解答編

「オーライ、オーライ」

 普段は作業員しかいない湾岸に、小綺麗な作業着とヘルメットをつけた人々がごった返していた。T県警の職員たちだ。労働災害特別調査室のメンバーを中心に、捜査一課の刑事や科捜研の職員などもいる。

 湾岸には日差しを遮るものがほとんどない。加えて今日は、風もあまり強くない。正午を少し過ぎた今、簡易テントの下にいても、帯刀室長は汗ばんでいた。船の甲板で作業している刑事たちはなおのこと暑いだろう。熱中症を避けるため、全員小まめに休憩を取っていた。

「随分と健康管理を気にするんですね」

 三葉精錬株式会社の星主任が言った。今回の労災時に、現場主任を任されていた人物だ。

「ええ。労災室で労災が起きてしまっては、笑い話にもなりませんから」

 帯刀は淡々と答えた。二人のやり取りを横で見ていて、板倉刑事はなぜか胃が痛くなるのを感じた。

 湾岸に県警職員が群がる一方で、三葉精錬の従業員は数えるほどしかいなかった。四日前の死亡事故以来、休業しているのだ。今いるのは、検証のために帯刀が指名した人物だけだった。星主任の他は、揚荷装置の運転資格を持つ井上や、玉掛け資格を持つ者だけだった。

 四日前、この現場で発生した労働災害。従業員二名が、バラ積み船の船倉内でハシゴから落下し、死亡した。その際、二名は酸欠になっていたと考えられた。

 しかし当時、酸素濃度計の値は20%を超えていた。つまり二名は、酸素がある中で酸欠になったことになる。帯刀たちT県警はその謎を解明するため、こうして現場での検証を行なっているのだった。

 船の方では、揚貨装置がショベルを吊り下げ、停止している。ショベルのすぐ下は、銅鉱石を詰め込んだ船倉だ。ハッチは全開で、三人は換気が終わるのを待っているところだった。

「当日はこの状態で換気を行っていたということでしたね」

「は、はい」

「そして被害者二人が酸素濃度計を確認していた。ちょうど今の私たちのように」

 事故時に使われていた酸素濃度計は三台。ハッチのすぐ下と、ハシゴの上下に設置されていた。それが今は、ハシゴの上から下まで、十数台の酸素濃度計がセットされている。

 それらの測定値は簡易テント内に並べられた専用機器に表示されていた。現在はすべて20.0%以上を示している。通常であれば、この状態で酸欠になることはあり得ない。

「今の状況は、当日と全く同じ状況だと見て良いですね?」

 帯刀が確認した。星は妙に張り詰めた声で答えた。

「はい。あの日は今より少し風がありましたが……」

「そのようですね」

 帯刀はiPadに写した資料と、現在の風力計の表示を見比べた。

「そのとき、あのショベルはどのような状態でしたか? 風で揺れたりしていましたか?」

「いえ、全然。揺れるような強さではありませんでした」

「なるほど。ではそろそろ下ろしてもらいましょうか」

 帯刀は全体無線で連絡した。

「井上さん、ショベルを一番下まで下げてください。当日と同じスピードでお願いします」

『わかりました』

 と井上の声がして、揚荷装置が動いた。重々しくモーターの動く音がして、ゆっくりとショベルが下りていく。

 三人は、小さなモニターを注視した。船倉内に設置したカメラの映像だ。事件当日と同じように、直径1cmに満たない銅鉱石が敷き詰めてある。この検証のためだけに、他社が受け入れる予定だったバラ積み船をこちらへ回してもらった。

 無人のカメラ映像内に、ショベルの姿が現れた。それはゆっくりと降下し、数秒後、鉱石の上に着地した。ショベルの重みで、鉱石の山がわずかに凹む。ワイヤーが少したるんだところで、モーターの音が止まった。

 その1〜2秒後。

「あっ、下がった!」

 板倉が酸素濃度計の数値を指差した。

 十数台ある酸素濃度計。そのうちの三台だけが、見る見るうちに数値を下げていく。あっという間に18%を下回り、14%近くまで下がった。間違いなく酸素欠乏状態だ。健康な人間でも筋力が低下し、意識を失う危険のある濃度である。

 だが、数値が下がったのは、ハシゴの中央付近に設置した三台だけだ。他の十台強は、まだ20%近くを保っている。

「どうやら、仮説は立証されたようですね」

 帯刀は悲しげに首を振った。

「事故当日、酸素濃度計はハシゴの上と下にしか設置されていませんでした。そのため、中央付近の濃度低下を捉えられなかったのです。お二人は、そのせいで亡くなった」

 星は唖然としていた。帯刀は一応、話を続けた。

「中央だけで濃度が下がったのは、酸欠状態の空気が地面から『噴き出した』からでしょう。ショベルを下ろしたとき、鉱石の山がわずかに沈みましたね? あのとき、鉱石の隙間にあった空気が、船倉内に噴き出したんです」

 板倉は、科捜研で行った実験を思い出していた。

 大きめの水槽に砂利を盛り、その隙間に色をつけたガスをゆっくりと吹き込んだ。その上からおもしを乗せると、隙間に充満していたガスが噴き出し、水槽から飛びだした。

 ガスは、おもしの周辺から勢いをつけて出てきた。だから、地面を這うことなく、いきなり上空に飛び出したのだ。

「つまり、この事故は」帯刀は星の目を見て言った。「船倉内の換気をしたショベルを下ろしたせいで起こったのです」

「そ、そんな馬鹿な」星は震える声で言った。「だって、普段はなんともないんですよ?」

「作業手順書は確認しましたか?」

 帯刀はiPadの資料を見せた。

「ここにはっきりと書いてあります。必ず、ショベルを下ろしてから換気を行うようにと」

 手順書には、その理由までは書かれていない。意味不明の指示として、無視してしまう可能性は十分あった。

 しかし帯刀には、今回の一件がそうした不注意による事故とは思えなかった。「普段はなんともない」ならば、普段はこの手順書の指示を守っているのだ。それが、今回だけ守られなかった。そこには何か、理由があるはずだ。

「ところで私たちは、従業員の方々全員からお話を伺い、当日の作業の流れを再現しています」

 帯刀は再び、iPadの資料を見せた。左端に従業員の名前が並び、そこから横に、作業内容が時系列に沿って書かれている。いつどこに誰がいて、何をしていたかがわかる図だ。

「これによると、ショベルの移動の指示を出していたのは星さん、あなたです。間違いないですか?」

「え、ええ」

「そしてあなたは、ハッチの上まで移動させたショベルを一時停止させるよう、井上さんに指示しています。そうですね?」

「ええ……」

「なぜ、わざわざそんなことをしたのですか?」

 帯刀の目が鋭くなった。長い刑事人生を経た女傑だけが作れる眼光だ。

 板倉は胃が痛くなってきた。あれはまるで、猛禽類の目だ。あの目は部下の嘘も、隠そうとしたミスも、確実に見つけ出す。ましてやの嘘なんて……。

「た、たまたま、ですよ。手順書の注意をど忘れしていて……」

「そうですか。まぁそういうこともあるでしょう、分厚い手順書ですからね」

 星はホッとした空気を出した。その瞬間、板倉の背筋が凍った。帯刀の表情が、すっと冷え切ったからだ。

 帯刀はそのまま、無線で井上に指示を出した。

「井上さん、ショベルをハッチの上まで持ち上げてもらえますか」

『わかりました』

 再び重々しいモーターの音がして、ワイヤーが巻き取られていく。モニターの中のショベルが上昇を始めた。

「たまたま、忘れた。そういうこともあることでしょう。人間ですから。そして多くの労災は、そうした『たまたま』が重なって起こります。ですが……」

 帯刀はiPadを操作して、資料のページをめくった。

「星さんは、こちらに勤めてもう20年以上になりますね」

「ええ、はい。25年くらいになります」

「それでしたら、この光景に何か、違和感を覚えませんか?」

 帯刀が指差すと同時に、モーターの音が止まった。ハッチの上で、ショベルがワイヤーに吊り下げられている。

「うっ」

 星は思わずうめいた。工業に携わっていない人間ならば何も感じないかもしれない。だが20年以上現場作業をしてきた人間にとって、この光景は危険極まりない。

 重量が1トンもある物体を、空中に静止させておくなんて! 万が一ワイヤーが切れたら? 強い風が吹いたら? 悪ければ人命が失われ、良くても物損は免れない。

「たとえ手順書の内容を忘れていても、この状態で重機を放置するなんてあり得ません。これも『たまたま』ですか? 星さん、あなたは、意図してこの状態にしたのではありませんか?」

「た、たまたまですよ。一体、どんな意図があるっていうんです?」

 星が聞き返したそのとき、井上から無線が入った。

『あの、ショベル下ろしていいですか? このままだと危ないんですが……』

 星の顔が青ざめる。帯刀が冷静に返した。

「失礼しました、井上さん。下ろしてもらって結構です」

『わかりました』

 再び、ショベルがハッチの中へ降りていく。中の空気はすでに拡散され始め、酸素濃度計の指示値は正常に戻りつつあった。

「どんな意図か、という質問でしたが」帯刀は星を睨め付けた。「決まっています。岩村さんと神林さんを、殺害するためです」

「ち、違う!」星は思わず叫んでいた。「岩村を少し懲らしめるだけのつもりだったんだ! 殺すつもりなんてなかった!」

「……」

 板倉は懐の手錠に手を伸ばした。

「帯刀室長、今のは自供ですよね?」

「そうですね。ですが自供に証拠能力はありません。加えてこの事件では、物的証拠もほとんどありません。なにしろ彼は、指示を出していただけですから」

「えっ、じゃあ起訴できないじゃないですか」

「いくつかの状況証拠でなんとかするしかありません。一つは、先ほどの手順書との矛盾。二つ目は、送気マスクの場所です」

「送気マスク? 所定の位置にずっとあったと証言がありましたが」

「それは誰の証言でしたか?」

「星主任……あっ」

 二人の会話を聞いて、星の手は震え出した。

「私の考えでは、送気マスクは星さんによって意図的に隠されていました。助けに向かうであろう神林さんも殺すために」

「違う。本当にそんなつもりはなかったんです。助けに行くのを遅らせようと思っただけで……送気マスクがなければ、救急が来るまで誰も助けに行かないだろうと思って……」

 しかし意に反して、神林が助けに行ってしまった。

「送気マスクは、どこに隠していたんですか?」

「俺のロッカーです」

「板倉さん、今の証言を裏付ける物的証拠を見つけ出してください。本件は、それで起訴するしかないでしょう」


***


「星のロッカーに、女性ものの香水が入っていました。その成分が送気マスクに付着していたことから、裏付けが取れました」

 翌日、労災室で板倉はそう報告した。

「女性ものの香水? 星さんのものですか?」

「ええ。新人の若い女性従業員にプレゼントする予定で買ったようなのですが……その女性従業員と岩村が、最近交際を始めていたようです」

 それが動機だったのか。帯刀は目を閉じ、顔を顰めた。

「そんなくだらない理由で……」

「星も、殺すつもりはなかったと繰り返しています。まさか死ぬなんて思わなかったと」

 帯刀が目を開け、板倉を睨む。板倉は思わず背筋を伸ばした。

「嘘ではないでしょう。ハシゴから落ちたくらいで死ぬなんて、誰が思います?」

「板倉さんは思わないんですか?」

 板倉は、帯刀から目を逸らせなかった。蛇に睨まれた蛙のように固まりながら答えた。

「岩村が落下したのは、1メートル半ほどの高さです。怪我はしても、死ぬなんてことは……」

「死にますよ」

 それはゾッとする声だった。

「人は簡単に死にます。ほんの1メートルの高さから落ちただけで、酸素濃度がほんの数パーセント下がっただけで、人は死にます。ここに何年もいるあなたなら、知っているはずでしょう?」

 言い返せなかった。その通りだ、自分はそれを知っている、と板倉は反省した。

「同様に、星さんもそれを知らないはずがありません」

「では、まさか故意の殺人だと?」

「わかりません。仮にそうだとしても、証拠はありません。検察は本件を傷害致死で起訴する予定だそうですね?」

「ええ。殺意はなかったと判断しています」

「口惜しいですが、仕方ありません。あとは、裁判所の判断に委ねましょう」

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労災探偵 黄黒真直 @kiguro

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