第29話

Chap.29


 「…すごいとこでさ、見たこともない花ばっかり。ルカも夢中になっちゃって」

「花のついてない植物は素通りしてたでしょ」

「あたり」

「相変わらずだなあ。ルカは小さい時からずっと変わらない」

 木の幹に背中をもたせて、春樹がくすくす笑う。

 …ハルの声がする。ハルが笑ってる。

 夢うつつで、春花はぼうっとしながらも耳に神経を集中させようとした。

 ハルの声…。穏やかで、柔らかくて、大好きなハルの声…。

「…いや、でも最近少し変わったよ、ルカ」

 俊が真面目な口調で言う。

「なんていうか少し…」

 胡座をかいた脛の近くに咲いている小さなピンク色の花に指先で触れながら、言葉を探す。

「…しっかりしてきたっていうか」

 春樹が小さく微笑む。

「…俊が望んでた通り?」

「いや…」

 俊は具合悪そうに口ごもってため息をつくと、春樹を真っ直ぐに見た。

「ごめん。俺、約束破った。もっと周りをちゃんと見たほうがいいってルカに言っちゃったし…それに、これは言うつもりほんとに全然なかったんだけど、そういうこと言うとハルが嫌がるとか、ハルに…ルカは俺の妹じゃないって言われたことも…。ほんとにごめん」

 春樹が柔らかく笑って目を伏せた。

「正直爺さんなんだから…。謝らなくていいよ。僕こそ、あの時はごめん。あんな意地の悪いこと言って」

 俊を見る。微風が吹いて、木漏れ日がちらちらと揺れる。

「あの時、僕に言ったこと覚えてる?『確かに俺はルカを妹にすることはできないけど、恋人にはできる。ハルには絶対できないけど、俺にはできるんだからな』」

 俊が赤くなった。

「あれは…っ、あの時は、悔しくて反撃しただけで…。悪かったよ」

 大きく息をついて、胡座に頬杖をつく。

「…さっき話したメラニーって奴。俺、…多分、あいつと、ハルとルカみたいな関係になれたらって思ってたんだと思う。ずっと、ハルとルカの関係がすげえ羨ましかったから…。ハルがいつもルカのこと大事にして助けて、守ってやってたみたいに、俺もそういうことができたらって思ってたのかもしれない。そういう関係に憧れてたっていうか…だから判断を誤っちゃったのかもな」

「そう…。美人?」

 にこりとして訊いた春樹に、俊は意味ありげににやりと答えた。

「ちょっと松宮に似てる感じ」 

 春樹が大袈裟にため息をついてみせた。

「ほんとのとこは?変な噂が広まってて、ルカも気にしてたぞ」

「前に話した通りだよ。一方的に告白されただけ。僕はそういう気はないってちゃんとはっきり言った。確かに…ちょっと惹かれたことはあったけど、付き合いたいとかそういうんじゃない。わかってくれたと思ってたんだけどな」

「あいつ、春休み中、結構やばかったよ。俺にLINEガンガン送ってきて、全部ルカのせいだって言って」

 春樹が眉をひそめる。

「ルカのせい?どういうこと?」

「自分とつきあってれば、もしかしてハルはあの時間あの場所にいなくて事故に遭わなくてすんだかもしれないのにとか、ハルは本当は自分のことが好きだったのに、ルカがハルにくっついて邪魔したからいけないんだとか、ルカさえいなければこんなことにならなくてすんだはずだとか…もう滅茶苦茶。ルカに直接LINE送りたいとか言い出して、宥めるのに苦労した」

 春樹は俯いて吐息を漏らした。

「…そうだったんだ」

「そういえばメラニーも、ルカに似たようなこと言ってたな。ったく女って」

「ルカは…妬まれやすいタイプなのかもしれない。かわいいし、なんでもできるし…」

 心配そうに呟いた春樹の言葉を聞いて、俊はちょっと考えて生真面目に反論した。

「うーん…まあそりゃルカはかわいいし、なんでもできるけど、でも松宮の件はハルのせいだし、メラニーのは俺のせいだろ。妬まれるのは、ルカじゃなくて、俺たちがモテるのが原因なんじゃないの」

 春樹がおかしそうに笑った。

「なるほどね、確かに。じゃ、僕がいなくなって、ルカが妬まれる数が半分になってよかったかな」

 目を閉じたままぼんやりと幸せな気持ちで春樹の声の響きを追っていた春花の頭に、春樹の言った言葉そのものが届いて、急に不安が胸の内に広がった。

 「僕がいなくなって」?

 いなくなって?

 どういう意味?

「…そういうこと言うなよ」

「ごめん」

 数拍の沈黙。

「俊。さっき言ってたことだけど」

 春樹が少し首を傾げるようにして俊をじっと見つめた。

「ルカの恋人になろうと思ってるの?」

 少し赤くなりながらも、俊は覚悟していたというように春樹の視線を受け止めた。

「…ルカがその気なら」

 さっと気持ちのいい風が吹き抜けて、木々が優しくざわめいた。

 春樹が静かに言う。

「もう僕はいない。僕の代わりに…ルカの兄になれるのに?」

 俊は微笑した。

「ハルの代わりになんてなりたくない。なれっこないだろ。それに…俺はハルがなれないものになりたい」

 からかうように春樹を見る。

「なんで?阻止したいの?」

 春樹は穏やかに笑って目を伏せた。ほんの少しだけ悔しさの滲んだ笑顔だった。

「僕がなれないもの、か」

 呟いてから、真顔になって俊に視線を戻す。

「阻止したいなんてもちろん思ってないよ。ただ…僕はもういない。ルカは甘えん坊で、花みたいに優しい子で、…いろんなことから守ってあげなきゃいけないのに…」

 思いあまったようにため息をつく。

「俊が、その辺、僕と違う意見なのはわかってる。でも、できるだけ…守ってあげてほしい」

 俊は目を細めて春樹を眺めた。

「了解。アマハル王子」

「真面目な話だよ」

「わかってる」 

 俊はしっかり頷いた。

「約束する」

 そしてその性格ゆえに生真面目に付け加えた。

「でもやっぱり過保護はよくないと俺は思うよ。ルカだって成長しなきゃいけないんだから」

 春樹はわざとらしく呻いて苦笑した。

「わかってるよ、イジシュン王子」

「その名前は心外。意地悪で言ってるわけじゃないのに」

「それもわかってる」

 ちょっと笑ってから、強い視線で俊をじっと見つめる。

「ルカのこと、頼むよ」

 途端に俊の両眼に涙が溢れた。

「…信じられない。こんな会話してるなんて、こんな……。ほんとに、もう、…一緒にいられないなんて…っ」

 …俊ちゃんが泣いてる。

 春花の身体は震えた。

 やっぱり本当なんだ。やっぱり本当にハルは死んじゃったんだ。夢じゃなかったんだ…。

「俊…」

「…嘘だって言って…っ」

 春樹はそっと身体を移動させて、両手で目を覆って肩を震わせている俊のすぐ隣に座った。胡座をかいたジーンズの膝と膝が触れる。

 しばらくの間、俊の慟哭だけが続いた。

 時折わたる風が、優しい葉ずれの音をさせては去っていった。

「……ごめん。俺…泣くつもりなんてなかったのに…」

 やがて、まだ少ししゃくり上げながら俊が呟いた。バックポケットから紺色のハンカチを引っ張り出して濡れた顔を拭う。

「…ちょっと待ってて」

 春樹がそう言って立ち上がり、ハンモックに近づいた。

「……」

 手で顔を隠して声を殺して泣いている春花を見て、ため息をつく。

「ルカ」

 春樹に名前を呼ばれて、春花は全身に鳥肌が立った。つぶっていた目をさらに強くぎゅうっとつぶる。

「ルカ」

 嫌。絶対に返事しない。

 返事なんかしたら、これが本当の本当になってしまう。 

 春樹の指がそっと春花の手に触れる。

 触れる指の感触に、身体がびくっとなる。

 ハルの指。 

「…いつから起きてたの」

 起きてないもん。起きてない。これは夢だもん。

 つぶったままの目から新たに涙が溢れて顔を濡らす。

「……」

 春樹がそっとため息をついたのがわかった。

「ルカ…」

 辛そうな声が春花の胸に突き刺さった。

「ルカ…ごめん…」

 言葉の端が震えている。

 ハルが泣いてる。

 春花は目を開けてガバッと跳ね起きた。揺れて傾いたハンモックから夢中で転がり出て、慌てて支えようと差し出した春樹の腕に掴まる。見上げる。  

 涙で濡れた春樹の顔。

「ハル」

 ユマがいつもしてくれるように、思いっきりハグする。

「泣かないで。大丈夫だから」

 小さい時、一度だけ春樹が泣いたのを見た。

 夏の夜だった。

 カウボーイごっこをしていて、春樹がブンブン振り回していた縄跳びのグリップが春花の腕にかなりの勢いで当たった。物置にあった古くて重い縄跳びで、グリップは木製だった。痛かった。皮膚が切れて血が出て、もちろん春花は盛大に泣いた。傷は大したことはなく、飛んできたお母さんが消毒をしてバンドエイドを貼ってくれた。

 ふと気がつくと、ずっとそばにいてくれた春樹が涙をぽろぽろこぼしていた。

「ごめんね、ルカ。ごめんね」

 春花は雷に打たれたような衝撃を受けた。

 ハルが泣いてる。いつもニコニコしているハルが泣いている。悲しい悲しい顔。 

 嫌、と強く思った。ハルが悲しいのは嫌。

「泣かないで、ハル。もう大丈夫だから。痛くないから。泣かないで。泣かないで」

 春樹の頭を撫でて、一所懸命慰めた。

 あの時みたいだと思った。

 ハルが悲しむのは嫌。ハルが悲しまないですむために私にできることがあるなら、なんでもする。

 春樹のTシャツは、家の匂いがした。家の洗濯物の匂い。

 ハル。ハル。ハル。大好き。

 大好き。

 ハグを解いて、ジーンズのポケットから淡いピンク色のハンカチを取り出す。かわいらしいマーガレットの花束があちこちにとんでいる、一番のお気に入りのハンカチだ。

「はい。顔拭いて」

 にこりとして見上げると、涙目の春樹が少し戸惑ったように小さく微笑した。

「…ありがとう」

 別のポケットからティッシュを取り出そうとすると、

「はい」

 春樹が自分のハンカチを差し出した。水色にグレイの濃淡のラインが入ったハンカチ。

「…ありがとう」

 …ハル、ちゃんとハンカチ持ってたんだ。

 毎朝、学校に行く前に、春花は『若草物語』のマーチ夫人さながらに

「ハル、ハンカチ持った?」

 と言うのが習慣だった。良い子の春樹はいつもポケットをポンと一つ叩いて、

「うん、持った」

 と答えていた。

 俊が一緒にいる時はそこに、

「俺も持ってる!」

 あるいは

「あー忘れた!」

 という答えが加わった。

 なんだか遠い昔のことのような気がする。手の届かない昔。

 込み上げてきた涙を押さえつける。泣いちゃだめ。もう泣かない。

 涙を拭き、辺りを見回して深呼吸し、笑顔で春樹を見上げる。

「素敵なところだね」

「そうだね」

 春樹もにこりとして春花を見下ろした。

 胸が震えた。

 ハルの笑顔。

「あっちの方行くと、海が見えるよ。行ってみる?」

「行く行く!」

 右手で春樹の手を取り、左手で俊の手を取る。ぶんぶん大きく手を振りながら歩く。

「なんだよ。お遊戯会か?」

 俊が赤い目で苦笑する。

「おーてーて、つーないで、のーみーちーをーゆーけーば」

「ああー覚えてる覚えてる。おーてーてつじん、つーないでめきん、のーみーちん…」

「もうっ。俊ちゃん下品!」

 あははと春樹が楽しそうに笑う。俊がああーと声を上げる。

「下品といえば、こういうのもあったじゃん。ハル、覚えてる?『うん、公園で』『うん、転んだら』『うん、血が出たの』…」

「俊ちゃんってほんとにひどすぎ」

「俺が作ったんじゃないもん。あれは…山崎とか曽根とかが言い出したんだよな、確か」 

 春樹が懐かしそうに、

「ああー、そうだったね!確か四年の時。あれは面白かったな。『うん』なんて普通に会話でよく使うのに、それが頭につくだけで…っていうのがね」

 さもおかしそうにくすくす笑い出して、

「あれ、高橋先生が気に入っちゃって…覚えてる?」

「そうそう!最初、休み時間に廊下で俺たちが言ってるの聞いてさ、顔しかめて、『なんだ、くだらないなあ』とか言ってたくせに、後で掃除の時間の時にコソコソ来て、『あのさ、さっきの話、ちょっともう一回教えてくれない?』『…なんの話ですか?』『あのほら、さっきの、国際病院の血だらけの病人の話だよ。最初が公園だっけ?』」

 俊と春樹が爆笑して、春花は「もーキタナイ…」と呟きながらも、幸せで嬉しくて笑わずにはいられなかった。

 俊ちゃんとハルと私。

 シュン王子とハル王子とロザモンド姫。

 一本の木のそばを通り過ぎる。白い花が咲いていて、ふわりと薔薇のような香りがした。

「なんのお花かな。薔薇みたいな匂い」

 立ち止まって見上げると、咲いているのはまさに薔薇の花だ。

「おもしろーい!薔薇がこんな木に咲くなんて」

 なめらかな薄茶色の幹。柔らかくて丸い葉。棘はどこにもない。

「他の色もあるよ。ほら、あそこに赤いのもあるし、ピンクのもある」

「わあほんと!あのね、こないだカッサ魔法大学ってところの植物園でね…」

 植物園で見たいろいろな花の話をしながら歩く。春樹はにこにこしながら楽しそうに聴いている。その顔を見上げながら、春花は時折泣き出しそうになるのが顔や声に出ないよう、心の手綱を注意深く操っていた。

 気を抜いたらだめだ。絶対に泣かないようにしなくちゃ。楽しくしなくちゃ。

 ハルが悲しくならないように。

 しばらく行くと、向こうのほうに海が見えてきた。どうもここは広い広い高台になっているらしく、見えるのは随分下の方にある海だ。美しい、煙るような深いブルー。幅の広い、ゆるいスロープがぐるりぐるりと高台を取り巻いていて、下の方には白いビーチが広がっている。

「遠いなあ」

 俊が思案するように言う。

「まさか下まで行くの?」

「そりゃあ行かなきゃだろ」

 春花は口を尖らせた。

「行きたくなーい。ここの方がいいもん。薔薇があるし」

「僕もここの方がいいな」

「ちぇっ。軟弱入江兄妹」

 俊はそう言って笑うと、ストレッチを始めた。

「俊ちゃん、ほんとに行くの?」

「もっちろん!」

「でも…すごい遠いよ」

 なんだか心配になる。かなりの距離だ。それにスロープは広いけれど、手すりも何もついていない。落ちたらどうするのだ。

「最近運動不足だし、ちょうどいい」

 春樹が怪訝な顔をした。

「運動不足って…。部活は?」

「ああ、俺、今演劇部員だからさ」

 俊はよしっと顔を上げて、

「んじゃ、ちょっと行ってくる。無理だと思ったら戻ってくるから」

「気をつけてね。端っこに寄らないようにして、こっち側にくっついてね。風に飛ばされないようにして…」

 俊が笑って、魔法大学の図書館でしたように春花の額を長い指でちょんと突いた。

「心配性。では行ってきまーす」

「行ってらっしゃーい」

 条件反射のようにして、春花と春樹の声が揃う。家の玄関のようだ。

 ゆるいスロープを軽いジョギングペースで走り出した俊の背中は、やがてカーブを曲がって見えなくなった。

 俊ちゃんたら。

 格好よく走る後ろ姿がまだ見えるような気がして、春花は心の中で微笑んだ。

 ハルと私が二人だけで話せるようにって気を遣ってくれたんだろうな、きっと。

 俊ちゃんはほんとに優しい。

「…転んだりしないといいけど」

 スロープの近くのかわいらしい薄紅色の薔薇の花の咲く木の下に腰を下ろしながら、春花は呟いた。 

「大丈夫だよ。スロープの傾斜もゆるいし。それに、俊だから」

 隣に座った春樹が微笑んで言った。

 そういえばハルは昔からよくそう言ってたっけ。「俊だから大丈夫」って。

 下の方から波の音が聞こえる。でも海鳥の声はしない。遠くから聞こえる穏やかな波の音と、時折風が木を揺らす音だけが、二人を柔らかく包んでいる。

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