番外編

プロローグ「カラーボーイ」関西弁ver

 勢いで読んで。


 ◆


 瀬川飛鳥せがわあすかには、忘れられへんことがある。

 10年前の、7歳ん時の記憶や。


 小学校がやっと夏休みに入ったばっかの頃。おかんにどやされる前に自由研究を済ませてしまおと行った図書館からの帰り道やった。


 飛鳥は覚えとった。

 そん時の空が、けったいな色しとったことを。


 急にぞわーって寒気がして、飛鳥は角を曲がったところで走り出した。

 ぱたぱたっと、靴底の音が静かな道に消える。手提げかばんに入れた本が大きく揺れよる。

 早よ、はよ。

 焦る気持ちに足がついて行けへん。足元がもつれてザーッて前に転んで、手のひらと膝を擦った。その内になんやじんじんしてきた。

 鼻の奥がつん、とした。でも泣いたらあかんから、唇をきつく結ぶ。


 ふと、自分の身体に影がかかった。


「どうしたん、コケたんか?」


 飛鳥が見上げると、そこには歳食ったくいだおれ太郎みたいなオッサンがおった。オッサンは膝に手をついて、飛鳥を見て、何がおもろいんか分からんけど笑う。

 ゆっくり頷くと、オッサンは手を差し出した。


「えらい痛そやなー。おっちゃん、ちょうどバンドエイド持ってんねん。車の中にあるからい」


 オッサンの後ろにボロいワゴン車が停まっとった。

 飛鳥はオッサンの手を取った。分厚い肉とかさついた肌の手は、思ってたよりずっとキショかった。


 そこでやっと、飛鳥は、このオッサンに「ついてったらアカン」と気付いた。


「あ、あの……僕、いらないです。バンドエイドなくても、帰れます」


 さぶいぼがえぐくなった。嫌な汗が流れて、シャツが背中にひっつく。

 飛鳥はもうオッサンの手を握ってへんかったけど、オッサンは飛鳥の手をしっかりと掴んだまんまで離そうとせんかった。

 こういうときは、ワーッて大声上げて助けを呼ぶか、防犯ブザーをガッって引っ張って鳴らさな。

 それから、それから。

 おかんが言っとったことが頭の中を流れていくけど、喉も、手も、足も動かん。


「いや……や……おいっ、手ぇ離せやぼけ!」


 飛鳥はぬるい空気が充満する車内に押し込まれた。薄暗くて狭い空間に、体の底が冷たくなって、目の前が真っ暗になるような感覚がした。

 それでもどーにか抵抗しようとする飛鳥に、ひやこいなんかが触れる。麺哲の細麺より細いなんかが肌を這っとる。

 オッサンの手のひらから中指を伝うようにして生えた紐は、飛鳥の細い腕に巻き付いて、そのまま首を捕らえて、ぎゅっと締め上げた。 

 小学生の力では、もう抵抗でけへんかった。


 息が浅くなっていく。視界が端のほうからじわじわと、真っ暗に侵されていく。

 たぶん、淀川に沈んでいく時もこんな感じやろな。


 けど次の瞬間、光が闇を裂いた。


 締め上げる力が突然になくなって、かと思えば、自分をえげつなく締め付けていた紐まで消えた。

 驚いてドアの方を見ると、そこにオッサンはおらんかった。代わりに、車体の横から、からから車輪が回る音が近づいてきて、ドアの前で止まった。

 あか色。

 車椅子に乗ったシュッとした感じの兄ちゃんが、片手にあかい炎を燃やしよる。


「もう大丈夫や」


 ちらっと飛鳥に視線を投げ、優しく笑って、そう、言った気がする。

 

「今すぐここからしっぽ巻いて逃げるか、それとも今度は『これ』で奥歯まで顔面しばかれるか。選べや」


 炎がバッて大きくなって、ワッて揺れてバチバチ弾ける。

 兄ちゃんは、オッサンから飛鳥を守るように、ワゴン車のドアの前に立ちはだかった。

 飛鳥が見えるのは兄ちゃんの背中だけで、兄ちゃんがどんな表情かおしとんのかは分からん。けど、飛鳥を襲おうとしたオッサンの顔が悔しそうに歪み、淀川に落とされてふやけたくいだおれ太郎みたいになったんは見えた。

 オッサンはキショい呻き声をあげて、両眼を見開いて、体を震わす。そんで、兄ちゃん――ちゃう、その背後の飛鳥に向かって紐を伸ばした。


「……アホやな」


 炎が甲高く鳴いて、ブワァッて舞い上がる。兄ちゃんのてぇの上で、あかい火の鳥が、グリコ看板みたいに翼を広げた、ように見えた。


「歯ァ食いしばれ――ッ!」


 羽ばたく炎で大気が焦げる。兄ちゃんは再び、オッサンの紐を一瞬で焼き払った。


 炎はすぐに収束した。たぶんオッサンが逃げたから。オッサンはいつの間にか消えとった。

 来いや、と兄ちゃん。飛鳥は兄ちゃんの手を握り、ワゴン車から降りた。温かい手に、飛鳥の緊張は簡単に解けた。


「怪我しとる……アイツにやられたんか?」

「違う。これは、自分でコケたんや」

「ん、そうか。でも、お前すごいなぁ。よお泣かんかったな」


 立派やでほんま、と空いている方の手で頭をわしゃわしゃ撫でられる。

 すると、飛鳥の目からついに涙が溢れ出した。兄ちゃんは何がおもろいんか分からんけど、笑いながら、高そうなハンカチで涙を拭いてくれた。


「怖かったやろ」


 兄ちゃんは飛鳥の手を引いて、家まで送り届けた。2人並んでゆっくり帰りながら、飛鳥は兄ちゃんに尋ねた。


「兄ちゃん、一体何もんなん?」

「普通の西の高校生や」

「……名前は?」

「いやあ、それは言われへんな」


 飛鳥が不思議そうに目を瞬かせると、彼はにっと口角を上げた。


「『ヒーロー』は、名乗らんのがイカしてるんや」


 ヒーロー。

 その言葉が、飛鳥の見る景色といっしょに強く脳に焼きつけられた。

 あかい髪、あかい瞳の、車椅子に乗ったヒーロー。


 お礼は出世払いでええからなー、と兄ちゃんは手を離した。そこは飛鳥の家の前だった。兄ちゃんは手をひらひらと振ってすぐどこへ行ってしまって、飛鳥はお礼を言えんかった。


 でもやっぱり、助けてくれてありがとう、と伝えたかった。

 そういえば、あの日の空はあかかったなあ、とふと思い出す。


 瀬川飛鳥の記憶には、今でも、あの『あか』が映っている。

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