本文

 平日の午後二時。ランチラッシュが終わったコンビニの入り口で、中を覗き込む中年男の姿があった。ヨレヨレのTシャツ、適当に選んだ短パンにサンダル履き。髪はボサボサで、もう何ヶ月も美容院へは行っていない。雑に剃った無精髭ぶしょうひげへ、無意識のウチに手をやっていた。


 男の名前は、藤村ふじむらアサヒ。うつ病と診断され、会社から半ば無理やり休職を取らされて三ヶ月になる。40歳になるアサヒにとって、休職は出世の道が絶たれたも同然を意味していた。


うつ病と診断されたのは、社用車で事故を起こしてしまったから。復帰の目処は、全く立っていない。

 

 住宅ローンの返済を考えると、気分が悪くなる。大変な思いをしている俺を、アイツは労うどころか追い出しやがった。アレは俺の家だぞ。食わせてもらってるくせして、えらっそうに。何様なんだ。事故だって……あれは俺の過失じゃない。

 

 この一ヶ月、同じ考えがグルグルと頭をもたげてばかりだ。アサヒは苛立たしげに、無精髭ぶしょうひげを一本むしった。コンビニの店内は、人がまばらだった。今日、ここに来るのは2回目。店員が入れ替わっているのを確認すると、うつむきながら入店していった。目指すは一箇所。アルコール売り場。


 まず手に取ったのは、濃縮レモンサワーの素だった。瓶には一本で五杯分、と書いてある。コスパが良いのは断然こっち。それは分かってるんだけどな……と躊躇ためらったアサヒは、名残惜しそうに瓶を棚に戻すと、冷蔵ショーケースの扉を開いた。


 「今日は、もうこれだけ。これで終わりにしよう」


 いつものレモンサワー9%。ロング缶を二本、手に取る。そうしてそそくさと店員の顔を見ないよう、会計を済ませた。マイバッグだと、入れてる様子を店員に見られてしまう。


 「あの人、一日何回お酒買いに来るのかしら」そんな噂をされたくない。なのでもったいないと思いつつも、毎回レジ袋を購入していた。そっちの方が流れ作業になって、店員も俺を見ない。

 

 「ありがとうございましたー」


 まあ足りなかったから、少し遠いけどスーパーへ行けばいい。店を出る頃には、もう次の算段を始めている自覚が、アサヒにはなかった。ベタベタとまとわりつく夏の日差しに、酷い喉の乾きを覚えながらも、ほんの少しイライラが楽になったような気がして足取りが軽くなる。

 

 帰ったら『世界の真実』を観ないとな。

 




 ――……ガラガラ……


 築40年。防犯の概念がまだ薄かった頃に建築された、実家の扉を開ける。アサヒの住む東京の下町には、似たような家が密集していた。朝顔がそこかしこの軒先で、蔦を伸ばしている。古びた家独特の臭いを嗅ぎながら、サンダルを脱いで直ぐ脇の茶の間に上がり込んだが早いか、レモンサワーのプルタブを引いてTVのリモコンを弄った。


 実家に出戻って一ヶ月。買い物らしい買い物は、ネットTV専用のUSB型ガジェットだけだ。


 「皆さん。日本は、闇の政府によって牛耳られているのです!それを知るのは、真実に目覚めた貴方達だけ!」


 おお、チャンネルが更新されてる。アサヒはレモンサワーを一気に三口飲むと、SNSを開いてチェックした。


 (『世界の真実』情報。天々堂DSの英語部分は、闇の政府って意味。天々堂は闇側だね。 by 四つ葉)


 「やっぱ、分かってる人は違うよな。流石だぜ」

 

 「何が分かってるって?」


 アサヒの独り言に反応したのは、母親の信子のぶこだった。郵便物を片手に非難丸出しの顔で、寝っ転がっているアサヒを見下ろしている。信子はわざと、サワーの空き缶だらけになっているちゃぶ台へ郵便物を投げると、大きなため息をついた。


 「これ、保険会社から。まだ手続きしてないの?」

 

 「……?住所変更してねえのに、なんでこっちに届いてんだよ」

 

 「あかねさんに会ってきたのよ。アンタ、話し合いに応じないって聞いたけど」


 アサヒは折角観始めた動画の邪魔をされて、露骨に不機嫌になっていた。嫁と姑ってのは仲が悪いと相場が決まっているのに、ウチに限っては嫁とお袋の仲が良い。二人で結託しちゃあ、俺を邪険に扱う。俺一人が悪者かよ。

 

 お袋の育て方とあかねの妻としての態度に、問題がなかったと言い切れんのか。


 アサヒは信子のぶこに背を向けてサワーを飲み干してしまうと、動画のボリュームを上げた。

 

 「光の戦士セレニティ大統領が予言に従い、イルミナティと闇の政府を倒すため東欧国を清浄国にしてるのは、ここにいる皆さんならご存知ですね!」

 

 「そんなもんばっかり観て。もう止めなさいよ。くっだらない……」

 

 「ハァ?くだらないっつったか、今。お袋みたいな日教組の権化は、洗脳されてるからな。分からねえんだよ」

 

 信子のぶこは元教師だった。確かに厳格過ぎる躾をしてしまった側面は否めなかった。息子に我慢を強いてしまった。その贖罪しょくざいも兼ねて、15年前に教職を辞めた。直接、謝罪をしたこともあるし、嫁であるあかねとの関係にも、心を砕いてきた。

 

 それで、この仕打ちか。過ちがあったら一切許されないのか、親は。

 

 飲酒運転が原因で休職になった現実を直視しようとせず、妙な思想にのめり込んで朝っぱらから酒を飲む息子。信子のぶこは声を荒らげたくなる気持ちを抑えて、努めて冷静を装いながらアサヒに語りかけた。

 

 「番組を見るより、他にやることがあるでしょ」


 アサヒはスマホを弄り、何やらSNSを熱心に見ている真っ最中だった。信子のぶこの話など、聞く気がないという意思表示。動画は別段、スマホからでも見られる。

 

 (デモ開催。我が国を取り戻せ!〇×大使館前。本日、15時より。 by 艦隊太郎)

 

 「ちっと、出かけてくるわ」


 アサヒは残ったサワーを飲み干すと、半分押入れと化している2階の自室へと行ってしまった。荷物を漁る音と、髭剃りの音が聞こえてくる。

 

 「アンタ、離婚されるわよ……」


 信子のぶこは力なく畳に座ると「こんなもの!」と独りごちながら、TVを消した。

 








 「ねえ、ホントに僕行かなあかん?」

 

 「快諾してくれたのに、何で今更。単なる人数合わせだって言ったじゃないか」

 

 「でも、TVに顔映るやん」

 

 打ち合わせやからな……ポロシャツくらいは着てかんとあかんよな。夏休み前、唐突に親友から一緒にTV出演してくれと頼まれて、断りきれないまま今日まで来てしまった。姿見に映る自分の姿がよく見えず、眼鏡をかけてから襟元を正して、黒髪をヘアバターで整える。

 

 少年の名前は槇島まきしまハルト。有名私立高校に通う17歳。小柄で地味な出で立ちなので分かりにくいが、大きな黒目が印象に残る、可愛らしい顔をしている。まだ少年っぽさを残す面影は、一部の女子生徒からウケが良かった。

 

 「冨永さつきに会いたいって言ったの、ハルトだろ」

 

 「いや、言うたけど……」

 

 「はい、分かった。んじゃ、局の入り口で待ってるから」


 煮え切らない返事しかしないハルトの扱いに慣れた様子の親友は、ゴリ押しでそういうと通話を切ってしまった。恨めしそうにスマホの画面を見る。


 両親……揃っている日自体が殆どないのだが、父親はTV出演に許可を出した。母親は反対した。お父さんが賛成することは、なんでも反対。そういう人だった。

 

 槇島まきしま家は、去年、近畿から東京に引っ越して来た。某インフラ系企業最大手に勤める父の栄転。子供たちも高校・中学入学に合わせてだったので、父親だけ単身赴任という話にはならなかった。引越し後は、父の実家がある麻布に住まいを構えていた。


 そこそこ裕福な家柄、裕福な育ち、きちんと見える両親。そこそこ幸せそうな家族。傍から見たら、そういう風にしか映らないだろう。


 ハルトはキッチンから聞こえるヒステリックな怒鳴り声に、顔をしかめた。


 またやっとる。お母さんと仁智香にちか

 

 ハルトの母である美穂みほと、妹の仁智香にちかはとにかく仲が悪かった。なんなら、目が合っただけで言い合いになる。元々ヒステリックな所があった美穂みほが、諸々の事情で増長してしまった。そこへ小さい頃は言われっぱなしだった仁智香にちかが、反旗をひるがえしてはや半年。

 

 いつまで経っても東京に馴染めない美穂みほと、あっという間に東京に慣れ、私立女子中学でもカースト上位に収まっている仁智香にちか。その力関係の差は、ほぼ逆転していると言ってもいい状態だった。


 ハルトが気配を消しながら、キッチンの横を通り過ぎようとする。玄関へ行くには、それしかルートがなかった。

 

 「だから!私のニキビ治療薬を、重曹にすり替えた理由を説明してって言ってんでしょ!」

 

 「化学薬品は、必ず副作用が出るからダメよ。何度言わせたら分かるの?」

 

 「意味が分かんない。副作用のデータは?エビデンス出してよ、ママ」


 お母さんのオーガニック被れは、今に始まった話じゃないやろ……とハルトは思う。近畿に住んでいた時は、母方の祖父母が近くに住んでいたので、ワクチン接種も説得をしてもらえた。こっちに越してきてからだ。誰も説得する人がいなくなったのは。

 

 父方の祖父母は健在で、徒歩15分ほどの所に住んでいるのだが、美穂みほに気を遣って家に来ることはない。それでも美穂みほは、義実家近くへの引っ越しを独断で決めてしまった夫に、強い怒りを感じていた。

 

 「ちょっと、ハル君からも仁智香にちかに言ってやってよ!」


 うわ、見つかってもうた……苦虫を噛み潰した表情になったハルトが、キッチンにヒョコッと顔を出す。相変わらず、美穂みほの手にはワイングラスが持たれていた。カウンターテーブルには、オーガニックワインのボトル。中は、ほぼ空になっていた。


 これが仁智香にちかの怒りに火を注いだのは、日の目を見るより明らかだった。


 「ハルトなんて、パパのコピーじゃん。日和見主義の役立たず!」

 

 「……日和見主義なんて言葉、どこで覚えたん?仁智香にちか

 

 「ハァ?14歳バカにしてんの?そのきっしょい関西訛り、いい加減直しなよ」

 

 「お兄ちゃんにそんな言い方はないでしょ!」

 

 「うっさいんだよ!ババア!」


 うるさいのは二人やて……ハルトは耳を塞ぐと、ヒートアップする二人を刺激しないよう、こっそりと玄関から家を出た。

 

 彼女が欲しいのは事実やし、冨永さつきに会ってみたいのも事実やけどさ。それ以前に僕、女の人嫌いや……ホンマに怖い。

 

 小さい庭を抜けてもまだ、二人の怒鳴り声が聞こえて来る。こんな所まで聞こえているのかと驚愕きょうがくしたハルトは、周囲に人がいないのを確認してから、早足で家を遠ざかった。









 〇×大使館前。デモに集まったのは、約40人だった。自分より年上の世代ばっかりに見える。平日のデモなんて、普通に働いてたら参加出来ないよな。お袋がうるさいから家から出たくて来ちゃったはいいけど……艦隊太郎さん、どこにいるんだろ。


 藤村ふじむらアサヒはSNSを通して、オフ会にすら参加した事がなかった。そもそも、休職前はSNS自体やっていなかったのだ。勝手が分からず、いつまで経っても始まらないデモに不安を覚えたアサヒは、コンビニで買ったレモンサワーをお守り代わりに握りしめていた。

 

 徐々に参加者から、不穏な声が漏れてくる。

 

 「今日のデモ、警察に届けを出してないって」

 「ええ?主催者は何やってるの」

 

 「――……あの、すみません。ちょっと良いですか?」

 

 アサヒは自分の親とさほど年が変わらないような、初老の男性二人組に声を掛けた。男性の一人が、レモンサワー缶を見て怪訝けげんな表情になる。

 

 「艦隊太郎さんって、どなたか分かります?」

 

 「あー。SNSから来た人かい?私たちはペンネームでやり取りしてないから、分からないなあ……」


 「……ペンネーム」

 

 「日本を憂いし集うもの!今ここで声をあげよう!」


 集団の外れから声がし始めて、にわかに活気づく。アサヒが声を掛けていた、デモに慣れていると思しき二人組の表情が、あからさまに強張こわばり始めた。

 

 「ちょっと待って!警察の許可もらってない可能性があるんだよ!」

 

 初老の男性が、声を張り上げる。一方で勝手に始めてしまった一部が、喧嘩腰で集団を扇動した。

 

 「デモは日本における正当な権利だ!警察なんて、後からで十分だろ!」


 同じ目的で集まっている筈のデモ集団が、二分されて対立状態になってしまっていた。未だ、主催者からの声明がない。時計は既に15時を20分回っていた。

 

 「ダメだ!一旦、散ろう!」

 

 「何を言ってるんだ、ここまで来て!〇×大使館に告ぐ。日本から出て行け!」

 

 「警察が来るから、ダメだって言ってるだろ!」


 内輪でヒートアップして、揉め始めたデモ集団のど真ん中にいたアサヒは、何が何だか全く分からないまま揉みくちゃにされて酷く困惑していた。

 




 うわあ、またやっとんのか。避ければ良かった……槇島まきしまハルトはマルバツ大使館の前で団子状態になっている集団を見て、憂鬱な気持ちになった。

 

 「ほんま、迷惑やわ」と呟いたハルトは、少々強引にその集団を掻き分けて進んで行こうとした。警察官がどこにも見当たらへん。いい年こいて、何をしとんのや。少年らしい傲慢な怒りを覚えたハルトの人を掻き分ける手に、つい力がこもってしまった。

 

 「年寄りは黙ってろ!」


 という怒声と共に、腕を掴まれる。強い力で揉み合いへ引き込まれそうになったハルトは、腕を振り払おうと必死に身をよじった。


 


 こんな事なら来なければ良かった……揉みくちゃにされながら、アサヒは後悔の真っ只中にいた。動画で見るデモは、もっとカッコよかったのに。憂国会の人はどうしたんだ?警察の許可がどうのって言ってたけど。もしかしてこれ、俺たちが捕まっちゃうって事?これ以上、警察のご厄介になるのは不味い。俺、今度こそマジで会社クビになる。


 喧嘩腰で怒鳴り合う年配者から離れようとすればするほど、押されて身動きが取れなくなってしまう。いよいよどうにもならなくなった、その時。

 

 「警察だ!」


 声がした。それまで押す一方だった力が、急に引く方向へとチェンジする。酒の飲みすぎで足元がふらついていたアサヒは、そのまま集団から弾かれるようにして飛び出してしまった。

 

 誰かとぶつかる。

 足がもつれて転倒しそうになったアサヒは、ぶつかった人物の身体を無意識に掴んでいた。


「うわあ!」


 叫び声がして、アサヒは自分がガードレールを乗り上げて、道路に飛び出してしまった事に気づいた。隣には一緒に飛び出てしまった男性がうずくまっている。大音量のクラクションが鳴る方へ顔を上げると、急ブレーキの間に合いそうもないタクシーが、ほんの数メートル先にいた。


 あ、かれる。


 アサヒの脳裏を妻と息子の顔がよぎる。自分が飲酒運転事故を起こした時の記憶が、鮮明によみがえってきた。失望を隠せずに泣いていた妻、俺に対して明らかに怯えていた息子。

 

 こんなのが走馬灯かよ……


 急に目の前が暗転して、アサヒはついに自分が死んだと思った。

 

 「ちょっと、お兄さん。大丈夫?」

 「うぅ……」

 

 「救急車呼ぶ?」


 アサヒは、ツンとくるような痛みを鼻に感じて手をやった。鼻血が出てる。けれどもそれだけだった。死んだり、ましてや怪我をしている様子はない。何より声を掛けてきている人物は、轢かれるとつい数秒前まで思っていたタクシーの運転手だった。

 

 「……かれたかと思った」

 

 妙に聞き覚えのある声が、隣からした。目にゴミが入ったのだろうか?よく見えない。目をこすりながら、声の方向をじっと見つめる。こんな所に、知り合いなんかいたか?

 

 「救急車はええです。すみませんでした」

 

 はたして声の主は、自分自身だった。


 整えたつもりの伸び切った髪、首元がくたびれかけているTシャツ、酒の飲み過ぎで出っ張り始めた腹、40歳にして目立ち始めた顔の皺。

 

 「やっぱり俺、頭打ったかもしれない」


 呆然と声に出してしまったアサヒに目を向けたのは、ハルトだった。



 

 おっさんが僕にぶつかってきたんは、道路に飛び出す前。頭が思い切り鼻に当たってきて、そのまま道路に飛び出したんは覚えとる。目の前にはタクシーがおって……それから……一瞬だけ記憶が途切れた。

 

 なんで目の前に僕がおるんや。


 「危ない、事故になる所だったよ」

 「届け出さないで集まるから、こんな事になったんだろ!」


 誰も、事故あったって前提で話してへん。まだ揉めとる連中もおる。

 てことは、

 僕かてかれてないと思った。だからタクシーのおっちゃんと話したんや。

 

 でも……鼻血出してる僕が目の前におるのは、どういう状況なん?

 意味が分からへん。


 二人はどちらともなく近寄ると、顔をマジマジと見ながら同時に声を出した。

 

 「――……てか、誰?」









  自分自身に手を引かれるってのは、妙な気分だな……もしかしたらこれが、地球を牛耳ってる宇宙人ってやつかもしれないな。目の前にいるのは、俺の格好をしたゴム人間。つっても、現実味ねえなー。

 

 藤村ふじむらアサヒは、日頃から自分が信じている陰謀論のあれこれを思い出しては、首を捻っていた。彼には、麻布界隈の土地勘が全くない。「状況を整理しよう」と言った声の主は、デモ集団から離れて信号を渡ると、2ブロック先にあるファミレスへ入店していった。


 「いらっしゃいませ。お客様は二名様で宜しいですか?」

 「はい」

 「禁煙席で宜しいでしょうか?」

 

 「――……あー。喫煙で」

 

 店員がいぶかしげな表情でアサヒを見る。声の主である槇島まきしまハルトは自分と瓜二つの、どう見ても未成年の姿をしたアサヒをにらんで一瞥いちべつすると、笑顔で店員に「禁煙で」と答えた。


 窓際のソファー席に通されて、着席する。早速小腹が空いてきてメニューを広げだしたアサヒに向かって、トントンとテーブルを叩いたハルトは、窓を指さした。ついでに持っていた眼鏡を掛けるよう促す。


 「まず自己紹介をしましょに。入ってくる時、窓に映っとった」


 促されるまま眼鏡を掛け、窓ガラスに映り込む自分を見たアサヒは、驚きを隠せなかった。何か仕掛けでもあるんじゃないか。と、思わず窓へ手を伸ばしてしまう。


 めっちゃ若返ってる。てか、別人じゃねえか。やや癖のある黒髪。黒縁の眼鏡がよく似合う、大きな奥二重の目。痩せ型でやや小柄な身体。


 「僕の名前は、槇島まきしまハルトって言います。17歳。高校二年です」

 

 「――……どうも。藤村ふじむらアサヒです。年齢は……先月40歳になりました。今は、訳があって休職してます」


 二人は混乱している頭を鎮めるように、丁寧なお辞儀をした。通路を挟んだ向かい側に座る、若い女性客達がチラチラとこちらを見る。微妙な沈黙が流れる中、店員が注文を取りに来た。アサヒは先程から、どうにも喉が乾いて仕方がなかった。暑かったのもあるし、状況を把握するだけのキャパがオーバーしてしまっていた。


 「ご注文はお決まりでしょうか」

 

 「じゃあ俺、ビールで。後、ポテトフライ」


 不安を覚えたアサヒは貧乏ゆすりをしながら、いつもの調子で店員にオーダーした。ハルトが、コンコンと窓ガラスを叩く。自分の姿をもう一度見てくれ、というジェスチャーだった。


 「すんません。今の、取り消して貰ってええですか?アイスコーヒー2つで」

 

 「かしこまりました。ミルクとガムシロップはお使いになられますか?」


 適当に頷いたハルトは店員が去ったのを見届けてから、アサヒに小声で語りかけた。

 

 「信じたくない話やとは思うんですけど。僕たち、入れ替わってもうたみたいなんです」

 

 「――……レプティリアンだ」

 

 「は?」

 

 「あれよ、宇宙人とかマトリックスとか。そういうやつ。いやあ……本当にあるとは思わなかった」

 

 「あの、失礼ですけど。お酒飲んどったでしょ?さっきから、頭がめっちゃフワフワするんです。息もアルコール臭いし」


 手で顔を覆ったハルトは息を吐きかけると、苦虫を噛み潰したような顔をして舌を出した。今日はまだ、レモンサワー9%ロング缶を4本しか飲んでない。そんな位で大袈裟な、と眉間にしわを寄せたアサヒは、ふてくされた顔であごに手をやった。

 

 なんだよ、髭も生えてないくせに。ツルツル高校生。

 

 アイスコーヒーがテーブルに届いたハルトは、アサヒの様子などお構いなしで続けた。


 「相当に非現実的な事が起きてますけど。これ、現実です。むやみに話を広げんといてください。それ、動画とかでよくある陰謀論でしょ?」

 

 「分かってないねえ、君。ま、息子と大して歳変わらねえもんなあ……いいか。教えてやる。陰謀があるから、陰謀論って言葉があるんだ。なければ、そんな言葉は存在してない」


 SNSで見かけた受け売りを、ドヤ顔で披露したアサヒ。そんな彼を見るハルトの目は冷たかった。

 

 「そですか。じゃあ、今すぐ解決してください。よう知っとるんでしょ。僕かてこんなおっさんのまんまなん、嫌や。身体、返したってくださいよ」

 

 息子と大して歳の変わらないハルトから、あっさり論破されてしまった。アサヒは気まずそうに貧乏ゆすりを続けると、コーヒーに口をつけた。解決方法がないと言うことは、お互いが入れ替わったまま生活を続けなければならない。下手すると、それは一生かもしれなかった。

 

 こんな事を科学的に解明したなんて話、40年間生きてきて一度も聞いたことがない。

 

 ようやく事の重大さに気づいたアサヒは座り直すと、ざっくりとした自分の背景を話し始めた。ハルトがそれを、スマホで音声入力している。大体話し終えてハルトの番となった時、通路向かいにいた女性客達のヒソヒソと話すが聞こえてきた。

 

 「何やってんの、アレ……パパ活?」

 「ないでしょ。男の方、貧乏くさいし」 

 「事案だったりして」


 アサヒとハルトの表情が、たちまち凍りつく。ここには長居出来そうになかった。


 最初に親子を演じて欲しいて言うとけば良かった……でもこのおっちゃん、そこまで器用な事出来ると思えんかったしな。アルコールが抜け始めて気分が悪くなってきたハルトは、必要最低限の事だけを伝えようと少し早口になった。

 

 「藤村ふじむらさん。僕の事は、後からメッセンジャーに入れときます。で、ここからなんですけど。今からバリパTVの受付に行ってください。僕の友人がおります。詳しいことは、彼が教えてくれると思うんで」

 

 「え、なんで?君、タレントかなんかなの?」

 

 「ちゃいます、恋リア……恋愛リアリティショーに出演するんです。これから、その打ち合わせなんです。分かります?恋愛リアリティショーって」


 ピンと来なくて首をひねるアサヒに、ハルトは恋愛リアリティショーの概要が載っているサイトを見せた。真顔で概要を読んでいたアサヒの顔が、パッと輝く。

 

 「これなら知ってる。俺らの世代にもあったもん。『ラブ乗り』って言ってさ。グループでワゴンに乗って旅すんの。で、カップルが成立したら帰国ってやつ。あれ流行ったんだよなー」

 

 「なんや。おっちゃんの世代でも流行っとったんや」

 

 安堵のため息を漏らしたハルトと対象的に、急に浮ついた口調になったアサヒが、声を弾ませる。

 

 「いやさあ。俺、憧れてたんだよねえ!顔が良かったら出たかったもん。たぬきっぽい顔の、おっぱい大っきい子が好みなんだよなあ」

 

 「おっぱ……そういうセクハラ発言、止めてもろてもええですか。しばらくは、僕として生活してもらうんやから」

 

 「口うるせえ男だなあ。ちょっと喜んだだけじゃねえか。セクハラ講習は、去年受けました。んじゃあれね、これからバリパTVに行って。その打ち合わせに参加すれば良いのね」

 

 「はい。そんじゃ、メッセンジャー交換しましょに。スマホも自分のを持てへんから」

 

 その台詞を聞いたアサヒは「あ!」という表情でハルトを見た。


 現代における入れ替わりで一番面倒なのは、スマホの管理かもしれない。アサヒがハルトとして、ハルトがアサヒとして生活するためには、スマホも入れ替えなければ不便な事だらけだった。顔認証、声認証、キャッシュレス決済……etc

 

 それはアサヒも例外ではなかった。現金を渡されると、飲みに行ったりであっという間に使い切ってしまう。妻のあかねからスマホ決済にして欲しいと、半年ちょっと前に押し切られてしまっていた。設定は息子がやって、アサヒはカードすら持たせて貰っていない。内緒でキャッシングを80万やらかしてから、強く出られなかった。

 

 実家暮らしに戻った今は、母親から現金をせびってパチンコで増やした金から、酒代を捻出ねんしゅつしていた。

 

 唯一、この状況下でラッキーなのは、二人が同じメーカーのスマホを使用していた事だろう。


 iPhoneで良かった……Androidだったら使い方が分からなくて、俺泣いてたわ。

 

 メッセンジャーの交換をした二人は「パパ活……」とヒソヒソ話をしている、女性客達から早い所離れようと席を立った。ハルトの足元がふらつく。浮腫んで疲れ切った中年男の顔が、青ざめていた。我ながらひっでえ顔だな、とアサヒは思う。

 

 「さっきから、酔って気持ち悪いんですけど。これ、どうしたらええんですか」


 ハルトの非難がましい目に息子の面影を見たアサヒは、目を逸らすと俯いて口ごもった。

 

 「――……ここんとこ、迎え酒しかしたことないから分かんね。それが一番効くし」

 

 「……なんやそれ。ドラッグストア行くからええわ。こまめに連絡取ってください。それだけは、約束してもろてええですか」

 

 「分かったよ。あっ!SNS。艦隊太郎さんにDMしなきゃいけねんだ。それは俺のアカウントでやって良いんだよな」

 

 「好きにしてください。ほだら、僕行きます。ほんま……吐きそうやわ」


 ハルトはふらついた足取りで会計を済ませると、そのままファミレスを後にした。もう何年も味わう事のなかった、アルコールの抜けきった身体。その身軽さに軽い罪悪感を抱いたアサヒは「いいじゃねえか、酒くらい」と独りごちて地図検索をすると、バリパTV局を目指して歩き始めた。

 








 最寄りの駅から地下鉄で二駅。そこから10分も歩かない所に、バリパTV局はあった。道すがらメッセンジャーにちょこちょこと入ってくる、槇島まきしまハルトの個人情報に目を通していた藤村ふじむらアサヒは、舌打ちをしながら金のかかったビルを見上げていた。

 

 地味な顔してるクセして、結構なボンボンじゃなねえか。TV局と自宅が近いってどういう事だよ……


 入り口に立つ警備員が怖くて気後れしてしまったアサヒは、中に入れずキョロキョロとするばかりだった。如何にもな業界人が、先程から慌ただしげに出入りしている。アサヒの給料では到底手の出ないようなスーツを着た社員らしき人物が、ロビーで打ち合わせをしているのが見えた。

 

 ――……どうしよう、帰りたい


 喉が乾いて落ち着かなくなってきたアサヒは、そのままきびすを返そうとした。アルコールなんて一滴も入っていないはずなのに、脂汗が出てくる。

 

 「ハルト!何やってんだよ」


 急に腕を掴まれて振り向いたアサヒは、これがハルトの言ってた友人か……と思った。メッセンジャーにはとっくの前に、友人である和賀わがタクミの写真と情報が送信されていたが彼は目下、めちゃくちゃに余裕を失っている最中なので見ていない。

 

 「待ち合わせに遅れるなんて、君らしくないな」

 

 「ああ……どっどうも。初めまして」

 

 「――……初めまして?ハルト、受付だけ済ませてきてくれないか。打ち合わせ、俺ら待ちなんだよ」

 

 和賀わがタクミは、身長がゆうに185cmはあるかと思われる、長身の少年だった。顔そのものも整っているのだが、それ以上に目立ったのは、生真面目そのものという雰囲気だった。眼鏡を掛けた目元に、それがよく出ている。直毛の髪はキレイにセットしてあり、着ている服と佇まいの上品さが育ちの良さを物語っていた。


 アサヒはガチゴチに緊張しすぎて、ロボットのようなぎこちない歩き方で受付に行くと、そこでフリーズしてしまった。

 

 受付のお姉さんからして美人だ。そして俺は一体、何を受け付けたら良いのか分からない。


 「関係者の方ですか?」

 

 「ええ……あっ。たっ多分そうです……」


 友人の方へ何度も視線を送る。アサヒは、友人の名前も知らなかった。メッセンジャーに気づく余裕は依然としてゼロ。下手すると入館する前より、なくなっているかもしれなかった。


 中身40歳の中年男は、今にも泣きそうな表情で友人にSOSのサインを送った。人の良さげな友人、タクミが走り寄ってくる。

 

 「関係者って言えば良いの?」

 

 「うん。先程受付を済ませた……『今、好きになってもいいですか?』の出演者です。ここに、名前と住所を書いて」


 受付表の該当箇所を、タクミが親切に指差しで教える。先程は受付の女性の美人具合に驚いていたアサヒだったが、今度は友人の距離の近さに驚いていた。近づいてきた顔が10cmも離れていない。

 

 近い……槇島まきしまハルトの友達、距離がめっちゃ近い……


 <タクミ君、距離感バグってるけど気にしないでね  by ハルト>


 背中から変な汗をかき始めたアサヒは、住所記入欄を見てようやくメッセンジャーの存在を思い出した。さっとメッセージに目を通す。

 

 和賀わがタクミ。同級生、親友。距離感がバグってる。バグってるってなんだよ……まあいいや。

 

 そうして自分……というかハルトの住所を探そうとして、アサヒは本気で泣きそうになった。積み重なった諸々にこらえきれず、声が出てしまう。

 

 「ふざけんなよ。俺、フリック入力出来ねえんだって!」

 

 隣で突然大声を上げた親友を、ポカーンとした表情で見ていたタクミは、心配そうな面持ちなると肩を叩いた。ただでさえ近い距離が、更に近くなる。

 

 「さっきから、どうした。具合悪いのか?」

 

 「いや……ああ。昨日、ちょっと飲みすぎちゃってさ。ハハッ」

 

 つい普段から使い慣れてる言い訳が口をついて出てしまったアサヒは、しまった!と思い、咄嗟とっさに両手で口をふさいでしまった。受付の女性とタクミが、目を見合わせている。

 

 「和賀わがさんのご友人は、ユニークな方でいらっしゃいますね」

 

 「――……ユニーク、なのかな。ここは、私が書いて良いですか?」

 

 「ええ」

 

 受付の女性はタクミに微笑むと、入館証をアサヒに手渡した。花のようないい香りが、女性から漂う。ポーッとした表情で女性の顔を見ていたアサヒの腕を掴んだタクミは、やや強引にエレベーターホールへと引っ張っていった。

 

 「そんなにTV出演が嫌なら、もっとハッキリ言ってくれたら良かったじゃないか」

 

 「……あのキレイなお姉さんって、知り合い?」

 

 「はい?ここ遠縁の会社だって。俺、昨日話したよな」

 

 初っ端からハルトの友人関係にヒビが入りそうだと感じたアサヒは、心底情けない気分になってうつむいた。不安にられ、利き足をガタガタと動かしてしまう。

 

 今のところ、俺が藤村ふじむらアサヒに戻れる可能性はない。全くない。だったら少しでも、槇島まきしまハルトらしく振る舞わなければ。


 でもさ

 俺、槇島まきしまハルトの事、なんにも知らねんだよなあ……

 だって、さっき知り合ったばっかだぞ!

 

 「あれだよ、キャラを作ったんだ……どうかな?和賀わが君」


 妙な早口でタクミにそう告げたアサヒは、こんな見え透いた嘘ついて誰が信じるんだ、と絶望的な思いで前を見た。


 エレベーターが開いて、見たことのある男性アナウンサーが出てきた。人がけたエレベーターに、二人で乗る。昇りのエレベーターには、自分達を含めた三人しか乗っていなかった。


 タクミは肘に手を当てると、一分ばかり考えてから納得した様子で答えた。

 

 「なるほど!やるね。ハルトはシャイだから、そういうのは非常にアリだ。ごめんよ、まだ慣れないだろうに。俺も察してやれなくて。標準語まで作り込んできたんだ。今、気づいたよ」

 

 え、信じたんだ……

 嬉しそうなタクミの顔が、グィーッと近寄ってくる。

 

 「……近い近い近い」

 

 思わず顔を手で押しのけてしまったアサヒを見たタクミは「イメージは猫かな?」と呟くと、それきり何も言ってこなかった。ぐったりしたアサヒは声に出さず「ビール飲みたい」と口を動かすと、ツルツルのあごをさすりながらひげを引っ張る仕草をしてやり過ごした。

 




 バリパTV21階、ミーティングルームAに向かってタクミと早足で歩いていく。スマートウォッチを見たタクミは「20分も遅れてしまった」と独りごちると、なお一層早く歩きだした。

 

 TV局は、アサヒが勤めていた会社の何倍も広い。こんな所に置いていかれたら、絶対に迷ってしまう。背の高いタクミに追いつこうと、半分小走りになりながらフロアを進んでゆく。

 

 これでも息が全く上がらないんだから、若いってすげえな。

 

 他人事のように自分の身体の軽さを感じていたアサヒは、突然止まったタクミの背中に鼻をぶつけてしまった。ツンとした痛みが額まで突き抜けてゆく。入れ替わった時に、しこたま藤村ふじむらアサヒの頭で顔面を打ってしまった事を、今の今まで忘れていた。

 

 我ながら、腹立たしいレベルの石頭だと思う。


 コンコン


 ドアをノックする音がして、タクミの顔が近づいてきた。

 

 「ここだから」

 「あ……はい」

 

 両開きのドアが開いた瞬間、アサヒはその光景と良い香りで卒倒にしそうなった。テレビクルーも勢ぞろいで、ザ・芸能界といった感じだ。その中に一人、桁違いの美人がいた。良い香りの発生源は、彼女に違いなかった。

 

 「おーぅ、和賀わが君。久しぶり。君が槇島まきしま君?」

 

 名前を呼ばれている事に気づかないアサヒは、桁違いの美人に目が釘付けだった。

 顔も良いけど、すげえ美人だけど。


 おっぱいが超おっきい。

 

 「お久しぶりです、宇佐美うさみさん。おい、ハルト。あいさ……」


 「おっぱい……」


 部屋中の視線が、アサヒに集中する。アサヒの視線は、おっぱいに集中していた。

 

 「ハルト、何言ってるんだ。うわっ!」

 

 あれ?何か、顔が濡れてる。

 折角、止まっていた鼻血が、また出ていた。

 

 「嫌だ、キモ……」

 「何、アイツ。ウケる」

 

 「あーららら。ADちゃん、タオル持ってきて!」


 前途多難な藤村ふじむらアサヒの恋愛リアリティーショーが、幕を開けた。

 

 憐れな少年、槇島まきしまハルトの評判は、最低からのスタートとなった。









  「えー、そんじゃ始めようかな。『今、好きになってもいいですか?』プロデューサーの宇佐美うさみです。うさPとか、単にPって呼ぶ人もいるけど。その辺は適当でいいよ」

 

 整えられた髭に白髪が混じり始め、麻のジャケットをラフに着こなしている。柔和な雰囲気をまとった宇佐美うさみは、クルーに合図を送った。カメラが回り始める。まだタオルを鼻に当てている槇島まきしまハルトこと、中の人は中年おじさんの藤村ふじむらアサヒは映さないよう、さりげなく手でカメラに指示を出した。


 そういう気遣いを当たり前にしてしまう男。それが宇佐美うさみをプロデューサー足らしめている、大きな要因だった。

 

 「ここにいる出演者の皆は、もうメディア慣れしてると思うけど。改めて恋リアってなると、緊張しちゃうでしょ。今、流行ってるよね。どのくらいの数が放送されてると思う?恋愛リアリティーショーって」

 

 「ネットメディアまで含めると番組数、20はあるんじゃないですか」


 緩いくせ毛と黒髪ロングヘアの特徴的な少女が、小さく挙手をしながら答える。そこそこの広さがあるミーティングルーム。その会議テーブルにちょこんと着席していたアサヒは、少女の顔を見ながら首を傾げた。


 あの塩豆みたいな顔、どっかで見たことあんだよな……

 

 「ご名答。流石は冨永とみながちゃん、ブランク感じさせないね」

 

 「そんな事ないですよ」

 

 謙遜してニコッと少女が笑う。アサヒは、少女がカレーのCMで一躍有名になった元天才子役、冨永とみながさつきである事に気づいて目をまん丸にした。

 

 つい最近まで、ランドセル背負ってなかった?!

 

 「冨永とみながちゃんが言ってくれたように、とっても多いの。ま、飽和状態ってやつだよね」

 

 「――……パイの奪い合い。視聴率きびしいっすよね。だから、ファイナルシーズンなんだにゃん」

 

 おどけた表情の女性が、猫の真似をしながら答える。中の人がおじさんのハルトは除くとして、ツインテールと派手なインナーカラー。不自然に大きな目とやたら通った鼻筋をした彼女は、集団の中で明らかに浮いていた。少なくとも、10代には見えない。

 

 「話が早くて助かる。りるちゃんに甘えて端折はしょっちゃうけど『今、好きになってもいいですか?』は、この度ファイナルシーズンを迎える事になりました。と言うわけで、有名どころの君たちに、無理言って出演をお願いしちゃったの。引き受けてくれて、本当にありがとね」


 宇佐美うさみが出演者と話をしている間に、アサヒはメイクさんから鼻血を拭いてもらい、目立たぬよう軽くベースメイクを施してもらっていた。カメラが、出演者全員を舐めるように映してゆく。


 宇佐美うさみから、神経質そうな顔をした30代の男性へ、マイクのバトンが渡される。男性は、ミーティングルームをざっと一瞥いちべつすると、事務的な口調で話し始めた。

 

 「初めまして。ディレクターの中田ナカタです。ここで軽く自己紹介していただいて良いですか。出演者の方は、番組内でも尺を取りますが」


 言い終わると同時に資料に目を通しながら、女性陣の方へ手をやる。

 

 「……和賀わが君」

 「どした?ハルト」

 

 和賀わがタクミの耳元まで近寄ったアサヒが囁く。


 有名人?ハルトのヤツ、何にも伝えなかったじゃないかよ。和賀わがに聞けとか言ってたっけ……無責任な男だな……


 友達も友達なんだよ。こっちからわざわざ近寄ってひっそり話しかけたのに、なんで更に距離を縮めてくんだ。近すぎて鼻息がかかってんだよ……と思いながら、アサヒが続けた。

 

 「出演者って全員、有名人なの?俺も?」

 「――……有名なのは、女性陣だけじゃないかな」

 

 その返答はあくまでタクミ目線でしかない事を、アサヒは知る由もなかった。

 元天才子役から立ち上がって、挨拶をする。

 

 「冨永とみながさつきです。今年、高校生になりました。TV出演は五年ぶりになります。久しぶりなので、ちょっと恥ずかしいですね。スタッフの皆さん、よろしくお願いします」


 立ち姿、目線の配り方、カメラ映りを意識した角度。その立ち振舞は、TV出演が五年ぶりとは思えない完璧さだった。隣に座っている、別格の美人へマイクを渡す仕草すら計算されている。

 

 恥ずかしげにマイクを持った、別格の美人が立ち上がった。身長が女性陣の中で、一人だけ高い。170cmはあると思われた。緊張した面持ちで、拳を胸にあてている。透明感のある出で立ちと華やかさは、そこだけスポットライトが当たっているように見えた。


 「成瀬なるせ凛子りんこです。高校二年で……えっと、TV出演は初めてです。とにかく緊張しています。皆さんのご迷惑にならないよう、頑張ります」

 

 「ガールズコレクションよりは、緊張しないでしょー。この間、行ったよー。ドームのやつ」

 

 凛子りんこの隣に座っていた、にゃんにゃん言っていた派手な女性が、揶揄やゆするように笑う。凛子りんこは顔を真っ赤にすると、俯いてしまった。一瞬、さつきの眉がピクッと動く。それが険しい類のものであることに気づいたのは、宇佐美うさみPくらいのものだろう。

 

 「ショーはお客さんが見えない……の。ライトが眩しくて」

 

 「出た出た、天然発言。インスタで炎上したばっかなのに」

 

 「――……私のインスタ、炎上してたの?」


 今度は、派手な女性の眉が動く番だった。目が不自然なまでに大きいので、嫌でも目立つ。その様子を会議テーブルの反対側から眺めていたアサヒは、ギスギスして怖い……と戸惑いを隠せなかった。昔の母親を思い出して、無意識に貧乏ゆすりを始めてしまう。

 

 「そういうのは、番組で見せてほしいかな。カメラ、一応回してるだけで使うわけじゃないからね」

 

 空気を読んだ宇佐美うさみが、フォローを入れた。ディレクターの中田ナカタは、知らん顔で資料に目を通したままだ。モジモジしている凛子りんこからマイクを取り上げた派手子が、元気よく立ち上がる。ツインテールが、跳ねるように揺れていた。


 「YouTuberやってまーす。りるななです。りるにゃんって、呼んでくださいね。年齢はナイショ!」


 「――……20代後半じゃね」


 アサヒには、自分が声を出してしまった自覚がなかった。ソワソワと足を動かしながら、りるななの顔をじーっと見ている。もっと言えば、失礼レベルで女性の顔をガン見している自覚もなかった。


 プッと吹き出す声が聞こえて来て、アサヒは隣に座っている少年に視線を移した。全体的に薄い色素をしていて、そばかすがある。笑っている口元からは八重歯が出ていた。

 

 「さっきから超ウケんだけど。槇島まきしま君って、そんなんだったんだ」

 

 急にハルトの苗字を呼ばれたアサヒは、和賀わが以外の知り合いがいるなんて、メッセンジャーには書いてなかったぞ。それぐらい書けよ!と思いながら少年の顔を見た。スタッフが、りるななから受け取ったマイクを少年に渡す。少年は立ち上がると、魅力的な笑顔で出演者を見渡した。

 

 「ども、北添きたぞえミコトです。高校三年生。オヤジのコネでたまーにCMとか、ドラマの端役やらせてもらってます。趣味は音楽です。よろしく」

 

 北添きたぞえ?聞いた事あるな……CMって……あの北添きたぞえテツヤの息子?!めっちゃ有名な俳優じゃねえか。そんな人達と知り合いの槇島まきしまハルトって、一体何者なんだよ。


 たまらなく不安になったアサヒは、ついに両足で貧乏ゆすりを始めてしまった。


 「ちょっと落ち着けよ、ハルト」


 タクミの近すぎる距離で我に返ったアサヒは、八重歯を見せながらニヤニヤ笑っているミコトからマイクを受け取ると、ゴクリと唾を飲んだ。酷く緊張して、喉が渇く。立ち上がって出演者を見渡すが、頭が真っ白になって言葉が出てこない。

 

 「あの……あ、あの……」

 

 槇島まきしまハルトの言葉を待つ人々で、ミーティングルームは沈黙している。

 

 「フジッ!藤村ふじむらアサヒ、40歳です!」


 「――…………さっきからさあ。なんなの君。真剣にやってくんない?」


 資料からようやく顔を上げた中田ナカタDが、不快感丸出しの顔でアサヒを睨みつけた。塩豆みたいな顔をした、元子役のさつきも呆れた表情でこちらを見ている。

 

 俺って、会社でもいつもこんな風に怒られてばっかだ。一生懸命やってんのに。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

④モブおじだって恋リアしたい! 加賀宮カヲ @TigerLily_999_TacoMusume

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ