思想犯とチュロス

教誨師が役人の方を向き首を横に振るのは、隣で佇む罪人が改心をしていない証拠だと、兄さんはもの珍しがるのを隠しもせずに話した。改心にまつわる質問は、この国において思想犯にのみ誂られる手続きらしい。改心したところでその先はおおよそ禁錮か強制労働だが、多くの思想犯はそこで自分は真っ当なふざけた人間であることを示すのだという。兄さんの顔を見てから周りに立つ大人たちを眺めていると、観衆の騒ぐ声はもはや熱狂のそれであるように思われた。


「処刑って、クリケットの観戦みたいだね」


僕は兄さんにそう言うと、兄さんはブロンドの髪を揺らして、「そんなことを言ってはいけないよ」と微笑んだ。5時間越えのクラブチームの試合にも、月に2度はある公開処刑(ぼくにとっては初めて見るものだが)も、その他どんな退屈なものにも悦びを見出してしまうのだと、僕は思う。兄さんのようなよく教育された人間いわく、大衆はもう少し聡明らしいけれど。

教誨師の老人は罪状を高らかに読み上げていた。秩序と信仰への冒涜。異端の言行。それらは僕たちにとって、よくある死の理由だが、彼は少し違っている。風刺作家に真剣になれと脅迫をしたらしい。だからこれは社会性が高い問題なんだと、兄さんはもったいぶるように、あるいは茶化すように言う。僕は社会学に明るくないから、今から生きるには真面目すぎた人が死ぬ、惨めに、首をかられて死ぬ、みたいなことを、ぼんやりとだけ認識していた。兄さんがこら、しっかりしてと言った。


「ほら、処刑が始まるよ」


罪人がギロチン台に頭を置くと、潰れたブルーベリーのような黒い瞳が僕達の前に開かれた。彼はともかく美男子で、それも正しさに基づいた美しさを放っていた。苦しみ抜いて死ぬ人が目の前にいることを誰もが認めるような、神聖な死がここにあることを、僕はすぐに確信した。これは危険だ。僕は兄さんの裾を引いたが、もう遅かったのか、兄さんも釘付けになっていた。

刑吏が辺りを見回すと、あたりはいっそう静かになった。ただし、誰もが興奮していた。誰も咳ひとつしないロウソクの火に抱くような、一つ一つが正しく、繊細な炎。だがひとつとして熱にうかされていない者はいない。少なくとも僕にしてみればそれは、一人の美しい存在が消えるのを受容するための時間だった。国家が全体主義的なやり口で、美しい個人を殺めることを理解するための猶予。あるいは思想を許されない僕達が、何かを考えるための猶予だった。1分が、2分が、2分30秒が経った。そして大きな衝撃音が鳴った。

僕はしばらく呆然としていて、張り詰めて止まったような時間で、誰にも触れられない心の奥底、パニックを起こしていた。きっとみんなもそうだと思っても、それはなんの救いにもならない。

それから静かな晴れた日の池にゴミを捨てたあとみたく、人々は不規則な活動を始めた。

「ねえ母さん、あっちでいい匂いがする。きっとチュロスだよ」と、後ろの方で声の高い女の子が言った。確かに辺りはいい匂いがした。肉の焼ける匂いだったら良かったのにな、と僕は思った。しばらく誰も堂々と肉を食えないのに、肉の匂いでみんなが吐き気を催したら、 それはとっても喜劇的だろうに。だが僕がそう思う以上に甘いグルマンノートは、罪人の首が落ちた現実をも、現実の中に回収していくようだった。それと同時に、焼き菓子の匂いも一段と強くなっていた。 歓喜する群衆の中でようやく、僕は涙を流すことができた。

兄さんも目の奥に黒色を宿して泣いていた。そして一連の流れに収まるように、兄さんはなぜ泣いてるのか僕に聞いてきた。歓喜の涙だよ。思想犯にならない為に正しい感想を述べると、それは良かったと兄さんは微笑んだ。かくして僕は絶望した。きっと兄さんも僕も、その他大勢も、処刑台のある広場で思想犯になるためのハウツーに、想いを馳せてしまったのだから。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

死に目と僕(短編集) @hemutendency

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る