第5章 再戦
1
「ジェネフ! 魂の翼よ、大きく広がりて、われらを忌まわしき重力の巨人より
解き放て!」
トトの声と指が描き出したのは、コブラとさざなみ、それに亜麻糸という奇天烈な文字の組み合わせだった。それに鳥の翼の文字で意味を与え、呪文は完成した。
キズマたち三人の身体がふぅっと宙に浮かんだ。
重力というものが、地中にひそむ巨人の仕業であるとするなら、キズマとその仲間たちのまわりにだけ、巨人の意識が届かなくなってしまったかのようだった。
飛ぶ。
というより、浮く。
どんどん速度が上がっていく。
キズマは下を見た。タルタルーガの街の輪郭が視界に入った。
見下ろせば、なんということもない小さな街である。その形状は、よく言われるように亀の甲羅に似ている。
その甲羅は、上空の気流になぶられて、ゆらゆらと揺らいでいるようだ。
レムナの高度にすぐに達した。
「取りつくぞ」
と、トトが注意をうながした。
「おうおうおうっ!」
こんな時でもアスラの意気は軒昂だ。まあ、アスラが騒がしくないとしたら、それは眠っている時に違いないが。
キズマたちは平行に移動し、レムナの城門の側へ寄った。
城門は開いていた。もとより、空より飛来する訪問者にとっては、門など意味は持たないはずだが。
「うおっ!?」
アスラがまず叫び、城門前の石畳に叩きつけられた。野生の身のこなしで着地をしなければ、怪我をしていたかもしれない。
「重さが戻った!?」
「ほんとうだ。なるほど、この先は魔法結界が激しくなっている。呪文の効果が薄れるわけだ」
トトが得心したように言うと、ふんわりと着地した。自分でかけた呪文だけに身体の御し方もわきまえているのだろう。
キズマも、アスラのこけ方から、どのあたりから急激に浮遊力が減衰するかをだいたい見て取っていたので、うまく着地できた。
門は開いていた。
「不用心なことだて」
あきれたようにトトが言った。
「『どうぞ中へ』とでも言われているみたいだぜ」
アスラも多少は無気味そうだ。だが、どの程度事態を重くみているかは、周囲に気を配ることもなくぶらぶらと城門に近づいていくところからも判断できる。
「アスラ、罠が仕掛けてあるかもしれん! 気をつけろ!」
キズマが生真面目に声をかける。
かつての冒険の旅でも、遺跡の盗掘業などの技能を持っている者が仲間にいなかったため、迷宮探索の際に幾度となく罠を作動させ、窮地に陥ったことがあったのだ。
「へっ、この城自体が罠だろうが。魔王ともあろうものが、こんな入り口に仕掛けをするほどせこくはなかろう」
うそぶくアスラの言うことは、しかしめずらしく正論であった。キズマもうなずかざるを得ない。
アスラを先頭にして、三人は城の中へと進み入った。
城門を抜けたところにある外郭は、かつてはきらびやかな天幕がいくつもはりめぐらされていた。偽りの宴会、終わりのない享楽が城に満ち満ちていた。着飾った貴顕の紳士淑女の正体は魔族で、この外郭にも彼らのさんざめく姿があふれていたものだ。
だが、今は石造りの広場がただ開けているばかりだ。
地面――といって適切かどうか――は複雑な高低があり、一種の庭園のようになっている。植え込みはないが、段差がいくつも山の稜線のようにうねり、思わぬ迷路を形作っているのだ。
目指すは中郭の天主――城の心臓部たる建物だ。壮大にして華麗きわまるレムナの天主は、周囲を七つの塔に守らせ、その中央にひときわ高く突き出ている。材質はすべて切り出された石によるものだが、その構築には人知を超える技術が用いられ、あらゆる物理的攻撃を問題にしない。魔法攻撃においてさえ、強力無比なる魔法結界のために効力を持ち得ないのだ。
仰ぎ見れば天主はそこにある。だが、そこに至る道がなかなか見出せない。
「くそっ! まだるっこしい!」
アスラが堪え性なくわめく。
「いっそ、壁をぶちやぶってやればどうだ!?」
アスラは爪を胸までの高さの石の壁を爪で叩き、その一部を砕いた。
キズマは経験がほとんどあてにならぬことに悲観していた。以前、この城をかなり綿密に歩き回った記憶がある。だが、その時と比べ、あまりに様子が変わっている。まるで生き物であるかのように、城内の地勢が変動したようだ。
「これも、やつの詐術かの」
トトがぽつりと言う。
「詐術?」
問い返すキズマにトトがうなずいて見せる。
「さよう。われらの心にあせりを生じさせるためのまやかしよ。いかにレムナ、神秘の浮城とはいえ、一度は制覇したことのある場所じゃ。ましてや今回、魔族どもの姿が現れんところをみると、魔王も人手不足とみえる。われわれを焦らせ、力を無駄に消費させるのが狙いなのだろうて」
「ふっ、ふっ、ふっ」
アスラは爪の中に入った石の砕片を息で吹き飛ばした。
「なら、どうするよ、ちびの学者さん」
「キズマの秘力に託すしかあるまいな。秘力はイシュアプラのクイラがキズマに与えたもの。魔法結界にも左右されず、魔王へと至る道を指し示すだろう」
「魔王へと至る……?」
やや頬をゆがめ、キズマが繰り返した。青い髪のエルフが投げつけた言葉を思い出したのだ。
(やつはおれを魔王の同輩と呼んだ。秘力にしても、おれ自身、それがなんなのかわかっていない。なぜ、おれにだけそんな力があるのか、さえ)
「イシュアプラのクイラは、魔王を倒すために秘力を授けてくれたのであろうが。ならば、魔王の居場所へとわれらを導こうはず」
トトは、キズマの内心に兆した疑念に気付くはずもなく、一般的な解釈をもって説明とした。
(なぜ、おれなのだ? アスラでもなく、トトでもなく、ファータにも秘力は授けられていない。なぜ、おれに?)
キズマの意識の奥底に、一瞬、二瞬、色のない静止した映像の断片がひらめいた。
その映像は、なんなのかわからない。
金属の柱が組み合わさっている。巨大な建物だ。城なのか? 塔の一部か?
その下にたくさんの人間がいる。ものすごくたくさんの。色のない。同じ姿の。
――退屈。
映像の断片から連想した言葉がそれだった。
それだけだった。
すぐに映像は脳裏から消え、使命感だけが残った。
「ゾーヴァめ、いま行くからな」
キズマはつぶやき、拳をかるく握った。
流れる血潮が海鳴りのような音をたてているのに意識を集中させた。
湧きあがる。
力が。認識が。
道が、みえる。
キズマは背中に負っていた弓を左手におさめ、右手で矢を一本引き抜いた。
つがえ、引き絞り、射るまで、なんら乱れた想念を抱かなかった。まるで意識に蓋をされたかのような閉塞感。身体を乗っ取られたかのような無力感。
初めて、秘力に身をゆだねることのむなしさを感じた。
それでも、秘力をのせた矢は青紫がかった空を裂き、その航跡を黄金色の光で浮かびあがらせた。
すると、その航跡の下の迷路が、ふいにその難解さを捨て去った。見通しのよい、殺伐とした広場へと立ちもどった。
まるで濃すぎる化粧を洗い流した女の肌にも似て、その変貌ぶりは心寒さをおぼえさせた。キズマたちは歩き出した。一直線に。段差すら問題にならなかった。ちょっと乗り越えればすむことだ。どうして、こんなものにてこずっていたのか、理解に苦しむ。
「それが詐術というものだろう。魔法とはちがう、そう、キズマの力に似たものかもしれんて」
トトが解説した。キズマは胸に重いしこりを感じたが口には出さず、かわりにアスラが首を傾げた。
「魔王の力も秘力みたいなもんだっていうのか」
「魔法にあらず、神々や精霊の力を借りるのでもないとすれば――だな。イシュアプラのクイラという絶対存在によってしか説明のできぬ力が秘力とするなら、それに対立するはずの魔王の力もそのようなものだろう、という想像さ」
(対立――か。イシュアプラのクイラは魔王を倒すためにおれたちに旅をさせている。なぜ、自分で戦わないのだ? 脆弱な人間に力を分け与えるなどというまだるっこしいことを、今までに幾度となく行なっているのは、どうしてなのだ?)
スフィアに語られる英雄伝説のことをキズマは思い返した。魔王は幾度もあらわれ、魔族を率い、世界を混乱に陥れた。そのたびごとに英雄がイシュアプラのクイラの意志を受けて立ちあがり、魔王と戦い、だいたい勝った。
それでも魔王は復活する。
今回も、そうだ。
たぶん、次回もあるのだ。その時の英雄は、もしかしたら自分以外の誰かなのだろう。
キズマはなんとなく理解できたような気がした。
自分の演じている役柄が。
2
秘力の導きによって、外郭を抜けて中郭に入ったが、敵の抵抗はなにもなかった。
魔族の姿はまったくない。まるで無人の城だ。
トトが詐術と呼んだ不思議な力も、今度は妨害しなかった。
天主へとあっさりたどりつけた。
扉に鍵はかかっておらず、三人は天主の中央の階段にとりついた。
あとはのぼるだけの単純な作業だけだ。
会話もなく、ただのぼった。
「わしなら、ここに詐術を施そうな。無限の階段よ。のぼってものぼってもどこにも着かぬ。じきに神経は磨耗し、体力は払底する。先の見えぬ単純作業ほど心をなえさせるものはないからな」
トトが荒く息をつきながら、そんなことを言ったのがせいぜいだ。
だが、そこにトトの想像したような罠はなく、ほどなく最上階にたどりついた。
巨大な扉がある。
「ここが、そうか」
アスラが指を鳴らす。
「秘力の矢が指し示したのは――魔力の源泉はここだ」
キズマが慎重に周囲の様子を探りながら言う。
「いるのだな。ゾーヴァが」
トトの声も心なしかうわずっている。
「それは、どうか」
キズマは扉に手をかけた。アスラもすぐに手伝う。トトだけは、力仕事は自分には無関係なものだと決め込んでしまっているらしい。
扉はなんなく開いた。キズマとアスラはたたらを踏んでとどまった。
その、中には。
「まさか……」
キズマは言葉を失った。
キズマの目の前には見覚えのある風景がひろがっていた。
それはかつて一度訪れたことがある。
既知ではあるが意味のわからない場所。
漆黒の闇が足元にひろがるクリスタルの部屋だ。
「ここは……死の寺院の地下――ギンヌンガ・ガップとまるで同じだな」
トトが呟いたのは、仲間への確認の意味ではなく、自分の記憶との対話であったろう。
床の材質は硬い透明な物質だ。柱のような構造材は見当たらないが、といって一枚の平坦なクリスタルガラスではない。複雑な隆起や陥没があり、遠くの方の床は光を微妙に反射して七色に輝いている。
とてつもなく広い。どうやってもレムナの天主の構造としては不釣り合いだ。それどころかレムナそのものがこの部屋の中にすっぽりと入ってしまうのではないか。
キズマは背後を振り返った。自分たちがくぐってきた扉を。その向こうに見えるのは、まるで日常的な城内の光景だ。
ということは、扉のこちら側だけ、別の空間なのであろうか。
その実現のためにややこしい理屈を考える必要はなかった。スフィアには「魔法」という機能が現存する。それをこの現象の理由とすれば事足りる。だが、ほんとうにこれは魔法の仕業なのか。
「行く……か」
アスラが振り返ってキズマに確認した。戦場の進退について他人の指示を仰ぐというのはアスラの常に似ない。だが、アスラの表情は真剣そのものだ。
キズマは一瞬躊躇した。
踏みこめばもはや後戻りはできない。かつて、こことそっくりの戦場で、キズマは仲間たちを失った。その後、奇跡の力によって彼らの命を呼び戻したものの、今度の戦いの帰趨はまったくわからない。二の舞を演じないとも限らない。その危険をあえて冒すべきなのか。
「もう悩む時ではなかろ」
トトがそっと言った。
「だったな。おれとしたことが」
アスラが照れたように言い、白い牙を噛み鳴らした。
「ありがとう、アスラ、トト」
キズマは頭を下げた。仲間の貴さを強く感じていた。
そして、あと一人の仲間の不在をつよく実感した。
(ファータ……)
エルフの少女の不在は、しかし最後の戦いに臨むキズマの心を、ほんの少しではあるが軽くはしていた。少なくとも今回は彼女を死なさずにすむ。
だが、ファータという戦力なしで強大な敵ゾーヴァに抗しうるか。前回の戦いの後、キズマたちの戦闘力が特に進歩したということはない。以前のままの――あるいは平和なれした分だけ、むしろ戦闘力は弱まっているかもしれないのだ。
それでも、キズマたちは後戻りはできない。
ガラスの床に足を踏みこむ。床が透明なので、まるで宙に浮いているような錯覚におちいってしまう。
眼下には漆黒の闇。黒一色の中に銀色の細かな砂がちりばめられているようだ。
まるで夜の空のようだ。スフィアの夜の空には、頭上に街の明かりがまたたいて見えるのだ。
だが、ここでの光はまたたかない。まばらで、凍ったような光の点にすぎない。
「ようこそ――」
行く手の闇から声がすべり出た。
「ようこそ、ギンヌンガ・ガップへ。歓迎するよ」
待ち構えていたような余裕がその声音にはある。
以前と同じに美しい声だ。男のものであるが、そのまま音階を上げれば妙なる美女の調べともなるであろう。
キズマは目を凝らした。輪郭が浮かび上がる。強い既視感が立ちのぼってくるが、これは錯覚ではない。確かにかつて体験したことと同じだ。
姿は二人。男と、女。
ゾーヴァとヴァルジニアがならんでそこにいる。
3
「ここまでの艱難を、よくも乗り越えてこられたもの。心からおめでとうと言わせてもらおう」
ゾーヴァの顔が歪んだ。すでに殺戮の予感に胸ふるわせているのか。それは、いけにえの鼠に飛び掛かる寸前の猫の表情に似ている。
「ギンヌンガ・ガップ――割れ目の底」
トトが悔しそうに呟く。彼の知識をもってしても、この場所の真なる意味は説明できない。
ふいにゾーヴァが言いだした。まるで歌うかのような口調だ。
「おおいなる亀裂、ギンヌンガ・ガップ。そこからすべてが生まれ、そして招かれざる客も、また。ここはその最深部だ。われわれは港と呼んでいるがね」
「港――?」
キズマが思わず聞き返す。水もなく船もない、このクリスタルばりの部屋が?
「そうとも。ここがスフィアと外界との接点だよ。入ってくるものは必ずしも物体でなければならない道理はない。光。そう、ただの光であっても、その明滅がイシュアプラにまで届きさえすれば――充分なのだよ」
「なにを言っている、きさま」
キズマはゾーヴァを睨んだ。
「なに、正直いって繰り返しにも飽きてきてね。そろそろ最後の勝負にしたいと思っているのさ」
ゾーヴァは軽く肩をすくめる。人間くさい所作だが、あきらかに人間ではない。美しすぎる。あるいは、禍禍しすぎる。
ゾーヴァはヴァルジニア――夢見るような表情の少女を後ろに押しやった。よろめきもせず、ヴァルジニアは後方に下がる。
「ヴァルジニア!」
キズマの声も届かないのか。ヴァルジニアの表情はかわらない。
「こりゃあ……あれだな。この前と変わんねえぜ」
アスラが鼻先にしわを寄せた。
「変えるしかあるまい。そう何度も殺されてはたまらん」
トトが意識的に前に進み出る。魔法による先制攻撃をかけようというのだ。
「アマアアト! 意思ある強き棒よ、空を裂き、邪悪を打ちすえよ!」
描く文字は神速。二本の腕とフクロウ、そしてハゲワシ、さらに敵を打ちすえる空飛ぶ棒。
裂帛の気合に呼応して、トトの掌と掌の間に黄金色に光る棒が出現した。
「行けっ!」
棒は――ブーメランとなって飛び出した。
ブーメランは、自らの意志で空中に軌道を描き、ゾーヴァに向かって飛翔した。
ゾーヴァは剣を抜き、それを無造作に払った。
ブーメランは俄然牙を剥いた。単なる棒にすぎなかったそれが、ゾーヴァの剣にからみつくと、ぐるぐる巻きにしてしまったのだ。
「ぬっ!?」
ゾーヴァは棒を振り払おうとしたが、果たせない。そこに、アスラが奇声とともに突進してきた。
「ぐおおおおおっ!」
アスラに戦法はない。ただ、格闘者としての勘で、ゾーヴァの隙を見いだし、全力を投じたのだ。
最大の武器である爪をゾーヴァの顔面に打ち込む。
ざばっ!
絶叫がわくかと思われたが、予想は覆された。
ゾーヴァは掌で顔を押さえつつ、軽々と飛び退いた。流血はない。
「なろっ!」
第一撃がさほどの功を奏さなかったのに逆上してか、アスラはさらなる打撃を加えんものとふたたび接近する。
いやな予感がキズマの胸に兆す。
「よせっ! アスラ、後退しろっ!」
「うるせっ! おおっ!?」
一瞬振り向いて叫びかえしたアスラの表情が凍る。
ゾーヴァの掌がずれて、その顔面があらわになっていた。
その顔は……
次の瞬間、粉砕したのはアスラの顔面だった。
ゾーヴァは片手で顔を押さえたまま、もう一方の手に巨大な剣を持っていた。それを棍棒のように振って、アスラの突進を阻んだのだ。
赤い粘液をまきちらしながらアスラの巨躯が後方に跳ねていた。ものすごいカウンターだったのだ。
ガラスならば砕けて当然の衝撃を床に与えつつ、アスラはもんどりうった。
「アスラ!」
駆け寄ろうとするキズマをトトは鋭い気合で封じる。
「行くな! 行けばアーチャーたるおまえはゾーヴァの敵ではない。アスラの生命力を信じろ。やつが簡単に死ぬタマか」
しかし、前回は死んだのだ。
むろん、トトもそれはわかっている。だからこそ、すでに指で印を結び、組み替え、さらに高次の魔法文字をつむいでいるのだ。池を描き、腕を描き、ナイフを握る手を描く。それは最強の斬撃を敵にぶつけるための純粋な敵意の集積なのだ。
「デス・シャアド――刃よ、わが欲するはただ敵の屍のみ」
言葉が力を導き、それはトトの両の掌の間で空気を振動させた。
「わが魔導の精華、みよ!」
トトが高らかに吠える。その声が留め金を外したかのように、空気は鋭い音をたてて、縦に裂けた。
まるで間近に雷が落ちたような轟音が響いた。空気の層が擦れあい、熱すらを持っているのだ。
それは空間の断層が生んだ剣だった。敵が存在している空間そのものに歪みをつくり、敵を破砕する究極の攻撃魔法、それがデス・シャアドなのだ。
むろん、自分や仲間が存在している空間には障壁を作って、被害が及ぶのを避けるのだが、それにしても諸刃の剣の危うさを持っていることは否めない。それを制御しうる術者はスフィア中の魔導士をかき集めても五指に足りるまい。トトにしても、その成功率は五割に満たないのだ。まさに賭けと言うにふさわしい。
まさに幸運の星はトトの頭上にあったらしい。
デス・シャアドは暴走せず、見事にコントロールされた。
空間に断層を起こすエネルギーのきらめきが瞬間に伸びきり、ゾーヴァの胴体を貫通した。
「やった……!」
トトは虚脱したようにつぶやいた。魔力を使いきったのか、両眼から輝きが失せ、いっぺんに老けこんでいた。髪が真っ白にはなっていないのがかえって不思議に思えるほどの憔悴ぶりだ。勝利の確信がトトをかろうじて立たせていたようだ。
ゾーヴァの胴体には大きな穴があいていた。向こうの闇が見通せる。
だが、ゾーヴァは立ったままだ。
顔を覆っていた片手を下ろした。
「うっ」
トトの口から狼狽の声がもれる。
キズマもだ。
顔などない。美しき魔王の破壊された顔は、まったくの白紙状態になっていた。
今まであった顔自体、単なるバリエーションのひとつに過ぎなかったかのように、造作が喪失していた。
胴体にあいた風穴さえ、もともと備えていた身体特徴であったかのように受け入れてしまっているのだ。
「最後にする、と言ったはずだ」
ゾーヴァのからかうような嗤いがいずこからか漏れ聞こえた。口はすでにない。だが、確かにゾーヴァは嘲笑していた。
突然、魔王の身体が光った。
光っただけではない。変形した。
まるで蛇のように紐状になったのだ。腕も肩も形を失っている。足であった部分はまるで根のようにガラスの床に這い、支点となった。
ゾーヴァは紐となった身体を大きく後方にしならせた。
風が鳴る。まるで鞭さながらだ。
トトはよける間もない。もとより攻撃が届く間合いではなかったはずだ。よもやゾーヴァの身体がこうまで変形しようとは想像の埒外であったろう。
ましてや、長大な鞭の先端は容易に音速に達する。
かつてはゾーヴァの頭部であった部分がトトの左肩に食い込む。
絶叫がわいた。
プディングを切り裂くナイフのように、鞭がトトの左半身を分離した。
4
叫んでいたのはキズマだ。
またしても仲間を殺された。
しかも、自分がなにもできないうちにだ。前回の教訓が何も生きていない。
ゾーヴァの戦い方が意外すぎたということもある。まさか、変形するとは思いもよらなかった。
「スフィアでのわれわれは何でもありなのだよ」
ゾーヴァの声が耳元に流れる。
紐状のゾーヴァは楽しそうに回転している。一体、どこからしゃべっているのか。
「次はキズマ、おまえだ。英雄の死は物語の終幕にふさわしい」
「な……」
「行くぞ」
ゾーヴァは大きく身体をしならせ、力をたくわえている。
その力が解放され、一気に伸びる。
異物の高速な侵入を受けて、空気が金属的な絶叫をあげる。
キズマは後ろに飛び退いていた。弓をつがえる暇はなかった。
鞭の攻撃は間合いの感覚を誤らせる。思ったよりも伸びてくるのだ。
ましてやゾーヴァの肉体は自由自在に伸縮するらしいのだ。
キズマの目前に鞭の先端が迫った。
白い紐の先端部がゾーヴァの顔になって笑ったような気がした。
両断される。そう思った瞬間、キズマの心の底から強烈なイメージが湧きおこった。
汗で湿った指先が文字盤の上を踊っている。タイプしているのはキズマ自身なのか、別人なのか。ともかくも、異常に高揚していることだけは確かだ。一心不乱に文字盤を叩き続けている。そうすることがまるで定められた唯一の仕事であるかのように、だ。
――そうか、これが……
キズマは何かを悟った。
秘力が全身を包む。
キズマの手から弓が飛んでいた。つがえるべき矢も次々とばらばらとなる。秘力の光の中で、まるであるべき理由を喪失したかのように、それは意味と形をなくしていった。
――だとすれば、だとすれば、イシュアプラのクイラとは何なのだ?
向かってくる鞭の先端の動きをキズマは呆然と見ていた。
ゾーヴァの顔は紐状に変形しながらも、かろうじて原始的な目鼻立ちが見て取れる。白い紐にしわのような目鼻がみえる。
笑った。
キズマと視線が交錯する。
なにかを諦めたかのような、そんな笑いをゾーヴァは浮かべ続けていた。
――英雄というのも、つらかろうな……
と、あるべくもない口が動いたように思えた。
キズマの身体に触れた瞬間、鞭は粉になった。
粉になったゾーヴァの身体は、自らが有していた運動エネルギーに耐えきれず、細かい粉塵となって飛び散った。
消えた。
魔王の肉体は残滓すらないままに、宙に溶けた。
キズマは呆然としていた。最後の一瞬に脳裏にひらめいたイメージのすべてが曖昧に拡散していた。
まるで夢をみていたかのよう。
キズマは自分が固く目を閉じていたことに今更ながら気づいた。
本当に眠っていたのかもしれない。
まぶたを開いた。
目前に、美しい顔があった。
涙に目尻を濡らした少女のかんばせだ。
「よかった……」
可憐な唇が動いて、そう言葉を形作った。
「ヴァルジニア……」
キズマは胸に飛び込んでくる柔らかい肉体の感触と温かさにとまどいながら、少女の名を呼んだ。
「もう悪夢は去ったのです。魔王は滅びました。イシュアプラのクイラの試練を再びあなたは乗り越えたのです」
少女は頬を薔薇色に染めながら、キズマを見あげた。
まさに果実のように色づいている。たちのぼる芳香はキズマの脈拍を果てしもなく速くさせていく。
あらがいがたい衝動がキズマの背筋を駆けあがる。
今まさにこの果実をもぎ取ったとしても、何に対して違背することになるだろう。自分は世界の危機を二度も救ったのだ。身分違いなどもはや何の障りにもならない。
命を賭けた褒美はおのれの胸のうちにある。この果実をほおばり、果汁で喉をうるおすことこそ、自分の欲するところだ。
キズマは自分の心をけしかけるものに、そのまま応じようとした。
少女を抱きよせ、その唇を――汚れなき秘園を――奪い取ろうとした。
と。
ものが砕ける音がした。
はっ、と少女が胸の中で身体を固くさせた。
美と純潔の化身たる少女には似つかわしくない、おどろおどろしき澱みが、その表情に兆した。
キズマの精神の一部が冴え冴えと澄みわたる。
見た。
歪んだヴァルジニアの表情を。
まるで仮面が粉砕された一瞬に、役者が見せる狼狽と敵意とが、そこにはあった。
そして、その視線の先には。
5
空間。
闇の一点に光が生まれていた。
まるで壁が砕かれるように、闇の破片が周囲に飛び散り、さらに光はその面積を増す。
空間に穴が穿たれたのだ。
入り口のないはずのこの地の底、ギンヌンガ・ガップに、侵入する者があるのだ。
その侵入者は甲冑に身をかためていた。
巨大な鎧だ。兜の面覆いは下ろされ、顔は見えないが、その手の剣がその人の誰たるかを雄弁に告げていた。
鬼修羅。
魔物の血を吸った回数に関しては、おそらくスフィア史上においても一二を争うはずの凄絶なる剣。
「ファータ!」
正確にキズマはその人物を言い当てた。
さらに意識が冴えていく。
たった一瞬前の自分が他人に思えるほどの急速な覚醒だ。
「ヴァルジニアから離れて! キズマ!」
エルフの剣士が鬼修羅を振りかぶりつつ叫んでいた。鎧から供給される魔力によって増幅された膂力が、長大な剣を軽々と扱わせているのだ。
「ファータ!?」
彼女が何をするつもりか、キズマは悟り、一瞬の迷いを覚えた。それは罪悪感であったかもしれず、キズマの純朴さの現われであったかもしれず。
「逃げろ、ヴァルジニア!」
キズマはヴァルジニアを突き飛ばしていた。
たおやかな少女は、突き飛ばされてよろめくこともせず、すばやい身のこなしで飛び退き、鬼修羅の斬撃から逃れ得た。
「キズマ! 目をさまして! 魔王の正体はヴァルジニアよ! 彼女がゾーヴァを異界から呼び出して使役していたんだわ!」
キズマは驚きもせず、ファータとヴァルジニアを一瞬のうちに見比べた。
ヴァルジニアの口元には追い詰められた者の引きつった笑いがあり、ファータの声と仕草には獲物を追い詰めつつある狩人の緊張がうかがい知れた。
「ゾーヴァはヴァルジニアをさらうだけの役でしかない。ゾーヴァを操り、世界を混乱させ、さらに数多の英雄を引き寄せたのは、すべてヴァルジニアの歪んだ心がなしたことよ!」
「ファータ、それは……」
真実なのか、と重ねて聞こうとして、キズマはすでにその言葉を事実として受け取ろうとしている自分に気付いていた。
キズマから距離をおくようにして、ヴァルジニアはすでに後退りをはじめている。その顔に浮かぶ奇妙な微笑を見れば、もはやヴァルジニアが自分を偽ろうとはしていないことがいやでも見て取れる。
その時、ファータの背後の穴から色とりどりの髪を持つエルフの若者たちが飛び込んでくる。
「ゾーヴァ――魔王の役割は姫君をさらうこと。そして人間よ、おまえの役割は姫君を救うこと。ただそれだけの存在だったのだ。もう、目をさませ!」
最後に床に足をつけ、陰鬱さを秘めた声で告げたのは青い髪の美青年だ。
「わたしがエルフの村にいたときの仲間よ。彼らは長老さまの予言にしたがって、ゾーヴァの復活を防ごうとしていたの!」
ファータは、ヴァルジニアから目を切らずに説明する。
「長老さまは超感覚をスフィア全体に飛ばし、魔王の動向を探ったのよ。そして、わかったのは、ゾーヴァの波動はいつもサラデアの王宮にわだかまっていること。エルフたちはスフィアを守るためにサラデアを封印しようとした。それがための浮橋への侵攻だったのよ!」
浮橋のあるかぎり、スフィアは陸続きのようなものだ。逆にいえば、浮橋を――それもその分岐点であるタルタルーガをおさえれば、ほぼ全土の交通を制御できるのだ。むろん、海路はある。魔族のなかには空をよく飛ぶものもいる。それでも、浮橋を押さえることの重要度は計り知れないのだ。
魔王の復活に先立ち、浮橋を、タルタルーガを制圧しようと考えたエルフたちの判断は正しかった。ただ、魔王の方が早かっただけなのだ。
「それでも、ゾーヴァは……ヴァルジニアは失敗したのよ。それは、キズマ、あなたにこだわりすぎたから……! キズマをふたたびギンヌンガ・ガップに迎え入れるために心を砕きすぎた。だから、わたしたちの動きにまで気が回らなかったのよ」
ファータはじりじりとすり足で進みつつ、言葉をつづけた。全身から闘気が漂い出ている。鬼修羅がけたたましい悲鳴をあげそうなほどに震えている。
ふいに、美しい唇が割れた。
その場にあった七対の瞳がそれを射た。
ヴァルジニアだ。
凄烈な美しさを秘めた微笑であった。
「思わぬ邪魔がはいったわね。勝負がつきそうだったのに……」
声は依然として天上のしらべを思わせる。だが、口中で言葉をもてあそぶような言いざまは明らかに新しい人格の表出だ。
「勝負……だと?」
キズマは変わり果てた――いや、外見はまるで変わっていない美姫をぼうぜんと見つめた。
ヴァルジニアは唇をゆがめた。
「そう、これはゲームよ。欲求不満の姫君と朴念仁の英雄さんとのね。姫君はあらゆる手管をつかって英雄を落とそうとし、英雄は心に逆らって臣下の貞節を守ろうとする――それ以外は、魔王もエルフも人の世の戦争さえも、枝葉末節の一エピソードにすぎないのよ」
「ゲームだったというのか……。あの、浮城での出会いも……サラデア城の夜も……」
「そうよ。あなたが誘惑に負けていれば、その場でゲームは終わっていたわ」
キズマの心のなかの大切な部分が音をたてて砕かれた。
砕いたのはハンマーのようなヴァルジニアの言葉だった。
「なにを傷ついているの? あなたもゲームに参加したプレイヤーにすぎないのじゃなくて?」
プレイヤー……その言葉の響きがキズマの意識を泥の海に沈めた。
目覚めたと思った瞬間の不快感。寝床から引きずり出され、日常という名の既定の筋書きを漫然と演じさせられる苦痛。まちわびた夜は一瞬で流れ去り、ただ無限に続くかと思われる責め苦。自分がなにものでもないと気付かされ、誰からも必要とされていないと思い知らされる無為の感覚。もう、たくさんだ。
すべてが機械で代替され、生殖すらコントロールされた世界では、人間は酸素呼吸をする物体であるにすぎない。
だから、役割を求めるのだ。
ある者は戦士として死に、またある者は姫君として愛をむさぼる。名もなき商人としての平凡な生に満足する者さえめずらしくはないだろう。
虚構の世界でしか人間は役を持たないのだから。
「思い出したのかしら、キズマ? この世界で自由意志を持っているのはプレイヤーであるわたしとあなただけ。そこいらのエルフたちは書き割りされた脇役でしかない。イシュアプラのクイラ、わたしたちと契約を交わした物語の設定者が配置した木偶人形なのよ」
作り物めいた美貌を婉然と輝かせ、ヴァルジニアが言う。
その吐いた言葉にエルフたちが色をなした。
「われわれも命ある者だ! 意志を持ち、理想を掲げて生きている! おまえたちのような侵入者に木偶人形呼ばわりされる筋合いはない!」
「そうだ! 出て行け、よそ者め!」
銀の瞳を怒気に震わせ叫ぶマグアに、灼熱の赤い髪を振り乱してホウアが声をかぶせる。
「よそ者とはよく言ったもの……われわれプレイヤーが訪れなければ、この世界のあるべき意味さえ失なうというのに。ただのデータの羅列として、形も色も与えられずに電子回路のなかをさまようだけの亡者ともなるとも知らず」
ヴァルジニアは見くだしはてた視線をエルフたちに送った。
暴発しかけるホウアたちを押しとどめて、青い髪のエルフが一歩進み出る。
「ヴァルジニア姫、あなたの言葉はもしかしたら真実かもしれない。だが、われわれは現に生き、子を育み、歴史を伝えている。われわれの運命は大いなる者の掌の上にある空しいものかもしれないが、われわれにとってはかけがえのない明日なのだ。それをおびやかし、あまつさえ無意味とさげすむあなたに、このスフィアの住人たる資格はない」
セアンのつきつけた指の先には、狼狽に顔をひきつらせたヴァルジニアの顔貌がある。
「おのれ、たかが人形が……!」
噛み締めた歯が変形する。
ぎゅるぎゅる伸びて牙になる。頬の組織を突き破って、露出する。
美しい姫君の目鼻はそのままに、顎だけが異形となる。
身体もだ。華奢でいながら女らしい曲線を兼ね備えていた優美な肢体が、みるみるうちに膨張し、服をやぶり、赤褐色の粘液まみれの巨躯に変わっていく。
無残、とさえいえる変貌ぶりだ。その形状はさながら顔と四肢のある臓器。びくびく脈動しながら、蠢きはじめる。
「これは……」
セアンすら絶句せざるを得ない。
醜怪すぎる形状と色、そして匂いだった。まるで膿が発酵したかのような、嘔吐感をむりやり引き出す悪臭をはなっている。
「死ね、木偶人形がっ!」
もはや腐肉の一部にうずもれた唇がもごもごと動いて、かろうじて人語を発する。憎悪に満ち満ちた響きだ。
臓器じみたヴァルジニアの肉体の表面の一部が収縮し、盛りあがった。
ぐじゅっ!
耳を覆いたくなるような音ともに、白っぽい腐汁が噴出された。
「ペイキューン! あぶないっ!」
突出しかけていたホウアが、傍らのエルフに声をあびせる。
紫の髪と瞳をもつ小柄なエルフは硬直したように立ちどまる。
少女じみた顔だちのエルフの双眸が恐怖に開かれる。
そこに腐汁が降りかかった。
エルフが絶叫した。肉を溶かす猛烈な音と臭気がたちこめる。
床に身を投げだし、転がった。たちまち全身が白く染まり、突起がなくなる。
白い粘土人形のようになって、エルフは動きをとめた。
「ペイキューン……よくも!」
ホウアの赤い瞳が燃えあがった。
「よせっ!」
セアンがいさめる声を放つ。だが、ホウアは止まらない。
「システムにアクセス」
ヴァルジニアが意味不明の言葉を口にする。
それに呼応するかのように透きとおった床の一部が光る。
光の線が天井に向かって伸びる。一瞬のことだ。
「プロテクトコード解除……ふふふ」
女の声でうれしそうに笑う。肉塊が。
「なにをしたっ!?」
ヴァルジニアの快哉が悪い予感をよぶ。キズマはすでに消えうせた弓と矢を無意識に探った。指は宙をかき、キズマはやむなく一歩、二歩と踏みだす。
「動けるのね、さすがはプレイヤーだわ」
冷笑する声にキズマは気づかされた。
世界が止まっている!
突進しかけた赤い髪のエルフが宙に浮いている。
その後方の銀髪のマグアが続こうとし、緑の髪のトゥバがヴァルジニアの側面をうかがって腰を沈めようとし、さらにセアンは仲間の動きを心配そうにみつめている。
彼らの動きは完全に静止し、物理法則すらその作用を休止したようだった。
キズマはファータの姿を探した。
鎧で全身をかためた少女はぴくりとも動かない。
「だから言ったでしょ。あんたたちは脇役でやられ役なんだって」
ヴァルジニアが痕跡じみた前肢を差しあげた。
人差し指と中指から紅くそまった爪が伸びる。爪は丸まりもせず、金属の帯のようにまっすぐにエルフたちに向かう。
鮮血が舞った。
ホウアの若々しい顔が、苦悶すら浮かべず宙を半回転する。
切断された首だけが時間の流れに復帰したように、くるくる回って床に落下する。
さらに伸びる爪はマグアの顔面に突き立った。
ふたつの眼球を同時に押しつぶし、貫通する。
どういうふうに曲がったのか、爪の先端は耳から飛び出した。
血塗られた爪は、まるでそれ自身の意思があるかのように水平に動きはじめた。
爪の回転にともなって、マグアの顔面の上半分がゆっくりと回る。
しゅぱん。
音とともに、マグアの鼻から上が切り取られた。
頭部を失ったホウアとマグアの肉体は、ぼろくずのように崩折れる。
「ヘッダーを取られたファイルはシステムに認識されなくなっちゃうのよ」
ヴァルジニアは嬉しくてたまらぬ小娘のような声をあげると、爪を回収した。
それを合図にして時間が再び流れはじめたようだ。
セアンの悲痛な声がキズマの耳朶をうつ。
「マグアっ! ホウアっ!」
二人の仲間の名をセアンは叫んでいた。なにが起こったのかは理解できなかったとしても、彼らがヴァルジニアの手にかかったことは疑うことなく悟ったらしい。
トゥバの顔色も一変したが、ヴァルジニアの左側面を衝く動きはそのままに、さらに足を速める。
よせ、とキズマは叫ぼうとした。ヴァルジニアはその動きをすでに知っている。やつは時間をすら操れるのだ。
トゥバが跳躍した。
ふっとその姿が消える。空気の精霊に命じて光を反射させなくする魔法だ。姿隠しの術。
「おばか」
ヴァルジニアは、視線さえ動かさずに笑った。
左の手を動かし、てのひらを開く。
ヴァルジニアの掌の肉は腐り、指と指の間には糸が引いていた。
そして、てのひらの表面の肉はうぞうぞと動いている。
白い無数の寄生虫がいるのだ。
それが、突然に羽化をはじめた。さなぎになる気配すらなく、一瞬にして成熟したのだ。
一斉に飛び立つ羽虫たち。
それは一点に集中した。
くぐもった絶叫が空中から聞こえた。
ヴァルジニアの頭上で、白い人形が蠢いている。
それはトゥバだ。白い羽虫に全身を覆いつくされたエルフなのだ。
姿は依然として隠されたままだ。だが、虫たちがトゥバの目や鼻や口から侵入しはじめていることがありありと見て取れる。
食われている。
トゥバは、姿を隠したまま、その実在を虫によって侵食されているのだ。
「虫に食べられて消えちゃうなんて、かわいそうね」
同情にたえぬ、といった表情をヴァルジニアは装った。本心は、むろん隠してもいないのだが、楽しくてしょうがないのだ。
トゥバの形が消え、羽虫は四方に散った。すでに食い尽くしてしまったのだろう。
「おのれっ!」
セアンが冷静さをかなぐり捨てて、弓の弦を引きしぼる。
「死ねっ、ばけものっ!」
放つ矢は神速。キズマの目から見ても、それは神業にたとえられるべき鋭さだった。
「ふふ」
だが、ヴァルジニアの微笑みが神業を児戯におとしめた。
時間が止まったのだ。
矢は空間に縫いつけられてしまった。
「飾りものとしての役にしかたたないんじゃ、もったいないわね」
ヴァルジニアの言葉に同意するかのように、矢がくるりと回転する。
そして、ふたたび、矢はその驚異の速度を復活させたのだ。
「ごぶっ!」
血を喉から吹き出させて、セアンの身体が硬直した。
矢は見事に標的を貫いていた。
だが、いつのまにか標的が自分自身に変わっていたなどと、どうしてセアンが知り得ただろうか。
矢はセアンの喉を貫通し、あまつさえ、骨をすら砕いていたらしい。
ぐらり、セアンの首が傾く。
美しい顔はそのままに、哀しげな瞳をまっすぐ前に向けて。
「だから、言ったのよ。脇役は脇役らしくしなさいってね」
ヴァルジニアは顎を腐肉の中で蠢かせ、依然として美しい瞳をゆっくりと動かした。
「さあ、次はエルフ娘の番よ」
「や、やめろっ!」
キズマは立ち尽くしたままの鎧の方に足を向けた。鎧はまったく身動きもしないまま、硬直している。
「だあめ。いちばん痛い殺し方をしてあげる」
爪がするすると伸びる。
かばおうとして身を投げだしたキズマの指先をかすめて爪は伸び、鎧の各関節部に食い入った。
「ばらばらにおなりっ!」
痛烈に叫んだヴァルジニアの表情が一瞬にして凍った。
飛び散った鎧はもぬけの殻だったのだ。
「あの、エルフ娘は!?」
「ここよっ!」
だしぬけに声がひびく。
白い裸身が宙を舞っている。
ファータだ。一糸もまとっていない。宙を飛んでいるのは風の精霊魔法を使っているためだろう。
その手には鬼修羅のまがまがしい輝きがある。
姿隠しを使い、一瞬前まで身を消していたのだ。
この、隙をつくために。
「ごめん、みんな! でも、この方法しか!」
悲痛な声は、しかし、裂帛の気合へと昇華する。
鬼修羅が空気を切断しつつ、ふりおろされる。
ヴァルジニアの爪が蛇のようにのたうち、飛ぶ。
交錯した。
鬼修羅はヴァルジニアの美しいかんばせの額に食い入り。
そして、爪はファータの白い胸を貫いていた。
**
なにをしていたのか、ぼくは。
また救えなかった。
だめだったのだ。
でも、あきらめきれない。
ぼくは、ここでしか意味を持てないのだから。
ぼくの求めるものはここにしかないのだから。
タイプしよう。
システムをコールするコマンドを。
6
キズマは呆然と立ち尽くしていた。
鬼修羅はヴァルジニアの前額部をぐしゃぐしゃに破壊していた。鎧を脱いだファータの膂力は並みの娘よりも弱いほどだが、風の精霊魔法の力と、剣じたいの重さが、大ダメージを与えることができた理由だろう。
一方のファータは。
ヴァルジニアの爪から魔力が失われ、紙のようにへたってしまったために、床に投げだされてしまっていた。
細い身体を力なく横たえ、その胸元から赤い泉を湧きださせていた。ただし、もはや噴出する勢いは衰えている。
ヴァルジニアは、半目になりながら、意外にさばさばした口調で告げた。
「またわたしの負けのようね……まさかプレイヤー以外の脇役にやられるとは思わなかったけど。これも乱数のいたずらかしら……?」
言葉が消えるのと同時に、肉塊も消えていった。
ばらばらのタイルに分解し、さらにそのタイルは文字と記号のような破片に細分して、ついには消えてしまう。
キズマはファータの側に跪き、少女の身体を抱きあげた。
すでに息はなかった。だが、ヴァルジニアをも斃したという手応えがあったためか、その顔は意外なほどにやすらかで、眠っているようにさえ見える。
キズマは叫んだ。
「イシュアプラのクイラ! 出てこいっ! いるんだろう、そこに!」
キズマの声はギンヌンガ・ガップにこだました。
死屍が、あるいはその残滓が、無造作に転がっているなかで、キズマは声を張りあげつづけた。
「いる。わたしは常にいる。スフィアのあらゆる場所にわたしはいる」
感情の起伏のない声が間近に聞こえた。
顔をあげるだけでいい。イシュアプラのクイラはそこにいた。
「英雄キズマよ。そなたはさらに試練をのりこえた。スフィアは救われたのだ。さあ、望みを告げるがよい」
「聞きたいことがある」
「それが望みなら」
イシュアプラのクイラは、光のなかで、頭をそっと横にかしげた。顔などは見えない。そもそも、そんなものが必要であるとは思えない。
「ヴァルジニアが言っていたプレイヤーとはどういう意味だ?」
「スフィアは外からの冒険者を受け入れる。スフィアはそれ自身で閉じた世界だが、その維持のためには外部からのデータやプログラムの補充が必要なのだ。スフィアへ新たな情報をもたらしてくれる存在、それがプレイヤーだ。こちらはその代償として役割と娯楽を与えるのだ」
「プレイヤーはなにをしても許されるのか。人々を虫けらのように殺すことが」
「少なくともわたしは罰しない。スフィアのなりたちそのものを破壊しようとする行為でない限り。それはプレイヤーに対してだけではない。スフィアの住民が他者を傷つけた時もそうだ」
「それではなぜ、英雄なんてものがいるんだ」
自嘲するようにキズマは質問をぶつける。
「プレイヤー自身が望んだのだ。混沌とした世界を救いたい、と。また、魔王として世界を征服したいという欲求を持つプレイヤーもいる。彼らを組み合わせればゲームとして成立する。これらはすべて事前に同意がなされたことだ」
「おれ自身が……すべて呼び寄せたことなのか。罪のない人々が魔物の手にかかって死んだのも、トトやアスラ、エルフたちが無残な殺され方をしたのも」
「彼らは死んだが、そのデータは再生される。別の人格を付与し、また新たな人生をあゆむのだ。むしろ、プレイヤーによって殺されることで、データは更新され、コピーの連続による劣化を防ぐことができる」
「ヴァルジニアは……どうなったんだ? 死んだのか?」
「この世界においては。あのプレイヤーは、しばらくアクセス禁止となるだろう。システムに介入して、キャラクターの動作テーブルを書き換えたり、虫を持ち込んだりしたのでね。規約違反だ」
「おれは……どうなんだ?」
キズマはイシュアプラのクイラを睨みあげた。
「きみは試練を乗り越えた。行動にも問題がない。だから、望みをかなえよう。このスフィアで王としての地位を得ることもできるし、英雄の称号を持ったまま、この世界から引退することもできる。どうするね?」
キズマは腕の中の少女を見おろした。
「おれの願いは決まっている……」
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