「あ、上司忘れた」
茉莉花 しろ
***
「あ、上司忘れた」
ふとした時に溢れたこの言葉に何人が振り返ったのだろう。刺さる視線、何を言っているんだと言わんばかりの視線を不思議に思う。何がそんなにも驚く事なのだろうか。誰だって忘れ物をする事くらいある。私にとってそれが上司だった、たったそれだけ。
いつもの地下鉄を使う為に降りた階段の二、三段の所で端に寄る。カバンの中に放り込んだ長方形の物体を探し、それらしき物を取り出す。電源ボタンを押すと時刻が表示されるのを見て、ギリギリ間に合う時間だと確認した。
「走るしかない!」
独り言ちる私を出勤する人々はチラチラと見ているが、直ぐに他人のフリをする。もう一度カバンの中にスマホを突っ込んで、少ししかない段差を一気に駆け上がった。
スーツをビシッと着こなす人の中を掻き分けるようにして自宅への道を急いだ。息を切らして逆走すると何人かの肩がぶつかる。バンッと強くぶつかって来た一人の男性により、持っていたカバンの中身が散らばる。
しかし、誰も振り返る事なく歩みを進めるばかり。何とも薄情な事か。私はこんな世界で生きているのが嫌で理想の上司を作ったと言うのに。地面に投げられた中身を拾いながら何故このような事になったのかと頭の中で思い出した。
思えば一年前、今の会社に入社してから三年が経った頃。そこそこ仕事を頑張っていた私はそこそこ評価されたいた。何もかも平和に進んでいた時。直属の上司が転勤する事になったと聞かされたのだ。周囲の人は悲しんでいたし、私も素直に残念だと思っていた。
「松葉さんは真面目だからなぁ。あまり気負い過ぎるんじゃないよ」
最後に残したその言葉の意味が分からないまま見送る事に。いつも周囲の事を見て行動し、常に最善策を考えていた上司は素晴らしい人だった。そんな彼が言い放った言葉の意味を知る事になったのはほんの数日後。
「初めまして。今日から
簡素な自己紹介にまばらな拍手が室内に響く。私達の前で自己紹介した彼は
「おい、松葉ぁ。まだこの仕事終わってねーのか?」
「え。でも、その仕事昨日言われたばかりで今月末で良いと……」
「はぁ。わざわざそんな事を言わないといけないのか? 考えれば分かるだろ?」
「す、すみません。今すぐ終わらせます」
一連のやり取りに自分の気の弱さを実感する。嫌だな、と心では思っても口に出すことは出来なかった。人差し指でコツコツと音を立て、貧乏揺すりをしている足を見て口の手前まで出かけた言葉を飲み込む。ギュッと握り締めた掌の中に爪が食い込んだ。どれだけ彼を見つめていても変わらない事実を何とか腹の中へ押し込み、自分の席へ戻る。
椅子に座ってから二年先に入った先輩に「大丈夫?」と声をかけられたが、動こうとしない頬を無理やり活動させて頷いた。今の私にはそれくらいしか反応出来なかったのだが、後から申し訳なさが上回ったので直接謝罪に向かう事に。息が詰まる感覚のまま仕事を終わらせて、誰も待っていない部屋へと帰ったのだった。
その日からまるで水の中にいるような生活を送る事になった。毎日のように冬山さんに呼び出され、指導と言う名のイビリを受ける。トントンとリズミカルに鳴る指の音と、それと同時に動く右足。毎日毎日彼に対して
「おい、聞いているのか?」
「……はい、聞いております」
「ったく。本当、返事だけは良いもんな、お前は。こんな奴に給料が払われるなんて信じられねぇよ」
ぶつくさと不満や文句を垂れながらも話は一時間程続いた。忙しい、暇じゃない。そんな言葉を繰り返す割には他の社員を呼び出して有難いお話を聞かせているのだ。矛盾していると他の人達が話しているのをトイレの中でひっそりと聞いていた。
繰り返される説教と昔の自慢話。最初はまだ仕事の事について話していたのだが、つい最近では人格を否定する内容まで入って来た。『いつまで仕事をしているんだ。そんなんだからお前はノロマなんだ。いい加減、この会社を辞めたらどうだ? 他の奴のためにもなるだろう』
繰り返し繰り返し耳に入ってくる罵詈雑言の数々。もちろん最初は無視を決め込んでいたが、自分が無視されていると分かった時には個人的に会議室まで呼び出されて永遠と罵倒された。最初はフォローを入れてくれた同僚や先輩も次第に私にすら近付かなくなった。
だって、庇ったりしたら今度は自分が標的になるかもしれないから。
誰だって自分が何かされると分かっていて近付く訳が無い。自分でも分かっているからこそ、最初は求めていた助けを自分の中に引っ込めた。周りが自分を見えない透明人間のように扱い、腐りきった汚物を避けるようになった。
きっと群の中でハブられる動物達はこんな気分なんだろうな、なんて的外れな事を冬山さんの寂しい頭を見て思った。
数時間油でギトギトしている頭を見た後は気分が悪い。罵倒の数々を聞いていたからではない、とは言い切れないが脂っこいものが食べられなくなったのは事実。無駄に削られた時間で終わるはずだった仕事は山のようにある。
「……はぁ。いつ終わるんだろ」
隣に座っている同僚にも私の声は聞こえているはず。しかし、ここに存在しない私の声を誰も拾う事はない。カチッと時計の音がした後、周囲がざわつき始めた。時計の短針は数字の五の所を指しており、定時である事を知らせていた。もうそんな時間か。早く仕事を終わらせなきゃ。心の中で思っても、声に出せないし体も動かない。
周囲は華の金曜日である今日を楽しみにしているようで、この後の予定を話している。「やっと終わったー」とか「この後飲みに行かね?」などと喜びに満ちた声が溢れる中、私は一人デスクトップを眺めるだけ。カバンを出し、帰る準備を始める彼らの中で1人取り残された私は小さい溜息を吐く。
いつもならぼうっとしていると冬山さんから小言を言われるのだが、彼はもうここにはいない。定時の時間になる前に鼻歌を歌いながら帰宅した。まるで、自分はしっかりと仕事をこなしましたよと言わんばかりの態度で。
実際はそうではない。私に投げた仕事はほぼ彼のやるべき仕事だったはず。なのに、いつの間にか私がやらなければいけない仕事へと変貌していたのだ。「これはお前の仕事、だよな?」と圧力をかけられた時には何か口に出すのも億劫だった。ただただ頷き、満足そうな顔をした冬山さんがそこにいたのを薄っすらと覚えている。
「仕事、しよ」
隣で帰る準備をしていた同僚はもういない。一人回想に浸っている中、いつの間にか帰宅したようだ。いや、先程誰かと飲みに行くと言っていたので居酒屋にでも行ったのかもしれない。でも、私には関係ない。
徐々に閑散として行くオフィスの中で、山積みにされた書類とパソコンに囲まれて手を動かす。ここ数週間はまともに睡眠を摂ることが出来ていないので脳が正常に働かない。油を差さなかった機械のように鈍い音がする。自分にしか聞こえない音だが、確実に、そして順調に狂って来ている。
『松葉さんは仕事が丁寧でいいねぇ。これから期待出来るよ』
頭の中でふと過ぎった言葉。春山さんが私の仕事を見る度に口にしていた言葉だ。あの時は楽しかったなぁ。何でこんな事になってしまったのだろう。私、何か悪い事したのかなぁ。ふと横のカレンダーを見ると、前までカラフルに書かれていた予定が消えていた。そうだ、まだ一ヶ月も経っていないんだ。そうか、まだ数週間しか経っていないのか。
「……死んじゃいたいな」
ブーンと音が鳴るパソコンと、エアコンの音。鈍く鳴っている音の中に私の本音は掻き消された。見つめている画面は変わらず光を放っている。すると、ポタリとキーボードに何かが落ちて来た。ふと視線を下げると、更にボタボタッとシミが増えて行く。キーボードの上に置いていた手を自分の頬に持って行くと流れ続ける液体を感じ取った。
「……私、泣いてるの?」
自分に問いただすが、今の状況を一番理解出来ていない私には答えられない。勝手に流れる涙を止めようと何度も拭うが意味を成していない。ここで私はやっと気が付いた。
とっくに限界を迎えていたのだ、と。
誰も教えてくれなかった事実に自分自身が驚き、同情した。理不尽な説教をされる日々が始まってからは何も考えないように、何も感じないように心を固く閉ざしていた。それが唯一の生き延びる方法だと考えに考えた自分の中の答え。しかし、それも間違っていた事に気が付いたのはかなり後だったようだ。
「今日は、帰ろう」
自分に言い聞かせるために呟き、重たい体を無理やり動かす。山積みになっていた書類は全然片付いていないが、明日にでも出勤すれば何とか終わるだろう。冬山さんがいない分、仕事が捗るだろうし。当たり前のようになった休日出勤が唯一の癒しの時間になっていた。前まで趣味で作っていた刺繍や裁縫も全くしなくなり、肌の手入れも雑になっていたので癒しと言うものが無くなっていた。
明日の仕事の準備を軽くしてからカバンを持ち、誰もいないオフィスに「お疲れ様でした」と言って電気を消した。毎日一番最後に電気を消して、一番最初に電気を点けるのが日課の一部になるくらい私の中に馴染んでいる。
エレベーターを待つ時間ですらぼーっとしてしまい、来た事に気がつくのが遅くなった。私の生活の一部になっていったものが、少しずつ壊れて行く私の心と体を表していたのかもしれない。まぁ、それに気が付いた時には手遅れだったのだが。
建物の外に出て、街灯やお店の明かりによって彩られた道を歩いて行く。自分の住んでいるマンションはここからそんなに遠くない。ギリギリ徒歩で通える範囲内に引っ越しをしたお陰で比較的ゆっくり寝ることが出来ていた。過去形なのは言うまでもないだろう。
家から職場まで近い事を一番知られたくな人間に気付かれた時の気持ちは言葉に出来ない。前まではたまに電車を使って出退勤していたが、今では始発前または終電後に出勤退勤するので使う機会も少なくなった。
「お腹、空いたな……」
グゥ、と鳴った自分のお腹に手を当てる。徒歩での帰り道は食べ物屋さんが多い通りなので自然とお腹が空くようだ。朝早く行って夜遅く帰っていたからなのか、こんなにも美味しそうな匂いが漂っているとは。誘惑が多い通りだけど、今は何処かで食べて行く気力はない。夕飯はどうしようか、と悩みながら辺りを見渡していると数人並んでいるお弁当屋さんがあった。
「お弁当でいっか」
そこまで並んでいない列へ続き、自分の番になるまでスマホを取り出す。長方形の物体は今が夜の八時過ぎである事を示していた。いつもより早く帰れた喜びと、終わっていない仕事への憂鬱感がぐちゃぐちゃに混ざっている。明日の事を考えるのは止めよう。お腹が空いているとどうしても悪い方向へ考えてしまう。あちこちから流れてくる美味しそうな匂いでグゥゥとお腹が鳴る。
「次のお客様、どうぞ!」
ズンッと重い空気になっていた私に明るい声がかけられた。ハッとして見ると、笑顔でこちらへ手招きしている少し年を取った女性。目尻にしわを寄せクシャクシャの笑顔を向けてくれる彼女に申し訳なさを感じて思わず謝ってしまった。
「大丈夫ですよ。お客さん、初めてですよね? こちらのメニューから決めてくださいね」
スッと差し出されたメニューは手作り感溢れる分厚い紙。表だけにしか書いていないのだが、いくつか写真が貼られているのを見ると自然と口に出していた。
「あの、この豚カツ弁当を一つ……」
忙しそうに動いていた女性はこちらを見てニコッと笑い、「かしこまりました」と言って中へと入って行った。手作りに近いお弁当を食べるのは久しぶりかもしれない。ここ最近はそこまでお腹が空かないのでゼリーで済ませたり、お腹空いた時はコンビニ弁当にしたり、簡単に済ませていたのだ。注文が入ってから作り始めるのがスタンスなのか、じゅわぁっと揚げている音が聞こえて来た。
その匂いに寄って良かった、と実感しながら再度スマホを見ると、懐かしい名前が表示されている。何度か着信を受けていたようだが、全く気が付かなかった。『ナツメ』と書かれた通知をタップしてかけ直すと、数コールで『もしもーし』と呑気な声が聞こえて来た。
「あ、ナツメ? ごめんね、電話貰ってたのに気が付かなくてさ」
『いいよ、いいよ。今大丈夫?』
「うん、平気だよ。何かあった?」
『いやぁ、何となく
キュッと胸が締め付けられた。追い詰められた今の自分にその言葉は効果覿面。目の奥と鼻の奥がツンっとして、目から溢れそうな水滴を必死に抑える。
「げ、元気だよ! 何、心配してくれたの?」
『当たり前じゃん。てか、本当に元気? その声はいつも空元気している声じゃん』
彼女の一言にドキッと嫌な跳ね方をする。中学からの親友であり、たまにしか連絡を取らないのに変に勘が良い所がある。今回もきっと彼女の第六感が働いたから電話して来たのかもしれない。どう答えようか、と口を中途半端に開いていると、「お待たせしました」とお弁当を持って来た店員さん。
「あ、すみません。六五〇円、ですよね?」
「はい、そうですよ。丁度ですね、ありがとうございました」
朗らかに微笑んでくれる店員さんにお礼を言い、途中になっていた電話に再度耳を当てる。
「ごめん、今お弁当買ってたの。その、私が空元気だって何で分かったの?」
『そりゃあ、何年も親友してるからね!』
電話の向こうで得意げな顔をしているのが目に浮かぶ。真面目な私と正反対の彼女は明るく皆の人気者。何処にいても人が集まる彼女が私と仲良くしてくれる理由がよく分からない。こんな事を言ってしまったら怒られるので口に出さないようにしているけど。
「そっか。うん、ちょっと元気ないかも」
『かもって……元気ないってハッキリ言ったらスッキリするよー?』
「ハッキリ、すっきり……」
何と語呂の良い言葉なのだろうか。最近の私には無縁の言葉ナンバーワンだ。片手にスマホを持ち、片手には先程買ったホカホカのお弁当がある。揺れる度にふわりと来る香りに言ってもいいかな、なんて思ってしまった。
「あの、ね。最近、先輩……て言うか、上司が私に対してだけ厳しくて。私、もう誰にも頼れなく、てっ」
一歩、また一歩と歩みを進めると、頬から流れる涙が溢れてくる。止め処なく出てくる涙と言葉に周囲の視線を感じた。でも、そんな事はどうでも良かった。ただ、誰かにこの話を聞いて欲しかっただけだったから。
最後まで話し終えると、電話の中で少しの沈黙が流れる。その間も私は足を止めず、着実に自分のマンションへと近付いて行った。
「ご、ごめんね。こんな話しちゃってさ。こんな事言われても困っちゃうよね」
柄にもなく、と言い始めた時。落ち着いた声でゆっくりと彼女は言った。
『朱莉。よく頑張ったね』
電話で聞こえてくる声は本人に一番近い声色を選択しているとテレビで言っていた。ただの機械音なのに、賑やかな通りから少し離れたこの道で一人なのに。すぐ側で彼女が話している感覚に陥った。
「うんっ……私、頑張ったよぉっ……」
あともう少しで着く所だったマンション。その数メートル手前で私は歩みを止め、声を上げて泣いた。大人の駄々っ子なんて恥ずかしいだけだと思っていたけど、幾つになっても子供のままなんだ。誰かに甘えたって、それでも良いんだ。そんな当たり前の事を思い知らされる夜だった。
チーンとエレベーターの音で、我に返る。そうだ、上司を忘れたんだ。この間だけで過去の自分に戻っていたらしい。重たそうなドアが開き、一人住人が降りて来たので横へズレる。誰も降りてこない事を確認し、急いで長方形の箱の中へと乗り込んだ。ブーンと動いている間にもあの夜の事を思い出す。あの日から、私の日常がほんのカケラ程度変わった。非日常になった訳では無く、ほんの少し変わっただけ。
「あのマネキン、大丈夫かな……」
最上階に住んでいると言う事もあり、時間が過ぎるのが早く感じる。大人しく私のことを待っているであろうマネキンだ。いや、今は上司と呼ぶ方が正しいかもしれない。
泣きに泣いたあの夜、電話を繋げたまま声を上げて泣き終わった後にナツメが一つのサイトを教えてくれた。それは、『不思議なマネキン』。名前を聞く限り胡散臭さが拭えないのだが、彼女はこんな事を言い始めた。
『ネットの何処かに不思議なマネキン、と言うサイトがあるの。そのマネキンはそこそこ値段が高いんだけど、ただのマネキンが人間になるの。詳しくは私も分からない。けれど、そんなにも朱莉が辛いなら一度だけ、使ってみたらどうかな』
聞いた時は何の冗談かと思った。けど、電話の向こうにいる彼女は真剣のようで、いつもなら笑う彼女が一切笑っていなかった。弱っている私もつい真面目に聞いてしまい、最後切る時には『また、電話するからね』と決定事項のように伝えられた。彼女なりの気遣いであり、こうでもしないと私は連絡を取ろうとしない。ナツメが人気者な理由もよく分かる。「ありがと」と小さくお礼を言ってから通話終了のボタンを押したのだった。
「えー……っと。鍵は……あ、あった」
エレベーターを降りた後、駆け足で自分の部屋に向かう。その間に鍵をゴチャゴチャしたカバンの中から探し出し、ドアを開ける。一人暮らしに相応しい広さの部屋の中に一人、ドンっと立っている人型の置物。異様な物に何も感じなくなった私は麻痺してしまったのだろうか。
「さて、持って行くか。って、もうこんな時間?タクシー!」
目の前に立っているのは一人の人、ではなくマネキン。見慣れたあの人にそっくりな姿をしているマネキンをどうするか悩んでいると、部屋の中の時計は始業三十分前を刺している。スマホを取り出してタクシー会社に電話をかけ、住所を伝える。『かしこまりました。五分ほどお待ちください』と言われたのでお礼を言って切った。
「さて、どうしようかなぁ」
完成した上司を前に頭を捻る。昨日の夜のうちに服を着させたので裸にはなっていない。何処からどう見ても本物の人間だ。流石にスーツを着ているとは言え、人間を運んでいるとなると絶対に職質に遭うだろう。
「……そう言えば、もう動くのかな」
初めてマネキンを見た時、ゾッとした。等身大のマネキンは顔も何も無い状態だったのだ。お店に置いてあるようなマネキンにはない、何か生き物らしい物を感じた。箱の中には封筒が一つと残りは液体が入った瓶が一つ。手始めに封筒を手に取って中を開けると、二枚の紙が入っていた。
「『ご購入頂き、ありがとうございます。魔法のマネキンは、ご購入者様の思い描くようなマネキンが出来上がります。どうぞ、素敵なマネキンライフを』……胡散臭いなぁ」
合計十五万。何とか払えそうな金額を設定している辺り、本当に詐欺ではないだろうか。半信半疑のままネットで探してみたら、案外簡単に見つかったのだ。今思うと何かの導きなのかもしれないが、その時の私は何でも良いので救いを求めたかったのだろう。気付いた時には購入しており、次の日には届いていた。
「本当に、人になるなんてなぁ」
後払いにした十五万が無駄になることはなかったのだ。一週間そこらでは変化はなかったのだが、説明書通り毎日毎日付属の化粧水を染み込ませる。『魔法の化粧水』と書かれた瓶の中身が無くなるまで使ったら、上司が出来上がったのだ。肌が出来上がり、顔のパーツや体格まで私が思い描いていた姿へと変わって行った。
「スイッチは……これ、かな?」
マネキンの周りをウロウロとしていると、見えるか見えないかくらいの大きさのボタンがあった。説明書にはこれを押すと動くようになると書いてあったのだが、何処まで動いてくれるのだろうか。カチッと音が鳴った後、ヴーンと機械音がしたかと思えばすぐに静かになった。
「……え、これで合ってる、よね?」
音がしたかと思えば止まってしまった事に焦りを感じ、しばらく待つ事に。でも、もうすぐタクシー来ちゃうし明日にしようかな、と思った時。
「貴女が、主人様ですか?」
「しゃ、喋った……」
ゆっくりと目を開けて、マネキンより小さい私を見下ろす彼。その姿はまさにあの人そっくりで、成功した喜びと本当に喋るんだと言う驚きでそれ以上何も言葉に出来なかった。時計の針が動く音が響く部屋で二人の間に沈黙が流れる。
「主人様。何か急がれているのでは?」
「え? あ、タクシー!」
とっくの昔に五分が過ぎていたようで、スマホがバイブで揺れている事に気が付いた。
「ほら、君も一緒に行くよ! 今日が記念すべき初出勤なんだから!」
私の慌てっぷりを見ているだけの彼の腕を掴み、玄関へと引っ張った。人間の肌そのもののようで、腕毛も生えている。何と言うか、細かい所まで再現するんだなぁと感心しながら、待っているタクシーへと向かった。
「すみません、遅くなりました。ここまでお願いします」
言葉で説明するのが難しい場所にあるので、場所を記した紙を渡した。「かしこまりました」と言った後、ゆっくりと景色が動き始める。隣に彼が乗っているの事に違和感があり、少し居心地の悪さを感じた。運転手さんが何か話題を振ってくれないかと願っていると、「出勤ですか?」と声をかけて来た。
「え、えぇ。ちょっと忘れ物をしちゃって……」
「それは大変ですね。忘れ物、見つかりました?」
「はい。無事でした」
それは良かった、とバックミラー越しに見える運転手さんの笑顔。屈託無い笑顔をこちらに向けられると何だか居た堪れない気分になる。隣を見ると、姿勢正しく座っているマネキン、もとい彼。早くこの空間から抜け出したい、と思うと同時にこれからの会社員生活に胸を躍らせていた。
「ここで、よろしかったですか?」
「あ、はい。これでお願いします。お釣りはいらないんで!」
運転手さんに声をかけられてハッとすると、会社は目の前に。スマホの時間を確認すると始業時間五分前を指していた。どうにか間に合ったらしい。財布から乱暴に取り出した諭吉一枚を運転手さんに渡し、隣に座る彼に降りるように指示した。
「やばい、あと少しで始まる……! ほら、あんたも急いで!」
「かしこまりました」
まだ中身もマネキンだからなのか、私が何も言わない限り動こうとしない。急いで、と言えば走っている私の隣にピッタリ引っ付いて走る。少しは自分で考えてよ、と言おうと思ったがそんな余裕もなくオフィスへと向かった。エレベーターに乗る余裕なんてない。パンプスで階段を駆け上がって行き、目的の階へと到達した。角を曲がり、見慣れた景色である廊下を全力疾走し勢いよくドアを開けた。
「すみません!遅れました!」
いつもなら静かに入ってくる私が息を切らして入って来たので全員がこちらを振り返る。「何事?」「え、松葉さん?」などと声が聞こえてくるがそれらを一切無視して私はその場で叫んだ。やっと、これから楽しい会社員生活が待っているんだから。
「皆さん、この人が今日から新しい上司になる『冬山さん』です!」
響き渡った私の声に騒がしかったオフィスがしんと静まり返る。誰も何も発する事がないので失敗したのか、と警戒しているともう一人の冬山さんが現れた。
「おいおい、何だ何だ。松葉ぁ、お前一丁前に遅刻かぁ? いい度胸してるよなぁ。なぁ、佐藤?」
ねちっこい声で話す彼の声に体を怖ばわせる。こんな日でも変わらず吐く言葉は心底気分が悪いものだ。佐藤と呼ばれた男性に肩に手をかけると、少しの沈黙の後にこう言った。
「……貴方、誰ですか?」
「はぁ? お前、何言って……冬山だよ! お前らの上司の!」
「何言ってるんですか? 冬山さんはあそこにいる人ですよ」
「そうだそうだ! 誰だよ、お前!」
佐藤さんに釣られるようにして各自もう一人の彼を罵倒し始めた。何が起きているのか分かっていない冬山さんは呆然と立っている。
「そうですよ。冬山さんは、この人です」
ニッコリと彼に笑いかけ、『冬山さん』の肩に手を置いた。私の顔を見た彼は真っ青になったかと思うと、瞬時に変貌し怒鳴り始めた。
「お、お前ぇ!一体何を……!」
「あ、警備員さん。彼、関係者じゃないので外に追い出してください」
近くを通った警備員さんに声をかけると、彼の肩をがっしりと掴んで引っ張って行く。その間にも叫んでいるようだが、社員は全員『冬山さん』に夢中なので耳に入っていない。私にしか聞こえていない声で彼に向かって微笑みかけて手を振った。
「じゃあね、忘れ物の方の冬山さん」
「あ、上司忘れた」 茉莉花 しろ @21650027
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