血の鎖

鈴木彼方

血の鎖

 私はあの大旱魃かんばつの年に死ななかった数少ない子どものひとりだった。

 覚えていることは少ない。

《いま考えれば、そういうことだったんだろう》

 ほとんどのことは他人事のような振り返り方しかできない。あのとき、貧しい言葉と思考で、なにをどう感じたのか。それらは厚い硝子がらすの向こう側にあるかのように輪郭を描きがたいものだ。とはどういうことなのだろう? 時と場所を越え、もう一度同じことを体験するかのように、頭のなかに瞭然りょうぜんたる再現を試み得る出来事だけがであるのならば、私の全生涯における記憶など、ほんのひと握りしかないということだ……


 井戸は干上がり、森の湧き水は乾ききり、ひとしずくたりと潤いを与えてはくれなかった。湖は黄緑色の泥を底に粘らすのみだった。死んだ魚が腐り溶けて悪臭を放っていた。無数に重なる蝿の羽音――

《ひどい臭いだったが、嘔吐すらできんほど乾ききっていたな。口の中が砂っぽくって、からだのなかの血まで蒸発してしまっているかのようだった……》

 飼料が不足し、羊や牛などの家畜は殺すほかなく、食料となった。麦の消費は極限まで抑えられ、結果として貧しい者から死んでいった。


 ――しかたがねえ! どうしようもなかった!

 おぼろげに思い出される。魂ごと吐き出すような大声。父の怒鳴り声を聞いたような気がする。私はきっと暗い部屋に寝転がっていた。ざらついた土壁にぴったりと背中をくっつけて、目を開きながらもなにも見ず、なにも見えずに。


 ――やらなきゃ、やられてたんだ!


 家は土地持ちで裕福だった。なおかつ、私は長男だった。ふたりの弟は死んだ。顔も覚えていない。どういう死を死んだのかもわからない。悲しかった記憶もない。すべてが陽炎かげろうににじむ幻覚のようだった。いつの間にかいなくなっていた。気がつけばひとりだった。墓がなければ、弟たちはまぼろしにくすんで、そっくりいなかったことになっていただろう。


 日照りは十一ヶ月にわたった。私がはっきりと記憶しているのは、狂おしい乾きと、ひとつの奇跡のみである。


 広場の中心に三人の僧侶と、ひとりの斎戒行者さいかいぎょうじゃがいた。

 行者ぎょうじゃは教会の管理する養蜂場近くの小屋に住んでいたと思う。

 ――あの方はだから。

 大人たちは敬意と侮蔑の混淆こんこうする眼差しを向けていた。三人の僧侶はどこからやって来た何者なのか、わからなかった。

 行者ぎょうじゃは腰に布切れを巻きつけただけの姿だった。異様に浮き出た肋骨は痛ましいはずのものだったが、そのときは誰もが肋骨をあらわにしていた。皆が肉体の個性を失っていた。僧侶たちもまた痩せ細っていたはずだが、頭巾のついた僧衣にすっぽり包まれていて、よくわからなかった。

《杭にかけられた布切れみたいだったな》実在感が希薄だった。

 私たちは遠巻きにそれを見ていた。骸骨の群れが四人を取り囲んでいるようだった。誰もが骨と皮だった。私は立っていられず、地面にべったりと座りこんでいた。崩れ落ちるように、次々と座りこんでいった。私は家にいたかった。容赦のない、灼熱の陽に焼かれたくなかった。残り少ない命が溶けて泡立ち流れていくだけだった。しかし、子どもであろうと、儀式に参加しないことはゆるされなかった。私は両親に引きずられるようにして広場にやってきたのだった。

 人びとはそこにただいるだけであえいでいた。まるで空気が足りないようだった。ばさばさの乾いた舌を伸ばし、ひと呼吸ごとに終わりへ近づいていっていることを感じながら、それでも我慢強く僧侶たちを見つめていた。尻を焼く地面。熱い砂の感触。誰かが倒れる音。小さな呻き声。嘆きはひび割れた地面にぽたりと落ち、瞬時にじゅっと吸われ、名残もなく蒸散してしまう。まるでなかったことのようになる。『ああ……』そしてまた、小さな呻き声……

 斎戒行者さいかいぎょうじゃは地面に寝そべっていた。かっと目を開いて、かすれた声でなにかつぶやいているようだった。三人の僧侶も行者ぎょうじゃ跪拝きはいしながら、ぶつぶつなにか唱えていた。私にはなにをしているのか、なにをしたいのか、なにもわからなかった。気がつくと、見守る大人たちは組み合わせた手を頭上にかかげ、ぶるぶると身を震わせていた。私はそれを真似する気力もなく、ぼんやりと成り行きを眺めていた。

 文言は覚えていない。跪拝きはいしていた三人の僧侶たちが上体をがばっと起こし、絶叫した。それは短い言葉ではなかった。私はその絶叫に驚きおののいた。

《枯れ木の悲鳴のような叫び……》

 僧侶たちは命を絞りきるように叫び、ばったりと倒れた。そして、仰向けに寝そべっていた行者ぎょうじゃからだと宙に浮いた。皆が歓喜とも恐怖ともつかない金切り声をあげ、よろめく足で立ち上がった。私もまた立ち上がり、からだを宙に浮かせた行者ぎょうじゃに目が釘付けになった。宙に浮いた行者ぎょうじゃはけたたましい笑い声をあげていた。狂ったような笑いが広場の騒ぎにまじり、伝播し、ものの数分もせぬうち、そこにいる全員が笑っていた。暴力的な笑いの渦だった。

 ――浮いてる! 浮いてるよ!

 私も笑っていた。

 行者ぎょうじゃからだはするすると、天に引っ張られるように上昇し、なお力強く上昇していく。広場の白く乾いた地面に人形ひとがたの濃い影をつくる。空の黒点となって高みへと高みへと上がっていく。いつしかその点さえも熱い陽のまぶしさにまぎれこみ、見えなくなった。見えなくなると、皆の笑い声も儚く消えて、深いしじまが広場を支配する……

 死んだと思われた三人の僧侶が立ち上がり、叫んだ。

 ――下がれ! 下がるのだ! 大地に奉る! 大地に奉る!

 僧侶の叫びに村長が呼応する。皆はうろたえ、どよめく。

 ――みんな下がれ! 下がるんだ! 大地に奉る! 神の赦しをこいねがう!

 ばらばらの騒ぎ声が一色に染まっていく。

 ――タテマツル! タテマツル! ダイチニタテマツル! カミノユルシヲコイネガウ!

 私もまた叫んでいたと思う。

《わけもわからず、せきたてられるように、必死に叫んだんだ……》

 私は叫びながら上空を見つめつづけていた。そして、そのときが来た。

 ――

 誰かが大音声だいおんじょうをあげた。空にぽつんと黒い点があらわれた。その点はみるみるうちに大きくなる。私はまばたきもしなかった。広場にふたたび人形ひとがたの影がさす。宙に浮き天空へと去っていったように思われた行者ぎょうじゃが、今度は大地に吸い寄せられ、まっすぐに落下してきたのだ。《まっすぐに、まっすぐに……》

 行者ぎょうじゃは空中で手足をばたつかせもがいているようだった。獣の咆哮ほうこうめいた悲鳴が聞こえてきたと思うと、と大地を揺らした。粘っこい飛沫しぶきをわずかにあげ、広場の中心にこんもりとした赤い染みをつくった。すると、そこにいる全員が跪拝きはいし、地面に接吻せっぷんし、祈りを捧げた。私はうつけたように立ち尽くしていた。全身を硬直させ、を凝視していた。しかしすぐに――よく覚えている――父が私の腕をぐいっとつかみ、地面に引き倒した。

 ――祈るんだ! さあ、祈るんだ!

 父は怒りの形相で私の首を押さえ、無理やり地面に口づけさせた。

 雨が降ったのは、その三日後だったと思う。


 数年後のことだが、奇跡は認められ、行者ぎょうじゃは列聖された。その式は盛大に執り行なわれた。さらにその数年後、村の教会は増築され、広場の中心には銅像が立った。あの三人の僧侶たちは列福式を経て福者ふくしゃとなったようだった。秘蹟聖省ひせきせいしょうとやらの調査団が村にやって来て、大旱魃かんばつの生き残りたる我々に、あの日のことを根掘り葉掘り聞いてきた。

 ――行者ぎょうじゃ様が宙に浮いたのをこの目で見ました。天にまします主に嘆願なさり、その身を乾いた大地に捧げたのです。はるか高みへと舞い上がり、そしてわけです……

 私もまた証言した。


 人口を大きく減らした村落が以前の豊かさを取り戻すのには幾多の困難を乗り越えねばならなかった。要するに、人手がまったく足らなかった。感情的なしこりも残っていた。極限状況下、暴力や殺人もあった。

 ――殺した方だって、を恨んでんだぜ。

 父は口癖のように言っていた……

 しかし、生き延びた者たちは、死ななかった喜びを原動力に、苦しみを受け入れ、聖寵せいちょうを頂いた者同士の協力を誓い合い――教会が仲裁に力を尽くした――、労役にすすんで隷従れいじゅうしていった。私は土地に固く繋がれていた。朝から晩まで働き詰めの日々だった。


 いつのことだったろう、国に兵役を課せられた折――土地持ちの我々にとり寝耳に水の出来事だった――、私は当家の長子であることから免れた。贈賄のたぐいもあっただろう。    

 ――お前は運がよかったんだよ。

 父は言った。深い安堵の念を抱くとともに、度し難い落胆の思いを味わったことを白状しよう。大旱魃かんばつの後に生まれた、私よりも若い、少年の面影を残した自由民の子弟らが、どこか遠くの戦争へと引き立てられていくのを、私は羨ましくさえ思ったのだ。

《ここではないどこかへ行きたかったんだ。ここではないどこかへ……》

 無論、兵士となった彼らはひとり残らず死んだ。ひとりも戻らなかった。弔慰金ちょういきんも支払われなかった。

 彼らの母親たちが涙にむせぶのを見たとき、私は村を後にする青年らの背に嫉視しっしのごとき眼差しをそそいだことを恥じたが、恥の奥深くのひだに、またしても跋渉ばっしょうの欲求が見出され、ひそかに懊悩おうのうしたものだ……


 恵みの季節は長く続いた。井戸には飲み水が満ち、森の湖は澄んで美しかった。緑が溢れていた。すべてがみずみずしかった。あらゆる命に勢いがあった。村の人口は増えていった。父は世襲の村長一家が死に絶えたのを機に選挙を提案し、勝利した。私には隣村の富農の次女があてがわれた。

《『やれやれ! 会ったこともない女と結婚するのか!』我が事ながら、そう呆れたものだ》

 大盤振る舞いの宴席に村民たちは大いに喜び、乱痴気騒ぎは明け方まで続いた。

 妻となる女は小柄で、素朴で、物静かな痩せっぽちだった。私は上背こそあったが、同じく素朴で、物静かな痩せっぽちだった。私たちは偶然、気が合った。お仕着せを喜び合えた。それは私の人生の数少ない幸運のひとつだったと思う。


 大旱魃かんばつの記憶は皆から薄れていった。聖人像と碑銘に目を向ける者は誰もいない。戦争はいつの間にか終わっていた。兵役に身構えていた若者たちは安堵した。

 ――村を大きくするぞ! ひでえ時期もあったがな、これからはいいことばかりだ!

 父は村長として、人的資源の収奪に怯えずに済むようになったことを喜んだ。

 私の村と妻の生家の村を結ぶ道が整備され、その間の耕作地も増えていった。学校と病院ができた。共同の放牧地と牧草地は拡張され、粉挽き場と麺麭パン焼き場が新たに何棟も建った。都の商業組合に土地と建物を貸し、酒場や商店が開業されていった。街道沿いでは異民たちが物売りをしていた。村は町と言えるほどに栄えていった。

 私は三人の子を授かった。父からは町の運営実務の大半を任され、私の生活は多忙を極めるようになっていった。すべて、つまらないことだった。くだらないことだった。しかし、たしかな幸せでもあった。侵食なく併存する感慨に動揺することはあったが、私はどちらかを選ぶようなことはしなかった。空虚感と幸福感は和解することなく、距離をおいて睨み合っていた。私はふたつのあわいに立って、小器用に仲をとりなしていた。

 時は過ぎ行き、諦めは心によく馴染んでいった。私はいつの間にか人生の折り返し地点を通り越していた。妻はいつも穏やかに微笑していた。

《ずっと思っている。感じている。『私が若いころから旅の空を求めていることを知らぬがゆえの微笑だな。おまえはそれを知らずして、しかしそれゆえにこそ、私をここに繋ぐに足る笑みを浮かべられている』と……》


 父は二度目の旱魃かんばつを知ることなく死んだ。大半の老翁ろうおうはすでに死んでいたし、生きていても、二度目の旱魃かんばつのごく初期段階で死に絶えた。

《あの地獄の年を思い出す……》

 かつての大旱魃かんばつを経験している者は、私を含めて片手で数えるほどだった。

 これから起こることをある程度は予測できた。父のようにはなりたくなかった。


 ――殺した方だって、を恨んでんだぜ。


 私は町の長として、不足する水と食料を確保するための配給制度を提案した。各位の蓄えを共有のものとし、農奴にいたるまで死者を最小数に留めるため、平等に分配することにした。当然、町の二割弱にあたる傲慢な自由民らは反対したが、私自身が財のすべてを拠出し、言行を一致させることで説き伏せた。私に執着はなかった。結果的に――だが――暴力や殺人は回避できているように思う。


 ちょうど七ヶ月が経った。雨は一度も降っていない。


「――あなた、みなさんがいらっしゃいました」

 私は二階の窓辺に立って、熱くまぶしい空を見上げ、過去に思いを馳せていた。

「わかった」

 一階の客間には三人の僧侶と、町の有力者数名が集まっていた。皆一様に痩せ衰えている。無言だった。幽霊がひっそりと座っているようだった。すえた臭いが部屋に充満していた。私は窓を開け放ち、それから座った。

「――あのときも、御三方でしたな」

「そのように聞いております。私どもは奇跡を再現すべく参りました」

 僧侶のひとりが抑揚のない小声で言った。

「町長、問題はひとつ。嘆願者がいないんだ」

 誰かが苦しげに言った。嘆願者。つまり、天空へ昇り主にこいねがう者。そして、大地に身を捧げる者。

「あのときは、斎戒さいかい行者ぎょうじゃ様がいらっしゃったが」

 私は広場の赤黒いを思い浮かべながら言った。

「かの聖者様は、長きにわたる苦行のなか、ひたすらに滅罪生善めつざいしょうぜんを念じていらっしゃったと伝え聞いております。それに足る御仁がいらっしゃらなければ、奇跡の再現は難しいかもしれませぬ……」

 もうひとりの僧侶が、悲しげに首を振った。私は突然、抑え難い衝動に貫かれ、叫んだ。

「私がなろう! 私が嘆願したい! 私はこの町の長として、皆の命に責任がある!」

 僧侶たちは品定めするように私に目を向けた。その白けた眼差しには落胆がありありと見て取れた。私はすべてを見透かされた思いだった。私の衝動は、純粋に私のためだけの、一片ひとひらの信仰もないごく個人的な願いなのだ。

「だめだ! だめだよ! だめだ! あんた、なにを言ってるんだ! あんたがいなくなったら、この町はおかしくなる! あんたの代になって、みんな親父さんのときよりもよくなったなって言っている。おれたちもそう思ってる。あんたは高潔な人だ。平等な人だ。自分の利益よりも、公平さを重んじている。そういう裁定を何度も見てきた。今回の配給制にしてもそうだ。あんたのことをみんな尊敬してんだ。あんたがいなくなったら、おれたちはみんな自分勝手になっちまう。! あんたの気持ちは立派だが、人身御供はだめだ! それに、奥方はどうなる。ご子息たちも悲しむぞ。だめだ! 話にならんよ!」

 有力者のひとり――彼とは選挙で討論をしたこともある――がまくしたてた。

《やはりこうなるのか……》

 私は立ち上がり、窓の外を、空を見上げた。涙を見せたくなかった。私は痩せ細りながらも、自分のからだがずっしりと重くなったように感じた。

「……実は、おれに人選の案がある。それをあんたらと御坊様方に伝えたいと思う」

 もうひとりの、私と同じく先の大干魃かんばつを経験し、あの雨乞いの儀式に立ち会った男――私の数少ない友人のひとりと言えよう――がつぶやいた。全員が彼に注目した。

「――アレッタだ。南の放牧地の家畜小屋に住まわせている『永遠なる童女』。神様から智慧ちえこそ授からなんだが、だからこそ皆に愛され、守られ、町ぐるみで養っている……いわばともいえるあの憐れな乙女であれば、信仰の道におったわけではなくとも、きっと神様は受け入れてくださるはずだろうと思うんだ……」


 長男の肩をつかみながら、ふらつく足で広場へ向かった。

「お父さん、大丈夫ですか……」

 気遣きづかわしげな面持ちで問われた。私はうなずきを返した。妻と息子たち全員が、下降しつづける私の体調を案じていた。私たち家族のまわりの人びとも、心配そうに私を見つめていた。

 私は自分の根源的な欲求を衝動的に吐き出したあの日以来、どうにもからだが重かった。そして、からだを働かせるための魂は、もううに半分もなく熱い大気にまぎれ散ってしまったかのように感じられた。

 広場の中心に三人の僧侶と『永遠なる童女』がいた。聖人像の近くだった。アレッタは三週間ほど、三人の僧侶と家畜小屋で過ごした。僧侶たちは智慧ちえなき乙女に説法しつづけたようだった。町の人びとはアレッタに水と食料を振る舞った。信心深い者たちは、アレッタが嘆願者となることを知ると、毎日家畜小屋までおもむき、しめやかに祈りを捧げた。そこで命を終わらす者もあった。もうすぐ八ヶ月になる。私にとっては懐かしい渇きだった。

 私はアレッタに嫉妬していたと思う。皆が彼女を祭る。

《それは罪悪感の賜物たまものだろう?》

 心のなかで毒づいた。物狂いのアレッタは生贄羊いけにえひつじでしかない。儀式が失敗すれば、殺されるかもしれない。私はそれを止めることになるだろう。私は失敗を望んでいるのかもしれない。そのとき、私はふたたび名乗りを上げるに違いない……

 三人の僧侶たちがアレッタに跪拝きはいする。ぶつぶつなにか唱えはじめた。アレッタは白い聖餐布せいさんふの上に仰向けに寝そべり微笑んでいた。

《あのときは行者ぎょうじゃが目を大きく見開いて、なにかつぶやいていたがな》

 四人を取り囲む人びとは、先の大旱魃かんばつのときほどには疲弊していないように思われた。灼熱の陽にさらされ、骨と皮の人びとは幽鬼のごとくではあったが、地に崩れ落ちる者はなかった。膝をついて祈りを捧げている者は数多く認められるが、その思念は生命力になお強く結ばれているように感じられる。かつてよりはずっとな状況だろう。ただ、以前を体験していない者たちにとっては耐え難い苦艱くかんに感ぜられよう。


 そのときが来た。


 跪拝きはいしていた三人の僧侶たちが上体をがばっと起こし、声を張った。古代語の長い文句だった。

《文言を一欠片ひとかけらも覚えていなかったのは、そういうことだったのか》

 僧侶たちは詠唱を終えると、ふたたびアレッタに跪拝きはいした。そして、仰向けに寝そべっていたアレッタのからだと宙に浮いた。

《ああ……ああ! 成功してしまうのか! アレッタよ! 私はお前が羨ましい!》

 人びとの驚喜の声が広場を埋め尽くす。皆が僧侶たちと同じように跪拝きはいする。私は息子たちに支えられ、棒立ちのまま見つめた。宙に浮き上がり、高みへと高みへと浮き上がる『永遠なる童女』を見つめた。アレッタはほがらかな笑い声をあげ、浮遊の体感を喜んでいる。その智慧ちえなき歓喜の発露は、この世のすべての苦しみから無関係な者のそれだった。私には聴こえた。大地と命を繋ぐ真っ赤な血の鎖がパキンと音を立ててちぎれるのを聴いた。私には見えた。私には見える。自分と大地を繋ぐ鎖が見える。大蛇のようにとぐろまく、錆だらけの、太く赤黒い鎖が……!

 アレッタはするすると、自らの意思で飛んでいるかのように、羽ばたくように腕を振るい、ぐんぐん力強く上昇していく。笑い声はもはや遠い。広場にさしたアレッタの揺れ動く影はぼんやりとしている。アレッタは空の点となり、なお高く上がっていく――

《あのときと一緒だ……》

 いつしかアレッタは熱い陽のまぶしさにまぎれこみ、見えなくなった。見えなくなっても、人びとの祈りは終わらず、念ずる声が広場に満ちていた。

 三人の僧侶が立ち上がり、叫んだ。

「お下がりくだされ! 大地に奉る!」

 私は広場の中心へ、息子たちに介助されながら歩み寄り、声を張った。

「皆の衆! 下がりなさい! 大地に奉る! 神の赦しをこいねがう!」

 これから起こることを思い、私は胸が苦しくなった。アレッタは大地に赤い染みをつくり、清らかなる魂をそそぐ。命と引換えに恵みをもたらす。

《残酷なる神よ。ふたたび地に落とすこともあるまいに》

 それでも私は、あらゆる重みから解放されたアレッタの飛翔に魅せられ、それが自分ではなかったことを呪わしく思った。

《もうじきだ。もうじき、。もうじき……》

 かつては十分もせぬうちに落下してきたはずだった。しかし、アレッタはいつまで経っても落ちてこない。いつしか祈りの声は消え、戸惑いの沈黙が広場を支配していた。僧侶たちは動揺しているようだった。彼らも以前の記録をたよりに念じたはずだった。僧侶のひとりが私に歩み寄ってきた。

「かつてはいかように――」

 そのとき、ぽたりと雫が一滴、地面に落ちた。それは小さな泥になって、すぐに乾く。しかしまた一滴、ぽたりと落ちる。空を見上げる。雲はない。しかし、それは雨だった。雲ひとつないまぶしい、熱い空から、ぽつりぽつりとぬるい雫が落ち、それはいつしか本格的な雨となった。

 人びとは歓喜の声をあげ、だれもが涙を流し、近くの人びとと抱き合った。僧侶たちはその場にひざまずき、やはり涙を流しなら神に祈りを捧げた。遠くに虹が見えた。降雨は広域に及んでいるようだった。息子たちと妻も泣いていた。疑いようもなく、奇跡は成された。

《アレッタよ……。ひきちぎれたお前の鎖はか細く、たよりなかった。アレッタよ、『永遠なる童女』よ、智慧ちえを失わなければ救いはないのか? 似せて造られた我々は、なぜこれほどまでに固く地に繋がれているのか……教えてくれ!》

 逃れるように介助の手をほどき、私はがっくりと地に伏した。そこにいる誰の涙とも異なるであろう涙がぽたぽたと地面に落ちる。それは奇跡の雨と混じり合い、大地に吸われ、わからなくなった。私は濡れた土に額を押しつけ、子どものように泣きつづけた。



(了)

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血の鎖 鈴木彼方 @suzuki_kanata

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