第28話

Chap.28


 湖の家の居間に三人が着くと、ソファの前の長いローテーブルに載せた大きな箱をかき回して何やら探し物をしていたらしいエルザが、

「いらっしゃい!春花、ユマからこれを預かってるわ」

 紺と赤のラインの入った白い封筒を渡してくれた。

 春花はどきりとした。

 手紙?どうして?

「ユマ、いないんですか?」

 俊がさりげない口調で訊く。

「なんだか『ちょっと予定変更!』とか言って、朝早く出かけたわ」

 予定変更?どうしたんだろう…。

 エルザが箱の中身——昔お父さんとフランツとエルザがごっこ遊びや劇に使った衣装だ。俊のスケッチのために探し出してくれたらしい——を俊とリオに見せている間に、春花は急いで封筒を開けた。短いメッセージだった。

「十時半に、俊と一緒に、昨日の公園の白い木の前まで来て!他の人には絶対内緒にね」

 そういえばアリの姿がない。

 まさか…。

 暗澹とした気持ちで春花はため息をついた。


 ちょっと『失くしたものたちの世界』に行ってくると言って、春花と俊は大使館に戻るリオと三人で湖の家を後にした。

「帰りはいつもくらい?」

「そうだね、十二時半くらい」

「了解。じゃ、また後で」

 門のところでリオと別れて、二人で公園に向かう。

「…気が重いな」

 俊がぽつりと言う。

「…ほんと」

 あの案内役の少女の前で、ユマと昨夜のようなやりとりを繰り返さなくてはいけないのだろうか。

 でも、と気力を奮い起こす。

 どんなに泣かれても、何を言われても、絶対に受け取らない。負けちゃいけない。

 大好きな人に会えない辛さは私がよく知っている。こんな思いをユマには絶対にしてほしくない。私がハルに会えないのは当然だからどんなに辛くても仕方がない。私の世界では死者に会えないのが当然だから。でも、ユマはそうじゃない。ユマは死者に会えるのが当然の世界に住んでるんだから、そんな辛さを味わうのは間違ってる。

 理論武装して、俊の端正な顔を見上げる。

「俊ちゃん。できるだけ私が自分でユマを説得する。でも、どうしても困ったら、援護射撃よろしくね」

 俊がリオに負けないくらい綺麗なウィンクで応えた。

「おう。任せとけ」

 昨夜は気づかなかったけれど、可憐なピンクのつるバラに覆われた家があった。素敵…。見上げながら、優美な桃色の花たちにもお願いする。

 応援よろしくね。

 ユマがわかってくれるように。

 ユマとずっと友達でいられるように。


 公園に入る。昨夜とはまた違って、のどかな雰囲気だ。新緑の美しい木々の間から降ってくる木漏れ日。小鳥たちの囀り。心配していたほど人はいない。遠くの方に、ゆっくり散歩をしている人や、ベンチに座っている人が数人見えるだけだ。 

 少し行くと、昨夜のように、公園の奥の方に白い太い木が見えてきた。陽の光の中では白銀色というよりは白く見える。その脇に白い艶やかな布に覆われたブース。そしてその白を背景に、パッと目を引く赤いベースボールキャップをかぶったユマが立っていた。こちらを認めて、元気よく手を振る。

「…一人だな」

 手を振り返しながら、俊が言う。

「ほんと。どういうことだろう…」

 それに、あんな元気に、大ニコニコで…。

 近づくと、ブースの近くにあるこれも白いベンチに、二人の人が座っているのが見えた。おじいさんとおばあさん。こちらに顔を向けて微笑んでいる。 

 ユマがもう待ちきれないというようにこちらに走ってきて、二人の手を掴む。

「早く早く」

 二人の手をぐいぐい引っ張ってベンチの方へ歩いていく。

 春花と俊は顔を見合わせた。

 まさか。

 そういうことか。

「ユマ…」

 言いかけた春花を遮るようにして、

「春花、俊、こちらアルトゥールとカサンドラ。私のひいおじいちゃんとひいおばあちゃん。ひいおじいちゃん、ひいおばあちゃん、こちら春花と俊」

 ユマったら…。だめだよこんなの…。ああ、どうしよう。

 ドキドキしながら、はじめまして、よろしく、と挨拶する。カサンドラはしわの寄った温かい手を春花の頬にそっと添えて、じっと春花の顔に見入った。

「ああ…この子は潤に似てること。潤は元気ですか」

「は、はい」

「ユマから、今もヴァイオリンを弾いていないらしいと聞いたけれど、本当なの?」

「…はい」

「まあ…なんてことでしょう」

 悲しそうに眉をひそめたその顔を見て、ああ、と春花は気がついた。

 ユマのひいおばあさんということは、エルザのお祖母さん。お父さんと演奏するのを楽しみによく遊びにきていたというあの人だ。

「その話はまた後にすることにして。さ、早く」

 ユマが言って、ブースの方へ足を向ける。

「ちょっと待って」

 春花は思い切って声を上げた。緊張する。しかし必死の形相の春花とは対照的に、ユマは小生意気と言ってもいいような笑顔を浮かべて振り返った。

「ひいおじいちゃんもひいおばあちゃんも、私に賛成して一緒に来てくれたんだよ。それでも昨日私にしたみたいに二人を説得してみたいならどうぞ。ガタガタ揺れる長距離バスに二時間も乗って来てくれたんだよ。老骨に鞭打って」

「……」

 言葉の出ない春花に、ユマはニヤリと笑ってみせる。

 むむう。ユマったら。

 春花は拳を握りしめた。

 ちゃんと言わなくちゃ。

「あのっ、こんな、こんなことしていただくわけには…」

 懸命に言葉を押し出す。カサンドラがうふふと笑った。

「もうこんな年ですもの。訪ねたい死者もいませんよ」

「でも、でも、あのう、もし、」

 春花は困り果てた。どうやったらこんなことを失礼のないように言えるんだろう。

「もし、お二人が、その、お互いに、なんていうか…会えなくなってしまうようなことに…なったら」

 アルトゥールが微笑んでカサンドラの肩に骨張った大きな手を回した。カサンドラも笑顔でアルトゥールに寄り添ってその顔を見上げる。

「これだけ長いことずっと一緒にいるとね、春花、もう互いが互いの一部なのだよ。物理的に一緒にいなくても、姿が見えなくても、お互いを感じることができる。魂がつながっているからね。だから、『死者たちの世界』なんてものは、私たちにとってもうなんの意味もないのだよ」

 真実の言葉が春花の胸を強く打った。

 なぜだか涙が溢れた。

 寄り添って微笑みあっている二人が、眩い光に包まれているように見えた。

「二人で春樹くんに会いにいってらっしゃい」

 俊と目を合わせる。俊の目も潤んでいた。

 降参しよう。ありがたく。

 二人一緒に頭を下げる。

「…ありがとうございます」

「やった!」

 ユマが押し殺したような叫び声を上げて躍り上がった。天蓋の下にひっそりと座っている銀のサリーの少女のところに跳んでいく。四人も後に続いた。

「この二人が、この二人に権利を譲ります」

 誇らしげにユマが言う。少女はにっこりと頷いた。

「承知いたしました」

「ちょっと待ってください」

 俊が身を乗り出した。ユマが、今度は一体なんだと言わんばかりに俊を睨む。

「その…、向こうの…死者側の意思はどうなんですか。彼が会いたくないのなら、無理に会いたくはないんです」

 春花ははっとした。俊の言う通りだ。 

 少女は大きな黒い瞳で微笑んだ。

「もちろんです。死者が会いたくない場合はお断りすることになっています。彼は、お二人に会いたいと思っています」

 どきーんとした。

 ハルが。

 俊ちゃんと私に会いたいと思っている。

 今。今この瞬間に。

「それでは、こちらへ」

 少女がスッと立ち上がり、ブースの横の布と布の間をするりと通り抜け、四人を白銀の木の前にいざなった。

 春花はあっと小さな声を上げた。

 木の様子がすっかり変わっている。

 たくさんの柔らかそうな銀色の葉と美しい小さな金色の花。そして白銀色に輝く幹には大きな戸口が開いていて、天蓋と同じ美しい布がたっぷりとしたカーテンのように下がっている。

「…昨日はなかったのに」

「向こうへ行く方達にだけ見えるようになっているのです」

 少女が密やかに言って、華奢な手をついと伸ばして戸口の布を片側に寄せた。 

「どうぞ」

 どきどきしてもう何も考えられない。足がすくむ。

「あの、戻ってくる時は?」

 俊が訊く。

「いつでも、お戻りになりたい時に、戸口の布を開けてお戻りください」

「…わかりました」

 振り向いて、ユマとカサンドラとアルトゥールに向かい合う。

「いってらっしゃい」

 ユマがいつものはしゃいだハグとは違う、しっかりした静かなハグをしてくれた。心が伝わる。

「ユマ…ありがとう」

「どういたしまして」

 俊も春花もカサンドラとアルトゥールとハグを交わし、心からお礼を言った。

「いってきます」

「いってらっしゃい」

 どちらからともなく手をつないで、戸口に近寄る。

「どうぞ良い時間を過ごされますように」

 少女がにっこりと会釈をする。

「ありがとうございます」

 俊と一緒に掠れ声でなんとかそう言ったけれど、急に口の中がカラカラになった。口内から一滴残らず水分が蒸発してしまったような感覚。

 戸口の中は薄ぼんやりとした灰色のもやで満ちていた。飛行機で雲の中を飛んでいる時のようだ。カッサへの『扉』を通る時の感覚と似ている。床が見えない。踏み出せば真っ逆さまに落ちそうな感じ。

 つないだ手を俊がきゅっと握りしめた。

「行こう」

「うん」

 心臓が耳の中でどくどく鳴っている。 

 目をつぶり、俊と一緒に思い切って足を踏み出した。



 足が、ぱふっという感触で着地した。

 はっと目を開けると、そこは広い広い緑の草地だった。ところどころにちらほらと小さな花が咲いている、美しい草地。あちこちに木があって、草地に濃い緑の影を落としている。

 穏やかな薄青い空。ふわふわと浮かぶ白い雲。爽やかな空気。

 木々には花が咲いていて、あたりには薔薇のようなほのかな甘い香りが漂っている。 

 隣で、俊が声にならない掠れ声を上げた。

 俊の視線の先、草地のずっと向こうのほうに何本かの木が集まって心地よさげな木陰を作っている。そこに白いハンモックが吊ってあって、その中で誰かが眠っているようだった。

 口の中が乾きすぎて唾も出ないのに、カラカラの喉がごくりと上下した。 

 俊が歩き出す。

 手をつないだまま、春花も引っ張られるようにして歩き出す。

 耳の中でどくんどくん鳴り続けている心臓の音とは別に、頭の中がガンガン鳴っている。息が苦しい。

 一足ごとにハンモックが少しずつ近づいてくる。

 真っ白なハンモック。

 黒い髪。長い手足。ライトグレイのTシャツ。色の抜けたジーンズ。

 少しこちらに顔を傾けるようにして眠っているその人の顔が、だんだんはっきり見えてくる。

 嘘。

 ほんと?

 ほんとなの?

 俊の歩調が速くなる。ぐんぐん引っ張られる。

 足がもつれそうだ。

 待って。

 息ができない。

 ガンガンどくんどくんがどんどん速くなって、きいーんという甲高い音が鳴り出したか思うと、全てが真っ白になった。

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