彷徨う子供たち

月代零

第1話

 壁を一枚隔てた向こうから、怒声が聞こえる。くぐもって何を言っているかはわからないが、罵りや嘲りであることは確かだ。


「……お隣はまた夫婦喧嘩かしら? 多いわよねえ」


 母親の優子が夕食後のお茶をすすりながら言うが、多分これはそんな生易しいものではない。モラハラとかDVとか、そういうやつだ。


「警察に通報したりしたら、なんとかならねえ?」


 はじめはそう言ってみたが、


「ええー……。でも、ただの喧嘩で警察沙汰にして、うちが通報したって思われて関

係が悪くなったら、嫌じゃない」


 まあ、その言い分もわかるが。何もできない自分が、歯がゆい。


 マンションの隣に住んでいるのは、同じクラスの青島ゆかり。

 今年の4月から同じクラスになったが、少し前にたまたま玄関先で出くわして、お隣さんだということが発覚した。

 彼女はクラスに馴染めないのか、いつも一人でいた。休み時間は自分の席で本を読んだり、ぼんやり外を眺めたりしている。

 はじめの中学校進学と同時にこのマンションに越してきてから、1年余り。当初から、隣からは男の怒鳴り声がちょくちょく聞こえてきた。その声が聞こえた次の日、ゆかりの表情はいつもより沈んでいる。

 

 何か困っているなら話を聞こうか?

 

 そう声をかけてみようかと思うこともあるが、あいさつくらいしか交わしたことがないのに、踏み込むのは憚られる。結果、気掛かりではあるが何もできずに、はじめはゆかりのことをただ目で追っていた。


 そんな、ある休日の昼間。

 はじめが自分の部屋のベッドに寝転んで漫画を読んでいると、隣家とを隔てる壁に、蹴られるか殴られるかしたような、どん、という衝撃が走った。

 思わず飛び上がって、ベランダに出てそっと隣を伺った。だが、あまり身を乗り出して覗いているのがバレてはまずい。なので中の様子を確認することはできないが、男――ゆかりの父親がひどい怒鳴り声を上げているのは確かだった。理性を失った人間の怒鳴り声というのは、猛獣の咆哮のように恐ろしい。

 これは尋常ではない。こんな父親の元で、ゆかりはどんな思いで暮らしているのだろう。

 身動きできずにしばらくベランダに佇んでいると、マンションの駐車場を、ゆかりが逃げるように駆けていくのが見えた。

 空は今にも降り出しそうなほど暗い。はじめは傘を掴むと、ゆかりの後を追った。

 

 しばらく走って息を切らせたゆかりは、どこへ向かうでもなくとぼとぼと歩いていた。

 どうしてうちはこうなのだろう。

 いつも不機嫌そうにして、不意に爆発する父親と、それに委縮する母親。

 結婚しなければよかった。仕事を辞めなければ、子供を産まなければ。

 母を慰めなければと思う一方、繰り返される後悔の言葉に、自分の存在を否定されている気がして、ゆかりの心は傷ついていた。

 いつの間にか、雨が降っていた。けれど、雨宿りをしようという気力もわかなかった。このまま雨に打たれていれば、溶けて消えてしまえるだろうか。

 ふと、視界の隅に四角いものが映った。それは、道端のごみ捨て場に捨て置かれた段ボールの箱だった。気になって中を覗くと、子猫が中でもそもそと動いていた。


「君も、居場所がないの……?」


 ゆかりはかがみこんで、子猫を抱き上げた。

 雨は降る。遮るもののない彼女と猫に、それは容赦なく降り注いだ。服も髪も、あっという間に濡れて、肌に張り付く。

 寒い季節は過ぎたが、全身びしょぬれだとさすがに冷える。ぶるっと身を震わせた時、不意に雨が止んだ。――否、傘が差しかけられていた。


「……風邪引くぞ?」


 彼は、同じクラスでマンションの隣に住む、菅原はじめ君、だっけ? 顔はいいけどぶっきらぼうで、少し取っつきにくい感じがしていた。


「……何でいるの?」


 見上げたまま問いかけると、


「いや、ちょっと気になったから……」


 彼は目を逸らしながら言う。そして、ゆかりの手の中の子猫に気付いて、


「捨て猫?」


 ゆかりの方に傘を傾けて、傍らにかがみ込む。


「そうみたい……」


 どうしよう。マンションはペット禁止だ。飼えたとしても、ゆかりの家では無理だろう。あんな環境では、猫が怯えてしまう。残酷だけど、見なかったことにするしかないのか。

 そう思って猫を段ボールに戻そうとすると、


「飼ってくれる人、探すぞ」


 はじめがそう言った。戸惑いながら彼に目を向けると、


「俺も責任持って探すから。一緒に頑張ろう?」


 はじめは真剣な目をしていた。一時の気休めではなさそうだ。


「とりあえず、帰ろうぜ」


 その言葉にゆかりは頷いて、猫を抱いたまま立ち上がった。

 雨は上がって、雲間から光が差そうとしていた。


                                   了

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