歴史実録! 孫権危機一髪

愛LOVEルピア☆ミ

第1話


 中華の版図、南東は海沿いにある揚州。その州を構成する一つ丹楊郡、時の領城十数の十万以上の戸数を抱える有力郡だ。その東部の県境に小さな廃城がある。


 遥か遠い昔、楚国の軍勢が建築し防衛の拠点に利用していた。長年に渡り打ち捨てられていて、今は崩れた城壁が目立ち草花が生えて遠目にはちょっとした山かと見間違えるほどだ。


 江東の支配者は現在孫策の軍勢。江東の覇王と呼ばれる彼は、若くして多くの軍民を従える流星のような存在。


 彼には弟が居た。年齢はやや下り未だに十代の後半、子供を少し出ただけで青臭いひよっこでしかない。


 兄を支えるために県令に就いている。そう呼べば聞こえは良いが、実際は内務を何一つこなすことができないお飾り。


 実質的な政務は全て兄の部下である呂範に任せてしまっていた。


 日々遊び歩き、散財しては尻拭いをさせる。出歩く際に身分卑しい兵を護衛として伴っているものの、身辺の保持に無関心と評して良い程に警戒が無い。


 今は争乱の時代、あまりにも注意に欠けていると叱責されるべきだが、彼を叱ることが出来る者は近くに居なかった。


 ある時、兄孫策が軍勢を興し領内の賊徒を掃討に出ることになった。弟である孫権も幾ばくかの兵を持たされ県内の治安維持に繰り出した。


「面倒だな、今日はもう休もう。あの廃城にでも拠ろう」


 さほど巡回もせずに、東部にある城の跡地で野営をすることを早々に決め込んで事後を部下に任せてしまう。


 部将らが全てを引き受け駐屯準備の指示を行う。孫権は視察すらせずに、自身の幕に籠り怠惰に過ごしていた。


 軍勢が野営準備をするところをじっと見ている者が居た。このあたりの賊徒で、越の山中に住む賊で山越賊と呼ばれている者達。


 偵察は急いで山に駆け戻り、首領である祖植(ソショク)にことの次第を声高らかに告げる。


 岩の匂いがする場所に夕日が差し込んでくる。すぐに動けば道に迷うことも無い、多少暗くともこのあたりは彼らの庭だ。


「野郎ども、俺達山越の自由民を殺しに来た役人が廃城でのほほんと休んでいる。周辺に他に軍は居ない。誘いでも何でもねぇ、これは抜けた将に率いられた隊だ。すぐに出て一泡吹かせてやるぞ!」


「応!」


 虐げられ、疎まれ、搾取され、土地を奪われた民が憎悪を抱いて武器を手に立ち上がる。


 左右を行く者達はどこかで顔をみたことがあるようなだけの集団。


 それでもなお統制が取れているのは、祖植という首領が居たからだろう。


 暗夜獣道を徒歩で進む。かがり火が申し訳なさそうに数カ所にあるだけ、警備の不寝番も片手で数えられそうな程少ない。


 穀物を茹でた匂いが仄かに漂ってきた。貧民が決して口に出来ない米や麦のそれだ。


 農民が畑を耕し作物を育てても、一口も自分たちが食べることは出来ない。


 雑草をむしり、虫を捕まえ、木の根をほじり、鍋に入れて泥水で煮る。彼等棄民の主食は野生の木の実やたまに狩った小動物のみ。


 怒りがこみ上げて来る、役人が憎くてたまらない。


「行くぞ、野郎ども続け!」


 祖植が号令をかけて一気に暗闇の中、廃城への丘を登る。


 手にしてるのは木の棒、石を蔦で括り付けた槌、研いだ溶岩石を先につけた槍。稀に青銅の剣を持っている者が居た。


 身を護る鎧などつけているものは皆無。祖植とその側近数名だけが胴を守るために多少身に着けているだけ。


 そのため身のこなしは軽い。敵意と殺意を胸に一気に孫権軍へと襲い掛かった。


「て、敵襲! 夜襲だ!」


 警戒していた兵が腹の底から叫ぶ。


 普段山野を駆けている男達が、無防備な軍へ奇襲を仕掛ける。個々の戦闘力は高いとは言えないが、士気が全く違った。


 祖植が先頭に立って軍兵と切り合う、それに対して孫権は銅鑼の音を耳にして寝床から飛び起きている最中。


 幕のどこに剣を置いたか一瞬解らなくなり、慌てふためき手探りする有様だ。


「殺せ! 奪え! 俺達の全てを取り返すんだ!」


 山越賊は怒声を上げて孫権軍を厳しく攻め続ける。


 指揮が下らない孫権軍は個別に戦い不安に苛まれる。すでに大将は逃げ出してしまったのではないかと。


 孫権はようやく見つけた剣を手にして鎧もつけずに幕を飛び出した。


 かがり火は蹴倒され、月明りだけが周囲を照らしている。血の匂いが充満している、おそらくは敵よりも味方のモノのほうが多く流れているだろうと悟る。


 不意打ちを受けて圧倒的不利。孫権にも刃を向けて来る賊が現れる、本陣中枢にまで踏み込まれたのだ。


「うぬぬ、おのれ下郎が!」


 鉄製の長剣、どこに当てても一撃で相手に致命傷を負わせることが出来る。


 単身奮戦し賊徒を寄せ付けない。体格が優れ、武器を持っているだけで剣技に多少自信が無かろうと素人と戦うならば充分だった。


 だが多勢に無勢、ついには捌き切れなくなり負傷してしまう。


「くそっ! 俺はこんなことでやられはせんぞ!」


 県令という立場を得ている自負が強気にさせた。人生これからというのに、このような何も無い場所で討ち死になどしてやるつもりなどこれっぽっちも無い。


 無様に剣を振り回し賊を追いやる。息が荒れ、囲んでいる敵は数を増した。


 流石にこれ以上はきついと感じる。味方の抗戦する音も次第に少なくなっていくのが解った。


 不利になれば兵は逃亡する、そうさせないために将が居るのだが、この暗闇でどこに誰がいるのか全く分からない。


 一斉に孫権に襲い掛かろうとする賊徒、その衆を割って切り傷を全身に負った男が一人乗り込んできた。


「この賊徒ども、周泰(シュウタイ)が来たからにはこれ以上好きにはさせんぞ!」


 大きな剣を振り回し、寄せて来る賊を次々に切って倒す。


 自分だけならまだしも、周泰は孫権を庇いながら戦う。そのせいで全身くまなく傷を受け、無事な箇所を探す方が難しい程痛々しい姿になってしまった。


 自身の血溜まりに足を濡らしながらも、周泰は夜が明けるまで賊徒を防ぎ続ける。


「朝が来る、野郎ども引き上げるぞ!」


 いつまでたっても倒れない男を相手にこれ以上被害を出すのは無駄だと判断した祖植が撤退を命じる。


 賊が廃城のある丘の斜面を下っていく。その姿が見えなくなるまで睨み続けていたが、全員が逃げ出すとついに周泰はその場に倒れた。


「周泰! 周泰しっかりしろ!」


 剣を捨てて彼を助け起こす。傷口に布を当てて呼びかけ続けた。


「若……」


 うなされつつも孫権をおもんぱかる言葉を発した。


 孫権はすぐさま県城にとって返し彼を治療し、安静にさせた。


 周泰は何日も気を失ったまま高熱を発し死の淵を彷徨う。孫権は日々容体を確認し肩を落とす。


 だが数日の後についに意識を取り戻したと耳にする。


 全てを後回しに周泰の居る部屋へ急ぎ、彼の隣に行くと手を取った。


「君は私の命の恩人だ。私が恩を返すまで決して死んではならんぞ」







 数十年の時が流れる。


 江東の覇王が没し、孫権が王となって中華南東を支配する時代がやって来る。


 多数の士が宮廷に集い善後策を練り、魏と蜀にどのように対抗するかを討議する日々が続いた。


 ある時孫権は一つの報を耳にする。名家の将、徐栄や朱然が一軍を率いて居るが主将の命令に従わないと言うことを。


「そうか。主な者を広間に集めよ」


 文武の百官が王の召し出しにより居並んだ。何か重大なことがあるに違いないと全員が気を張っている。


「陛下、諸将揃いまして」


 孫権が玉座についたところで場が開かれる。


 頭を下げていた皆に前を向くように言いつける。それぞれの顔を一瞥すると告げた。


「大将・周泰、大将・徐栄、大将・朱然前へ」


 軍団の将軍を呼び諸将の前に引き出した。片膝をついて畏まる三人に立つように言いつける。


 玉座から立ち上がり、孫権は目の前の階段を一段一段ゆっくりと下る。


 皆の視線が集中する。三人が何かよからぬことをしたのだろうとの先入観があったのだ。


 身分が卑しい周泰との間に軋轢があり、軍務が滞りを見せていたのが理由だ。


 孫権は周泰の隣にまでやって来ると、彼の武官外套を両手で外す。


 彼の周りを一歩ずつゆっくりと回り、小さく頷きながらまた正面に戻った。


「大将・周泰のこの傷は、予が県令の頃に身を挺して庇って受けた傷じゃ」


 腕の傷に手を当ててそっと撫でてやる。脇に回ると続ける。


「これはその翌年の戦で予を庇ったせいで受けたもの。これも、これも、これも、全て予の為に身代わりで負った傷ばかりじゃ」


 昔を思い出し余韻に浸る。周泰は身を震わせて声を押し殺し、涙するのに耐えている。


 忘れずに覚えていてくれた、あの日の約束を。感激でどうにかなりそうだった。


 下賤の出ということで、名士らから謂われない誹謗中傷を受けた。


 職務を遂行するに際して幾度も嫌がらせをされた。


 正しいことを否定された。


「皆、心して周泰の如きを目指すように」


 それら全てに余りある孫権の言葉が周泰の忠誠心を満たしてくれる。


 徐栄と朱然は三歩退いて周泰に対して片膝をついて礼を取った。顔は赤くなっており、自らの行動を恥じている。


 この一件以来、両将軍は大将・周泰の命令を無視することはなくなったという。




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