29  神でいること

 風雨も地揺れもそれ以上は強くなることはなかった。それどころかどんどん弱まっていくばかりだ。霧雨になるころには地揺れも収まった。けれど立ち込めたもやが晴れることはなかった。


 僕たちはじっとりと濡れて、隼人はやとは髪からしずくしたたらせている。それを気にすることなく、じっとほこらを見つめている。そして再び祠に手を伸ばした。


 今度は弾かれることなく、祠の屋根に触れる。何かを考えるように目を閉じた隼人、そのまま何度かうなずいた。きっと久喜里くきりと二人だけで対話しているんだ。


「判った……ゆっくりお休み」

隼人が静かにそう言って、祠から手を放す。そして祠の扉を閉めた。急激に靄が消えていき、久喜里が眠りについたと僕にさえ判った。


 車に戻るとさくみちるが心配顔で外に出て待っていた。

「三人とも、早く拭いて」

満が慌てて車の中からタオルを出してくる。


「この山にだけもやがかかって、上のほうは何も見えなくなった――上で何が起きたんだ?」

朔の問い掛けに隼人が、

「まずは朝ごはん食べよう。おなかペコペコ」

と、泣きそうな声で言った。


 出かける前に用意した食事を『食べたくないの』と隼人は食べなかった。いつでも腹ペコの隼人、よっぽど緊張していたんだろう。


 奏さんが、

「うん、コンビニ寄って、デザートも買って、それから帰ろうな」

複雑な笑いとともにそう言った。


 買い物に行ったのは朔と満だった。隼人が僕の腕にしがみ付いたまま離さなかったからだ。それに腹ペコのはずなのに『帰ってから食べる』と言って、隼人はすぐに奏さんに車を出させた。


 様子が大幅にいつもと違う隼人に朔と満は戸惑って、何を買ったらいいか判らなかったようだ。サンドイッチにおにぎり、蕎麦やパスタ、プリンにゼリーやヨーグルトと、さらにケーキまで買ってきた。きっとカゴいっぱいに手当たり次第に入れたんだろう。


 事務所に帰ると隼人は、なぜかストローをヨーグルトに挿すとズーズー音を立てて、続けて三個食べた。なんでズーズー音が好きなんだろう……


 そのうえ、ヨーグルトを食べただけで、

「ボク、眠いの。だからボク、寝るから」

と部屋に行ってしまう。


「おい、隼人、話は?」

引き留める朔をそうさんがなだめる。

「寝かせてやれ、疲れたんだろう――起きればきっと話し始めるさ」


 みんなまともに寝ていない。僕たちも再び寝ることにした。結局、飲み物を摂っただけで僕たちも何も食べなかった。時刻は八時過ぎ、どうせ隼人は昼まできっと起きてこない――


 予測に反して僕たちは十時に起こされる。正確には強引な来客に叩き起こされることになる。


「珠ちゃん!」

起こされて滅茶苦茶不機嫌だった隼人が、来客を知って途端にご機嫌に変わる。

隼人はニャとぉ~」


 珠ちゃんが隼人に擦り擦りし、隼人が珠ちゃんを撫で撫でしているうちに僕は、隼人にはカフェオレ、珠ちゃんにはミルクを用意した。リビングのテーブルにおいてあげると、

「バンちゃん、今日は気が利くねぇ」

と隼人がソファーに座り、

「今日は気が利くニャー、血吸い人」

と珠ちゃんも隼人の対面に座る。『血吸い人?』と朔と満がダイニングで声を潜めて笑った。


隼人はニャと、今日はお礼参れいミャいりに来たニャ」

「ボク、珠ちゃんに仕返しされるようなこと、何かしたっけ?」


隼人はニャとは何もしていニャい。珠ニャンがしたニャ」

「珠ちゃん、なにしたの」


「願掛けしたニャ」


「へー、初耳」

「ニャに! 血吸い人! 隼人はニャとに伝えてニャいニョかっ!?」

いきなり珠ちゃん、可愛い子猫モードから、おっそろしい化け猫モードに変わる。そして爪をむき出して、ひょいと掲げた両前足を僕に向けた。


 僕はちゃんと伝えたよ。ニワトリ頭が忘れただけだってばっ! 弁解する暇もない。


「珠ちゃん、バンちゃんいじめちゃダメ」

「あ、そうだニャ、血吸い人を虐めていいのは隼人はニャとだけだったニャ」

隼人の一声で、瞬時に元の子猫モードに戻った。


 あの前足で相手を自在に操るらしいが、吸血鬼の僕にも効くのかは不明。本気で掛かってくれば僕だって自衛する。猫又と吸血鬼、どっちが強いかちょっとやってみたい気もしないでもない。


「ンで、願掛けは叶ったんでしょ?」

カフェオレをすすりながら隼人が言う。


「そうニャ、隣の山に水が戻ったニャ――ちょっと不思議だったがニャ。今朝、その山にだけ雨が降ったのニャ。そしたら干上がってた隠れ泉が滾々こんこんと湧いてきて、水で満たされたそうニャ。どーせ隼人はニャとがニャんかしたのニャ」

そう言って珠ちゃんが立ち上がる。見るとミルクを飲み干している。


「ニャ、帰るニャ。あ、そうニャ、忘れるとこニャッた。お礼をコンビニで買ってきたニャ」

と、ポケットをガサゴソした珠ちゃん、取り出したのはヨーグルトが一つ。


「それじゃ、またニャ、隼人はニャとに血吸い人――奏ニャン、今日のお土産はニャンだ?」

珠ちゃんの関心は、毎度奏さんが用意してくれるお土産に移っている。奏さんがいるダイニングにサッサと行ってしまった。そして隼人は珠ちゃんがくれたヨーグルトを嫌そうな顔で眺めている。ポケットの中で蓋が潰れ、飛び出した中身でベチャベチャだ。


「じゃあニャ、人狼のにぃニャんとねぇニャん」

コンビニ袋をガサガサさせて珠ちゃんは帰っていった。奏さんは、朝、買ってきて食べなかった残りを珠ちゃんに持たせたようだ。


 あんなにコンビニで買いこんだのに隼人がヨーグルトを食べただけ、なんだか気分じゃなかった僕たちも何も食べずに寝てしまった。珠ちゃんはきっと大喜びだろう。


 隼人が『おなかすいた』と言い出す前に、奏さんがダイニングから僕たちを呼ぶ。

「隼人、バン、飯食えや」

「わぁーい、奏さん気が利くねぇ――バンちゃんたらね、ボクに朝ご飯、くれなかったの」

勝手に食べずに寝ただけじゃん。ダイニングでは朔と満が一足先に食べ始めていた。


 ダイコンとアゲのお味噌汁、焼鮭、きんぴらごぼう、甘い出汁巻き卵、レタスときゅうりとトマトのサラダ、隼人と珠ちゃんが話している間に奏さんが用意してくれたメニューだ。鮭は隼人の分だけ身を解して骨を取り除いてある。


「和食って美味しいよね」

白飯を頬張りながら隼人が言う。

「これだけでも日本に住んでる価値があるよね。でも、中華もイタリアンもいいね。アメリカンってなんだったっけ?」

うん、隼人? まさか日本を出る気になった? 同じ疑問を朔も感じたようだ。

「隼人、日本を出るのか?」

朔の言葉に満が怯えた目で隼人を見る。


 僕たちに戸籍なんかない。奏さんだけはなんらかの手段を使って隼人が戸籍を手に入れた。だから奏さんは免許もあれば店も車も持てる。その戸籍も何年かおきにまた別の物に隼人が替えている。僕たちの寿命に対応できる戸籍なんかない。


 隼人は時どき、日本を出て別の国で暮らす。ハヤブサの分布は極地を除く世界全域と隼人が笑う。だけどその時、朔と満は置いて行かれる。日本でお留守番だ。いや、隼人の本拠地はエジプトなのだから、お留守番は奇怪おかしいか?


 僕はハツカネズミやリスになり衣類を詰めたバッグに忍んで、ハヤブサになった隼人が運ぶ。食料はいくらでも調達できるのだから、水さえどうにかできれば結構面白い旅だった。無人島で探せば泉が必ずどこかにある。なくても生えている植物から水分を貰えた。近頃は未開の地なんかグッと減っただろうから、以前より旅路はきついかもしれない。


 満はいつも泣いて隼人を引き留めた。だけど隼人はハヤブサ――ペレグリン、漂流する者だ。結局諦めて日本で待っている。


 ずずずーーっと味噌汁を啜って、隼人が言った。

「ん? 疲れちゃったから暫く日本にいるよ。日本ほど、異国の神に甘い場所はないもんね」

ホッとする満をチラリとみて隼人が続けた。

「でも……神でいるのにも疲れちゃった」


 隼人、おまえ、神でなくなるって、それはつまり消滅を意味するぞ?

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