幸運な狩人

鈴木彼方

幸運な狩人

 空は薄い膜のような雲に覆われている。ところどころにあいた小さな破れ目から、淡い冬陽が地表に伸びていた。風は吹いていないが、空気は冷えきっている。昼過ぎになっても気温は上がらなかった。


 ひとっ子ひとりいない明き地の片隅で、男は店を広げていた。ひょろ長い、節くれだった木の下にごわついた麻布を敷き、そこに香草や仕留めた獲物を並べている。男は冷たい地面にべったりと座り込んで、かさついた赤い手をごしごしこすった。


『まったく、誰も出歩いてねえ。香草二束売れたきりだ。この兎はおれの晩飯になるかもしれねえな。今年は麦の出来が悪かったみてえだし、貧乏人ばっかりだ。まあ、おれほどじゃあねえだろうけど。なんせおれはその日暮らしのやくざもんだ。ここいらの連中も貧乏人だが、おれのことはてんで見下してやがるからなあ。土地持ちにへつらう土百姓どもが、もっとひでえありさまのおれを見て慰められてやがんだ。言ってみりゃ、おれが奴らの意気地を励ましてやってるようなもんだぜ。感謝されてえくれえだよ。ああ、客が来ねえ。誰も外に出やがらねえ。今日は安酒しか買えねえかもしれねえぞ。はちみつ酒の残りでも持ってくりゃよかったぜ。寒いったらねえよ。こうやってべたっと座ってじりじりしてるときの方が、山んなかをうろちょろしてるときよりずっと寒いんだ。そりゃ、実際のところ山んなかの方がぐっと冷えるわけだが、不思議なもんで、獲物を探してるときはちったあなんだ。じっとしてるとたまらねえ。動いてるときはまぎれるのによ。それに、じっとなんかしてると、嫌なことも考えちまう。いじけた気分になっちまうんだ。いや、いじけてるわけじゃあねえな。いじけちゃあいねえさ。土百姓どもにゃ小馬鹿にされとるが、腹んなかじゃおれがあいつらを小馬鹿にしとるからな。おれはひとりで生きていけるが、あいつらはもたれあってなきゃ倒れちまう。そんな奴らが、ほんの少しだけおれよりもいろいろ物を持ってるってだけで、身分ちがいって具合にでけえつらしやがる。お前らがあわれんでるおれは、腹んなかじゃあお前たちをあわれんでるんだぜ……おや、誰か来るぞ? めずらしいな、村長と……なんだあいつらは? 物騒な格好してやがる』


 村長と数名の騎士、それとひとりの僧侶が、まっすぐに男のもとへ、早足で歩いてきた。『どうやら客じゃねえみてえだな』


「――今日は寒いね。売れてるかい?」


「さっぱりでさあ。香草が二束売れたっきり、誰も外に出てこねえ。こいつが売れりゃあ、酒でも買って帰れるんですがね」


 男は麻布に並んだ数羽の兎を指差し、村長を見上げた。『この老翁おじも気苦労の大い人生だったんだな。そういうつらをしてらあ』傷のように刻まれた皺だらけの顔に表情はなく、小さい目はどこか虚ろだった。疲れ果てているようだった。


「聞きたいことがあってね。こちら、はるばる都からいらっしゃった方々だ」


 村長はあご先をぴくりと動かして言った。背後の騎士たちと僧侶は自己紹介をするつもりはないらしく、じっと男を見つめるのみだった。男は居心地の悪さと恐れとを感じた。『おれに聞きたいことだって?』


「あっしなんぞに?」


「あんたが入ってる山に、なにやら《救世主たる転生者》とやらが降臨されたらしくてな、近く捜索するらしい。天啓だそうだ。あんたにも手伝ってもらうことになるかもしれんよ。しかしその前にな、もしもそういう御方が見えたら、村まで連れてきてほしいということだ」


 村長はかすれた細い声で、つまらなそうに言った。暗に『馬鹿げた話だ』と言っているような態度だった。村長にとっても厄介事でしかないのだろう。


「救世主? 天啓? なんですかい? そりゃあ?」


「さあね。とにかく、山の中で人を見かけたら、連れてきてくれ。わかったね」


「はあ」


「――下郎! 今日までに、山で人を見かけたことはあるか?」


 村長の後ろから野太い声があがった。誰が発したのかはわからなかった。高圧的な調子に男はぎくりとした。


「山んなかうろちょろしとるのはあっしだけですよ」


「……ああ、そうだろうね。とにかく、そういうことなんだ。山狩り……いや、捜索の折にはまた声をかけるよ」


 後ろの誰かではなく、村長が応じた。『わかりきっていたことだ』というふうにそれだけ言うと、きびすを返し足早に去っていった。男はいつのまにか汗でじっとりしめっていた手を、ぺっとりと頬に当てた。



 

 男は冷たく湿った毛布をどかし、身を起こした。小窓を覆う厚革を巻き上げると、まだあたりは薄暗い。早朝の星がたよりなくまたたいている。みるような外気が小屋に入り込んできた。男は覆い革を戻し、寝床脇の小机に置いた火打ち金を引っ掴んだ。


『くそったれ! 寒いはずだ! 火鉢が消えてやがる!』


 暗がりのなか、乾いた木屑を放り込み、乱暴に火打ち金を打ち合わせた。暗い部屋にカッチカッチと金属音が響く。火がつくと、男はゆっくりと寝床に座り、もそもそと毛布を肩にかけくるまりながら、部屋が暖まるのを待った。


『まあいいや。早く起きたなら、早く行けばいいんだ。身支度してりゃ、外も明るくなるだろう』


 男はしばらくじっと座ったまま、火鉢を見つめていた。なんとはなしに右手の親指と人差指であごひげをねじる。うつらうつらしてきた。火鉢からパチンとはじける音がして、ハッとした。


『なにか食うか』


 男は立ち上がって天井に吊り下げた角灯に火を入れた。獣脂の臭いが漂う。そして土間の方へ行き、壁に吊るした干し肉を手に取った。すぐ隣に刺さった短刀を引き抜く。肉に刃を当て、適当な大きさにそぎ取ると、ぽいと口に放り込んだ。硬い肉を唾液で湿らせながら、繊維をほぐすように辛抱強く噛みつづける。そして、もぐもぐ咀嚼しながら土間近くに置かれた水桶にかがみ込んで、あぶらっこくぬめった手と顔を洗った。汚れた布切れで濡れた手と顔を拭い、食卓に目を向ける。陶器にほんの少し残ったはちみつ酒をぐっとあおり、肉とともに胃袋におさめると、昨夜の食べ残しの干しいちじくをかじった。甘酸っぱさが口中に広がった。


『ようやっと目が覚めてきたな。たまにはぶどう酒が飲みてえもんだ。罠に鹿でもかかりゃいいんだがな。鹿なら売れるんだ。鹿なら絶対に売れる。鹿がかかりゃ、ぶどう酒だって買えるぞ。そろそろ麦も買い足さにゃなるまいし、の黒いやつでいいから麺麭パンも欲しい。ああ、鹿がかかってりゃいいんだがなあ』


 男は革長靴に足を突っ込み、狐狸のたぐいの毛皮を縫い合わせたつぎはぎだらけの上着を着込んで、いったん外に出た。外は薄ぼんやりと明るみを増していた。


『今日も寒いが、胴着はいらんかな』


 ふたたび小屋に入って、扉近くに乱雑に置かれた狩猟道具をまとめ、すぐにまた小屋を出た。角灯の火は消し、火鉢はそのままにしておいた。




 小屋から一時間ほど分け入った先に、泥水の溜まり込んだちっぽけな窪地がある。男はそこからさらに三十分ほど獣道を進んだ谷口あたりを目指していた。


『冗談じゃねえよ。厄介なことだぜ。さっさと罠を調べてまわりてえところなのに、わざわざこんなところによ。途中で獲物を見っけられたら運がいいんだが、どうやらそういう運にゃ見放されているらしいな。しかしまあ、村の広場で馬鹿みてえに座り込んでいるよりゃ、よっぽど気分がいいってなもんだ。おれはずっとこうやって生きてきたんだしな。さて、そろそろだ』


 谷の戸の手前に長く連なった枯れ木の根方あたり。小さな赤い花を咲かせた灌木かんぼくの茂みに、男がここまでやって来た目的たるがあった。


『ふう。やっとこさ到着だ。さあ、どうしようかな。おや? こいつは……』


 男は灌木かんぼくうずまるように座した死体に近寄って、状態を調べた。死体は首のあたりに噛み跡があり、頭部はがっくりと腹のあたりに落ちていた。千切れそうなほどだった。よく見ると、手のあたりもだいぶやられていて、指が数本かじり取られていた。


『おお! やったぞ! いい具合に狐かなにかが噛みついたみてえだな! これでもう矢傷はわからねえ! こいつはついてるぞ! なにやら見たこともねえ上等な服を着ていやがるが、引っ剥がさなかったのも正解だった。これでおれはもう無関係でいられるな。ほっとしたぜ!』


 男の頭上でからすの鳴き声がした。ハッとして見上げると、枯れ木の高みは無数のからすたちで黒々としている。つぎつぎに鳴き声が重なって大合唱となった。男が近寄ってきたので、を中断していたのかもしれない。『早く立ち去れ!』と言っているようだった。


『ははは! からすどもがあっという間に食い散らかすにちがいねえ。どこの誰だか知らんが、運の悪いやつだ。まさかこんなところに人がいるとはなあ。しかし、よりにもよって首にぶっ刺さるとはね。おれだって、死なねえ傷だったらなんとか助けたさ。そりゃあ、助けるのが筋ってもんだ。おれのだからな。ただ、運が悪いやつは助けられねえ。死ぬとわかってるやつにはなんにもしてやれねえのさ。村長の話を聞いたときにゃ肝が冷えたもんだが、どうやら神さまはおれを救ってくだすったみたいだな。もしも矢傷がむき出しだったらば、おれはどうにかこいつを、埋めるなり焼くなりしなけりゃならんかっただろう。そんなことをするのは……しなくてもよくなったいま考えてみると……もしかしたら、悪いことかもしれんしな。そんなことをしなくても済んだってのは、まさに神さまの思し召しってこったろうさ。いやあ! よかったよかった! さあ、こんなことはもういいんだ! さっさと罠を調べに戻るぞ! 時間がもったいねえ! 鹿がかかってるといいなあ!』




 丸い木製容器を傾け、とくとくとさかずきにそそがれるぶどう酒をうっとりと見つめながら、男は実に満足げな笑みを浮かべていた。小屋は火鉢で暖まっており、天上に吊り下げたふたつの角灯が室内を明るく照らしていた。なにもかもがうまくいった一日だった。罠には鹿がかかっていたし、高く売れる山鴫やましぎを三羽も仕留められた。村に下りていって店を広げてからしばらくは相変わらず閑散としたものだったが、陳列された鹿のあし山鴫やましぎに気づいたひとりの老婆が興奮してわめきはじめ、それを機にわらわらと人が集まってきたのだ。おかげで他の肉も香草もすべて売れた。それは滅多にないことだった。男はぶどう酒と麦と麺麭ぱんを担いで帰ることができた。


『あの誰だかわからん《転生者》とやらにゃ申し訳ないが、うまくいったってもんだぜ。ひょっとすると、あいつが不幸になったもんだから、あいつが持ってた分の運気がおれに入り込んじまったのかもしれねえなあ。いやあ! そうだとしたらば、申し訳ねえって話だ! あいつがおれになにかをしてくれたってことでもないんだが(むしろおれが奪っちまったのかもしれんがね)、目に見えねえ不思議なきっかけってもんがあったりするだろうからな。それに、すべては神さまが決めてることなんだから、おれの不遇も、ときたまの幸運も、あいつの不運も、いっさいがっさい思し召しってやつなんだ。いろんな偶然やは、そうとしか考えられねえもの。疑いようもねえことさ。そうして、神さまが決めなすったあれこれをそっくり受け止めて、いつか生きているのもそろそろ限界だ、もう勘弁してくだせえってところで、どんくらい御心みこころを受け止めてきたのかが量られるってことなんだ。お裁きが済みゃ、このどうしようもなさに耐えつづけたことを褒めてくだすって、きっと御国みくにに迎えてくださるにちがいねえ。まあ、つらいことばっかりじゃねえんだ。たまにはいいこともある。そこらへん、神さまもわかってるんだな。そう、たまにはぶどう酒も飲めるんだ。がしんどいわけじゃねえさ。ときどきはご褒美をくださるって按配だ。おっと、そうだ、こういう夜には祈りを捧げなけりゃいけねえ』


 男はよろめく足で立ち上がった。かまどの横の机に置かれた小さな聖像を掴み取り、ふらつく足で寝床のあたりまで歩を進める。どすっと腰を下ろした。男は聖像をじっと見つめた。木でできたそれは垢光りしていて、ところどころが削れている。もはや、かつて聖像だったものに過ぎなかった。男は突然、それを火鉢に投げ込んでしまいたい衝動に駆られたが、それはほんの一瞬のことで、すぐにまた、自分なりの、物寂しい敬虔けいけんの念一色に染まった。男はしばし扱いかねるように聖像を手のひらで弄んでいた。しかし、ついに観念したように立ち上がり、聖像を机の上に置くと、一歩下がって跪拝きはいした。男は一分くらいそのままでいた。そして、それが済むとがばっと勢いよく身を起こし、空っぽになったさかずきにぶどう酒をあふれんばかりなみなみとそそいだ。男はぎゅっと目をつむりながら、それを一気に飲み干した。


(了)

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