雨の降る晩のこと

増田朋美

雨の降る晩のこと

雨が降って、もうそろそろ梅雨入りかなと思われる季節だった。以前だったら、梅雨入りというものも趣深い季節だと思うけど、今は大災害が起こるとかで、まるで空襲警報のように大雨警報が鳴り響くようになっているから、確実に時代も変わりつつある。なんだか、生きていないほうが、得なのではないかと思う人も少なからずいる。中には、本気で自殺に至ってしまう人も少なくない。それでは、いけないのだけれど、ただ一つわかることは、いわゆる「偉い人」の言うことは全く役に立たないということだ。

その日も、雨であったが、意外に雨のことを気にしないででかけてしまう人もいるものだ。杉ちゃんと、ジョチさんは、市民文化会館で行われている、花村義久さんの、コンサートを聞きに行った。

お琴のコンサートと言うこともあって、男性も女性も、結構着物で来ている人も見かけられた。流石に花村さんのような、権威がある人のコンサートを聞きに行く場合、黒大島という着物で行く人は、よほど着物が好きで、他人からどうのこうの言われても、気にしないでいられるくらい度胸がある人でないといない。女性たちは、上半身は黒で、下半身に大きな柄を入れた、いわゆる江戸褄と呼ばれる、着物を身に着けている。既婚者であれば、それでいいのだが、未婚の女性であれば、柄を入れないで黒か白以外の一色で染めた色無地とか、細かい柄を全体に散りばめた江戸小紋などを着用している人が多かった。と言っても、お琴の演奏会を聴きに行く人たちはだいたい年寄りばかりだから、皆江戸褄で間に合ってしまうのであった。

演奏会は、無事に終わった。さて、これから家に帰るか、と杉ちゃんたちが、ホールのロビーへ出たところ、隣を、黒い着物の女性が走ってきた。なんだか急いで帰らなければならないのか、理由は不明だが、その人は、杉ちゃんたちの前にバッグを落としていった。気が付かないでホールから出てしまおうとする女性に対して、

「おい、お前さんちょっと待て!」

と、杉ちゃんが彼女に言うと、彼女は立ち止まって振り向いた。よく見なければわからないけれど、ちょっと、日本人らしからぬ顔をしているのがわかった。しかも、着ている着物は、黒であることは間違いないが、下半身に柄が着いていなかった。全身真っ黒。帯は、金でつるを入れた袋帯を二重太鼓に締めているのは、いいのだが、それだって、作り帯などの可能性がある。そこはあまり言及されることがないが、問題は、着物であった。黒で、下半身に柄のない着物は、葬儀のときに使うもので、このような、コンサートなどのときに使うものではない。

「お前さんさ、なんで、喪服でコンサートに来たの?それとも黒留袖と間違えたのかな?」

杉ちゃんがそうきくと、

「ご、ごめんなさい。黒い無地の着物だと思ってしまったんです。」

と、彼女は答えた。

「そうか、でもさ、お琴の演奏会に、喪服を身に着けて来てしまうのは、どうかと思うよ。それある意味、花村さんに対する侮辱だと思うけど。例えば、喪服を買う前に、呉服屋にどんなときに使うのかとか、聞いてみることはしなかったのか?」

杉ちゃんに言われて彼女は、

「すみません、何も聞きませんでした。通販で購入したので、どこで使うとか、そういうことは書かれていませんでした。」

と、答えたのだった。

「全く、着物の通販サイトもいい加減なもんだな。そういう注意書きを書かないなんて。そういうね、黒で全く柄のない着物は、近親者とか、親族がなくなったときに、葬儀できるもんだよ。こんなコンサートに着てくるなんて、出演者に失礼極まりない。それは、ちゃんとわかっておかなくちゃ。いくら、着物のことを全く知らないって言ったってね、知らないのも、程があるぜ。それからこれ、お前さんが落としていったバッグ。」

杉ちゃんが、急いで、カバンを彼女に渡すと、

「も、申し訳ありません。私、何も知りませんでした。そんなことになっていたなんて、何も知りませんでした。本当にごめんなさい。」

と、カバンを受け取りながら、彼女は何度も頭を下げた。

「お前さん、日本人じゃないな?郷に入っては郷に従えだ。日本人じゃなくても、日本で暮らしているんだったら、ちゃんと日本のしきたりくらいわかっておかなくちゃ。謝って済む問題じゃないんだよ。着物ってのは、ちゃんといつどこで誰が何をどの様にどうしたを、考えてから買うもんだ。」

「ごめんなさい。本当に、失礼なことをしたんですね。申し訳ありません。」

杉ちゃんに言われて、女性は、申し訳無さそうに言った。それと同時に、体の汗を拭きながら、出演者の花村義久さんがやってきて、

「一体どうしたんです?他のお客さんから、馬鹿に乱暴な口調で、怒っている人がいるって聞いたものだから、見に来てしまいました。」

とジョチさんに言った。

「いやあ、着物で間違っていると、杉ちゃんは見ていられないんですね。説教せざるにはいられないんでしょう。」

と、ジョチさんは答えた。

「杉ちゃん。」

と、花村さんは、急いで声をかけた。

「あ、花村さん。こいつがな、黒留袖と喪服を間違えて着てきてしまったみたいなんだ。だから、喪服は、葬儀のときに着るもんだって、説明してあげたんだ。」

と、杉ちゃんが言うと、

「そうですか。まあ、いずれにしても、次に気をつければいいことです。今回は許してあげてください。それよりも、私のコンサートに、わざわざ着物で足を運んでくださった事に感謝しています。ありがとうございました。」

花村さんは優しく言った。

「でもさ、自分の記念すべき演奏会にだよ。喪服を着て現れるなんて、悔しくないのかい?だってある意味侮辱だぜ。葬儀のときに着る着物で来られるなんてさ。」

杉ちゃんがそう言うと、

「いいえ、仕方ないじゃないですか。知らなかったんですから。でも杉ちゃんが注意をしてくれたから、彼女だって、着物の知識を知ることができたんです。彼女に直接言わないで、陰口を叩いているのが一番悪いですよ。それよりも、杉ちゃんみたいに、間違っているとはっきり伝えてあげたほうが、彼女だってわかりやすいのでは無いでしょうか。それなら、彼女はある意味幸運であったと思えるでしょう。それでよかった。それでおしまいにしてあげてください。」

花村さんは、にこやかに笑っていった。

「そうですね。そういうふうに前向きに考えられればそれでいいですよね。確かに、指摘されてしまったのは、悪いかもしれないけど、新たな知識を得ることができれば、それでいいと言うことにしておきましょう。」

と、ジョチさんも言った。

「ありがとうございます。今回、初めて着物のことを知ることができました。今まで、無地の着物が一番いいと言うことは聞いていましたが、まさかお葬式のときに着る着物を着てしまうなんて、申し訳ありません。花村先生、本当にすみませんでした。」

と女性は、にこやかに笑った。

「大丈夫ですよ。着物の知識が増えれば、より難しいけどより楽しくなると思いますから。着物を一から学び直すつもりで、勉強し直してください。」

ジョチさんがそう言うと、

「ありがとうございます。あの、皆さんお名前を伺ってもよろしいですか?どうせなら、お礼をしたいので、皆さんのお名前をお伺いしたいんです。」

と、女性はカバンの中から、メモとペンを出した。その手はちょっと浅黒くて、日本人らしくなかった。

「はい、僕の名前は影山杉三で、杉ちゃんって呼んで。そしてこっちにいるのは親友のジョチさん。本名はえっと、」

「曾我と申します。曾我正輝。住所は、静岡県富士市、、、。」

ジョチさんと杉ちゃんは、それぞれの名前と住所を言った。

「まあ、変わったあだ名ですね。ジョチさんなんて、まるで差別されている方を、呼んでいるみたいじゃないですか?」

と、彼女は、変な顔をしてそういった。

「いやあ、親しみを込めてジョチさんと呼んでいる。それに、製鉄所を管理している福祉法人の理事長さんでもある。」

杉ちゃんが説明すると、

「そうですか。そんな方に、よそものと言う意味のジョチさんというのは、不公平のように見えるのですが、、、。ごめんなさい。まだ日本での生活になれてなくて、おもったことをなんでも口にしてしまう習慣が抜けないんですね。ほんと、郷に入っては郷に従えという言葉が私にはぴったりです。」

と、彼女は、また申し訳無さそうにいった。

「まあ、少しづつ、日本の生活になれていってください。日本は、災害も多いし複雑で難しいところも多いけど、きっと、良いところもあると思いますから。」

ジョチさんがまた言うと、

「はい、名前を名乗らせてください。石村レイナと申します。」

と、彼女は言った。

「石村レイナさんですね。よろしくおねがいします。」

ジョチさんは、欧米式に彼女の手を握って挨拶した。杉ちゃんも花村さんも同じことをした。

「本当に、ありがとうございました。あたしに、着物のルールを教えてくださって、ありがとうございます。これからは、黒の無地の着物は、お葬式以外、着ないようにします。」

「ウン、覚えてくれたんだね。それでよろしい。」

レイナさんは、にこやかに笑って、杉ちゃんたちに、一礼して、ホールを出ていった。

それから、数日がたったが、杉ちゃんたちのもとに、石村レイナという人物から、物品も手紙も何も来なかった。杉ちゃんたちも、それよりいろんな事があって、石村レイナのことは、すっかり忘れてしまった。

その代わり、田子の浦地区の住民の間に、変な噂が立つようになった。近くにある、観音堂のそばで幽霊が出ると言うことである。幽霊は、白い着物を着ていることが多いが、その幽霊は黒い着物で出るという。

「あーあ、こりゃすごい雨だねえ。どうしてこんなに雨が降るんだろう。ひどいもんだな。雨は誰が降らすの?」

「ただ、お天気の神様がいるからだとしか言えませんよ。杉ちゃんって、意外に根拠のない質問するんですね。」

杉ちゃんとジョチさんは、そう言い合いながら、車軸を流すような雨の中を、二人で移動していた。ちょうど二人は、観音堂の近くを通りかかった。

「それでは、雨がひどいので、タクシーを呼びましょうか。すぐ電話しますから。お待ち下さい。」

と、ジョチさんはスマートフォンを出して、今観音堂にいるとタクシー会社に電話した。15分ほど待ってくれということであったので、ここで待つことにした。その間にも、雨がすごく降ってくる。梅雨の季節だから仕方ないといえば仕方ないのだが、それにしても雨が降ると、色々不便なことがあるものだ。

二人が観音堂の前でタクシーを待っていると、観音堂の裏から、人が出てきたのがわかった。

「わあ!もしかして、噂になってる、黒い着物の幽霊か?」

その人は杉ちゃんが言う通り、黒い喪服を身に着けている。でも、裸足であるし、傘もささずに全身ずぶ濡れになって彼女は、杉ちゃんたちの方に近づいてきた。

「待てよ!幽霊が出るのは、草木も眠る丑三つ時では、、、?」

杉ちゃんはびっくりするが、すぐ考え直す。

「ええ、幽霊ではありません。彼女は人間です。」

怖いもの知らずのジョチさんは、そういった。

「一体そこでずぶ濡れになって何をなさっているんです?あなた、あまり人を怖がらせてしまうと、不法侵入で訴えられる可能性もありますよ。」

ジョチさんに言われても、その人は、一人でぼんやり立っていた。そして、杉ちゃんたちにわからない言語で、なにか呟いた。

「はあ、祈祷するつもりなんかな?」

と、杉ちゃんが言うと、

「ええ、多分、その言葉だと思います。具体的になんと言っているかは聞き取れませんでしたが。」

とジョチさんも言うので、女性は自分のことが噂されているとわかったらしくて、飛んで逃げようと思ったようだか、ずぶ濡れで重い着物に足を引っ掛けてしまい、それはできなかった。

「おい、待て!」

と、杉ちゃんに言われて、彼女はすぐ足をとめ、右にふりむいた。

「あれ?レイナさんでは?」

と、杉ちゃんが言う。確かにその顔は石村レイナさんで間違いなかった。

「石村レイナさんですね。僕達の事をお忘れではありませんか?ほら、この間の花村先生のコンサートに言って、お話したものですよ。もしかしたら、もうお忘れになってしまったんですかね?」

とジョチさんが言うと、レイナさんは、

「ああ、じゃああのときの!」

と杉ちゃんたちを初めて確認した。

「お前さん一体どうしたの?そんな格好で、祈祷文唱えるなんて。なにか嫌なことでもあったのか?」

と、杉ちゃんが言うと、石村レイナさんは、

「ごめんなさい。ごめんなさい私。」

というのだった。

「泣くのではなくて、理由を教えてもらえないかなあ?お前さん家族は?」

杉ちゃんが聞くと、

「いえ、今は、いません。娘と二人暮らしです。」

と、彼女は言った。

「でも、今は、家族は誰もいないです。」

「はあ、そうなのね。じゃあ、お前さんさ、僕達のうちへ来ない?カレーでも食べて事情をゆっくり話なよ。そうすれば、また変わると思うよ。お前さんの気持ちがね。」

杉ちゃんがそう言うと、レイナさんは、もうだめかと思ったらしい。わかりましたそうしますといったのだった。それと同時に、杉ちゃんたちを乗せるタクシーがやってきたので、ジョチさんは、びしょ濡れであるが、この女性も一緒に連れて行ってやってくださいといった。運転手は、不思議な顔をして、彼女を眺めていたが、まあ乗ってくださいといった。杉ちゃんたちが、自宅まで乗せていってくださいというと、運転手はわかりましたと言って、タクシーを動かし始めた。全く、本当に、雨は誰が降らすの?と聞きたくなってしまうほど、雨が降っていた。もうちょっと、雨が楽になってくれればいいのに、と言いたいところだが、それは、無理な感じだった。

「お客さん着きましたよ。」

運転手が、そういうと、杉ちゃんとジョチさんはまたずぶ濡れになってタクシーを降りた。彼女も、後部座席からおろしてもらった。杉ちゃんの家の中へ彼女を招き入れ、とりあえず杉ちゃんから渡されたバスタオルで体を拭きながら、ジョチさんとレイナさんは、渡されたお茶を飲んだ。

「今、カレー作って上げるから、もうちょっとまっててや。カレー食べると元気になるから。どんな栄養補助食品もカレーにはかなわないよ。」

杉ちゃんはカラカラと笑って、カレーの材料である、人参の皮をむき始めた。

「食べていってください。杉ちゃんのカレーは、栄養満点でものすごく美味しいですから。」

ジョチさんが急いでそう言うと、

「はい。ありがとうございます。」

とレイナさんは言った。

「それで一体どうしたんです?こんな雨の日に、着物を着て、傘もささずにお堂の前にいるなんて、尋常ではありませんよね?」

とジョチさんはレイナさんに聞いてみる。

「ええ、娘が自殺してしまいました。なんでも、学校のいじめが原因だったようです。私が、日本人でなかったことで、汚い言葉を浴びせられたり、一人で、学校の食事を取ったりしていたようで。」

レイナさんは泣き泣き答えた。

「そうなんですか。そのような事実があったとは、報道さえもされませんでした。まったく日本の学校は、もう少し情報公開するべきですよね。表向きは平和に見えるんだけど、裏では、毒々しいことが溢れてますよ。学校とはそういうところです。全く、困った場所ですよね。」

とジョチさんは、レイナさんの話に応じてあげた。

「せめて、娘が、向こうの世界では幸せになって欲しいんですけど、それで祈りを捧げる場所が、日本にはなくて、しょうがないから、あそこの観音堂で、お願いをしていたんです。」

レイナさんは、涙をこぼしていった。

「本当は有名なお寺とか、そういうところに、お願いするべきだと思ったんですけど、そういうところは、お金がかかって私にはできなくて。葬儀はしてもらったんですが、その後の法事っていうんですか?それが全くできないから。」

外国人は信心深いものだ。そういうところが、日本人とはちがうと思う。逆を言えば、日本人はそういう宗教的なところに鈍感であると思う。

「わかりました。じゃあ、そういうことなら、僕達も手伝いましょう。娘さんに、あなたの気持ちを伝えてあげるには、こちらでは、大掛かりな行事になりますからね。大丈夫ですよ。僕達の知り合いに尼僧さんがいらっしゃるから、彼女にお願いすれば、あなたの気持ちをわかってもらえるはずです。そうすれば、いちいち、観音堂でずぶ濡れになってお祈りをしなくてもいいようになれますよ。」

ジョチさんは、にこやかに笑って彼女を励ました。彼女は、娘さんを弔ってあげられないことを、悲しんでいるのだろうから、そういうことは、誰かが全力で応援してやらなければならないだろう。

「僕が、お寺に電話してみますから、連絡先を教えて下さい。携帯でも、ラインでもなんでも構わないです。」

と、ジョチさんは、巾着の中からメモ用紙を取り出して、自分の名前と連絡先を書き、彼女に渡した。彼女も、連絡先を一生懸命使い慣れていない漢字で書こうとしているので、ジョチさんは、ローマ字で書いてくれればそれでいいと言った。レイナさんは、ローマ字で、自分の名前と住所、そして、携帯電話の番号を記した。料金が高すぎるから、スマートフォンが持てないという。それももしかしたら、娘さんが学校でいじめられた理由の一つかもしれなかったが、ジョチさんはそこは敢えて言わないで置いた。

「本当に本当に突然のことだったので。何がなんだかわからなくて。ただ、祈るしか方法もなかったんです。ただそれだけのことなんですけど、本当に、本当にありがとうございます。」

「いやあ、いいんですよ。誰かがこういうことは配慮してあげないと、多分あなたも片付かないのでは無いでしょうか。それは、誰にも変えられないことですよね。どこの国の方でもそれは同じだと思いますよ。」

ジョチさんがそう言うと、彼女はありがとうございますと嬉しそうに言った。もしかしたら、そういう小さな配慮が、レイナさんや娘さんを救ってくれるのかもしれなかった。

外は雨だった。ほんとに、日本の雨の季節というのは長いものだった。なんでこんなに雨が降るのか。誰も言えなかった。






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雨の降る晩のこと 増田朋美 @masubuchi4996

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