君のもとへ

杉浦

 

 少し開けられた教室の窓から、まだ夏の名残のある風がふわりと入り込んで私の二本に結んだ髪を揺らす。その中に秋を感じさせる匂いもあって、季節は巡るんだなとなんだかセンチメンタルなことを考えた。

 センチメンタルになるのも無理はない。私、藤堂舞香は夕暮れの教室で恋人を待っていた。……クラスメイトで、同じ陸上部で、そして恋人の平岡小夜を。同性だろうとなんだろうと好きなんだからしかたないじゃない。と、私は胸の中誰も聞いてない言い訳を思う。

 けれど、そんなこともどうだっていい。もう恋人同士ではなくなるからだ。きっと。

 待っているのは小夜にスマホのメッセージで呼び出されたから。

『大事な話があるの。放課後教室で待ってて!』

 久しぶりのメッセージだった。いつかの大会ぶりだろうか。読んだ瞬間胸がキュッと傷んだ。なんとなく予感があったのかもしれない。すれ違うばかりで、寂しさがつのるばかりで、なのになんにも言えなかった卑怯な私に対する予感だ。恋人らしいことをしてこれなかった私達に、別れ話以外の大事な話なんて思いつかなかった。

 ここ、二階の教室の窓から見下ろせるグラウンドは静かだ。暮れかけた日が金色にグラウンドを染めている。テスト期間中で部活が休みだからだろう。私と小夜もそうだった。

 正確に言うならば私は陸上部のマネージャーなのだけれど。一応の付き合うきっかけもそこからだ。あまりにも小夜の走りは綺麗でずっと私は熱心に目で追いかけていた、らしい。らしいというのは小夜に言われて初めて気がついたから。

 小夜はマネージャーの仕事をこなす私に笑いながらある日言ったのだ。

「藤堂さんってさ、めっちゃ私の事見てくれるよね?何そんなに私のこと好きなの?」

 ふふんと笑いながら言う小夜はあくまで冗談だったのだろうと今なら思う。

 けれどその時の私は思わぬことを指摘されて真っ赤になって必死に頷いてしまったのだ。

 その私を見て、小夜は言った。

「なら付き合ってみる?」

 その時小夜がどんな表情をしていたのかどうしてか覚えていない。真面目な顔だろうかそれとも面白がっていたのだろうか。自分がその言葉にわけもわからないまま頷いたのは覚えてる。

 その日から私達は恋人同士になった。恋人でしょ?そう小夜がたびたび言ってくれたから私はそうなんだなと思えた。――それが良くなかったのかと思う。臆病すぎた。言われなきゃ恋人なのだと安心できなかったのだから。

 今でもどこかで小夜は遊びなんだろうと思っているところもある。恋人を信じきれない私は最低だ。なのに、早く別れ話を終えて楽になりたいと思っているところもあった。

 嫌いじゃない。付き合ったことに後悔はない。なのに。

 臆病な自分が嫌になる。

 小夜は変な言い方をするが、私の女神様だった。走る姿に見惚れた。こんなに綺麗なもの他にないとすら思った。

 ハードル競走の時の勇ましい姿を魔法で跳んでるようだなんて言った私に小夜は笑った。

「そんなに褒められると光栄だね。大したことしてないのに。」

 そう、小夜はどこまでもひょうひょうと言ったのだ。

 でもすごいのに。そう小声で続けた私を笑って撫でてくれた。

 また胸がキュッと痛む。

 最近は話せてなかった。私がきっと避けてた。息を吐く。それでも胸の痛みも罪悪感も消えてくれない。

 大会でのことだ。ハードル走。出場した小夜がハードルに足をひっかけて転んでしまったのだ。幸い怪我はなかった。けれど当然成績は散々たるもので。

 大会の後。声をかけたかった。小夜の背中に言いたかった。けれど声をかける他の部員たちに遠慮して何も言えないままになってしまったのだ。

 それも言い訳だろうか。スマホへのメッセージでも通話でもよかったはずなのに私が何もしなかったのは臆病だったからだ。

 それから、微妙なすれ違いが生まれた。当然だと思う。恋人なのに慰めの言葉一つかけられなかった私はひどい奴だ。

 そして今回のメッセージがあった。

別れ話以外考えられなかった。


 ぶわっと強い風が吹いた。顔にかかった前髪をはらうとふとグラウンドに誰かがいるのが目に止まった。

 その誰かはなぜかハードル走に使われるハードルを運んでいた。というか既にいくつか並べられていて。

 そしてその誰かはジャージ姿の小夜だった。

 小夜がこちらを見たのが遠目にわかった。大きく手を振ってくる。驚いてしまって私はしばらく固まっていた。

 何をしようとしているのか。なんでハードルを並べているのか。

 ポケットの中のスマホが震えた。メッセージ。小夜だ。

『見ててね!』

 スマホから顔を上げる。小夜がスタート位置についている。

 地面を蹴った。

 あっという間に一つ目のハードルへ。

 跳ねる。

 二つ目のハードルへ。

 綺麗に跳ねる。私の女神がそこに確かにいた。

 大好きな何度も見てきた姿がそこにある。ひとつに結んだ髪まで綺麗だった。

 転んだあの日の大会のことなど跳ねのけるように小夜はハードルを飛び越えた。

 最後のハードルも越えて、ゴール地点にたどり着くと小夜は大きくガッツポーズをしてこちらを振り向き、また手を振った。

 何故も罪悪感も予感も臆病さも、全て忘れて私はただ見惚れていた。

 手の中のスマホがぶるぶると震える。

 着信通知。私は驚いて慌てながら通話ボタンを押した。

「どうだった?」

 小夜の声。はあはあと息を切らしながらも誇らしげな声。

「かっこ、かっこよかったけど……なんっ……」

 うまく返せていない私にはっきりと小夜が笑う。

「舞香に見て欲しかったの!ほら…あのときかっこ悪い姿見せたじゃん?」

 大会のとき。ハッとする。かっこ悪いだなんて小夜はそんな風に思っていたのか。言わなきゃいけないと思った。これだけは絶対に。

「小夜はかっこいいよ。ずっと。いつだって。」

 小夜が息を飲んだのがわかった。なんて思われてもいいと思った。

「そっか。そっか。」

 優しい声でそう言うと続ける。

「そう思ってくれてたならよかった。……私ね。」

 小夜の言葉を待つ。

「走るのは好きだけど、舞香がそう言ってくれるから走ってこれたんだよ。本当にキラキラした目でね、見てくれる舞香がいたから走れるんだよ。」

 すとんと胸の中で自分のわだかまりが落ちる音がした。そうか、そうだったんだ。ごちゃごちゃと色々考えていたけれどそんな事どうだってよかったんだ。

 今私が感じているのがきっと愛おしさで小夜が今伝えてくれているのが小夜から私宛のたった一つの大切な気持ち。

 それだけのことだったんだ。

 そばに行きたくなった。直接言わなきゃいけない。大好きだと。

「私舞香のこと大好きなんだ!」

 ずっこけそうになった。先に突然言うんだなんて。私の恋人と来たらまったくもう。人の気も知らないで色んな障害を飛び越えてくる。

 だから私はこう言う。

「そのまま待ってて。全速力で行くから。」

 片付けも手伝わないとだしと続けると小夜は助かるーと笑った。

「勝手に鍵借りて持ち出してきたからさ。」

「もしかしてそれで教室で待たせた?」

「だって。」

 小夜はまた笑う。

「グラウンドで待たせたら絶対止めてたでしょ?」

 もうとため息をつく。でも確かにその通りだ。

 小夜ほど早くないけれど。

 私は恋人のもとへと走る。

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