1-9
海黒が放った弾幕を青太は再び、波で迎撃する。水が弾けてそのすべてを相殺するが、《COLOR》の反動で動きが鈍った青太に向かって、背後の男がナイフを振り下ろした。
「……ッ!」
今度は飛鳥が青太の腕を引いて、ナイフの軌道下から青太を逃がす。
「だめだ水島、
とにかく、海黒の《COLOR》が危険だった。彼女の視界全域が射程圏内なのだとしたら、一番は彼女の視界から外れること。ナイフの男は、距離をとってしまえば脅威ではない。
2人は再び横道に逃れる。飛鳥はもう、自分たちがどこを走っているのか分からなかった。ただ目的としてた市道からも、大通りからも遠ざかっているのは確実だ。
警察を呼ぶべきだ、と飛鳥はズボンのポケットに手をかけた。
本当は最初からそうすべきだった。ただ警察を呼べば、どうして深夜にこんな場所にいたのか、警察官である白鳥に問い
心配なの、と言ってくれた優しい姉を裏切ったことは、絶対に知られたくない。
それでも、自分たちの身を守るためには、そんなことは言っていられなかった。
飛鳥はスマホを取り出すと、ダイヤルキーをタップした。
だが一瞬、手の甲に激痛が走り飛鳥は端末を取り落とした。
青太は飛鳥が小さな呻き声をあげたのを聞き漏らさなかった。振り返って、飛鳥の痛みのない方の手を掴む。
飛鳥はすぐにスマホを拾い上げて、青太に引っ張られるままついていく。スマホは落下の衝撃で電源が落ちて、液晶が少しひび割れていた。
走り出してすぐに、また背後から弾丸。海黒が逃がすまいと追ってくる。
もう
と、そこで2人の足が止まった。
「……行き止まりだ」
飛鳥は歯噛みした。空き店舗に挟まれた細い路地の先は、室外機の配管が這っているだけの壁だった。
ドクドク、と心臓が切迫する音で高鳴る。自分が焦らず、記憶していたマップを脳内でちゃんと追っていればこんなミスはしなかったかもしれない。
「あーあ、なにしてるんですか」
後ろから飛んできた鉄塊が先の壁に跳弾して、高音を伴って弾けて、粒子になる。
振り向くと、海黒が銃の狙いを定めるように左手の人差し指を伸ばし、右手を添えてこちらに向けていた。
彼女がその気になれば間違いなく、大怪我、どころでは済まない。
「ねえ、青太さん」
海黒が浅い呼吸とともに、小さく囁く。
暗闇の中、彼女は少女の形をした黒い塊のように見えて、表情は一つとして読み取れない。それでも、火に燃される鉄みたいに灼熱を帯びた目がやはり、ギラギラと光っているのは分かった。
「……お兄ちゃんがね、青太さんを心配して会いたがってるんですよ。だから私と一緒に来てほしいんです」
「絶ッ対にいやだ」
「また、そうやって逃げるんだ」
苦しそうに答えた青太に対し、短い冷笑。
「アナタってずっと逃げてばっかですよねェ! 中学の時も、自分の《COLOR》と向き合うことから逃げた! だから今も、自分の《COLOR》が怖いんでしょ! 結局アナタは高校に入っても、何にも変わってないんですよ」
飛鳥には、海黒が何を言っているのか分からなかった。分からないが、察しはついた。
さっき二人きりのときに、青太が飛鳥に打ち明けたこと。
自分が
きっと青太は、《COLOR》が発現した中学生の時からずっとそんな恐怖心を抱えていた。それを忘れようと、自分を
「お兄ちゃんだったら、その不安も恐怖も治してあげられる。悪いことなんてないじゃないですか」
「嫌だ。俺はもうあの人には会わない、会いたくない」
「そう、だったら。アナタはきっとまたダメになる。中学の時みたいにまた学校にも行けなくなるんだ!」
海黒の掠れた嘲笑に、青太は何も答えなかった。
しかし飛鳥は、彼の頬の奥から、ぎり、と奥歯を噛み締める嫌な音を聞いた。
青太は迷いなく、海黒に手のひらを向けた。青太の手の中で、大きな青い塊が急速に形作られていく。
波立ち、うねり、太い一柱になり──彼女の体を穿つように、弧状の水流が放たれた。
水流が彼女の間近に届き、派手な音を立てて弾けるのに一瞬もなかった。
青い彩光を散らしながら水の破片が飛ぶ。海黒は鉄塊をぶつけて水流に対抗したのか、飛沫に混じって黒い破片が舞う。
今まで青太は、飛鳥を守るために《COLOR》を使っていた。
でもこれは違う。
これは、飛鳥の知らない暗い感情を乗せた、海黒を攻撃するための《COLOR》。
海黒の小さな鉄塊とは比にならないほど大きな力で、間違いなく、人に向けていいものじゃない。そんなものを、青太は反射的に、海黒に向けたのだ。
飛鳥はひゅっと息を吸った。
海黒は怯むことなく、さらに鉄を放つ。手のひらの半分ほどはある、歪ながら鋭利な切っ先を持つ漆黒。
青太が大きく呼吸。
一際激しく渦巻く水流で迎え撃つ。さっきよりもさらに太く速いうねり。飛び散る水飛沫で一帯が青く晴れあがる。睫毛の先が青く煌めく。
反作用の力に耐えきれなかった青太が後ろに倒れそうになって、飛鳥は慌てて彼を支えた。両腕にかかる想像以上の重みは、彼の放つ水の威力そのもので。
減速はするが、海黒の
明るい青の水流が、水と鉄の接地点からブルーサファイアが溶け出すみたいに、真ん中から濃紺に染まって海黒の手前で全て粒子と化す。
やがて、ピキッ、とヒビが走る音がして。
海黒の最後の一矢が、完全に割れた。
小片になることすら許されず、黒の粒子と砕け、輝きもせず、一切が消えた。
けれど、水流は止まらなかった。
あっ、と青太の焦る声。
見れば、青太は手の甲に静脈と骨格を痛いほど浮かび上がらせて、右手を握り締めようとしている──が、見えない拘束具でもあるみたいに、指がほとんど動かない。
轟々と唸る水流は、海黒に向かって空気を貫く。
迫る水の青光で、海黒の目の黄昏が真っ青の晴天に変わる。
驚いた顔をした彼女は、青太を皮肉げに嘲っていたとは思えないくらい、普通の女の子のように見えた。
「止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれってば!」
狼狽よりも悲痛さが勝る青太の声。叫び。飛鳥は恐怖を覚えた。これが《COLOR》の暴走だ。
喉が千切れんばかりに絶叫しながら、青太は無理矢理手を握り締める。彼の手のひらが完全に閉じられた瞬間、水流は青太に従うように海黒の小さな鼻先寸でのところで照準を狂わせ、逸れて壁に追突した。
それでも水流の余波は、海黒の後ろに崩れさせるには十分の衝撃があった。彼女は地面に強かに体を打ち付け、しかし咄嗟に受け身を取ったのか、すぐに立ち上がろうと細い両腕で上体を起こそうとしていた。
飛鳥の爪先が、じり、とコンクリートを擦った。しかし青太が飛鳥を庇うように、もしくは制止するように腕を横に出したため、飛鳥は少しも動けなかった。
間もなく、2人は夜空に警戒色がちらつくのを見た。それから大通りの方からバイクの走行音が、建物の壁に跳ね返って聞こえてきた。
「多分、警察だよ」
青太に小さく耳打ちする。さっきの電話がぎりぎり繋がっていたらしい。通信部の方では飛鳥の架電は数コールで切れてしまっただろうが、最近の治安のこともあって、一応警戒に来たのだろう。
海黒も警察が来たとすぐに勘づいたらしく、舌打ちをして踵を返す。
彼女が闇に溶ける前に一瞬、目が合った。海黒は飛鳥を見て、口角を僅かに上げた。悔しさを隠すものでも勝ち誇ったものでもない。嘲笑。ただそれだけだった。
彼女の視線はすぐに、飛鳥の隣に立つ青太に移る。青太に対しては怨嗟に近い強い光を数秒向けて、しかし彼女は何も言わずに立ち去った。
「……後は俺が何とかする。瀬川はそっちの建物に隠れてて。家族が警察の人だったら、ここで見つかるのは良くないだろ」
青太は静かに、飛鳥の背を押した。彼から向けられる優しい微笑みに、飛鳥は胸が詰まるような感覚で言葉の一つも発せなくなって、彼の言うとおりに近くの建物に入った。
それから、入り口の陰で急に足の力が抜けてしまって、その場に座り込んだ。
「──ねえ、君」
外から女性の声がする。聞き間違えるはずもない。白鳥の声だ。
特殊機動隊とはいえ、迅速な現場臨場と対応、有事の未然阻止が求められる彼女らは、夜間の警邏にも出ている。
「この辺りから通報があったみたいなんだけど、通報したのは君?」
「……はい、そうです。男の人たちに突然絡まれて。通報しようとしたら、すぐにどっか行っちゃったんですけど」
「そう。ケガはしてない?」
「してません」
「それなら良かった。一応、身元を控えさせてね」
形式的な身元確認のやり取りに、青太は存外上手く答えた。周辺の地面や建物の外壁に損傷が無いのを見て、白鳥も深く追求はしてこなかった。
「水島くん、ね。未成年の深夜徘徊は条例違反だから、早くお家に帰るのよ。今回は特別に親御さんには連絡はしないから」
「はい」
「念のために大通りまで送るね」
「……はい」
青太は少し言葉を詰まらせた。この場に飛鳥を置いていくのに抵抗があるのだろう。ただ変に言い訳をして怪しまれては本末転倒だ。彼は観念してうなづいた。
飛鳥はそれを聞きながら、青太には後で、自力で帰れるから青太も先に帰っていい、とスマホにメッセージを送っておかなければと、ぼーっとする頭で考えた。
「それにしても──綺麗な《COLOR》使うのね」
遠くからでも青色が淡く見えてた、と白鳥が言う。
飛鳥には、彼女の言葉に喜びが滲んでいるように聞こえた。頭一つ抜けた才能を持つ彼女が、同じくらいの才能に出会えたから。そしてそれが、彼女を惹きつけるくらい美しいものだったから。らしくもなく、無邪気に喜んでいた。
「きっと近くで見たら、もっと綺麗なんだろうなって思った。水島くんは才能があるみたいだから、それを正しく、大事に使ってあげてね」
――誰かを守れるし、救える。そんな《COLOR》を持ってる。
白鳥は力強く、ゆっくりと、青太に大切なものを渡すみたいに伝えた。
飛鳥は誰かの役に立てる人になれる。白鳥はよく自分にそう言ってくれた。
けれど、誰かを守れて、救える人になれると言われたことはない。初対面の高校生がもらえる言葉を、自分は受け取ったことがない。
外の2人の気配がすっかり遠ざかってから、飛鳥は外に出た。その頃には、目に見えない紐で首を緩く絞められているみたいに、飛鳥の呼吸は随分と浅くなっていた。
次にやらなければいけないことがあるはずなのに、頭の中が濁って、考えがまとまらない。
だから飛鳥は、何もない空の手を力なく握り締め、しばらくその場に立ち尽くしてしまった。
ただ霧のような冷たい雨が、白色に染めた飛鳥の髪を、静かに濡らしていた。
──第1話「アオタブルー」FIN.
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