労災探偵

黄黒真直

問題編

 神林明人は眠い目を擦りながら、デジタル数字が20に上がるのを待っていた。事務所の外からは、波の音と重機の音がする。そして手元の無線機からは、同僚たちのやりとりが聞こえてきた。

「オーライ、オーライ。ハイ、ストーップ!」

「星さん、もう下ろしますか?」

「いや、まだ待て。神林ー!」

 思わず事務所の窓から顔を出した。黄色いヘルメットを被った現場主任の星が、無線機を持ってこちらに手を振っている。

「もう入れそうか?」

「まだあと数分はかかりますね」

「オーケー! 井上、下ろすのはそれからだ」

 神林は椅子に座り直すと、隣で同じようにウトウトしている岩村の肩を叩いた。

「おい、起きろ。お前、今日は初めての船倉作業だろ。そんなんじゃ怪我するぞ」

「す、すいません」

「コーヒーでも飲むか? 奢ってやるぞ」

「あ、ありがとうございます!」

 二人で缶コーヒーを飲みながら、窓の外を見る。いい天気だが風はなく、海は静かだ。巨大な輸送船が何艘も接岸している。そのうちの一艘が、これから仕事をする船だ。

 だが彼らは船乗りではない。彼らの仕事は冶金である。海外から船で輸送されてきた鉱石を製錬し、実用可能な金属にする。そのためにはまず、鉱石を船から荷上げしなくてはいけない。今はその待ち時間だった。

「大きいクレーンですねー」

 コーヒーを飲みながら岩村が世間話を始める。船に備わったクレーンが、ショベルカーを吊り下げた状態で止まっていた。そのすぐ下が鉱石を詰め込んだ船倉で、今は換気のためにハッチを全開にしている。その光景に神林は違和感を覚えたが、それより岩村の言い間違いが気になった。

「正確にはクレーンじゃなくて、揚貨装置という」

「どう違うんですか?」

「船に備え付けられたクレーンを、揚貨装置というんだ」

「ヘぇ〜。で、いつ作業始めるんですか?」

「そこの数字が全部20になったらだ」

 たしか、最初にそう説明した。岩村はどうも物覚えが悪かった。

「これは酸素濃度ですもんね。低かったら危ないっすからね。でもなんで船の中は酸素が少ないんですか?」

「いい質問だ」

 物覚えは悪いが勉強熱心で、伸びしろはあると感じていた。

「あの船の中には、銅鉱石が積んである。鉱石は今まで地中にあって、空気に触れてこなかった。それが掘り起こされたから、喜んで空気中の酸素と結合するんだ。そのせいで、船倉の中は酸素が減るんだよ」

「はぁ」

 わかっているのだろうかと、神林は不安になった。社員研修は適切に行われているはずだが。

「あ、神林さん、こっち20になりましたよ」

「よしよし、こっちもだな。もういいだろう、行くぞ」

「はいっす」

 星に連絡し、ヘルメットと防塵マスクを装備すると二人は事務所を出た。

 ハッチのすぐ横まで来ると、ちょうど揚貨装置がクレーンを下ろし終わったところだった。すると岩村が中を覗き込もうとしたので、慌てて止めた。柵も何もない上、鉱石までの高さは5メートル以上ある。ヘルメットを被っていても、頭から落ちたら死ぬ。

「あのな、お前な、うろちょろするな。死ぬぞ」

「はい、すいません」

「神林の指示をちゃんと聞けよ」

 星がぶっきらぼうに言った。どうも二人の間で何かあったらしく、少し前から仲が悪い。危険な現場に私情を挟んで欲しくないと、神林は切に願った。

「どこから降りるんすか?」

「こっちだ。ハッチの端に階段がある」

 神林は岩村を連れて歩き出した。

 細い階段をゆっくりと降りる。手すりもあるが、あまり頼りない。自分で言った通り、一歩間違えば死ぬ危険性のある現場だ。

 3メートルほど降りると踊り場に着いた。ここから先はハシゴだ。

「まだ結構高いっすね」

 手すりから身を乗り出すようにして、岩村が下を見た。

「おい、ばか、危ないぞ」

「平気ですって。ここから降りればいいんすね」

 高いところは平気らしい。臆することなくハシゴに掴まると、スルスルと降りていった。

 岩村が降りてからでないと、神林は降りられない。二人同時にハシゴに掴まると、上側の人間が落下したときに危険だからだ。

 早く降りないだろうか、と神林が眠い目をこすった、そのときだ。

 ドサッ

 という音が、下から聞こえた。

 驚いて下を見る。積み上がった鉱石の上に、岩村が倒れていた。

「おい、岩村! 大丈夫か! おい!」

 返事はない。見たところ動いてもいない。神林はすぐに無線で連絡した。

「星さん、岩村がハシゴから落ちた! ピクリとも動きません! 救急車を頼みます!」

「え? わ、わかった」

 神林は階段を戻りながら、岩村が落ちた原因を考えた。

 うっかり手を滑らせたなら、悲鳴が聞こえるはずだ。しかし岩村は静かに落ちていった。手を離した時点で、彼は意識を失っていたと考えるべきだ。

 酸欠だろうか。だが酸素センサーは、階段の入り口、踊り場の上、ハシゴの下端の三ヶ所にある。これらが全て正常値なのに、ハシゴの途中だけ濃度が低いことはあり得ない。つまり、酸欠になったわけでもない。

 すると考えられる原因は、毒ガスである。

 銅鉱石には硫黄などの不純物が含まれ、そこから毒ガスが発生することがある。また、採掘場で岩と金属を分離するために使われる浮遊選鉱剤には、毒ガスを発生させるものもある。

 通常であれば、これらは有害な濃度にまで達しない。だが今回は不運にも、何かが起こって濃度が上がってしまったのだ。

 事務所に戻った神林は、防塵マスクを外した。そして送気型のガスマスクを探す。が、所定の場所に見当たらない。まさか、岩村がどこかにやったのか。なら、防毒マスクを使うしかない。

 酸素濃度計を見ると、すべて20.0%以上を示している。もし毒ガスの濃度が高ければ、酸素濃度は下がるはずだ。つまり、コンマ数%の濃度で意識を失わせる毒ガスが発生していると考えられる。

 銅鉱石から発生しうる毒ガスはおおよそ覚えている。浮遊選鉱剤から発生しうる毒ガスも、事前にSDS(安全データシート)で確認していた。それらのうち、低濃度で意識障害を起こすものは硫黄化合物やシアン化物だ。船倉内では硫黄臭はしなかったから、おそらくシアン化物に違いない。濃度0.03%で死亡するとも言われている猛毒である。

 神林はシアン化物用の防毒マスクを装着した。歩きながらマスクの密着具合を確かめる。

 ハッチのそばに戻ると、人が集まってきていた。星が救急車を呼ぶ声が聞こえたのだ。ハッチに腹ばいになり、岩村に呼び掛けている者もいる。

 神林は彼らの横を通り、階段を降り始めた。

「おい、危ないぞ!」

 と星が制止するが、聞かずに進んだ。

 踊り場に着く。岩村は、この少し先で落ちた。神林はもう一度マスクの装着具合を確かめると、ハシゴを降り始めた。

 岩村を担いでハシゴを登ることはできない。しかし幸いにも、まだショベルと揚貨装置はつながったままだ。危険だが、ショベルに岩村をくくりりつけて、揚貨装置に引き上げてもらえば――。

 そこまで考えたとき。

 神林は、意識を失った。


* * *


 すりガラスのドアをノックすると、「どうぞ」と聞こえた。板倉は「失礼します」と言ってドアを開けた。

「すみません、帯刀たてわき室長。先ほど、資料をメールしたのですか」

「ええ、はい、いま見ています」

 板倉はオフィス机の前で敬礼した。

 彼は、帯刀が苦手だった。彼女が直属の上司だったときから、全く頭が上がらない。老女だが背筋は伸びており、目に威圧感がある。話し方こそ穏やかだが、その皺がれた声は、聞く者を萎縮させた。

「二日前に起こった、湾岸の労災の件ですね」

「はい。お手数かけてすみません」

「いえいえ、構いませんよ」

 帯刀はパソコン画面から目を離さなかった。板倉のメールと資料を速読していた。

 二日前、T県K市内の湾岸工業地域にて死亡事故が発生した。発生時刻は午前8時40分。死亡したのは、三葉さんよう製錬株式会社の従業員、岩村弘(19歳)と神林明人(31歳)。バラ積み船の船倉内で昇降用のハシゴから落下して頚椎を骨折、死亡した。ハシゴを降下中に意識を失ったものと考えられた。

 T県警察本部には、厚生労働省との連携機関である「労働災害特別調査室」が存在する。その一員である板倉がこの件を担当し、捜査を行っていたのだが。

「意識を失った原因が不明、ですか」

「そうなんです。資料にも載せましたが、船倉内からは有毒ガスはほとんど検出されず、酸素濃度も正常でした」

「鑑識の調べでは、被害者は酸欠状態だったとありますが?」

「ええ、ですが、次のページを見てください。現場の酸素濃度計のデータです。それによれば、事故発生時も船倉内は酸素濃度20%をキープしています。つまり彼らは、

 しかし、理由がわからない。それで音を上げて、帯刀に相談したのだ。元刑事の帯刀は、過去に何度もこのような原因不明の事故の真相を解明してきた。労災室の誰もが、困ったときは彼女に相談していた。

「可能性はいくらでも考えつきますが……濃度計の測定方法は適切だったのですか?」

「はい。倉内の三箇所に、いずれも適切に設置されていました。故障もしていません」

「ハシゴの上と下に設置ですか。天井のハッチを開けて換気したなら、両センサの中間で濃度が下がることは考えにくいですね」

 帯刀は資料を読み進め、現場の写真を確認した。

 砂利のようなものの上に、二人の遺体が横たわっている。この砂利が銅鉱石だ。帯刀も何度か実物を見たことがある。直径1cm程の小さな石だ。

 二人とも化学防護服を着て、黄色いヘルメットを被っている。そして岩村は防塵マスクを、神林は防毒マスクをつけていた。吸収缶の色から、シアン化物用のマスクとわかった。

「神林さんはどうして、このマスクをつけていたのでしょう?」

「え? さぁ……酸素濃度が正常だったので、岩村の意識障害の原因を毒ガスと判断したんじゃないでしょうか?」

「おそらくそうでしょう。問題は、なぜ送気マスクじゃないのかということです」

 防毒マスクにはいくつもの種類がある。毒ガスの種類に対応したマスクでなければ、効果が発揮されない。しかし、送気マスクだけは別だ。これは文字通り、酸素ボンベからマスク内に空気を送る装備である。外気を吸わないので、これならすべての毒ガスに対応できるし、酸欠にもならない。

「この事業所に、送気マスクはなかったのですか?」

「いえ、あります。保管場所を定め、管理されています。事故当時も、その場所にすべてのマスクがあったと、現場主任が証言してます」

「つまり彼は、送気マスクと防毒マスクが並んでいる中から、敢えてこれを選んだわけですね?」

「ええ、そうなります。慌てていたんでしょうか?」

 日頃どれだけ冷静な人間でも、目の前で事故が起これば動揺する。それで不適切な行動を取るのはよくあることだ。

「いえ、そうは思えません。彼は、防毒マスクとしては適切なものを選んでいます。つまり、それだけ冷静な判断力があった」

「にもかかわらず、送気マスクは使わなかった?」

「そういうことになります」

「酸素ボンベを邪魔に感じたのでは? 岩村を背負ってハシゴを登ることを考えると、ボンベはない方がいい」

「意識を失った人間を背負うにはロープの類が必要です。しかし見たところ、彼はそのようなものを持っていません。背負うのではなく、別の手段で岩村さんを引き上げようとしています」

「別の手段とは?」

「わかりませんが、このクレーンでも使うつもりだったのでは?」

 帯刀はパソコン画面を板倉に見せた。現場の写真に、揚貨装置のワイヤーロープが写っている。

「こっちのショベルカーじゃなくてですか?」

「こんな小さいショベルじゃ、天井まで届かないでしょう」

「ああ、それもそうですね。……え、じゃあ、そのショベルは何のためにあるんですか?」

「これは鉱石を中央に寄せるためのショベルです。そして、アンローダという別の重機で外に運び出します」

 帯刀は資料のページを戻し、作業手順書を見せた。「ああ、そうなんですね」と板倉が納得すると、帯刀は画面を自分の方に戻した。

 そのとき、手順書の記述に違和感を覚えた。当日の作業の流れとわずかに異なる箇所がある。念のため、関係者の証言を確認する——やはり、そうだ。

「なるほど。もしかしたら、これが原因かもしれません」

「え、わかったんですか?」

「いえ、まだ仮説の段階です。科捜研に頼んで、実験してみましょう」

 そう言って、帯刀は電話を取った。

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