Epilogue

Epilogue


 十一月。

「春花、沢崎先輩来てるよ」

 清掃直後の教室で学級日誌を書いていた春花は、華奈につつかれて顔を上げた。

 ちょっと待ってて。

 学級日誌を持ち上げて声を出さずに言う。教室の戸口で俊が微笑んで頷いた。

「いいなあー沢崎先輩、超かっこいい。幼馴染から彼氏なんて、ほんと恋愛の王道だよね」

 華奈が羨ましそうにため息をついて、亜美が笑う。

「華奈だって小島と幼馴染じゃん。付き合っちゃえば?」

「冗談でしょ、誰があんな奴と」

「でも小島って結構一年生に人気あるみたいだよ。うちの部の一年生が言ってた」

 春花が言うと、華奈の目が丸くなった。

「えっ。ほんとに?」

「お、火が付くか」

 葵がニヤニヤする。

「うん、体育祭の前に訊かれたの。『先輩、小島先輩と同じクラスですよね。小島先輩って彼女とかいるんですか?』って。ハチマキもらいたいとか、何人かライバルがいるとかって言ってた」

「おお〜」

 亜美と葵がさも嬉しそうに言って華奈を見る。

「…そうなんだ…」

 華奈は周囲の期待を裏切らない表情で呟いた。春花はにこりとした。

「幼馴染っていいよ。他の子に取られちゃうなんて勿体無い」

 

 「なんだったんだよ、今の騒ぎ」

 廊下を歩きながら俊が苦笑する。

「んー、幼馴染っていいよ、他の子に取られたら勿体無いよ、って言ったらみんなが『ぎゃー!』って」

「…なんだそりゃ」 

 ちょっと赤くなってから俊は目を細めた。

「ルカも随分教室で楽しそうに話すようになったよな」

「へへ」

 ちゃんと名前を覚えるって大切なことだ。まずはそこから、と思って、友人たちや周りにいる人たちの名前をしっかり意識するようになったら、魔法のようにどんどん日常の世界が変わっていった。

「ああ、そういえば。佐藤から伝言。桜園に訪問するの、OK出たって。来週の土曜日にとりあえず有志数人で一度行くことになるみたい」

 桜園というのは近くの老人ホームだ。朗読のボランティアをさせてもらえるだろうかと打診してみたら、個人ではなく演劇部として来ていただくのはどうでしょうかと言われて、思い切って真夜に提案してみたのだ。

「ほんと!」

「よかったな」

 なんだかとても嬉しい。

 ねえ、ハル。

 思い出の中の優しい笑顔にそっと語りかける。

 嬉しいな。私、頑張るよ。喜んでもらえたらいいな。

「俊ちゃんも行く?」

「…まあ、朗読より碁の相手が欲しいって人がいたら役に立てるかもしれないしな」

 五月頃、春花は、自分は大丈夫だからバレー部に戻ってと言ったのだけれど、俊は、もうバレーはやりたくないからと演劇部に残った。

「ハルがいないのにバレーやったってしょうがない。あの野原でハルとやったのが俺のバレー納め」

 せっかく二年間やってきたのにもったいないよ、と説得しようと思っていた春花だったが、その言葉に口をつぐんだ。


 放課後はどっちかの家で一緒に勉強する。今日は入江家だ。

 最近は『お隣』の朝早く行っても寒いし暗いので、勉強の後で六時頃にちょこっと行ってユマやエルザとおしゃべりして帰ってきて、また十時頃にゆっくり行くことにしている。土曜日と日曜日はできる限り朝から晩まで『お隣』と『もう一つのお隣』で過ごすことにしていて、故にお互いの友人達にも親達にも「ベッタベタ」だとからかわれるが、そんなことは気にしない。スマホまでオフにする必要ないだろうと文句を言われたりもするが、つながらないのだから仕方がない。

「昔はそんなものなかったわけでしょ。そういうのが好きなの」

 で通している。

 俊はといえばごく簡単に、

「邪魔されたくないから」

 と言っているそうで、その度に友人達から吠えられるらしい。

 「いよいよ明日だな」

 一休みして紅茶とチョコレートをつまんでいるときに俊が言った。

「うん。なんだか私が緊張してきちゃう」

 明日の土曜日、ユマのレガッタの大会がある。それぞれの地方の大会を勝ち抜いてきた初等部から高等部の精鋭が集まる、全国選手権大会くらいの規模のものだ。もちろん応援に行くことになっている。

「おじさんも行くって?」

「お天気次第だって言ってた。夜晴れてたら、高校の天文部の天体観測に参加するっていうことで留守にできるけど…って」

「そっか、夜だもんな…」

 妻子ある男性が夜通し留守にするのはちょっと難しいようだ。


 お父さんは、花祭りのお休みの最終日に『お隣』のことを思い出した。

 アリに、音楽と記憶というのは密接なつながりがあると聞いたので、春花はお父さんがいる時に頻繁に花祭りの歌をハミングし、少し躊躇したけれど「音楽の授業で聴いて気に入っちゃった」と言って、モーツァルトのヴァイオリンソナタをいくつか居間でかけてみたりした。お父さんが辛そうな顔をしたらすぐにやめようと思っていたけれど、お父さんは懐かしそうな、うっとりしたような顔をして聴き入っていた。目が潤んでいた。

 そして花祭りの最終日の日曜日。夕方の六時半頃俊に送られて沢崎家から帰宅した春花を、お父さんが門のところで待ち受けていた。

「おかえり」

「ただいま」

 お父さんは二人をじっと見つめた。

「……」

 もしかして、と春花が思った時、お父さんが微笑んだ。

「『隣』に行ってきたの?」

「はい」

 口を開けたまま返事ができなかった春花に代わって俊が答えた。

「僕も連れていってくれる?自分でやってみようとしたんだけど、ちょっとコツが思い出せなくて」

「僕たちもまだ自分達だけでは行かれないんです…」

「リオに訊いてみる!」

 急いでミニリュックのポケットからお手製の小さな巾着に入れた『ケータイ』を取り出して、春花は興奮でうわずった声でリオに連絡した。

 かくしてその後すぐにお父さんは春樹の部屋からリオと一緒に『お隣』へ

行った。お母さんに怪しまれないように二人は後に残り、「お父さんは散歩に行った」とお母さんに伝えた。

 後でユマに聞いたところによると、バルトヴィッツ家は上を下への大騒ぎになったそうで、エルザは「本当に気が狂っちゃったんじゃないかと思った」くらい泣いたり笑ったり叫んだりして、アリが真剣に心配していたらしい。  

 フランツとは大使館の廊下で再会。それはそれは感動的な涙涙の再会で、リオがもらい泣きしたと言っていた。

 それ以来、移動の勘も取り戻したお父さんは、時間が許す限りちょくちょく『お隣』を訪れている。ヴァイオリンも——『お隣』でだけだけれど——また弾くようになって、この前は遊びにきたカサンドラと演奏して大喜びさせた。

「長生きしてよかったわ」

 カサンドラは目を細め、しかしお父さんに指を振ってみせた。

「しっかり練習しないとね、潤。昔のあなたの演奏にはまだまだ程遠いわよ」

「はい。頑張ります」

 お父さんは恥ずかしそうに、でも春花が見たこともないようなキリッとした目をして言った。

 その時のお父さんは、ちょっと春樹に似ていた。

 お父さんは、今、絵本も描いているらしい。

 父の日に俊と二人で作った絵本——タイトルはなんと「となりのじゅん」——をプレゼントしたら、泣かれてしまってびっくりした(俊までうるうるしていた)。その時お父さんが、涙を拭きながら、

「…僕も、また絵本描いてみたくなっちゃったなあ」

 と言った。この前、そのことをふと思い出して、

「お父さん、絵本描いてる?」

 と訊いたら、少し照れたように笑って、

「うん、ぼちぼちね。お母さんの誕生日にと思って。内緒だよ」

 素直に、わあ、いいなあ、と思った。


 「おじさん、おばさんに『お隣』のこと話せばいいのに…」

 俊が教科書の上に頬杖をついて言う。

「でもお母さんは行かれないんだもの。言いにくいと思うよ」

「まあな、そうかもな…」

「俊ちゃんだったらどうする?」

「俺?」

 俊はちょっと考えてからあらぬ方を見てつぶやいた。

「…俺だったら、最初から『お隣』に一緒に行かれる人と結婚するかな」

 二人揃って赤くなった。


 土曜日。カッサからいつもより早目に戻り、こちらもいつもより早目に朝食を食べているユマと一緒にホットチョコレートを飲む。自分だったら緊張で食べられそうにないと思う春花の前で、ユマはニコニコもりもりといつものように朝食を食べている。

「会場までバスで来るんでしょ?」

「ううん、リオが時間取れたから車で連れてってくれるって」

 今では俊も春花もリオのアシストなしで移動できるようになったので、大学生になったリオに会える時間は前に比べてかなり減ってしまったけれど、カッサへはメッセンジャー同行が規則なので、一週間ぶりに会えたところだ。

「そっか、よかった。ここからだと、あそこ行くの、ちょっと不便なんだよね。乗り換えなきゃいけないから。ここを十時頃出るんだとしたら、着くのは…十一時過ぎるかな。予選は終わってると思うけど、ま、余裕で勝つから大丈夫」

「油断禁物よ。自信があるのはいいけれど、過信はよくないわよ。強豪が集まってくるんだし、新しい選手だって出てくるんだから」

 エルザが釘を刺す。

「はいはい」

 前回の初等部カテゴリー準優勝者はひらひらと手を振った。どこ吹く風だ。

「今日、メラニーも来る?」

 俊とエルザがカッサ魔法大学の美術館についての情報交換をしているときに、春花はユマにそっと訊いた。仲が悪いとはいえ、従姉妹の大舞台なのだ。

「来ない来ない。大丈夫。昔から『ボートなんて原始人でも漕げる』とか言って馬鹿にしてるし、それにオーディションが近くて忙しいらしい」

 声をひそめて、

「しかも今回の『犠牲者』が同じスクールのダンサーらしくて、余計バレエ熱上がってるみたい」

「そうなんだ」

 あの花祭りのイブ以来、メラニーには数回会っている。向こうが何事もなかったかのように接してくるので、こちらも同じようにしてはいるけれど、できればあまり会いたくない相手ではある。

 ユマはふんと鼻を鳴らした。

「何が『原始人でも漕げる』だよね。踊りなんて鳥でも踊れる」

 

 まだほの暗い中、エルザの車でまずは集合場所の学校に向かうユマにGood luckのハグをして見送った後、二人は顔を見合わせた。

「どうする?」

「ちょっと公園に行ってもいい?」

「おっけ」

 なんとなく、毎月、あの美しい野原で春樹と別れた日に、二人で『死者たちの世界』の入り口のある公園へ行く習慣が出来上がっていた。今日はそのメモリアルデイではなかったけれど、なぜか行きたくなった。

 「ちゃんとさよならが言えてよかった」

 あの日、夕焼けの中で春樹は言った。

 二人にとっては、春樹の公式の『命日』よりも、あの日こそが心に残る、大切な日となっていた。

 ハルとさよならした日。

 散り敷いた落ち葉を踏みながら歩く。そっと手を伸ばして俊の手を取ると、もう片方の手を春樹とつないだあの野原を思い出す。

 …歌を歌えば、靴が鳴る…。

 思い出の中で、青い空が見える。春樹の笑顔。春樹の手。

 …晴れたみ空に、靴が鳴る…。


 公園の中をしばらく歩き、いつものように、あの白銀の木が見えるところまできて立ち止まる。

 あの日、どうしても訊きたいことがあって、あの銀のサリーの少女の元に駆け戻った。それ以来一度もあそこへは行っていない。こうして遠くから眺めるだけだ。


 「あの、どうしても、どうしても教えてもらいたいことがあるんです」

 あの時、少女のところに駆け戻った春花は、息を切らせながら必死になって言った。絶対に答えをもらわなくてはならない。

 少女は穏やかな微笑みを浮かべて春花を見上げた。

「なんでしょう」

 春花は震える息をついた。落ち着いて。落ち着いて。

「さっき、向こうで話した時に、兄が言ったんです。向こうでは時間の流れ方が全然違うって。本当はそうじゃないのに、ついさっき来たみたいな感じがする、って。それから、別れる前にも言いました。きっと次に会うのが私たちの世界では九十年後でも、自分にとっては数秒にしか感じられないだろう、って。私たちが九十年後にまた兄のところに行っても、あれ、もう戻ってきたの?って感じだろう、って。それ、本当なんですか?本当に、本当にそうなんですか?」

 俊と一緒にこっちに戻ってきた時、少女の手で戸口の布が下ろされた。振り返ると、花も葉も戸口も消えて、そこには元通り白銀色の枯れ木のように見える太い木が立っているだけだった。

 それを見た瞬間、強烈な後悔に襲われた。

 ハルをひとりにしてしまった。

 ハルをひとりで置いてきてしまった。

 待っていてくれたユマやカサンドラやアルトゥールにもう一度お礼を言って——こちらではなんと半時間ほどしか経っていなかった——、なんとか平静を装って会話をしたけれど、その間中後悔で気が狂いそうだった。  

 ハルはああ言ったけど、あれはハルがそう思うっていうだけじゃない?本当は違うんじゃないの?

 日が沈んだ後の美しい野原に、ひとりぼっちで寂しそうに佇む春樹の姿が見えるような気がした。

 みんなでゆるゆると歩いて公園を出たところでもう堪らなくなり、みんなに先に帰ってくれるように言い、身を翻してダッシュで駆け戻った。もし春樹が言ったことが間違いで、本当は春樹が長い年月をたった一人で寂しい思いをして過ごさなければいけないのだとしたら、どんな手段を使ってでも絶対に春樹のところに戻って、ずっと春樹と一緒にいようと思った。

 どんな手段を使ってでも。

 絶対に。

 少女はにこりとして頷いた。

「彼がそう言ったのなら、本当です」

「え?」

 春花は一瞬混乱し、それから眉をしかめた。

 違う。そんな誤魔化しみたいな答えが聞きたいんじゃない。

「本当のことが知りたいんです。お願いです。教えてください」

 少女は穏やかに答えた。

「本当のことです」

 あんまり穏やかに言われて、春花は地団駄を踏みそうだった。どういう意味?

 少女はその大きな濡れたような黒い目で、じっと春花を見つめた。

「彼がそう言ったのなら、彼がそう望むのなら、その通りになります。私達の世界というのは、そういう世界なのです」

「……」

 静かな言葉が心に染み通っていった。

 肩の力が抜ける。

「死者たちが穏やかに幸せに時間を過ごせる場所なのです。悲しい思いや辛い思いをする場所ではありません」

 大丈夫なところ。

 あの時の春樹の言葉がもう一度聞こえたようだった。

 ——僕は大丈夫だよ。ここってなんていうか…そういう場所なんだと思う。

「…それじゃあ」

 後ろから笑みを含んだ俊の声がした。

「もし彼がミミズの存在を望まなければ、ミミズは存在しないんですね?」

 少女が真面目な顔で重々しく頷いた。

「その通りです」 


 春樹にちゃんとさよならを言えたからといって、あの日のあと全てが劇的によくなったわけではなかった。会えない寂しさは変わらなかったし、もう会えないのだと頭では了解したつもりでいても、一度奇跡のような再会を経験してしまったからか、どうにかしてもう一度会えないだろうか、何か方法があるはずではないのか、と思ってしまう。

 そんな夏の終わりのある日、二人はカッサである人に出会った。

 お昼頃、カッサ魔法大学植物園の温室ロビーでシェルダンと待ち合わせていたリオと俊と春花のところに、大柄なボサボサ頭のおじいさんがにこにこして近づいてきた。

「おや、これはまた随分若い学生さん達だね」

「いえ、『隣の隣』からの観光客です」

 こんなやりとりに今ではすっかり慣れた俊が言うと、おじいさんはほう、と言って、

「どこの国から?」

「日本です」

「そうかそうか…」

 目を細めて春花を見る。

「昔、日本から来た女の子を知っていたよ。非常に優れた魔法の使い手だった」

 二人は目を丸くした。早速俊が食いつく。

「魔法の使い手?…ということは、もしかしてあなたは魔法発明学者の方ですか?」

「おや、よく知ってるね」

 おじいさんはにこりとして、茶目っ気たっぷりにその大きな身を屈め、唇の前に人差し指を立ててみせた。

「ここではあまり大きな声では言えないことだがね」

「…そうなんですか?」

「ここの政府は、我々の存在をあまり人々に知られたくないのだよ」

「『隣』ではなくてこっちに住んでいらっしゃるんですか」

「そう、今はこっちの政府のたっての願いで、彼らの魔法科学のプロジェクトに参加しているからね…と、それも政府は人々に知られたくないそうでね。他言しないという約束をさせられてる。だから内密にね」

 ふっふっふとおかしそうに笑う。

「魔法発明学ってどんなことするんですか」

 俊の目がきらきらしている。おじいさんはそんな俊を楽しそうに見やって、

「どんなこと。そうだねえ、君は魔法数学とか魔法物理学とか知っている?」

「はい、まだビギナーですけど、研究生の方達に少しずつ教わっているところです。今日もこのあと魔法化学の実験を見せてもらうことになってます」

 最近、春花が植物園で楽しんでいる間、俊はもっぱら魔法科学のお勉強だ。図書館はすっかり見捨てられてしまっている。

「ほほう。それはそれは」

 おじいさんは嬉しそうに目を細めると、簡単に魔法発明学の説明をしてくれた。向こうの世界——おじいさんの生まれ育った世界——にある、魔法発明学によって生まれた様々なものの話。使われる技術。

「タイムマシンはどうですか」

 俊が質問した。

 春花の耳がダンボになった。

「タイムマシンねえ」

 おじいさんの右の眉がひゅっと上がった。 

「過去に帰りたいの?それとも未来に行きたい?」

「過去です!」

 俊と春花の声が重なる。おじいさんは二人の勢いにちょっと驚いたように目を丸くした。

「ほう。どうして?」

「会いたい人がいるんです」

 俊がためらうことなくキッパリと言った。

「それに、もし可能なら、その人がいなくならないようにしたい。…もちろんそれは、してはいけないことなんだっていろんな本で読みました。だけど、過去を変えるまではできなくても、せめて過去に戻って、楽しかった時間をもう一度経験できるとか…、そういう魔法の発明はないんですか?」

 おじいさんは優しい目をした。

「楽しかった時間をもう一度、か…。そうかそうか」

 微笑んで吐息をつく。

「質問への答えを先に言うと、そういう魔法は発明されていない。タイムマシンもね。そしてこれは、まあ君たちよりほんのちょっぴり長く生きている僕の考えだけどね、過去は、思い出の中にとどまるべきであると思うよ」

 その言葉は、なぜか春花の心を捉えた。

 過去は、思い出の中にとどまるべき。

 おじいさんは慈しむように二人を見た。

「大事な人達は思い出の中にいる。それでいいんだ。会えなくなってしまった大事な人たちも、その人達との楽しかった時間も、時と共に薄れて消えてしまったりなどしない。過去は時空の中にずっと存在し続ける。でもね、手を伸ばしてそれを掴み取りに行ったりするもんじゃない。あの時に戻りたいとか、あの人にもう一度会いたいとか、そんなことを思いつめるもんじゃない。過去は思い出の中にだけあればいいんだよ。そこが過去の居場所だ」

 しばらくしておじいさんが立ち去った後も、春花の心の中で、その言葉が静かに響いていた。

 過去は、思い出の中にとどまるべき。

 そこが、過去の居場所。

 その日から、何かが少しずつ変わっていった。


 大会の進行が少し遅れたこともあり、リオと俊と春花はなんとか滑り込みセーフでユマの予選を観ることができた。向こうの天候不順のため、お父さんは残念ながら欠席。こっちは少し雲があるもののきれいな青空が広がっている。

 ユマは向こうではシングルスカルと呼ぶ、一人で漕ぐ種目のみにエントリーしている。こちらではこれをソロと呼び、レガッタの花形種目らしい。春花は向こうのローイングのことなどほとんど何も知らないけれど、俊によるとこちらと向こうではボートの形やオールの長さなどがずいぶん違うそうだ。

「実際どうかはわからないけど、スピードもこっちの方が随分速く見える。すっげえ」

 頬を紅潮させてレースに見入っている。

 大きな河のこちら側の岸辺には、なんと可動式の大きな観客席がある。選手と選手の関係者が優先ということで、ユマが申し込んでおいてくれたので三人も入場できた。こんな大きなもの——大きな競技場の観客席の一部を縦に切り取ったような感じだ——が、するすると音も振動も立てずに、ボートに合わせてあっちへ行ったりこっちへ行ったりするのだからすごい。もちろん魔法の技術によるもので、俊は早速リオを質問攻めにし、それを見越して予習してきたらしいリオと楽しそうに魔法物理学の話をしていた。

 不言実行ならぬ有言実行で、ユマは悠々予選を突破した。レース後に目ざとくこちらを認めて笑顔で手を振る。

「すごい余裕だね」

 手を振り返しながらリオが微笑む。

「それにすごい人気」

 きゃー!ユマー!と女の子たちの歓声が上がっている。見ると「ユマ最速!」「LOVEユマ」などとデカデカと書かれたピンクの横断幕のようなものを掲げた女の子たちの一団がいる。どこの世界も、友達とかファンとか応援とかいうのは似たようなものらしい。

 続いて男子のソロの予選を観ていると、ユマがやってきた。

「お疲れ!」

「すっげえじゃん!」

「カッコよかった!」

「ありがとう」

 少し頬を上気させてリオと俊とハイファイブし、ぎゅうっと春花とハグをすると、そのまま隣に座り込んだ。内緒声で言う。

「次、ライアン」

 ライアンというのは、件のユマの想い人だ。高等部の一年生。あまり鮮明ではないボート部の集合写真でしか見たことがなかったので、春花は思わず伸び上がって、

「どこどこっ?」

「しぃっ」

 ユマが慌てて袖を引っ張る。意外なことに、ユマは——このことに関しては——ものすごく恥ずかしがり屋で、春花以外の誰にも絶対に知られたくないのだという。

「ブルーの」

 ひそひそ言う。

 レースでは、それぞれの選手が割り当てられた色のゼッケンのようなものをつけている。青いゼッケンの男の子に双眼鏡を向ける。ダークブロンドの髪を後ろで縛っている、キリリとしたハンサム。

「おおイケメン」

「でしょ」

「誰がイケメン?」

 隣から俊が言う。

「誰でもないよっ!」

「ユマの先輩」

 二人の声が混ざって、俊が変な顔をする。そこへ、

「ユマ」

 当直明けのアリがやってきてユマが嬉しそうに飛びついた。

「アリ!」

「ごめん遅くなって。勝った?」

「もっちろん!でも二位通過」

「へえ、新しく出てきた子?」 

 ライアンのレースが始まったけれど、ユマはそちらはちらりと眺めただけで、一心にアリを見上げてしゃべり続けている。

「うん、結構手強いと思う。すごいよ、筋肉ムキムキで。でもね、さっきコーチと一緒に録画チェックしたけど、あれは多分もう100%出してると思うんだよね。私はいつも通りセーブしての通過だから…」

 兄妹、か。

 眩しいな。

 やっぱりちょっと羨ましい。

 背後で話している二人の声を聞きながら少しだけ悲しい気持ちになりかけたら、俊がそっと声をかけてくれた。

「ルカ。大丈夫か」

 気持ちがふわっと軽くなる。

「うん」 

 ありがとう、俊ちゃん。大好き。

 思いを込めて見上げたら、まるで聞こえたかのように俊がちょっと赤くなった。照れたように視線をレースの方へ向ける。

「俺もやろうかな、ローイング」

「ええー?」

 意外な言葉に目を丸くする。ユマが教えてあげると言った時、俊はあまり気乗りしない様子だったのだ。

「気が変わったの?」

「湖で小舟漕ぐのとは違うだろ。やっぱり実際にこんなレース見ちゃうとな」

 一拍置いて、小さく吐息をつくと爽やかに言った。

「…ハルとやってみたかったな」

「二人で漕ぐやつ?」

 想像したら目の前がうっすら涙でぼやけた。目をぱちぱちさせながらちょっと笑う。

「ハルと俊ちゃんじゃ、しょっちゅう喧嘩になりそう」

「だろうな」

 笑って答えた俊の目も、ちょっとだけ潤んでいる。

「でもね、いざって時は…本番は、バッチリ息が合って、ぶっちぎりで優勝するの。だって本当は大好き同士の二人だから」

 水面にきらきら反射する光の中、レースに勝って、とびっきりの笑顔で拳を突き上げている二人の姿が見えたような気がして微笑んだ。

「春花」

 アリと一緒に立ち上がったユマが声をかけた。

「ちょっとママのとこ行ってくる」

「了解」

 歩いていく二人の背中を少しの間見送ってから、深いブルーに輝く広い河に目を戻す。歓声の中ぐんぐん進んで行くボートを見つめる。

 私にも、兄がいた。

 今も、思い出の中に兄がいる。

  

 

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はるのものがたり 柏木実 @MinoriK

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