アカリちゃんのこうふくなしゅうまつ

藤田桜

ハッピーエンド


 百年ぶりに雨が降った。

 今まで大根おろしとかイワシとか中島敦とか変なものしか降ってこなかったから世間はもう大はしゃぎで、テレビを見れば、歓喜のあまりすっぽんぽんで道頓堀に飛び込んだおじさんが警察に捕まっていた。

 それまで人類は大根おろしとイワシの値段の暴落による深刻な経済危機に苦しみながら、側溝から漂うヤバめの腐臭に涙を流し、なんか申し訳ないけど人口数百万人にも上る中島敦に一人一人番号を振り分けさせてもらって各家庭で受け入れたりと、空から降ってくるものに翻弄され続けてきたのである。

 かくいう私もその一人。謎の義侠心を発揮したお母さんが中島敦を三人も引き取ってきてしまったのだ。「責任は取れるのちゃんと養えるの」と娘の私に詰られながら彼女は今日も元気に大根おろしを添えたイワシを一人の夫と二人の子供と三人の中島敦に振る舞う生活を送っている。

 お父さんは渋々と言った様子で中島敦たちを受け入れたが、弟のヒロトは幼さゆえか去年見たアニメの影響か「すっげー中島敦だ! 俺も中島敦になる! そんで虎になってがおーって!」と家の中を暴れ回っている。そんな中島敦がいてたまるか。見ろ、三人の中島敦たちはみんな穏やかな顔をして、静かに、大人しく本を読んでいる。一人目は『カフカ全集』の第二巻を、二人目は『古代メソポタミア全史』を、三人目は『国政を一人で支えていたのに婚約破棄された悪役令嬢ですが、私は美白の骸骨皇子と幸せになるので今更戻って来いと言われてももう遅い3~骸骨皇子のスペシャリテ~』を。最近は中島敦間の競争が苛烈になって、差別化を図るものや原点回帰をしようとするものの二派閥に分かれている。昨日は三人のうち一人がZoomで面接を受けていた。中島敦をやるのも簡単なことではないようだ。

「雨ですね」

 さっきまで『国政を一人で支えていたのに婚約破棄された悪役令嬢ですが、私は美白の骸骨皇子と幸せになるので今更戻って来いと言われてももう遅い3~骸骨皇子のスペシャリテ~』を読んでいた中島敦が顔を上げて呟いた。ウチでは「ジークフリート」と呼ばれている中島敦である。個体識別番号は2598578、WEB小説への造詣が深く、アニメ化したものは必ず録画して昼に視聴している。

「こんな豪雨いつぶりだろう」

 呼応するように口にしたのは『古代メソポタミア全史』を読んでいた中島敦。個体識別番号は2598577。あだ名は「ジッグラト」だ。彼ら中島敦には二十世紀日本で暮らしていた記憶がある。私たちにとって雨というものは、学校に保存された古い映像を視聴しながら中島敦たちの解説を聞くことによってようやく知りえるものであった。彼らの授業は非常に面白く、語り口は鮮やかで、だからずっと、きっと雨は素晴らしいものだと思っていた。大根おろしのように食卓を白一色に染め上げるでもなく、忘れ去られたイワシのように腐臭を放つでもなく、今や人類のマジョリティと化した『山月記』の作者のように日常を侵食するのでもない、美しい、水の玉。

「ここ数日ずっと警報が出ているからね。家が浸水しなければいいんだけど……」

『カフカ全集』の中島敦が台詞を引き継いだ。彼の呼び名は「毒虫グレゴール・ザムザ」。個体識別番号は1583429である。

 実際雨は素晴らしかった。百年のブランクの埋め合わせをするかのように何日も何日も絶えることなく降りつづけ、私の住む町を水浸しにし、いつまでも続く休日を与え、日常をまるで東南アジアの船上市のように作り替えた。今となっては最寄りのミスギヤもダイエーも海の下。大根おろしとイワシの備蓄を擦り減らしながら世界は刻一刻と終末に向かっている。そういえば、道頓堀に飛び込んだおじさんは昨日バラエティのインタビューで憔悴した姿を見せていた。「このままやったら次の阪神の試合見る前に干からびてまう」と。その口ぶりが何だか面白くて、つい頬が緩んでしまう。いわゆる思い出し笑いだ。

「アカリちゃんは、どうしてそんなに楽しそうにしていられるんですか?」

 ジークフリートがそこまで口を開いて、何かに気付いたように顔色を変えると、少し慌てて付け加えた。「いえ、皮肉じゃなくて。純粋な興味と言うか」

「雨はきらい?」

「いいえ。ですが、ここまで来ると雨というより、災害と呼ぶべきでしょう」

 どう言えばいいかな──。頭の中で逡巡しながら、私は彼に微笑みかけた。

「私のはじめての雨は、これなんだ。だから、ええと。私は何にも不自由を感じていないし、むしろこの雨の方が自然なんだと思ってる」

 ジークフリートは僅かに顔を俯けた。目元が翳る。その声色はどこか落ち込んでいた。

「こんな雨では、アカリちゃんたちが外に出ることができません。雨上がりのきらめきを見ることさえできません。物陰に出来た小さな虹に喜ぶことも、水溜まりを踏んだり踏まないようにして遊ぶことも。──僕らの時代の雨は、もっと優しいものでした。それをあなたに見せられないことを、仮にも先人として恥ずかしく思うんです」

 私には、どう返事すればいいか分からなかった。でも、きっと、優しい雨じゃダメなんだ。すべてをブチ壊してくれるような雨がいい。進路が決まらなくてうんざりするような帰り道を、クラスの友達との問答にいちいち怯えるような日常を、大好きな家族と一緒に暮らすほどにその醜さを知っていく生活を、ぜんぶブッ壊してくれるような雨じゃなきゃダメなんだ。そうでなきゃ、私は──

「アカリちゃん」

 ジークフリートは椅子に座ったまま天井を見上げ、一つだけ息を吐くと「アカリちゃん、絵筆と紙はありますか」と尋ねた。私は手短に「あるよ」とだけ答えると、美術の授業で使っていたやつを持ってきて、差し出す。

「ジッグラト、毒虫、少し手伝ってもらえますか」

 中島敦たちはずっと絵を描いていた。もう一時間もすれば晩ご飯の時間になるな、と思ったところでジークフリートが私の名前を呼んだ。

「僕らでは、こんなものしかアカリちゃんに見せることができないのです」

 草原に雨が、静かに降っている。濡れた花は雲間に光を浴び、僅かに首を傾けていた。次の絵では、雨上がりの通りが描かれていた。子供たちが遊んでいる。自転車の陰に、小さな虹が微笑んでいた。太陽が、眩しい。三枚目、最後の絵は軒先から雨だれが落ちていく様子を描いていた。ひどくささやかな情景のはずなのに、どうしてかとても美しく思えた。

 けれど、私が望む雨は──。私は困ったように微笑む。ジークフリートも悲しげに微笑んで、互いに顔を見合わせた。わたしは、あなたたちのことが大好きだよ。優しいジークフリートたちのこと。あなたたちが来たばっかりの頃は戸惑いの方が多かったけれど、今じゃちゃんと家族だって思っている。言いたいことはたくさんあるはずなのに、どうしてか口は開かなくって、思いは胸の奥へと溶けていってしまう。台所の方からお母さんが呼ぶ声がした。私たちは「はーい」と答えて部屋を出る──と、その前に、ベランダの窓を見やった。……OK。これでいい。

 雨は降りつづける。きっとこの世界最後の雨が降っている。

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アカリちゃんのこうふくなしゅうまつ 藤田桜 @24ta-sakura

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