30 月時雨が降る夜は
「バンちゃん、コーヒー淹れて――テレビの時間だよ」
コーヒーを運んでいるとき正午の時報が鳴って、テレビではワイドショーが始まった。
「先日、八王子で正体不明の液剤が
幾つめかの話題だった。
「意識不明だった七人が今日の明け方ごろ、次々と目を覚ましたという事です。七人とも健康状態に問題はありませんが、意識をなくす直前の出来事を全く覚えていないそうです。引き続き、液剤の出どころを捜査していく模様です。なお、液剤が散布された地域の立ち入り禁止処置は本日零時をもって解除されました。危険はないと判断されたためです」
「わぃ! 奏ちゃん、今夜からラーメン作れるね」
隼人が無責任に喜んだ。ここでパネラーが
「聞こえたのかな?」
聞こえてないよ隼人、ただの偶然、タイミングが良すぎたね。
「それにしても、意識不明の間、被害者の皆さん、たっぷりの愛情に包まれている夢を見ていたと言っているのが面白いですね。しかし八王子は最近、不思議だらけですなぁ」
と今度は難しい顔を作ってパネラーが続ける。
そういえば、大男が国道を駆け抜けた話や、大量のハヤブサの羽根の話はどうなったのか。きっとこのまま忘れさられると僕は思った。そしていつか、八王子の七不思議のひとつとでも言われるんだろう。
「
パネラーがそう言って、話題は次へと移っていった。
夢はきっと久喜里の
「武者さんたちの魂に触れた七人、さっさと気絶させといて良かったんだよね。でなきゃ可哀そうなことになってた。精神崩壊しちゃうよ――でも、
と隼人、いつの間に持ってきたのか、一人だけケーキを食べている。
「隼人、そのケーキは?」
「朝、買ってきたじゃん。自分の分は確保しといたの。寝ているうちにみんなが食べちゃうかなって思って――バンちゃん、はい、お口開けて。一口どうぞ」
え? え? え? 朔がニヤニヤ笑い、満が怖い顔しているよ? でも、これ、拒否ったら、隼人がもっと怖いよね。
恥ずかしいのを我慢して、隼人のケーキをパクリと食べる。隼人、満足そうにニッコリ笑った。つられてつい僕も笑顔を隼人に向けてしまい、周囲の視線に顔を熱くする。まぁ、今更か、今に始まったことじゃない。
「バンちゃんが
ケーキを自分の口に運んで隼人が言う。僕たちはそれぞれに安心し、そして聞こえないフリをした。僕らが何か聞いても隼人は『なんの話?』と、きっと
「久喜里ちゃんはね――」
ケーキを食べ終え、コーヒーを
「随分前から気が付いていたんだ……本松ダムが作られ、大松湖ができた時、つまり最初から知っていた」
人間たちはダム建設にあたり大松湖に水力発電に必要な貯水量を求めた。多々井湖との位置、地形を考えれば大松湖の場所は最適だった。
だが必要な貯水量をためるにはそのままの地形ではダムを造っても足りない。そこで人間は、ダム予定地の脇の山を削ることにした。その山があの神不在の
「あの祠はね、もともとの山頂で湖の中、ボクが花束を投げたところにあったんだ」
そうか隼人、ウジャトの目を使って土地に残された記憶を読み、以前の祠を確認したんだね。
「
勝手に祠を移されて、恋しい夫とはアスファルトで舗装された道路が横たわって邪魔をする。いくら神事で鎮められても
「だから小母妻ちゃんは新しい祠になんか移らなかった。人間なんかに振り回されるものかと思った。小母妻ちゃんの意地だったんだ。だけどね――」
水底に沈むのは覚悟のうえだ。だけどまさかその水が、自分から夫を奪う原因を作った憎き
「辱めを受けたと小母妻ちゃんは感じた。辱められた龍神が己を存続させていられるはずもない。小母妻ちゃんは己を消滅させるしかなかった」
それであの祠は神不在だった……満がぽつりと
「久喜里ちゃんはね、全部、見ていた。でも、妻が消滅したなんて認めるモンかと思ったんだ」
「だから小母妻ちゃんが消滅して何年もたつけれど大松川は存続している。大松川は本当に規模の小さな川だから、久喜里にとって造作もないことだった」
「それで久喜里はこれからどうするつもり?」
満の問いに、
「あの山に、今まで通り籠るって。でも、もう湖には関わらない。苦霧川と大松川、二つの川を守って静かに時を経ていくって、そう言ってたよ」
隼人は遠い目をして答えた。
それにしても相撲は、自分の流域の多々井湖に水没した魂をライバル久喜里が抱き取ったことをどう受け取っていたんだろう? そう考えて僕は、あっと気が付く。相撲はとっくに消滅しているのかもしれない。ダムができたことで、自分は役目を終えたと龍神が感じても無理もない――
珠ちゃんが言っていた隣の山は夫龍籠山、つまり久喜里が籠る山で、水枯れの原因は久喜里がトプトプちゃんを発生させるのに使うため水の供給をストップし、元に戻すのを忘れてしまったってことだと隼人が言った。もう二度と水枯れは起きないだろう。
それにしても久喜里、隼人と同じで忘れっぽい。そのうち自分が眠っていることも忘れちゃうんじゃないんだろうか? 案外、神なんて存在はそれくらいでいいのかもしれない。
話は終わった――ラーメンの仕込みに帰るよ、と奏さんが慌てて店に戻る。店は開けないが僕たちのためだけに用意すると言っていた。今からじゃ、それが精いっぱいらしい。
朔と満は『家の様子が気になるから一度 帰るよ、
「わぁ、今日のお姉さん、びっじぃ~ん」
テレビでは天気予報が始まったようだ。
『今夜の八王子、おおむね晴れますが、所により通り雨が降るでしょう』
お姉さんはにこやかにそう言った。
深夜、隼人にせっつかれて美都麵に行く。見あげると、かなり太った半月が空を
「奏ちゃん、ボク、ラーメン、チャーシュー倍量!」
はいよっ! と、奏さんの明るい声が響く。そこへ朔と満がやってくる。
「雨が降ってきた――奏さん、タオル貸して」
奏さんが満にタオルを放ってあげる。入り口では格子戸を開けたまま、朔が空を見上げている。
「月が出ている……
すると隼人が言った。
「でも、もう誰も泣いてない。ただの月時雨だよ」
奏さんが隼人の前にドンブリを置く。ピヨッと隼人は一声鳴いて、嬉しそうにラーメンを食べ始めた。
< 完 >
月時雨(つきしぐれ)が降る夜は きっと誰かが泣いている 寄賀あける @akeru_yoga
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