Ⅳ 8

「落ち着いたんですか、道下さん」

 文麿は初めて事務所を訪れた時とさほど変らない恰好をしていたが、表情はあの時とくらべるとだいぶ優しくなっている。穏やかな笑顔だとタクヤは思った。

「どうも僕は自分の名前が好きになれなくて」

 文麿の手にはハンチングが握られている。

「クリスティのABC殺人事件ご存知ですか」

「アレキサンダー・ボナパルト・カストでしたっけ」

 タクヤのとなりで夢見が吹き出しそうになるのを必死で抑えている。道の下を踏みまろだからね。御大層な名前ではないか。

「僕の父はあいつの会社の重役なんです」

「あいつがあの会社に入れたのも父のコネクションがあったからで」

「連れ子同士なんですよね」

 文麿はボサボサの頭を片手で撫でて照れ笑いをする。

 夢見はまだ笑いをこらえていた。

「百合さんはお父さんの連れ子ですか」

「いいえ、父の連れ子は僕の方で、あいつは母親の連れ子なんです」

「母はあいつが中学の頃なくなってしまって、父はあいつを母親の代わりに」

 文麿の表情が急に暗くなる。最初に事務所を訪れたときのように。

「僕は何もできずに、ただ見ているしかなかった」

 夢見の表情から笑顔が消える。

「どうしてこの男がいるんですか」

 百合は振り返るなりタクヤにそう言った。文麿は無言のまま百合を見ている。

「今さら何なの」

 今となっては百合に逆らえる男など誰もいないのだろうか。自分の受けてきたすべてを逆手にとって君臨する女。

「そもそも男が悪いのよ、あの子が自分から何かをしたわけじゃないんだから」

 文麿が帰ったあと夢見は少し荒れていた。

「でも、僕たちにできることは限られている」

 タクヤの言葉に夢見が不満そうにうなずく。

「二人とも頑張りました」

 キッチンで洗い物をしていた加奈の声が事務所の中に明るく響いた。

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恋人よ我に帰れ 阿紋 @amon-1968

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