第27話
Chap.27
えっと思った春花の横で、ユマが嬉々として頷いた。
「私がその権利を二人に譲ります」
「お一人の権利をお二人に譲るわけにはいきません」
「じゃ、兄と私が…」
「待って!」
「ちょっと待った!」
春花と俊が大声を上げたので、少女もユマも目を見開いて二人を見上げた。
「…ちょっと待ってください。その取り決めの内容を詳しく聞かせてもらえませんか」
俊が言って、少女がおもむろに頷いた。
「お二人の世界の方が、こちらの世界に客人としていらしている場合、こちらの世界の方が私達の世界を訪れる権利をその方にお譲りすることで、その方に私達の世界に来ていただくことができます。ただし、一度きりです。それから、お一人の方の権利はお一人の方にしか譲ることができません。また、こちらの世界の方が、私達の世界を訪れる権利を一度他の方にお譲りしてしまうと、二度と私達の世界に来ていただくことはできません」
「…つまり、彼女が私に権利を譲れば、彼女自身はあなた方の世界に行くことができなくなってしまうわけですね?」
春花の言葉に、少女は微笑んで頷いた。
「その通りです」
ユマがなんのことはないと言うように肩をすくめる。
「私はそんなの全然構わないよ。アリだって…」
「だめだよ、そんなの」
春花はきっぱり言った。言語道断だ。ユマが口を尖らせる。
「なんで?私がいいって言ってるんだから…」
俊が少女に向かって頭を下げた。
「教えてくださってありがとうございました。さ、帰ろう」
春花も少女にお礼を言って会釈をし、抗議の声を上げかけたユマの手をとって、踵を返して歩き出した俊に続いた。
視界の端を、白銀に光る不思議な木がふっと過ぎった。
「だって、私が、私自身がいいって言ってるんだよ?それなのになんで春花がだめって言うの?」
「だから言ったでしょ。今ユマはそう言ってるけど、あとで絶対後悔するからだよ」
「絶対かどうかなんてわかんないでしょ。私が大事に思う人達の方が私より長生きするかもしれないし、その人達が私より前に死んじゃっても私はその人達に会いにいきたいなんて思わないかもしれないんだし…」
「でもその人たちは長生きしないかもしれないし、ユマだって会いにいきたいって思うかもしれないでしょ。だから念の為にあっちの世界に行かれる権利はちゃんと取っとかなきゃだめだよ」
公園からの帰り道と庭で何度も何度も何度も繰り返したやりとりを、ユマと春花はユマの部屋でまだ続けていた。二対一では形勢不利と見たのか、ユマが、
「なんだかやっぱり眠くなっちゃった。春花、私の部屋まで来て、眠るまで一緒にいて?」
と言って俊と春花を切り離したのだ。
「そんな権利、私はいらないよ。そんなもの欲しくないもん」
「そう思うのは、権利を持ってるからだよ。大事な人に会いたくても会えないって状況になったら、絶対欲しくなるよ。譲らなければよかったってすごく後悔…」
「ほらね、春花は
もう時計は二時を指している。さすがに疲れて眠いのか、ユマもだんだんヒステリックになってきた。頬が赤く上気して、ベッドサイドのランプの灯りを受けた目が涙できらきらしている。
「春花がどんなにお兄さんのことが好きで、お兄さんに会えなくて辛い思いをしてるか、どんなにお兄さんに会いたいと思ってるのか、よく知ってるもの!会わせてあげたいって思う私の気持ちを、なんでわかってくれないの?」
ユマの目から涙が溢れて、春花は胸が詰まった。
「大好きな人が辛い思いをしていたら、何とかしてあげたいって思うでしょ?自分の力で何とかしてあげられるんだってわかったら、すごく嬉しいでしょ?なのに、あとで絶対後悔するからしちゃだめ!なんて言われたらどんな気がする?私は春花に私の権利をあげたいの!私は自分のこと自分でよくわかってるもの。あとで後悔なんかしないってよーくわかってるもの!そんなことで後悔なんかするような自分じゃないってちゃんとわかってるもの!なのに、絶対あとで後悔するからだめってばっかり!」
手を伸ばして、小さなドレッサーの上からティッシュを掴み取り、乱暴に涙を拭いて鼻をかみながら、春花を睨む。
「ユマ…。ユマの気持ちは本当に本当に、すっごく嬉しいよ。でもね…」
「また『でも』って言う!」
「ちゃんと終わりまで聴いて。私もユマのことが大好きだから、だから権利をもらうわけにはどうしてもいかないんだよ」
春花も必死だった。なんとしてもわかってほしい。懸命に言葉を紡ぐ。
「ユマは、まだ大事な人に突然会えなくなったことがないでしょ?私はそれを経験したから…してるから…、どれだけ辛いか知ってる。ある日突然……」
喉に込み上げてくる震えを息を止めて押し殺す。
「…ユマは私なんかよりずっとしっかりしてて、確かに自分自身のことをちゃんとわかってると思う。でも、それは
ユマは腹立たしげなため息をついた。
「それは全部『かもしれない』でしょ。百歩譲って、私が将来春花に権利を譲ったことを後悔する日が来るかもしれないとしても、それが何?今ここで、現実に、『かもしれない』じゃなくて実際に、春花がお兄さんに会えなくて辛い思いをしていて、私が春花とお兄さんを会わせてあげられるんだよ。
春花の頭の中に、最後の切り札に使えるかもしれない質問が閃いた。息をついてからユマの目をじっと見つめて、静かに問う。
「…ユマが私だったらどうする?」
ユマは怯まなかった。
「私だったら、春花を信じるよ。春花が、自分は後悔しない、後悔なんかするような自分じゃないから自分の権利を受け取ってほしい、って言ったら、あとで絶対後悔するようになるから受け取れない、なんて言わない!春花を信じて、ありがとうって言って、権利を受け取るよ!」
強い視線で見つめられて、春花は胸を突かれた。
その通りだと思った。
「…そうだね。ごめん。ユマが自分は後悔しないってはっきり言ってるのに、それを否定するなんて、失礼だよね。……私も、ユマを信じるよ」
「ほんと!」
ユマの顔がパッと明るくなった。春花は拳をぎゅっと握りしめ、気力を振り絞って言葉を続けた。
「でも、ユマの権利は受け取れない」
「もうっ、わからず屋!!!」
ユマはベッドに倒れ込んで、枕に顔を押し付けた。赤いパーカーを着た肩が震えている。しばらくしてもユマが顔を上げないので、春花はそっと声をかけた。
「ユマ…ごめんね。本当にありがとう。でも、やっぱり、どうしても、受け取ることはできないよ」
ユマは答えない。
「…今日は、疲れただろうし、もう遅いから眠って。私も…もう一度ちゃんと考えてみるから。またこっちのお昼前に…十時くらいに来るね」
「…わかった」
くぐもった声で返事があった。
「おやすみ」
「…おやすみ」
そっとドアを閉めて足音を忍ばせて階段を降りる。
後悔で胸が痛かった。
ユマは今夜を楽しみにしてたのに。徹夜で遊ぼう!って、あんなに楽しみにしてたのに。せっかくの花祭りのイブを私が台無しにしてしまった。
権利を受け取れないなんて言わないで、最初から…公園の帰り道の時点から、「よく考えて明日返事するよ」って言えばよかったのに。「そのことはとりあえず置いておいて、今夜は楽しく遊ぼう!」って言えばよかったのに。
考えが足りなかった。こういうのを気が利かないっていうんだ、きっと。ユマや俊ちゃんやリオだったら、こんなヘマはしないだろう。私ってほんとに…最低。
そっと居間を覗いてみると、隅の低いチェストの上にぽつんと一つ残された明かりの中、アリだけがソファに長々と身を横たえて眠っていた。足音をさせないようにそうっと部屋を横切り、閉められていたカーテンの隙間から外を覗く。案の定、外のテーブルの上の灯りが灯っていて、リオと俊が座っていた。
そろりそろりとフランス窓を開けかけたら、俊の声が聞こえた。
「…そうやってなんでも、本当になんでもできる奴なんだ。それに優しくて、穏やかで、みんなに好かれて、人望が厚くて…」
ため息。
「俺たちの世界ってさ、悪い奴らがたくさんいて…。自分の人生が思うようにいかなくて面白くないから自殺したい、でもその勇気がないから人をたくさん殺して捕まって死刑になろうなんて奴までいたりする。そんな奴らが生きてて、なんでハルが死ななきゃならないんだ。絶対変だろ?おかしいよ。こんなの絶対おかしい。間違ってる…。ハルは…ハルには未来があったのに。絶対すげえいい未来があったはずなのに。楽しいこととか、やりたいこととかが…色々…」
大きなため息。少しの沈黙の後、リオが少しためらいがちに、
「…事故の相手は?」
その言葉に、春花の身体全体が跳び上がった。聞きたくないっ。
事故の相手。春花にとってそれは存在してはならないものだった。徹底してその存在を無視し、否定し、自分の世界から排除してきた。春樹を跳ね飛ばした車。
込み上げた叫び声をぐっと堪え、痺れたようになった手でぐいとフランス窓を開けて大きく外に踏み出す。足音に二人がハッとしたようにこちらを見た。ひんやりした夜の空気を胸いっぱい吸い込み、ゆっくりと吐き出す。大丈夫。落ち着いて。大丈夫。
「ユマは?」
テーブルに近づいた春花を見上げて、俊が何気ない口調で訊く。春花もちょっと笑って答えた。
「うん…ちょっと疲れて眠そうだったから、明日…っていうか、もう今日だけど、十時くらいにまた来るってことにした」
リオがくすくす笑う。
「さすがのユマ嬢も徹夜は無理だったか。まあ僕も人のこと言えないけど。ついさっきまで寝てたからね」
「よく眠れた?」
「お陰様でぐっすり」
「よかった」
春花は心からそう言った。リオといいフランツといいアリといい、一体ちゃんと睡眠が足りているのだろうかと心配になる。
俊が春花を見る。
「じゃ、今日はもう帰るか」
「そうね」
「居間から帰ったら、アリを起こしちゃうかな」
「いや、大丈夫だと思うよ。じゃ、次はまた十時に俊の部屋、その後春樹の部屋でいい?」
「うん。…あ、ちょっと待って」
俊が腕時計を——春樹の腕時計を——見る。
「二時過ぎか…。ま、大丈夫かな」
「おばちゃんたち?」
「多分どっかに出掛けてるだろう…と思う。ルカん家は?」
「うちは…あ、二人で鎌倉の伯母ちゃんのところに行ってるはず。帰りは七時頃って言ってた。晩御飯買って帰ってくるって。うちの方が安全かも」
「じゃ、そうしよう」
「春樹の部屋だね。了解」
三人で頷き合う。移動にももう慣れたものだ。俊に注意する。
「靴ね」
「わかってる」
今履いている靴を持って帰るのだ。でないと俊は家に帰る靴がない。
念のため忍び足で春樹の部屋を出て、両親が留守なのを確認する。
「大丈夫。出かけてる」
「…ユマ、なんだって?」
気がかりそうに俊が訊く。
「庭で話してたのとおんなじ。どうしても権利を譲りたい、って。譲っても将来後悔なんか絶対しないから、って。…泣かれちゃった」
「…そっか」
大きくため息をついて、いつもしていたようにベッド近くの床の上のモスグリーンのクッションに胡坐をかく。
「……なんか、とんでもない夜だったな」
「ほんと」
しみじみ言って、春花も春樹のデスクチェアに横向きに腰を下ろし、背もたれに腕と顎をのせて俊と向き合った。
花祭りのイブのご馳走、花火、メラニー、『死者たちの世界』の話、公園、ユマ…。
「昔…一体何があったんだろうな。どうして、俺たちの世界から『死者たちの世界』への入り口を閉ざすなんて取り決めをしたんだろう」
「うん…それに『お隣』の人たちが私達に権利を譲ってくれれば私達があっちに行かれるっていう取り決めが、忘れ去られてたっていうのも…」
「きっと色々あったんだろうな…。例えば今夜のユマとルカみたいなこともあっただろうし、逆パターン、つまり、客人に権利を譲ってくれと迫られて『お隣』の人達が困ったとか、…それとか、それを商売にして金儲けをしようとする奴らが出てきたとかさ」
春花は思わず顔をしかめた。
「『お隣』の人たちはそんなことしないと思う」
俊が微笑した。
「そうだな。犯罪なんてほとんどないに等しいみたいだし、みんな規則を大事にするし、夜中に子供だけで出歩いても何の危機感もない世界だもんな。『客人』の方が悪いことしそうだ」
「そうね…」
いかにも物語にありそうだ。平和で善意溢れる世界に、他の世界から欲張りな客人が入り込んできて悪事を働く、なんて。
しばしの沈黙。
頭の中に、今夜の色々な場面が次々と浮かんでは消える。ふと公園のあの白くて太い木が思い出された。細かい銀粉を散りばめたような白銀の木。そういえば葉っぱも花もついていなかった。枯れ木なのかな…。
「公園にあった白い木…もしかしてあれが入り口なのかな」
「そうかもな…」
俊も何やらぼんやりと宙を見つめて思いを彷徨わせているようだったけれど、
「ユマ、カッコよかったよね」
春花が呟くと、微笑んで深く頷いた。
「ほんと、すごかったな。ユマがあんなふうに言わなかったら、あの案内役の人だって取り決めのことを思い出さなかったんだろうし。只者じゃないよ」
春花はユマを思う気持ちと誇らしさとで、鼻の奥がツンとした。
将来大物、って、きっとユマみたいな人のことだ。
そのユマが、権利を受け取ってほしいとあんなに——普通の小学生のように——泣いて頼んでいた。
でも絶対に受け取れない。受け取らない。
ユマは…わかってくれるだろうか。それとも、これで…このことがきっかけで、友情にヒビが入っちゃったりするのかな…。
ねえ、ハル…。
また妙に空虚な手応えが感じられて、春花は小さく身震いした。
ここはハルの部屋なのに。ハルの部屋にいるのに。ハルがいない感じがする。
「どした?」
気がつくと、俊が心配そうにこちらを見上げていた。
「うん…」
椅子の背に置いた腕に一旦顔を頬まで埋めてみる。コットンの長袖Tシャツに押しつけられた鼻で息を吸い込むと、洗剤の極々微かな匂いがする。お母さんは洗剤や柔軟剤のきつい匂いが好きではないので、香りがないと謳っているものを使っているけれど、やはりほんの僅かにそれらしい匂いはする。
「俊ちゃんは…」
そのままではモゴモゴして話しづらいので、また顎を腕の上にのせる。
「俊ちゃんはよく、『いつだって本当のことを言うのがいいんだ』って言うでしょ。っていうことは、いつだって本当のことを知るのがいいんだって思うんだよね?」
俊はため息をついてちょっと俯いたけれど、また春花に視線を戻した。しっかりと見つめる。
「…『死者たちの世界』のことは…正直言って今は…知らなければよかったって思うよ。でも、きっといつかそのうち、本当のことをきちんと知ることができてよかったって思える日が来ると思う」
いつか、そのうち。
「…私ね、ハルに心の中で話しかける時、ハルが私のすぐそばに一緒にいて、話を聞いてくれてるみたいな気がしてたの。一緒にいてくれるような気がしてた。こっちでも、『お隣』でも、カッサでも…。でも、ハルが『死者たちの世界』にいるって聞いてから…、それが変わっちゃったみたい。一緒にいてくれる感じがしなくなっちゃった」
俊の広い肩が、ため息を押し殺したかのように静かに上下した。
「ハルが本当はどこにいるか、わかっちゃったからだろ」
低い声で言って俯く。悲しそうな顔。
…俊ちゃんも、そうなんだ。
思わずすがるように言葉がこぼれた。
「…それでも、いつかそのうち、本当のことをちゃんと知ることができてよかったって、思えるようになると思う?」
俊は一瞬見えない何かに挑戦するように宙を睨みつけてから、頷いた。
「なる」
その日の夜、畳の部屋の隅っこで春花が小声で歌を歌いながらハンカチにアイロンをかけていると——自分のハンカチには自分でアイロンをかけることになっている——、廊下を通りかかったお父さんが足を止めて言った。
「それ、何の歌?」
「えっ…ああ」
『お隣』で今日ユマが口ずさんでいたので聞き覚えたメロディだ。単純なメロディで、すぐ覚えてしまった。ドキドキしながら答える。
「…花祭りの歌」
「雛祭り?」
「ううん。花。花祭り」
押してみる。
「聞いたことある?」
お父さんは首を傾げて、
「…いや、ないなあ。…でもそのメロディは、なんだかどこかで聞いたことがあるような気がする。もう一回歌ってみてくれる」
緊張しながら、音程を外さないよう注意深く歌った。短くて明るいかわいらしい歌だ。
歌おう 花祭りの歌
風と舞い 手をつないで
花咲く大地は 命育む
空の下 陽と水とともに
お父さんはもう一度首を傾げて、
「…うーん、どこかで聞いた気がするんだけど…どうしてだろうなあ。なんだか違う歌詞だったような気もする…」
春花は慌てて、
「うん、歌詞はね、ちょっとうろ覚えだから間違ってるとこがあるかも。かわいいメロディだよね。いかにも花祭り!って感じで」
「そうだね。…花祭り……どこで聞いたんだろうなあ…」
お父さんは首を傾げながら、廊下を歩いていった。低い声でハミングしているのが聞こえてきた。
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