プロローグ・出逢い

 

 森のなかをほのかな風が舞っていた。

 初めて独りで狩りに出た少年は、風にいざなわれたような気がした。

 入ってはならないとされている森だ。

 少年の祖父が若い頃、その森に入って行方知れずになったことがある。半年後にひょっこり戻ってきたが、森でのことはなにひとつ覚えていないと言っていた。

 その祖父はすでに亡く、父は禁忌をやぶるような人間ではなかった。

 少年も、十五歳になる今日まで、父と一緒に狩りをしていたから同様に禁忌の森には踏み入らなかった。

 だが、その日は違った。

 独りで獲物をとらえ、村に持ち帰らねばならない。それが大人の男の証しなのだ。

 少年の心を惹いたのは、見事な角をもった大きな雄鹿だった。

 まるで森の王者のような風格をそなえ、首筋をぴんと立てて、少年を見据えた。視線にうたれて動けない少年を、あざ笑うかのように一度二度と首を上下に振り、それから悠然と森の奥へと消えていったのだ。

 禁忌の森へ。

 雄鹿への敵愾心と、同時にわきおこった憧れの想いが、ためらいを容易に吹き消した。

 少年は雄鹿を追って森に入った。

 禁忌の森は、しかしなんの変哲もない森だった。

 ただし、木々の樹齢はとてつもなく高いようだ。古い木々には独特の雰囲気がある。それは確かに神韻を感じさせるものではあるのだろう。

 だが、若く弾む心にはそれは穏やかで平和な森の光景としてしかとらえられない。

 雄鹿の姿は消えていた。

 少年は耳をすました。狩りで鍛えられた少年の感覚は、ちょっとした獣の気配も探り出せる。

 気配が動いた。

 少年の頬が紅潮した。弓を握る掌がじっとりと汗ばむ。

 背中の矢立てから矢を一本抜き、弦は引かずにそっとつがえておく。いつでも射出体勢に入れる準備だ。

 足音を殺しながら、そっと茂みをかきわける。

 水音が聞こえた。

 泉があった。飴色に光る水が、こんこんと湧き出している。湧水は小さな池となり、小川となって流れている。

 鳥たちが周囲の枝にすずなりになり、リスやテンといった小さな獣たちが水辺でたえず動いている。

 と、獣たちが動きをとめた。新たに大きな気配が場に現われたのだ。

 雄鹿だった。

 まさに王者の貫禄で、雄鹿は泉に近づき、水を飲みはじめた。

 少年は弓をあげ、弦を引いた。心臓がはねあがりそうにときめいている。

 雄鹿は安心しきっている。少年に横腹をさらして、水をおいしそうに飲んでいる。

 (いまだ)

 何度か少年は思った。弦をおさえた指を放せば、雄鹿の首筋を矢は捉えるだろう。

 だが、もうしばらく少年は見ていたかった。雄鹿の悠然たる姿を。

 と。

 雄鹿が首をあげた。

 少年は狼狽した。みつかったのか。

 そうではないようだった。雄鹿は首をあげて、泉の奥をみつめ、それからうやうやしく一礼したのだ。

 ああ。

 森の生き物たちの尊敬を集めているのは雄鹿ばかりではなかった。それどころか、王者然とした雄鹿すら、深々とこうべを垂れるべき主人が存在したのだ。

 少年は息をのんだ。

 白い裸身が水滴をまとって光にさらされる。

 心臓の高鳴りは、さらに激しくなる。

 予感が胸をやく。

 新しい出会いの。

 そして、新しい冒険の始まりの。



                          -了-

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スフィア 琴鳴 @kotonarix

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