一歩下がる。
「かしこまりました」
パサリとテーブルの上に新聞を広げ、愛用のカップを手に取る。
紅茶の香りがより濃く鼻腔に伝い、ほんの少し、心が落ち着いた。
「カ国へ行く」
「はい、
普段であれば止めるはずの男が、静かにそう言って頭を下げる。
視線が合って、息が詰まった。
普段はあまり表情を変えないトーマスが、真っ赤な目をしていたことに気づいたのだ。
二三日の徹夜など顔色一つ変えずこなす男が。必要であれば女子供であろうが淡々と敵を屠り、収穫前の畑だろうが村唯一の水源だろうが平気で踏みにじることのできる男が。
「……トーマス」
「はい、
「すまん」
「何をおっしゃいますか。ご自身の思うがままになさってください。我らは御下知に従うのみです」
長い時を共に過ごしてきた。ハリスのことを自身よりもよく知っているのは、間違いなくこの男だろう。
ジルド公爵家の為を思えば、本来なら制止するべき立場だ。継嗣も決まっておらず、国境のきな臭さも完全に失せてはいない。長期の不在は、下手をすると戦争の呼び水となってしまいかねない。
それでも。
カ国へ渡る決意は硬かった。
遠い遠い異国。
大海を隔てた別大陸のその国には、片道二か月半ほどの日数がかかる。貿易風と海流の向きから、帰路はその三分の二ほどの日数になるだろうが、それでも滞在日を含めると半年を超える不在となるだろう。
国防の要であるハリスは、本来であればおいそれとそれが許される立場ではない。
しかしトーマスがこう言っている以上、公爵家の内々の手回しはできているのだろう。
あとは陛下だが、これだけ長きにわたって国に尽くしてきたハリスの唯一の願いだ、無下にされないことを祈りたい。
いや……
たとえ却下されてしまっても、何もかも捨てていくことになろうとも。
愛する妻を、迎えに行く。
それを止めることができる権利は、誰にもないはずだ。
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