軽い命

黒川魁

オムニバス作品『酷く寝苦しい夜だった』

酷く寝苦しい夜だった。

こんなにひどい熱帯夜は久々だ。


 起き上がって温度計を見ると37度を超えている。地上に住んでいた時にはもっとひどいこともあったが地下巨大冷風施設のおかげであの頃よりはいくばくかマシに感じる。もっとも、第三層もそろそろ潮時という噂もある。


 私はこの層よりも下の層に住む気はさらさらない。第四層への居住権は今までで最も苛烈になると言われているし私と運命を共にするサボテンたちがかわいそうでならない。しかし、今更観賞用の植物にさく水はどの家庭にも残っていないだろう。


 午前4時。少し早いが配給に向かうことにした。

 誰かが命を懸けて届ける酸素を惰性で生きるために受け取り、いつの間にか届けられている固形食を食べて、生きる。空の酸素ボンベを背負って部屋の外へ出た。

 むあっとした空気に包みこまれる。いたるところから黄色いガスが噴き出ている。硫黄の匂いも立ち込めているのだろう。酸素マスクのせいで何も感じないが。


 にゃあ……


 首輪をつけた猫が目の前にふらりと現れた。誰かに捨てられてしまったのだろう。眼が真っ赤に充血して、息が荒くなっている。あいにく、私の分のマスクと酸素しか持っていない。かわいそうだとは思わない。地上から地下へやってきたとき。階層を下へ移動したとき。あらゆるものが配給制になったとき。外は元ペットたちで溢れかえった。暑く暗く有害物質の立ち込めるひどい環境の中でペットたちが生きていける術はなく、1か月もすればみんな死んでしまっていた。私の足元で苦しそうにしながらも体を摺り寄せてくるこの猫はとても幸運な部類に入るだろう。


 しばらく苦しそうにしていた猫もそのうちすっかり動かなくなった。劇物を飲んでいたのかもしれない。毛皮の下にある肉は私にとって何の役にも立たないが、この階層まで連れてきた家族にとってはかけがえのない存在だったに違いない。


 配給用に設営された仮設施設の前まで来ると、案内ロボが現れた。

“ようこそ、地底の皆さん“

 胸元の電光掲示板に表示された文字がゆっくりゆっくり変わっていく。

“居住者ナンバーを、入力してください”

 地下に移り住んできたときに国から一人一人に配布されたナンバーは、すっかり市民の生活をあらゆる面で掌握してしまった。すっかり黒ずんだキーを叩き、確定ボタンを押すと案内ロボはどこかへいってしまった。


 新しいボンベを背負って歩き始めると案内ロボがサイレンを鳴らしながら施設の周辺をあわただしく動き回っているのを見かけた。

 追いかけて回り込み、掲示板を見ると

“地下政府が居住区第四層開放を宣言。日本地区の人口制限は第三層より五万人減”

と、速報が流れていた。

 周囲の住宅へ速報を知らせる広報車が背後を通り去っていく。


 市民に発布したということはつまり、この階層へはもう二度と配給は来ない。

 このボンベに入った圧縮酸素は元に戻せば300㎏、二週間もすれば使い切れる。急に決まった私の寿命はたったの二週間。変わらなく続く二週間。

 そのあとはきっとさっきの猫のように。

 戻って死骸を埋めてやろう。重いボンべは私の命。軽く、軽くなった気がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

軽い命 黒川魁 @sakigake_sense

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ