第4章 レムナ始動

     1

 鬨の声が上がっていた。

 後方の混乱の収拾に忙殺されていたアーベルは振り返り、舌打ちをした。

 「やはり来たか! 後方撹乱の上、主力をもって前面を叩く。基本通りというわけか」

 橋の彼方から馬が密集して疾走して来る。どうやら、夜の闇が迫るにともなって視界がおよぶ境界ぎりぎりまで接近し、待機していたようだ。そして、時間を合わせて突撃をかけてきたものに違いない。

 ここに至るまで、時間は五ミンとかかるまい。

 それまでにバリケードを修復し、立ち向かう体勢を整えることは、難しい。

 が、ここで引いて敵を街に入れればそれまでだ。後方の敵は捨ておいてでも、ここは前方を固めねばならぬ。

 「総員、配置につけ!」

 アーベルは怒鳴った。

 「しかし、後方の敵は!? やつらはエルフ、後方から矢で射られたら……!」

 兵士の一人が当然の懸念を口にした。

 アーベルはその兵士を怒鳴りつけた。

 「敵の主力がこちらにまっすぐ向かっているのだ! 後方の小数の敵など忘れろ! 背中が心配だというなら、きさまだけ後ろ向きで戦え!」

 怒鳴られた兵士も目が醒めたようにうなずくと、自らの配置に飛んでいった。

 アーベルは後方には目もやらなかった。

 ただ、口の中でつぶやく。

 「助っ人どもに頼るしかあるまいか……」

と。


      2

 「魔王の同輩……だと? どういう意味だ!?」

 キズマが反問した。セアンと名乗った青い髪のエルフに対して、だ。

 セアンは、キズマを冷たい目で見つめた。

 「おまえ、ファータを騙して人間界を連れ回した悪党、キズマだな。ここで出会ったがきさまの運のつき。おまえが魔族に利して行動していたことはすでに看破している。観念するがよい」

 キズマは相手が言っている言葉が一瞬飲みこめなかった。

 おれが、魔族の味方、だと?

 そう意味を悟った時には、セアンは弓を手に取り矢をつがえんとしていた。

 キズマもそれにならう。矢の勝負で遅れを取るとはキズマは思わない。

 構えた時には初動の遅れを取り戻している。

 セアンが数イント早く矢を放つ。

 その軌道を察知して、キズマも射る。

 キズマの矢はセアンの矢を断ち割った、かに見えた。

 が、しかし。

 セアンの矢は途中で軌道を変え、キズマの矢をかわした。

 そのまま進み、キズマの右の太股に深々と突きささる。

 「ぐわっ!」

 キズマは呻き、膝を折った。

 衝撃が襲っていた。

 傷の痛みばかりではない。はじめて矢の勝負に敗れたという衝撃だ。

 「愚かな人間よ。精霊を愚弄する汚れた民が、われらと対等に戦えると思うてか」

 セアンがせせら笑った。再び、矢を弓につがえる。

 ファータが動いた。キズマの前に出る。

 セアンの表情が動いた。

 「ファータよ、おまえはやはり魔族の手の者に落ちたのか? もしもそうなら、われらの手で美しく死なせてやる」

 セアンが弦を引き絞る。

 そのセアンを銀色の髪のエルフがとどめる。

 「待て、セアン。ファータの様子がおかしいと思わぬか」

 「どけ、マグア、様子がおかしいのはファータが魔族に心を売り渡したがため。せめて同族の矢で死なせてやるのが情けというもの」

 「違うぞ、妙なのだ。ファータがもしも以前のファータならば、なにゆえに精霊を慰撫し得たのか? われら五名の語りかけを、ただの一人で解いたのだ。精霊に厭われ、村を去ったはずのファータが、なぜ?」

 「む……」

 セアンの腕から力が失われていく。

 「まさかとは思うが……」

 「イシュアプラではなく、ヘールンヴェが守護しているというか?」

 赤い髪のエルフが目ざとく叫ぶ。

 「本隊の攻撃が始まったぞ!」

 「されば、われらの任務はここまで。浮橋を押さえれば、魔族のふたたびの跳梁を未然にふせぐことができる」

 セアンが静かな口調で言った。

 「だが、ファータは取り戻さねばならぬ。魔族に侵されておらぬ魂ならば、救いようはある」

 言うなり、動いた。

 鋭く叫んでいる。

 「マグア、ホウア、ペイキューン、トゥバ、行くぞ!」

 その声に応じて、銀、赤、紫、緑の髪が揺れる。

 残像だけ残して、姿は消えた。跳躍したのだ。

 「キズマ、伏せて!」

 ファータが叫ぶ。鬼修羅を構えている。上空からの攻撃に対処する構えだ。

 キズマはようやく矢を腿から引きぬいていた。血が吹き出す。矢は木製の手作りのものだ。おそらくは精霊魔法がかかり、矢自らの意志でキズマの矢をかわしたのに違いない。

 キズマは立ちあがっていた。

 叫ぶ。

 「理由をおしえろ! なぜ、おれが魔族の味方だという!? おれは、おれたちは命懸けでゾーヴァと戦ったのに……!」

 理不尽な非難に対する怒りが痛みを消し去っていた。

 セアンを真っ向から見据えた。

 「ばかめ、おのれを知らぬにもほどがあるわ!」

 セアンは空中で矢を射かけた。

 ファータが鬼修羅を回転させた。

 鬼修羅は咆哮をあげて風を斬った。

 矢は悲鳴とともに砕け散る。

 セアンの顔が驚愕に歪む。

 「ファータ……おまえに一体なにが……!?」

 セアンの肉体が空中にかき消える。

 他の四人のエルフの姿もだ。

 「逃げた……のか?」

 しゃがみこんでいたトトが恐る恐る顔を上げる。

 「まだよ、空気の精に命じて光を跳ね返させないようにしているだけ。姿は見えないけど、どこかに……」

 ファータが言いかけた時だ。

 ファータの姿も消えたのだ。まるで空気に飲みこまれたかのように。

 「ファータ!?」

 キズマは手を伸ばし、先程までファータがいた空間を探った。

 が、何もない。

 「死ね! 魔王の眷属よ!」

 囁き声が耳元に響き――それは赤毛のエルフだったはずだが――短剣がキズマの目の前に現れた。

 その刀身がキズマの喉に触れようとしたときだ。

 鐘が鳴った。

 澄んだ、美しすぎるほどに清らな鐘の音が。

 短刀は打たれたように一瞬動きを止め、その隙を逃さずキズマは背後にいるはずの肉体に向けて左肘を打ちこんだ。

 くぐもった悲鳴が起こり、短刀がかき消えた。

 キズマは右肢を棒のように直立させたまま、頭から前方に倒れこんだ。敵の第二撃をさけるためにだ。

 その時、トトが素っ頓狂な声をあげた。

 「魔力が戻った!? なぜだ? 結界が弱まっている!」

 キズマは顔を上にねじ曲げた。

 覆いかぶさってくる殺気に気づいたからだ。目の前に再び短剣が現れる。それは、彼らの肉体がまとう空気の結界を切り裂くほどの速度を出しているために、どうやら光を反射してしまうらしい。

 キズマは必死で短剣をかわした。

 耳に激痛が走り、温かいものが首へと流れ落ちていく。切っ先が耳を裂いたのだろう。

 どこか遠くでファータがキズマを呼んでいるような気がした。

 「ウェベン! 真なる光ラーよ、汝が力にて偽りをあらわにし、見えざるものを白日にさらせ!」

 トトが文字を指先で描く。複雑に入りくんだ象形文字が赤い残光を残して虚空に浮かびあがる。雛鳥と人間の足とさざなみ、そして輝く太陽。

 最後に描かれた太陽の、その中心から。

 白光が弾けながら飛びだす。

 純粋な光を生み出す文字呪文だ。

 「おおおっ!」

 キズマの目の前に、燃えるような赤い髪のエルフがいた。美しい顔だが、殺意と驚きの表情の二様に彩られている。少年としか思えない若々しい顔立ちだ。瞳は深い臙脂色。見とれてしまうほどにまつげが長い。

 だが。

 キズマは左の膝を突きあげていた。

 膝が相手の鳩尾にめりこむのを実感した。

 少年の顔が苦痛に歪み、次の瞬間、高く昇っていた。

 その背後には銀色の髪の青年の顔がある。後ろから赤毛の少年の身体を掴み、引きあげているのだ。

 そして、キズマは見た。

 鈍く光る鎧に身を固めたファータが、青い髪のエルフに抱かれて空に昇っていくのを。

 ファータはキズマを見ていた。緑色の瞳がキズマだけを見ていた。

 キズマは起きあがろうとした。

 鐘が鳴り響いている。

 セアンの悔しげな声が耳に届いた。

 「遅かった! 遅かった! やつらは既に手を打っていたのだ……!」


      3

 アーベルは鉄砲隊の斉射をやめさせた。高価な火筒は、依然として決戦兵器となるまでは発達していない。発射間隔だけではなく、精度にも難があった。もっといえば、音がうるさい。

 「ええい、当たりもせぬ鉄砲はやめいっ! 耳が腐るわい!」

 アーベルは喚いた。

 鉄砲がやみ、その音が聞こえてきた。

 「なんじゃ、あれは」

 アーベルは耳をそばだてた。

 攻め手の動きも止まっている。五千の兵力とはいえ、せまい橋の上に陣取っている限り、二百の兵でも防ぎとめることはできる。アーベルはまさにそれをやっていた。

 だが、音がやって来た。美しすぎる鐘の音が。

 「浮城が、動いているぞ!」

 誰かがめざとくそれを発見した。

 アーベルも空を仰ぎ見た。

 タルタルーガの上空に浮かび続けている浮城レムナ。

 魔族が消えてより以来、レムナはただタルタルーガにエネルギーと水を供給してくれているだけの存在だった。あるいは、エネルギーの出所を深くは考えない多くの人々にとっては、ただ浮いているだけの存在に過ぎなかった。

 その浮城レムナの尖塔の鐘が打ち鳴らされている。四か所の塔にある四種類の音色の鐘。誕生、青春、老境、そして死の四音色。それらが混じり合い、重なり合って、今タルタルーガの夜を引き裂く。

 「光が消えていく……うわああっ!」

 兵士が恐怖の叫びをあげた。

 街灯が、家屋の灯火が、すべての光が生命を失ったかのように消灯していく。そして、広場の噴水も死んだように止まる。

 そればかりではない、恐怖は。

 風が吹き荒れ始めた。

 先程までの突発的な風とはわけが違う。

 まるで空の彼方に裸で放り出されたかのようだ。激烈な風だけが周囲を包む。

 「おおおっ! 総員退却! 橋から離れろっ!」

 アーベルが叫んだ。

 橋がまるで薄いベールのように風に翻弄され始めたのだ。

 デヌーブ王国の守備隊の兵士も何名もが風に足をすくわれ、波打つ橋に弄ばれたあげく、縁から転げ落ちた。

 アーベルはなんとか部下とともに広場に戻った。

 タルタルーガの円盤は、さすがに波打ってはいない。だが、風は凄まじく吹き荒れていた。息すら苦しい。

 いくつもの建物が風に吹き倒されそうになり、ぎりぎりと柱が悲鳴をあげている。空を黒く覆っているのは、吹き飛ばされた瓦であろうか。

 「構えを解け! もしもシュヴァイラの兵がタルタルーガに逃げこんでくれば、武器を奪い、命は救え!」

 アーベルは一応そのように指示を下したが、シュヴァイラ軍の全滅をほとんど確信していた。

 彼らが陣取っていた橋は、あの強風でほとんど裏返しにまでなっていた。

 五千の兵が落下したのはほぼ間違いない。

 「なんてこった……結界が外れたんだ。われわれは、今や空の上の円盤にしがみついているだけだ」

 アーベルの呻きに、それ以上適確な現状分析を加えられる兵士はいなかった。

 だが、アーベルの認識がその状態のすべてを言いあらわし得ていたわけではなかったことが、次の瞬間に判明した。

 周囲が明るくなったのだ。その異常の原因をアーベルは瞬時には判断できなかった。

 「浮城が光っている!」

 答えを見つけた兵士が叫んだ。

 アーベルをはじめ、全員が声のした方を見た。この異常な状況にあっては人間は容易に集団心理に陥る。それはアーベルとても例外ではない。

 浮城が闇に浮かびあがっていた。

 いや、浮城が浮いているのはあたりまえだ。異常なのは、その纏う燐光。

 無数の灯火に彩られているのだ。

 さらに、異常はそればかりではなく。

 「人だ! 人が城にいる!」

 兵士たちが喚き、恐慌に陥っていた。

 「昔と同じだ……あの時と……」

 アーベルの顔が恐怖に歪む。そのまま、表情は凍りついた。


      4

 「おい、キズマ、起きろよ!」

 乱暴に頬をはたかれて、キズマは意識が急速に明るんでいくのを感じた。

 目を開いて、まだ自分は寝ているのだと思った。

 が、夢の中の登場人物であるはずの獣人の掌が再びキズマの頬を打った。

 さすがに爪は引っこめているらしい、と思った瞬間、キズマは完全に醒めた。

 「アスラ、なんでここに!?」

 起き上がり、全身の痛みにうめき声をあげた。

 「おまえ、めちゃくちゃに転がって、放っておいたら、円盤の縁から転げ落ちかねなかったぜ。骨は折れてねえみたいだけどよ」

 キズマはあたりを見まわした。広場の一番外れのあたりだが、強い風が吹き抜けている。いくつかの建物が倒壊し、その建築資材が風に運ばれてものすごい音をたてて転がっている。街の大きさからして縁から落ちるというのは冗談にしても、そのまま地面をいろいろなものと一緒に転がっていては、かならず大怪我をしていたことだけはまちがいない。

 アスラがキズマを抱き起こした。すぐ側にはトトもいる。

 「トト、ファータやエルフたちは?」

 キズマの問いに、トトは首を左右に振った。

 「消えたよ。たぶん、風の精霊に身体を運ばせたんだな。この円盤のどこかに落ち着いていればいいが、橋へ行ったりしていたら、今頃は……」

 「橋? 橋がどうかしたのか?」

 「橋は風に吹かれてひっくり返っちまってるよ。魔法結界がなくなったおかげで、上空の強い風にさらされてな。おれが街に入る寸前に異変が起こったんだ。この分だと、途中ですれ違った大勢のやつらは、みんな海に落ちているな」

 アスラが吐き捨てるように言った。

 「タルタルーガを捨てた数千――いや数万もの人間が……無残だな」

 トトが乾いた声で言った。

 一キロセルウという高さからでは、たとえ下が海でも助かるはずがない。

 「おれはおまえたちの後を追って来たんだ。ここ何日と駆け通しで来たんだぜ。もう少し遅かったら、おれも橋から振り落とされていたところだ」

 アスラの言葉にキズマは身体を完全に起こした。自分の腕で体重を支え、アスラを見た。

 「追って来た……? いったい、どうしたんだ?」

 「伝言があってな。サラデア王からの急報だ。まず、ゴースさんのところに連絡が行き、それからおれに伝わったんだ」

 「陛下から……? それはいったい」

 アスラは表情を引き締めた。一瞬、二瞬、言うまいかとためらう気配があり、それから堰を切ったようにすらすらと述べた。

 「ヴァルジニアさまの行方が知れない――誘拐されたらしい。犯人は恐らくゾーヴァ」

 「な……」

 キズマは絶句した。

 トトはキズマが気絶していた間にそれを聞いていたのか、顔色ひとつ変えない。

 「どういうことだ!? なぜ、ゾーヴァが……!?」

 アスラは首を横に振った。

 「おれはまた聞きだぜ。細かい事情まで正確には伝えられん。ただ、話によれば、ゾーヴァは今回はヴァルジニアさまの部屋に直接現れたらしい。そして、ヴァルジニアさまだけをさらって消えうせた。ゾーヴァの仕業かどうかすら、本当のことはわからん。だが、警備の厳重なサラデア城に忍び入り、誰にも気付かれずに脱出するなんて人間技じゃないのは確かだ。キズマよ、おまえが犯人でないのなら、あとはゾーヴァがやったとしか思えない、というようにサラデアでは言われているそうだぜ」

 「おれが……? ばかな」

 「そりゃあ、そうだ。おれは一笑に付したがね。だが、ドートス王はそうであってくれればいいと思っているようだぜ。王さまの依頼はこうだ。キズマのもとに行き、ヴァルジアがキズマと一緒にいるかどうかを確かめてくれ、もしも、共にいるのでないのなら、ヴァルジニアの救出をキズマに依頼してほしい、と」

 「ゾーヴァが復活したというのか? なぜ、なぜだ……」

 キズマは理由を見出すことができなかった。間違いなくゾーヴァは滅んだはずだ。

 「キズマ……レムナを見ろ……」

 かすれた声でトトが言った。

 レムナが灯火に輝き、天空に浮かんでいた。

 その天主、もっとも天に近い部位から張り出したテラス。そこにも色とりどりの燈火がともり、城を幻想的に照らし出している。

 その、テラスに。

 「ゾーヴァ!?」

 狩人としてのキズマの視力は、獣人のアスラや魔力で遠視の術を使っているトトにおさおさひけを取らない。その目がとらえた。

 テラスに巨漢の美丈夫が立っていた。その腕の中に、白いドレスを身にまとったヴァルジニアが眠るようにして抱かれているのを――見た。

 「ヴァルジニア!」

 キズマは立ち上がり、叫んでいた。声が届くとは思えない。その深い眠りを醒ませ得るとも思えない。それでも、叫ばずにはいられない。

 ゾーヴァの顔が笑いを形作ったように見えた。

 ここまで来てみろ、と。

 そしてヴァルジニアを救い出してみろ、と。

 圧倒的に見下しながら、魔王はキズマを挑発するかのようだ。

 キズマは信じざるを得ない。ゾーヴァの復活を。そして、再び恐るべき浮城に踏み入らねばならぬことを。


    5

 そこは白い部屋だった。

 広さはわからない。

 とてつもなく広いようであり、あるいは意外なほどに狭いのかもしれない。

 二人いた。

 いや、人として数えてよいものか、どうか。

 一方は巨人だ。

 恐るべき美貌をたたえた男。

 ゾーヴァ、と呼ばれている存在だ。

 ゾーヴァは座っていた。

 彼の身体に合うように造られた大きな肘掛け椅子は、黄金でできているらしい。

 手にはワイングラスがある。クリスタル製のこぶりなグラスだ――というより、手が

大きすぎるのだ。普通の人間が手にすれば、それでも大きすぎ、典雅さに欠けるであろう。

 「味がわかるのかね?」

 もうひとつの存在が問うた。わずかにからかうような揺らぎがある。

 ゾーヴァはすぐには言葉を返さず、グラスを口につける。

 赤いワインだ。いや、もしかしたら血なのかもしれない。だとすれば、誰の? あるいは何の?

 「味そのものよりも雰囲気を楽しみたいということもあってな」

 赤い液体を飲み下したゾーヴァがかすかに頬を歪めて言った。笑っているようだ。

 「この前はろくに楽しむ間もなかった。まあ、慣れていないということもあったが」

 「この世での経験を重ねても何にもなるまいと思うがね」

 ゾーヴァと会話している存在は視覚では捉えられない。ただ、人格の輪郭を浮かび上がらせるおぼろな光と声だけが、その存在を察知させるのみだ。

 だが、ゾーヴァは目の前にあたかもその人物がいるかのようにして応対している。

 「このスフィアを統べる存在の言い草にしては自虐的に過ぎぬか? この世界で過ごすことの愉快さを感じているのは、むろんわたしだけではない」

 「ありがとう、と礼を言うべきなのだろうな。しかし、きみがここへ舞い戻ったというのはなぜかね? 前回からの間隔が短すぎるように思うが?」

 「出すものは出している。いちいち詮索されるいわれはない」

 ゾーヴァの声が尖った。

 「……その通り。ただし、ここでの掟は守ってもらう。スフィアの連中のなかにも、外とアクセスをもった種族が現れはじめたようだ。楽しみを長びかせたいのであれば、自重も忘れぬことだ」

 もうひとつの人格はそう告げると、その存在の重さを減少させていった。すなわち、気配が失せていく。

 まったき静けさが戻り、部屋にはおぼろな光がよみがえっている。

 そこは石造りの古い部屋で、調度らしい調度もない。まるで、ずっと住む者がおらず放置されていたかに見える。ただ、椅子と卓がひとつずつあるばかりだ。

 ゾーヴァはしばらく沈黙していたが、気配を感じたかのように振り返る。

 「いたのか」

 告げた声の先には一人の少女がある。

 細身の身体に純白のドレスをまとった姿だ。

 「今のは……いったい」

 震えを帯びた声。聞く者に極上の楽器の音色を想像させる。

 ちら、とゾーヴァは流し目をくれた。サイズはともかく、圧倒的な色気を感じさせる視線だ。

 その視線を受けては、心が氷でできてでもいない限り、心を蕩かされざるを得まい。

 だが、少女の表情はいっかな崩れず、頬にかすかな血の気すらのぼらない。

 少女はヴァルジニアだ。優しさしか似合わないかに思えるその顔貌には、今は毅然とした表情が形をなしている。

 「今、お話なされていた相手はどなただったのでしょう? もしや……」

 「イシュアプラのクイラではなかったか……と言いたいのだろう?」

 ゾーヴァはずけりと言ってのけた。

ヴァルジニアの眉がさらにしかめられる。

 「そのとおりだ……と言ったら何とする、ヴァルジニア? おまえたちが神と崇め、奉っているクイラと魔王ゾーヴァとが親しく言葉を交わす仲だとしたら」

 「イシュアプラのクイラは神ではありません。このスフィアを管理し、その秩序を守るべき存在です。だから神ではない」

 スフィアにはいくつもの宗教がある。サラデアでは法と秩序の神ジェスを、ヌーブ神皇国であれば悦楽と性愛の女神シャラハサを、エルフは精霊王ヘールンヴェを――それぞれ崇拝している。いくつもの宗教が混在しているが、どの宗教も自明のこととしてイシュアプラのクイラの存在を認めている。イシュアプラのクイラとは、理念上の存在ではないのだ。

 「だが、少なくとも人間の味方だとは思っていただろう。前回はおまえを救出しようとしたキズマたちに力を貸し与えたこともあるしな」

 ヴァルジニアは沈黙していた。それは肯定を表すものだろう。

 「イシュアプラのクイラ……だが、やつはおれの親友でもあるのさ。前たち人間やエルフどもの味方でもあるかもしれないが。やつは平等と公平、そして掟を大事にする。善悪など問題ではない」

 ゾーヴァは立ちあがった。

 ずしり、という重量感がともなう所作だ。十六セルウになんなんとする巨躯はヴァルジニアをほんの幼女に見せる。

 「会いたかったぞ、ヴァルジニア。少し見ぬうちにまた美しさを増したな。まったく、イシュアプラの恋人、スフィアの宝玉とはよくぞ言ったもの。スフィアにいかに財宝あれど、おまえに比肩しうるものなどない」

 巨大な掌が差し伸べられ、ヴァルジニアの白い顎に触れる。

 ヴァルジニアは身をすばやく後ろに引いた。相手の手をはねのけることなどできるはずがない。触れられたくなければ自分から逃げるしか。

 「清浄なるヴァルジニアか。相変わらずよな」

 魔王は端麗な顔をにやっと歪めた。

 「その分では英雄キズマどのとも、一線を越えてはおらぬのだろう」

 ヴァルジニアの顔がみるみる赤らむ。羞恥と屈辱の色がないまぜになって美しい顔貌の上をかすめ過ぎていく。

 「誇り高きヴァルジニア。しかし、此度おれを召喚したのはおまえの秘められた好き心だ。どろどろした欲情だ。否定できるか、おまえ」

 ゾーヴァに指をつきつけられ、ヴァルジニアの視点が凝固した。

 「キズマが旅立った後、おまえはあさましくも手淫をしたな。あの男を想って指を使ったのだ。そして願った。おれというものの復活を。おれが復活し、再びおまえをさらえば、キズマはまた追ってこよう。かつてそうしたのと同じようにな。そして、おまえはまた禁じられた召喚を行なった。驚いた女だ、ヴァルジニアよ。清浄無垢な王女の皮をかぶりつつ、おまえは自ら魔導書を読み漁り、世界を滅ぼしかねぬ魔王を二度にわたり呼び出したのだからな」

 「わたしは……そんな……」

 「最初は戯れだったろう。城での生活がつまらなくてしょうがなかったからだ。自由に外に出ることもできず、友達もいなければ、恋人も自由につくれない。人一倍好奇心旺盛で、性欲も強いおまえがそんな生活に耐えられるはずはなかった。それにしても、おまえの知識欲はたいしたものだ。城の書庫に蓄えられた魔導書を独学で読みこなしたのだからな。幾つかの愚にもつかぬ儀式を試み、失敗もしたが、ついにおれをスフィアに呼び寄せまでした。その見返りは充分にあったはずだ。おまえは自分が夢見ていた生活を体験した。魔王軍に連れ去られた姫君。その姫君を救わんとする若き勇者。おまえの望み通りおれはおまえたちを引き合わせてもやったのだから」

 ゾーヴァは苦笑じみた笑いを浮かべていた。

 「だが、冒険の情熱が醒めると、勇者どのはおまえから距離を置き始めた。身分違いを気にしてか? だが、それはおまえがサラデア王にねだったようにキズマの身分を引き上げてやればそれで済むことだ。本当の理由は、おまえも気づいていたように、あのエルフ族の娘だ。おまえにとってはとんだ誤算だったろう。おまえが無意識に願ったように、本来ならばおれは、キズマの仲間たちを皆殺しにした後、やつに斃されて役割を終えるはずだったのだからな。それをこともあろうにやつはクイラに頼んで仲間たちを蘇らせてしまった。おまえに向かうべきキズマの心は、蘇った仲間たち、特にエルフ娘に注がれてしまったわけだ」

 ヴァルジニアの頬を染めていた赤みは今は去り、表情らしい表情もない。まるで作り物の面であるかのように、それは動きを失った。

 「悔しかろうな、つらかろうな。誰からも愛され、慕われ、憧れられるべきおまえが、置き捨てられ、忘れ去られて、ただひとり城にある。よかろうよ。もう一度夢を見させてやる。キズマをば宴に招きよせ、血をもってあがなわせるのだ。不実な恋人に、限りなき苦痛を与え、悔恨の海に溺れさせ、そして知らしめるのだ。おまえのすばらしさを。おまえの美しさを。さあ、おれの手をとれ、ヴァルジニア。おれだけが、おまえの夢をかなえてやれるのだ」

 ゾーヴァが差し出した巨大な手。

 それに向けて、白くしなやかなヴァルジニアの手が伸ばされる。

 ヴァルジニアの双眸に光なく、ただうつろなかぎろいだけがあわあわと燃えている。

 指が、ゾーヴァの皮膚に触れる。

 「つぁ……」

 意外そうな軽いうめきがゾーヴァの唇を割った。

 差し伸べていた手をゆっくりと引っ込める。

 舌先で、肌に浮いた血の玉をすくいあげる。

 魔王の血も赤く、甘いのか。

 「自らの欲望が生みだした影を受け入れぬというのか」

 ゾーヴァの口調は、難詰するようではなかった。ただ、興味深げに確認しているようであった。

 ヴァルジニアは身を硬くし、隠し持っていた短剣の切っ先を自らの胸に擬した。

 その先端は魔王の血で濡れている。銀の刃の表面に赤黒い液体がかぼそい流れをつくっていた。

 「キズマを傷つけるというなら、わたしはこの場で死にます。わたしがこの世に呼び出したというのなら、わたしの死によっておまえも滅ぶはず」

 ゾーヴァの喉が鳴った。くつくつ笑っているのだ。

 「なにが、おかしいのです」

 「そのように短剣を胸につきつけていても、おまえは一瞬たりとも死ぬことなど考えていない。おまえは自分の価値を知っている。この世で最も熱烈なヴァルジニア賛美者がおまえなのだ。そのおまえが、自分を滅ぼすことなど、できるはずがない」

 「できます! わたしは!」

 「いいや。おまえにはできない」

 ゾーヴァはヴァルジニアににじり寄った。

 「近づかないで!」

 短剣を握る手に力を加え、ヴァルジニアが叫ぶ。

 「こんな時でもおまえの声は裏返らない。見事に抑制されている。おまえは決して取り乱すことなどない。おまえの心は常に計算高い。時を計っている。おれに抱き取られ、抵抗を封じられ、犯され踏みにじられて、おまえは宝玉のような涙を浮かべる。それすら、おまえの心が仕組んだ劇の一部なのだ」

 「やめて!」

 ヴァルジニアの視界いっぱいにゾーヴァの引き歪められた笑顔が迫る。

 巨大な手がヴァルジニアに向かって伸ばされる。

 ヴァルジニアは短剣を自分の心臓に向け、突きあげた。

 その手首をゾーヴァが一瞬早くつかみ取る。

 「あっ!」

 短剣が飛ぶ。床に落ちて転がる。

 「ほうら、見ろ。おまえは、おれが手を伸ばすまで自分を突こうとはせず、おれが動いたのを見て、ようやく動いた。最初から死ぬ気などなかったのだ」

 「ちが……ちがうわ……」

 ヴァルジニアは顔をそむけ、力なく首を横に振った。

 「おまえの心は、おまえ自身をもだまそうとするのだな。まあ、よい」

 ゾーヴァはヴァルジニアを抱き寄せた。細身ながら、しなやかさと柔らかさに満ちた若い肉体を、撫でさするようにする。

 「おまえの心が望んでいるようにしてやろう。キズマとその愚かな仲間たちがここにたどり着くまで、いささかの時間があるからな」

 「いや……」

 ヴァルジニアがつぶやく。

 その声にもはや強い意志の力はこもってはいない。


     6

 「やらねばならぬよのう」

 トトがぽつりと言った。

 「やるんだろうがよ、キズマ」

 アスラがすでに気負いこんで、鼻から鋭い呼気をもらす。

 息が白いのが見える。朝の光がイシュアプラに宿っていた。緑がかった柔らかい感じの光だ。熱はあまり含んでいないので、気温はまだまだ低い。

 キズマは黙っていた。見つめる視線の先には浮城レムナがある。

 城への掛け橋はない。だが、トトがなんとかしてくれるだろう。魔法結界が破れたいま、トトはいくつかの移動呪文を操ることができる。

 だがら、キズマは城への侵入について迷っていたわけではない。

 「やつら、エルフは……なぜおれたちを襲ったんだ? やつらの口ぶりからして、ゾーヴァの手先とは思えない。なのに、なぜ」

 アスラの表情がくもる。

 「ファータのことが心配か、キズマ」

 「確かに、嬢ちゃんの剣技がないとすると、戦いは困難じゃな。だが、いない者をあてにしても……」

 トトが訳知り顔で言いかけるのをアスラはすごい表情で中断させた。

 「そういうことを言ってるんじゃねえ! 記憶なしは黙っていろ!」

 「記憶ならとうに戻っておるわい」

 「そうだろう、キズマとファータのことをよく知らねえやつに……んん!?」

 アスラは黄金色の瞳を幾度かしばたたいて、矮人を見直した。

 「なんつったよ、おっさん」

 「頭が獣以下のおまえでもよみがえった記憶が、このわしに取りもどせぬわけがあるものか。サラデアの城にいる間に輪郭は思い出しておった。細かいところは旅を続けるうちに徐々に戻ってきたがな」

 「トト! なぜそれを早く言わなかった!?」

 キズマが顔色を変えていた。拳を固く握りしめている。骨格が白く浮き出るほどに。

 トトはキズマを振りあおいだ。

 「だますつもりはなかった。だが、なぜ死んだ者をわざわざ蘇らせたのか、ましてや記憶を取り戻させようなど――よけいな世話だと抗議したい気分もあってな。わしはあの戦いで死ねて本望だったのだ。故郷に戻っても家族もおらず、ただ読書をするより気をまぎらわせるすべもない。記憶が戻れば、これから新たに読める本がそれだけ減るということにもなる。ま、それにも増して、キズマと旅することに馴れた自分に気付いたということだろうて」

 「ふん、そういうことか」

 合点がいったというようにアスラが声をもらす。が、キズマの表情は固いままだ。

 「あんたとの――そこの毛むくじゃらも気の強いエルフ娘も含めて――旅はおもしろうてな。これまでの人生はすべてこの仲間に出会うための準備期間でしかなかったような気がしたもんだ。それが終わってしまうのがいささか不本意であったわい。ましてや、わしらは死をもって幕を降ろすべき人生をむりやり再開させられた。このまま正直に記憶が戻ったことを告げて、自分の人生をひとりでやり直せと言われたらどうしようかと、途方にくれたわけじゃて。それで、せめてこの旅を長びかせることができたら、とな」

 トトは悪びれずに言った。老人のような外見に似合わぬ率直な物言いだった。

 「おれだって、旅を終わらせたくはなかったさ。だから、こうして」

 キズマは言葉を巧みに操れるほうではない。しかし、黙ってはいられない。自分がどんなにかアスラやトト、ファータに感謝しているか。そして、その死に衝撃を受けたか。そして、よみがえらせることができた時に、どんなにうれしかったか。彼らの記憶を取りもどすための旅に出ることを決意した時の気持ちはどうであったか、など、言いたいことはたくさんあった。

 だが、トトの言葉がその奔流を塞きとめた。

 「だがな、キズマ。おまえにとっての旅は終わっていたのじゃ。気持ちはどうあれ、実際のところはな。おまえはヴァルジニアさまと結ばれ、われわれはそれぞれの場所に帰る。アスラは獣人の村へ、わしは矮人の国へ、そしてファータはエルフの森へ。おまえは、われわれを送りとどける旅に出たのだ。過去を記憶に変え、未来を現実にするための儀式としての旅に、な」

 キズマは黙った。そうかもしれない、という想いはあった。現に旅立つ前にヴァルジニアに約束したではないか。百日たったらかならず戻ると。ヴァルジニアに対して心にもない嘘をついたのだと自分で納得できない以上、トトの指摘は正鵠を射ていると認めざるをえない。

 「だがな、そのことをだれよりも強く感じとっていたのはわしではない。ファータだ」

 「ファータの記憶も戻っているってのか!?」

 アスラが勢いこんだ。

 トトはキズマの目を見あげたまま、うなずく。

 「おそらくは、サラデアの城にいた頃から、ほぼ思い出しておったのだろう。アスラは獣人の村に戻り、闘ううちに記憶を取りもどした。わしは書物に触れているうちに知識といっしょに過去が戻ってきた。ひとが、そのいちばん大切なものに触れたときに過去の自分と向かいあうとしたら、ファータは死の眠りから目覚めた直後、それに触れたはずじゃろう」

 キズマはトトの視線の意味をはかりかねた。

 「ファータの記憶がずっと前に戻っていたなんて……。じゃあ、あんなに機嫌が悪かった理由は……?」

 トトは顔をふせてため息をついた。

 アスラが呆れはてたといった様子で、キズマの肩をかるく突いた。

 「わざとか? それともほんとうに鈍いのか? 英雄のおまえ。ヴァルジニアさまとの結婚が確実視されているおまえ。すべてを思い出しながら、ファータがそれをおまえに気取られることを恐れた理由に、おまえはまだ気づけないのか?」

 キズマはわずかによろけたが、それはアスラの腕力のせいだけではなかった。

 ファータが命を賭けてかばってくれた時のことをキズマは絶対に忘れない。

 そのことを含めたキズマとの旅の記憶をファータが失ったと知った時、キズマが味わったのは、深い喪失感ではなかったか。

 自分が、仲間の記憶を取りもどすことにこだわったのは、どうしてなのか。

 旅の清算をするため――仲間への責任を果たすため――

 大義名分はある。だが、ほんとうにそれだけだったのか。

 そうではないことをキズマは自覚していた。だが、その気持ちを隠したまま、ドートス王に臣従を誓い、ヴァルジニアの騎士たることを自らに課していたのではなかったか。

 ここに至り、ファータが記憶を失っていることに甘えていた自分をキズマは直視せざるを得ない。

 「それでも」

 ぽつりとキズマは言った。

 「それでも、ヴァルジニアさまを助けなくては。あの方には何の罪もないのだから。あるとすれば罪は、決着をつけることから逃げていたおれにあるのだから」

 「――行くか、レムナへ」

 長くは措かずトトが言った。

 キズマはうなずく。

 「よしっ! 今度こそケリをつけようぜ!」

 アスラの吠え声が大気に響いた。

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