1-4
怖い、恐ろしい……そんな感情など、遠い昔に捨て去ったと思っていた。
ハリスは目指すドアが見える位置で立ち止まり、固く両目を閉ざした。
「閣下」
情けなくも怯え震えている腕に、そっと腹心の手が添えられる。
「わたくしが話をして参りましょう」
「……いや」
詰めていた息を吐きだし、トーマスの心遣いを振り払う。
これは、十五年間ハリスが待ち望んできた機会だ。
彼女が生きているのか、死んでいるのか。生きているならその消息を。死んでいるならその……最期の様子を。どうにか教えてくれと神に願った。血を吐くような思いで、何度も。何度も。
「これは夫としての俺の義務だ」
彼女の夫であるという立場だけは、誰にも譲るつもりはない。
たとえそれが、二度三度となくハリスの心を殺すような報告であろうとも、事実から逃れることは自身が許さない。
一度深呼吸して顔を上げる。
そしてまっすぐ足を進めると、ドアまでたった数歩でたどりついてしまった。
トーマスが几帳面にノックを数度、中からの返答を待つまでもなく、内側から扉が開かれる。
ドアを開けたのは従僕のウェインだった。
礼をとる彼におざなりな頷きで返し、陽光の差し込む屋内に目を向ける。
「……
椅子から立ち上がってこちらを見ていた男が、低いひび割れた声で言った。
「っ我が君」
やおらガクリと膝を折り、両手を床についてうずくまる。
「お許しを、どうかお許しください!」
慟哭の声とともに、木製の床に涙が滴って落ちる。
「妻子のいる家を遠巻きにしていたところを確保しました」
ウェインの口調に感情はこもっていなかったが、もともとボイドと彼は家族ぐるみの付き合いがあった。いわゆる幼馴染の関係だったと記憶している。
ボイドが行方不明になった当時、妊娠していた彼の妻のことを気にかけていて、ほどなく男子を出産したと報告を受けている。確か、一人で苦労して子供を育てているのを見かねて、再婚を進めたのもウェインを含む知人友人だったと聞く。
ハリスは妻を亡くしたことに耐えられなかった。今もなお、そのことを引きずっている。
しかしボイドの妻は、夫の死を嘆き悲しみはしたが、乳飲み子を抱えて生きていくためにそれを乗り越えた。
そんな彼女を、強いと思いこそすれ、非難することはできない。
ただ、ボイドの身になってみればどうだろう。ようやく戻ってくることができた故郷に、帰るべき場所がないのだ。
妻は別の男と再婚し、その男との間に四人も子供をもうけている。
しかも相手の男はボイドもよく知る幼馴染のひとりだ。昔から腕っぷしは弱いが人柄がよく、文官として有能な男だった。
「……お前の息子はお前と同じボイドという名前だ」
屈強な背中を丸めて震えている男に、ハリスは静かに言葉をかけた。
ボイドははっとしたように肩を揺らして、床についた両手を握りしめる。
「乳飲み子を抱え、寡婦ひとりで生きていくことができなかった奥方を責めてくれるな」
「閣下、そのお話は……」
「いや、ボイドにとっては大切な話だろう。望むのであれば、引き合わせる機会を設ける。お前の息子はお前によく似ていて、去年から弓士隊に入隊して将来有望だそうだ」
「……ッ」
抑えきれない嗚咽がこぼれ、額を床に押し当てた男が背中を揺らす。
ハリスはその傍らに膝をつき、お互い相応に年経たその肩に手を置いた。
「苦労を掛けた」
「閣下!」
もはや耐えきれないとばかりに、恥も外聞もかなぐり捨てて号泣する男の背中は、記憶にあるより一回りも二回りも逞しくなっていた。
もともと屈強な体躯であったが、いまはその二の腕だけでも普通の女性の腰回りほどもありそうだ。
十五年の歳月の中、彼の身に何が起こったのか。
あの嵐の海をどうやって乗り切り、カ国にたどり着くことになったのか。
漂着したのは彼一人なのか。それとも、ほかに生存者はいたのか。
今すぐ問い詰めたい思いを奥歯を食いしばって堪える。
愛する妻の行く末は?
忠実な護衛であった男の涙が物語るその答えを知るのは、心底恐ろしい。
「……大丈夫か?」
だが、聞かねばならない。知らねばならない。
「話せるな?」
「ッ、奥方様は」
やおら顔を上げた男の頬は見苦しいほどに濡れ、瞼は腫れ上がっている。
ハリスはその震える唇を手で塞いでしまいたい衝動と戦いながら、さらに滂沱と滴る涙を息を止めて見下ろした。
「……お亡くなりになられましたっ」
キーンと鼓膜の奥が不快な音を立てた。
「申し訳ございません。お守りできず、申し訳ございませんっ!!」
立てていた膝に縋り付かれ、そのまま靴の上に額を押し付けられる。
なおもボイドは謝罪の言葉を続けていたが、ハリスの耳に意味ある言葉として届きはしなかった。
覚悟をしていたと自身思っていたが、それは机上のものにすぎない。
襲い掛かってきた圧倒的な絶望感に、視界が黒く闇色に染まっていく。
死んだ。
死んだのか。
つば付き帽子の陰で軽やかに笑う声が耳朶をかすめる。
ああ、駄目だ。愛しい声が、その笑顔が、すでにもうはっきりと思い出せない。
「……いつ?」
己の唇が何か意味ある言葉を刻んだ自覚はない。
「詳しいことを話せ。我らは十五年間、ずっと奥方様を探し続けてきたのだ」
背後から聞こえる、常に冷静であるはずの男の声も、わずかに震えていた。
「その前に、どうかお答えください」
もうそのひび割れた声が紡ぐ言葉を聞きたく無い。
レイナが死んだ。
言葉にすると短いその事実に打ちのめされ、背中を支えてもらっていなければその場で尻餅をついてひっくり返っていただろう。
「閣下はご結婚なさいましたでしょうか。御継嗣はおられますでしょうか」
「……どういう意味だ?」
「奥方様はいつも閣下のことを気にかけておられました。ジルド公爵家の正妻としての務めを果たせない御自身を責めておられました」
「閣下の奥方様はお一人だけだ。もちろん外にも内にもお子様は居られん。近々御分家から養子を迎えようかというお話は上がっているが」
ハリスはぼんやりと、見慣れぬ皺の増えた男の顔を見下ろした。
その顔の半分を埋めているのは古い火傷の跡だ。
そうだ、かつてこの男はハリスらを庇い全身に大やけどを負った。死にかねないほどの負傷をしてもなお、篤い忠誠をジルド公爵家に捧げてくれている忠義ある男なのだ。
そんな彼のこげ茶色の目からは壊れた噴水のように涙があふれ出て止まらない。
そこに、言葉では言い表せない「何か」を感じ取り、どくり、と身体の中心で心臓が大きく震えた。
ハリスは無意識のうちに服の胸元を握りしめ、瀕死状態の心の奥深くから、当の本人にもわからぬドロリとした何かがあふれ出てくるのを感じた。
「……お手紙を、お預かりしております」
「手紙だと? 誰から?」
普段よりも若干低いトーマスの声同様、無意識のうちにこぼれるハリスの呼気も震えている。
「お嬢様からでございます」
受けた傷は致命傷だと思っていた。
しかし押さえたところからあふれ出るものは熱く、己はまだ生きているのだと声高に知らしめていた。
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