第30話

Chap.30


 「…俊は演劇部に入ったの?」

 春樹がそっと訊いた。

「うん。新学期の部活始めの日に行ったら俊ちゃんがいて、あれ、どうしたんだろう、と思ったら、先輩が『新入部員です』ってみんなに紹介して…」

「掛け持ちじゃないんだ」

「うん、バレー部は辞めちゃったみたい」

「そう…」

 春樹は、たっぷりと水を含ませた筆でひとなでしたような青い水平線の方を見やって吐息を漏らした。優しい目をしていた。

 しばしの沈黙。

 肩が触れそうなところに春樹がいる。今までのことは全部夢で、春樹が一緒にいることだけが現実のような気がする。かと思うと次の瞬間にはこれこそが夢のような気がして泣き出しそうになる。

 静かに一呼吸して、春花は混乱する頭をしゃんとさせた。

 大事なのは、ハルを悲しくさせないこと。

 笑顔を作って春樹を見上げる。

「俊ちゃんから、『お隣』の世界のこと聞いた?」

「少しだけ」

 春樹が首を傾げるようにして微笑む。

「いろいろ聞かせて」

「うん。んっと、じゃあ始まりから。メッセンジャーのリオがね、ハルへの招待状を持ってきてくれたの。そのことは聞いた?…」

 頭の中のメモ帳を一枚一枚めくるようにして、あのことは聞いた?このことは?と春樹に訊ねながら話していく。

 お父さんと花祭りの歌の話もした。

「…そんなふうだから、結構すぐ思い出せるんじゃないかなと思うの。もしかしたら俊ちゃんと作ってる絵本も必要ないくらいかもしれない。でも絵本はちゃんと作るつもり。…でね、もしお父さんが『お隣』のこと思い出して、戻ってこられて、それでもし…もしもだけど、誰かがお父さんにここに来る権利を譲ってくれたら…」

 ね?と見上げた春花に、春樹は柔らかく首を振った。

「それはやめておいたほうがいいと思うよ」

 春花は急いで言った。

「もちろん、私からはユマにも何も言わない。そんなプレッシャーかけるのはよくないし。でも、もしユマが誰か権利を譲ってもいいって言う人を見つけて提案してくれたら…」

 春樹はまた首を振った。

「できれば、そんなことになる前に、そういうことはしないでほしいって頼んでおくほうがいいと思う」

 春花は目を丸くした。

「…どうして?」

 すべすべした薄茶色の木の幹に寄りかかって、春樹は静かに答えた。

「お父さんは…あまり強い人じゃないから。ここに来て僕に会ったりしてしまったら、きっと…もっと悲しくなって、辛くなって、立ち直れなくなってしまうと思う」

「…そうなの?」

 他になんて言っていいかわからず、春花はおずおずと呟いた。

 そんなふうに考えたことは一度もなかった。お父さんが「あまり強い人じゃない」なんて。大人の男の人はみんな、少なくとも十四歳の女の子の自分よりは強いに決まっていると漠然と思っていた。

 …私はここに来て、ハルに会ってるのに。  

 春花の気持ちを読んだように、春樹は春花を見て微笑んだ。

「ルカも俊も大丈夫。…それからもし来られるならお母さんもね、ここに来て僕に会っても大丈夫だと思う。でもお父さんは来ないほうがいい」

 春花は、パトリックのお母さんの話を思い出した。

 アリの言葉が頭の中に蘇る。

 ——人の心は…色々だ。死んでしまった人に会えることで慰められる人もいるし、そうじゃない人もいるんだ。

「…わかった。じゃ、ちゃんとユマに言っておくね」

「うん、お願い」

 春樹は優しい目をして春花を眺めた。

「…前だったら、ルカのこともそう思ったかもしれない。でも今はね、そうじゃないってよくわかったよ。ルカは大丈夫。ちゃんと僕なしでもやっていける」

 胸の奥に火傷のような痛みが走る。

 僕なしでも。

「うんと小さい時に、お父さんが話してくれたお話があったんだ。寝る前にね。大きな木と、その木の根元に咲いてるかわいい花の話」

 春花は小さく息を呑んだ。

「木がね、花に言うんだ。僕がいつも君を守ってあげる。僕の根元に咲いてれば嵐が来ても大丈夫、って。僕はなぜかそのお話がすごく心に残って、僕が大きな木でルカが僕の根元に咲いてる小さな花なんだって思った。これからはいつも僕がルカを守ろう、って思ったんだ」

 春樹は空を見上げた。ゆっくりと動いていく雲を眺める。

「…さっき、気を失ってるルカを俊が抱えてきたのを見て、気が動転した。どうしよう、僕はもうルカを守れないんだ、って…。俊にもルカのことを頼んでみたけど、でも…俊は僕じゃない。ルカがハンモックの中で泣いてるのを見て、たまらなかった。庇ってくれる木がなくなって、嵐の中で泣いている花を見てるような気がしたんだ。…でも、ルカはすぐ泣き止んで、自分も辛いのに僕を気遣ってくれて…」

 小さく息をついて、春樹は白い雲に向かって微笑んだ。

「今、ルカが『お隣』とかカッサでのいろんな話をしてくれるのを聞いてて、よくわかった。僕は…ルカを守りすぎてたのかもしれない。俊が正しかったんだ。嵐から守る木がなくなっちゃったら、花は雨に打たれて風に吹かれて痛めつけられて、だめになっちゃうって思ってた。でもね、大きな木が切り倒されて切り株になったら、そこにはもっと陽が差して、花は強くなれるんだよね。それに、木がなくなった分、そこには他の植物も育つようになるから寂しくない。僕がいたから、ルカはあまり友達も作らなかったよね。僕がいなくなって、ルカにとってはかえってよかっ…」

「僕がいなくなってよかったのかもしれないなんて言ったら、そんなこと言ったら、思いっきり蹴っ飛ばすからね!」 

 怒鳴った春花の目から大粒の涙がぼろぼろこぼれた。

「宇宙の向こう側まで蹴っ飛ばすから!!」

 初めて春花に怒鳴られて仰天している春樹の横で、春花は声をあげて泣いた。もう止められなかった。

「…ルカ」

 わあわあ泣いている春花を春樹はそっと抱きしめた。

「…ごめん」

 目を閉じて微笑む。

「…大好きだよ。ごめんね。大好きだよ、ルカ。…泣かないで」


 しばらく経って、まだ少ししゃくり上げながら、春花はポケットからハンカチを引っ張り出した。

 ハルのハンカチ。

 眺めていたらまた涙が出て、水色のハンカチに吸い込まれていった。

「どうしたの?」

 ハンカチを眺めている春花に春樹が訊いた。

「うん…」

 春花はわざと口をへの字にして言った。

「男の人用のハンカチってつまんないよね。男の人はお花好きじゃないのかな」

「僕は花好きだよ。春の花が特に」

 そう言って春樹がからかうように肩をぶつける。

「私はね、春の木が大好き」

 赤い目でうふっと笑って肩をぶつけ返す。

 春の木を下から見上げると、若い緑の葉たちがきらきら光る陽に透けて、胸が痛くなるくらい綺麗だ。

 ハルみたいに。

「ねえ、さっきの木と花のお話。お父さんがそのお話してくれた時、私もいた?」

「いたよ。だってあの頃は一緒の部屋で寝てたもの。でもルカはまだ小さかったからね。もう眠ってたかも」

「そのお話聞いたのは覚えてないの。でもハルとそういう会話したのは覚えてる。ハルが、『僕は木でルカは花だから、僕がルカを守ってあげる。僕の根元に咲いてれば嵐が来ても大丈夫だよ』って」

 春樹が懐かしそうに目を細める。

「うん、そしたらルカが『でもハルはどうするの、嵐が来たら濡れちゃうよ』って言った」

 ハルも覚えてるんだ…。

 胸の奥がじんとする。

「そう。で、ハルが『僕は男の子だし、木だから、大きいから濡れても大丈夫』って言ったの」

 涙が出そうな気持ちを振り切って、明るく続ける。

「あのね、さっき話すの忘れちゃったんだけど、『お隣』でもう一冊お父さんの絵本読んだの。出版されたものじゃなくて、大学のサークルか何かで作ったような絵本。春の森のお話がいくつも入ってる絵本で、その中にね、木と花の会話があった。その一部が小さい頃ハルとしたさっきの会話とそっくりで…びっくりしちゃった」

「…そうだったんだ」

「ユマにね、朗読してって言われて、その絵本朗読したの。最後のお話が木と花のお話で…。ハルとの会話を思い出して、ハルはこの物語を読んだことがあったのかな…って不思議に思ってたんだけど、寝る前のお話だったんだね」

「朗読か…。ルカは小さい時から上手だったね」

 春樹が微笑む。

「最初は僕が読んであげてたんだ。『こんとあき』とか『シンデレラ』とか『はじめてのおつかい』とか。そしたらルカはそれを覚えて、まだ字が読めないのに、本を持って朗読してた。実際は暗唱だったわけだけど。『本読んであげるー!』って本持って来て、楽しそうに朗読してくれるんだけど、たまに途中から他のお話に変わっちゃったりしてたんだよ。おもしろかったな」 

「やあだ。覚えてない」

 二人でくすくす笑う。

「…でも、そっか。ハルが私に朗読してくれてたんだ」

 きっとそれで私は朗読が好きになったんだ。ハルが私に読んで聞かせてくれたから。

 ——ハルが、読んでくれたから。


 しばらくあれやこれやの昔語りをしていると、パタパタと足音が聞こえてきて、スロープから俊が現れた。

「疲れたー。ただいまー」

「おかえりー」

 また二人の声が揃う。

「海まで行かれた?」

 春花の問いに俊はさも残念という顔をして、

「全然。傾斜が緩いから、いくらぐるぐる回ってもビーチが近づかなくて、途中で諦めて帰ってきた」

「もしかして、初めから到達できないようになってるのかもしれないな…」

 顎に指を当てて春樹が言って、俊は情けない顔をした。

「…それ、最初から言えよ」

「今思いついたんだよ。それに『かもしれない』だから」

「その…そういうとこなの?ここって。初めから到達できないようになってる、とか、そういうことが起こるところなの?」

 春花は心の中でくすっと笑った。

 さあ、俊ちゃんの質問が始まった。

「うーん、よくわからない」

 春樹はちょっと小首を傾げるようにした。

「なんていうか…、僕もまだよくわからないんだよね、ここがどういうところなのか」

「…そっか。まあまだ来て二ヶ月も経ってないもんな」

「そういう時間の感覚も全然違うんだよ。変に聞こえるだろうけど、ついさっきここに来たみたいな気がしてるんだ。だからさっき俊に起こされた時も、最初は久しぶりって感じが全然しなかった。しゃべってるうちに、だんだん時間の感覚が戻ってきたけど」

「じゃあ、一人で寂しいとか、俺たちに会えなくて寂しいとか、そういうのも感じなかったわけ?」

「全然。だって、ついさっき来た感じなんだもの。会えなかったような気がしないんだ。ずっと普通に一緒にいたような感じ」

 それを聞いて春花はほっとした。確かにとっても綺麗で素敵なところだけど、ハルはずっと一人で寂しくないのかな、私だったら、こんなふうに一人でいたら寂しくて悲しくてすごく辛いと思う…と心配していたのだ。

「でも…例えば、こっちの方に来れば海が見える、なんてことがわかってたわけだから、きっと本当についさっきこっちに来たってわけじゃないんだろうね。でもなぜか、ついさっき来たばっかりって感じるんだ」

 春樹が考え考え言って、俊と春花はふうむと唸った。

「でも、それならよかった。ハルが一人で寂しかったり辛かったりしないなら。それ結構心配してたんだ」

 俊が安心したように微笑んで、春花は心がふわんとした。

 おんなじ。

 春樹が柔らかく微笑む。

「僕は大丈夫だよ。ここって、なんていうか…そういうところなんだと思う。

 よかった、と心から思いながらもなんだか少し悲しい気がして、ふと俊と目が合った。なぜだかわからないけれど、俊も同じように感じているとわかった。

 もう一緒の世界にはいられないハル。

 もう一緒の時間の中にいないハル。

 けれど俊はすぐに春樹に向かってニヤリとしてみせて、

「大丈夫なところ、か。じゃ、ミミズはいないんだ?」

 春樹が赤くなる。

「その言葉は言わない約束だろ」

 春花はくすくす笑った。

 春樹はミミズが大嫌いなのだ。春花にしてみれば、もっと気持ちの悪い生き物なんて他にいくらでもいると思うのだが、春樹はミミズが世界で一番気持ちが悪いと言って譲らなかった。 

「第一名前が気持ち悪すぎる。ミミズ、なんて」

 ある日ハルがそう言ったら、次の日俊ちゃんが他の言語ではなんていうか調べ上げてきて散々ハルをからかって、「しつこい!」って怒られてたっけ。

「こんな野原だしさ、いっぱいいるに決まってると俺は思うよ」

 ニヤニヤする俊。ちょっと青くなりながらも春樹は肩をすくめてみせる。

「地面の下にいる分には構わない」

「強がっちゃって。あー思い出すなあ。一年生の時、授業で花壇耕してたらさ、ミミズが」

「俊、本当に怒るよ」

 

 一体どれくらいの時が経ったのか見当もつかなかった。

 たくさん笑って、たくさん喋って、歩き回っているうちに、なぜかそこに転がっていた真っ白なバレーボールを見つけて三人で遊んだ。

 さすがにバテて——なんせ演劇部である——「ちょっと休憩」と座り込み、俊と春樹が遊ぶのを見ていた春花はちょっと嫉妬した。

 きれいに伸びる腕。美しくしなる身体。高いジャンプ。

 男子ばっかりカッコよくて綺麗でずるいな。

 ふと、白いボールを手にした春樹の視線が何かを認めたように揺れた。その視線が向けられた方を振り返った春花は、心臓が氷の手に鷲掴みにされたような気がした。

 さっきまで何もなかった向こうのほうの草地に、布のかかった戸口があるのが見える。

「……」

 数秒間、俊も春花も凍りついたようになって言葉が出なかった。

「…帰る時間みたいだね」

 春樹が静かに言って、氷が割れた。

「まだいる!だって帰るのいつでもいいって言われたもん」

「『いつでもお戻りになりたい時に』って言ってたんだからいつでもいいはずだろ!」

 二人が同時に唾を飛ばさんばかりの勢いで言い立てて、春樹が苦笑した。

「二人とも、そういうとこそっくりだよね」

「だって、ほんとにいつでもいいって言われたもの」

「そうだよ。俺たちが帰りたくなったらってことだろ」

 二人揃って口を尖らせる。春樹は愛おしそうに二人を眺めてから空を見上げた。春樹につられて、二人も空を見上げる。

 いつの間にか、空は昼のピカピカの青い空から、うっすらと淡いオレンジやピンク色の光が感じられる薄い水色になっていた。太陽は水平線に向かって少しずつ下りていく。日没にはまだ間があるけれど、夕方の時間が始まっている。

「…そろそろだって、二人も感じてるはずだよ」

 空を見上げたまま、春樹が静かに言った。

 春花は答えられなかった。答えたくなかった。

 確かに春樹の言う通りだった。なぜか「そろそろ時間だ」という感じがしていた。

 それでも抵抗したかった。

 だって、いつでもって言ってたもの。まだ帰りたくないんだから帰らなくていいはずだもの。そろそろだって感じたって関係ない。日が暮れようが、夜になろうが、朝になろうが、そんなの関係ない。

 ハルと一緒にいたい。

「…あっちが西なんだ」

 俊がぽつりと言った。

 春花は太陽が降りていく方をじっと見つめている俊の横顔を見た。静かな目をしていた。辛いことに静かに立ち向かおうと決心しているような目。

 …そうだね、俊ちゃん。

 そっとため息を押し殺して、心の中で頷く。

 私も、精一杯頑張る。

 素敵なさよならができるように。

 ハルが悲しくならないように。

「ね、じゃあその前に、三人一緒に夕焼け見よう?」

 笑顔で春樹を見上げる。春樹が微笑み返す。

「いいね。どこから見ようか」

「そりゃやっぱあっちの端っこだろ。特等席」

「あ、そうだ。あのね、二人だけで話したいこととかない?私、あっち行ってるけど」

 二人を交互に見上げて言う。

 俊と春樹が視線を交わして微笑み合う。

「いや、男同士の話は、ルカがぶっ倒れてる間にしたから」

「そうだね」

「俺こそ、しばらくあっち行ってようか?」

 今度は春樹と春花が微笑みを交わす。

「ううん。大丈夫」

「いっぱい話したもんね」

 泣き出さないうちに、急いで二人の手を取って、憎らしい戸口に背を向け、西の海の方へ向かってまた三人で手をぶらんぶらん振りながら歩き出す。元気よく歌う。


 おててつないで 野道を行けば

 みんな可愛い 小鳥になって

 歌を歌えば 靴が鳴る

 晴れたみ空に 靴が鳴る


「ハル。ルカさ、小さい頃、控えめに言っても結構音痴だったよな」

「うーん…」

「失礼しちゃう」

「なのにアマルカ姫の舞踏会では毎回歌を聞かされた」

「ああそうそう!おもちゃのピアノじゃんじゃん叩いて弾き語りしてたね」

「…それは…すごい…」

「すごいだろ?聞かされてた俺たちの身にもなれって」

 夕方の風に乗って三人の笑い声が空高く舞い上がる。

 十四年を共にした笑い声は、別れによって消されたりはしないと風に告げていた。



 

 

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