第26話
Chap.26
「ちょっと疑問なんだけど、」
ユマが誰にともなく言った。
「『死者たちの世界』って、
俊と春花はリオを見た。
「それは…」
言いかけてリオは視線を宙に浮かせた。
「…そういえば、はっきりしたことは僕も聞いたことがないな」
「そうなの?」
俊が驚いた顔をし、リオが説明する。
「『死者たちの世界』はメッセンジャーの仕事とは一切関係ないから、僕も詳しいことは知らないんだ」
アリが腕組みをする。
「客人に話してはいけない、っていう規則があるってこと自体が、客人たちにも関係があるってことを示しているように思うけどね。つまり、あそこはこの世界の死者たちだけの世界ではないって」
「…なるほど」
ユマが頷く。春花は思い切って訊いてみた。
「アリは、行ったことあるんですか」
「あるよ。パトリックに会いに」
春花の喉がこくりと鳴った。
「…ど、どんな感じなんですか」
声が震えてしまった。アリが優しい目をする。
「そうだね…これは人によって色々違うそうだけど、僕がパトリックに会ったのはどこかの庭のような場所だった。花がたくさん咲いてて、小さな東屋があって、そこで話をした。僕はもう十二歳になっていて、パトリックは十歳の時のままだったから、当然僕の方がずっと大きくなっていて…なんだか変な気がしたのを覚えてるよ。それになんていうか…、会うのが久しぶりだったからだろうとは思うけど、昔のようには話せなかった。それでも学校の話とか、共通の友達の話とかをして…。別れ際に伯父のことをよろしく頼むって言われて…」
アリはため息をついてちょっと笑った。
「ごめん、なんだかうまく説明できないな」
春花ははっとした。知りたいという思いのままに、ついこんなデリカシーのない質問をしてしまった。何やってるの、春花!
「ごめんなさい、こんな…すごくプライベートなことを訊いてしまって」
アリは安心させるように微笑んで、
「いや、全然構わないよ。行ったのはその一回きりだった。十歳の時だったら…パトリックが亡くなってすぐだったら、何度も行っただろうなと思うけど」
「その…場所のことですけど、『人によって色々違うそうだけど』っていうのはどういう意味ですか?」
俊が遠慮がちに訊く。
「うん、なんていうのか、夢と同じでね、人によって『死者たちの世界』での経験って千差万別なんだよ。個人的に実例を色々詳しく知ってるわけじゃないけど、でも本で読んだことのある例なんかも合わせれば、例えば人によってはそれが家族といつも過ごしてた居間だったり、昔その人と一緒に勉強した教室だったり、公園だったり、海辺だったり、川のほとりだったり、花畑だったり…、中には一緒に海賊船に乗って宝探しをしたとか、お城の舞踏会に行ったとか、遊園地に行ったなんていう話もある」
「へえ…」
俊も春花も、目を丸くしてアリの話に聴き入った。
「時間の感覚も人によって違うらしいんだ。こっちの時間で同じ一時間でも、『死者たちの世界』で丸一日くらい過ごしたように感じる人もいれば、こっちの時間通り一時間過ごしたと感じる人もいる。僕はその点については別に何も変に感じなかったから、こっちの時間と同じように感じてたんだろうね」
「へええ…」
ふと気がつくと、リオもユマも興味深そうな顔をして聴いている。春花と目が合ったリオが微笑む。
「僕もまだ行ったことがないんだ」
俊が首を傾げる。
「もしかして、あんまり行かないものなの?」
リオとアリとユマが顔を見合わせる。
「うーん、どうなんだろう…。あんまり人と話し合うことじゃないし、公に統計を取ったりするようなことでもないから、一般的にどうだとか、そういうことはわからないな」
アリが言って、俊と春花は頷き合った。
これもやっぱりディズニーのようなものなのかもしれない、と春花は思った。ここの人たちにとっては、『死者たちの世界』があるのが当たり前で、誰でもいつでも行かれるから、ことさらにどれくらいの人たちがどれくらいの頻度で行くのかなんて気にもならない。まして、これは非常にプライベートな経験をしに訪れる世界だから、声高に自らの経験を人に話したりしないのだろう。
しばらくして、ユマと春花と俊がキッチンに行き、ああでもないこうでもないと試行錯誤しながら三人オリジナルのホットチョコレートを作り、クッキーのお皿と共に居間に戻ってみると、リオもアリもソファで眠ってしまっていた。もう真夜中近い。
「ユマも眠いんじゃない?」
心配になって小声で春花が訊くと、ユマは断固として首を振った。
「平気。ねえ、外に行かない?」
「いいね!」
「じゃ、上に羽織るもの持ってくる」
ユマは足音を忍ばせて二階へ行き、俊と春花は気持ちよさそうに寝息を立てているリオとアリの横をそうっと通り、静かにフランス窓を開けて外に出た。
半月の光と居間からの灯りの中を、ホットチョコレートの入ったマグカップとクッキーのお皿を持って何かにつまづいたりしないようにそろりそろりと歩き、テーブルにたどり着く。
「このランタン、どうやって灯すのかな」
「ユマに訊かないと」
薄暗がりの中、俊が春花をじっと見下ろした。
「ルカ…大丈夫か」
「うん。俊ちゃんは?」
「俺…」
俊がため息をついた。
「ハルに会えるんだったら…」
思い余ったように言葉を切って吐息を漏らす。
「…すげえ会いたい。会えるんだったらいいのに…。同じ時間の中にいなかろうがなんだろうが構わない。もう一度会えるんなら…」
絞り出されるような声に、胸の奥がきゅうっとなって涙が滲む。
ハル…。会いたい。
「私もおんなじ。どうして私達は会えないんだろう。どうしてここの世界の人達だけがその世界に行かれるんだろう…。もしそこが本当に全ての世界の死者たちがいる世界なら、全ての世界の人達が行かれるべきじゃない?」
「うん…それさ、さっきから考えてたんだ。もしかして元々は、それぞれの世界に、それぞれの世界の住人達だけが使える『死者たちの世界』への入り口があったのかもしれない。俺たちの世界にだって、そういう伝説があるだろ。オルフェウスの竪琴の話とか、イザナギとイザナミの話とか」
「ああ、冥界とか黄泉の国とかね…。でも今はもうその入り口がなくなっちゃったってこと?」
「そう」
二人でため息をつく。
「どうしてそれぞれの世界の住人達
「いや、本当にそうかはわからないよ。もしかして、って言っただけ」
「『失くしたものたちの世界』には、私達だってここの入り口から行かれるのに…」
「私もそう思ってた」
ユマが出てきて言った。二人に厚手のパーカーを手渡してくれる。
「これ、アリのだからちょっと大きいかもしれないけど」
「さんきゅ」
丸いボールのようなランタンを灯す。春花が羽織ったライトグレイのパーカーの左腕にはクロスした二本のオールをアレンジしたネイビーブルーとシルバーのマークがついていた。
「ボート部の?かっこいい!」
「でしょ!私にはちょっと大きめだから、春花にはちょうどいいと思って」
「うん、ぴったり。ありがとう」
ちょっと苦いホットチョコレートを飲み、クッキーをつまみながらユマが生真面目な顔をして、
「さっきの話。『失くしたものたちの世界』には春花たちだってここから行かれるのに、『死者たちの世界』には行かれないって、変じゃない?…本当に行かれないのかな」
俊の目が光った。
「…それ、どうしたらわかるだろう。誰に聞けば教えてくれるかな」
「直接行って訊いてみようよ」
「えっ」
「すぐ近くだもの。いつだって案内役のあっちの世界の人がいるはずだし」
あっちの世界の人。春花は『失くしたものたちの世界』の初老の女の人を思い浮かべた。そうか、あの人もあっちの世界…『失くしたものたちの世界』の人なんだ。どうりでなんだか雰囲気がここの人たちとは違ったわけだ。
俊と顔を見合わせる。
訊いてみたい。
行ってみよう。
頷き合う二人を見て、
「よしっ」
ユマが言って立ち上がった。
「行こ」
「今?」
目を丸くした俊と春花を見てユマがきょとんとする。
「うん。なんで?」
「だって…もう真夜中だよ」
子供が出歩く時間じゃない。それも親の許可なしに。
ユマはいたずらっぽく片目をつぶってみせた。
「まあ、ママには内緒ってことで。近くだからサッと行ってサッと帰って来られるもん。でも、もし実は『死者たちの世界』に行かれるんだってわかったら、行きたいよね?」
二人ははっと一様に姿勢を正してぶんぶんと首を縦に振った。
一気に沸き起こった期待で、春花の全身に鳥肌が立った。
ああ、もし、もしもだけど、行かれるんだったら!ハルに会えるんだったら!
同時に頭の中の冷静な部分が、期待してはいけない、と囁く。そんなうまくいくはずがない。
わかっている。わかっているけど、でも、ああ、もしかしたら、もしかしたら……。
「じゃ、そうなって時間がかかってもいいように一応書き置きだけしていこう。待ってて」
ユマが足早に居間に戻っていって、俊と春花は興奮した顔を見合わせた。
「…わお」
「…でも、でもね、きっと行かれない可能性の方がずっと高いよね」
「わかってる。でも、…でももしかして、もしかして…」
俊は前髪をくしゃくしゃとかき上げ、
「…いや、そうだよな。期待しないほうがいいよな」
気を鎮めようとするように深呼吸して空を見上げる。春花もつられて頭上を仰いだ。ところどころ雲に隠されながら、星たちが瞬いている。思わず息をつめて両手を握り締める。
どうかお願いです。お星様。神様。誰でもいい。
ハルに会わせてください。お願いです。お願いします。
お願いします。
テキパキと小気味よい足取りで歩いていくユマについて、街灯の温かな黄色の光に照らされた住宅街を歩いていく。今まで来たことのない道だけれど、大きな家々が並ぶ緑多いゆったりとした道の様子は、『失くしたものたちの世界』の近所と変わらない。
こんな時間だというのに、あちこちの家の窓が明るく、庭からだろうか、お喋りの声が聞こえてくる家もある。
「なんだか随分賑やかね」
「花祭りのイブだから」
ユマの答えに、ああ、と納得する。すっかり忘れていた。今夜はお祭りなのだ。そうすると、『死者たちの世界』に懐かしい人たちを訪れようとする人も多いのではないだろうか、と少し不安になる。できるだけ周囲に人がいない状態で質問したい。たくさんの人たちの前でNOと言われるのは余計に辛い。
公園らしきところに差し掛かる。
「ここ」
そう言って、ユマはきゅっと方向転換して公園の中に入って行った。ドキドキしながら後に続いて、花壇と花壇の間を通り抜ける。公園の中にもあちこちに灯りが灯っていて、ふんわりと明るい。見上げると、街灯だけでなく、木々の枝から提灯のようなかわいらしい灯りがたくさんぶら下がっていて、時折吹く微風にふわふわ揺れている。他に人影はない。
「あそこ。大きい木が見えるでしょ」
ユマが公園の奥の方を指差す。
「わお」
俊が呟いた。
ぼうっと白銀色に光る木が立っているのが見える。背はそんなに高くないけれど、どんと太い。その木の脇に、木と同じような白銀色の天蓋のついた小さなブースがあった。中に誰かが座っているようだ。
あれが、案内係の人——死者たちの世界の人。
急に尻込みしたいような気持ちになる。
だめだと言われるのが怖い。
ハルにはやっぱり会えないのだとわかってしまうのが怖い。
でも足は、相変わらず早足で歩いていくユマと俊に合わせて踏み出され、どんどん春花を運んでいく。
右足くーん、左足くん。
代わりーばんこ、代わりーばんこ。
ぼーくを運んでちーたかたったったー。
野っ原へ連れて行け、ちーたかたったったー。
小さい頃歌ったことのあるうろ覚えの歌が勝手に頭の中で響いて、歩くリズムと重なる。何なのだ一体。
近くまで来ると、ブースの天蓋は厚手のサテンのような布地でできていて、たくさんのキラキラと光る銀色のビーズのようなものが散りばめられているのがわかった。たっぷりと襞をとってあって、ブースの後ろ側と両側に豪奢なカーテンのように垂れている。美しい布に守られるようにして、白いカウンターの上に両手を組んでにっこりとこちらを見上げているのは、月の光を織りこんだような銀鼠のサリーを纏った、ユマと同い年くらいの少女だった。
「こんばんは。ようこそいらっしゃいました」
大きな黒い瞳は理知的で、声音も口調も大人の女性のようにしっとりしている。
「こんばんは。この二人が『死者たちの世界』に行きたいんです」
ユマがはきはきと言って、俊と春花に目をやる。少女は二人をじっと見つめ、静かに言った。
「隣の世界の方達ですね。残念ですが、隣の世界の方達はお通しできないことになっています」
ああ、やっぱり。
春花の胸の奥は急に麻痺したようになった。落胆の痛みを感じないで済むように心の鎮静剤が働き出す。
やっぱりね。わかってた。わかってたよ。最初からわかってたよね。大丈夫。大したことじゃない。会えないのが普通なんだから。どうってことないよね。
「どうしてですか」
ユマがまるで少女のこだまのように静かな口調で問う。
「遠い昔、その方達の世界と私達の世界との間でなされた取り決めのためです。その方達の世界の、私達の世界への入口は、その取り決めにより閉ざされました。詳しいことをお話しすることは禁じられていますので、どうかご容赦ください」
ユマはわずかに身を乗り出すようにして言った。
「この二人の世界からの入り口は閉ざされているかもしれないけど、二人は今この世界にいるんです。この世界の客人です。この世界の客人として、この世界からの入り口を使うことはできないんですか」
少女は少し驚いたように目を見張ったけれど、やがてその顔にほのぼのとした微笑が浮かんだ。
「…確かに、そのような取り決めがありました。大昔のことです。もう長いこと誰もそのことを思い出しもしませんでしたが…しかし取り決め自体は取り消されていません」
春花の隣で、俊が息を呑んだ。少女が続ける。
「この世界の方が、このお二人に、私達の世界を訪れる権利をお譲りになれば、お二人をお通しすることができます」
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