第4話

 次の日、昨日調べ損ねた蚕の野生時代について調べることにした。使ったのはウィキペディアだけれど、個人的に気になっただけで正確さを必要とするものでもないし、別にいいだろう。

 冒頭は生物学的分類だの、学名だの、簡単な生態だのが書いてある。桑を食べ、蛹から繭をとることも書いてあった。学名が「Bombyx mori」というのは少しかっこいい。

 そしてそのすぐ下の見出しは『家畜化された昆虫』だった。蚕は、ミツバチなどと並び、愛玩用以外の目的で飼育される世界的にも重要な昆虫なのだそうだ。

 記事には『野生回帰能力を完全に失った唯一の家畜化動物として知られ、人間による管理なしでは生育することができない』と書いてある。下の方に要出典と書いてあったけど、なんとなくあっているような気がした。あれほどダメなものづくしでは野生で生きていけないだろう。

 起源としては、中国大陸北部で発生したとされるらしい。蚕の祖先は東アジアに生息するクワコであると考えられているそうだが、詳しいことはよく分かっていないようだ。

 他にも成長過程とか、繭から絹を取る際は繭を煮てほぐしてから糸にするとか、その時の熱で中の蛹は死んでしまうとか、その死骸も魚の餌になるとか、色々なことが書いてあったけど、野生時代については書いていなかった。

 今度は電子辞書を引いてみることにした。広辞苑には生物学的分類と、成長過程、繭を取ることくらいしか書かれていなかったので、百科事典を見る。そこには野生のクワゴを古代中国で絹糸を取る目的で改良したもの、という記述があった。やっぱり蚕としての野生時代は一切ないということか。

 関連項目に載っていた「カイコガ」も見てみると、体の割に翅が小さく飛ぶことが出来ない、口がないため食物を取れず、交尾・産卵後十日程で死んでしまう、というようなことが書いてあった。

 こうして調べていて、ぞっとする。人の手がないと生きていけず、繭を取る時に熱で死に、成虫になれたとしても、空を飛ぶことも叶わず卵を産んですぐに死ぬ。

 絹を取るためだけに改良された、人間にとってどこまでも都合の良い虫。昨日、自分は蚕の蛹のようなものだろうと考えたが、今は似ているのは蚕そのものかもしれないと思う。

 母にとってどこまでも都合の良い娘。そうすると私は、蚕のようにどのみちダメになってしまうのだろうか。あの白い芋虫に自分を重ね、恐ろしくなった。



 そして蚕が我が家に来てから十日余りが過ぎ、妹の自由研究は順調に進んでいた。紗也佳は文句を垂れながらも虫さされだらけになりつつ餌の桑を毎日取りに行っていたし、母は飼育箱の掃除や蚕の計測と撮影を欠かさず行っていた。

 蚕はあれから二回の脱皮を経て、一番大きいものでは長さ六センチ・太さ一センチ弱、ちょうど妹の人差し指くらいの大きさになっていた。

 日が経つにつれて数もだんだん減り、今ではたったの五匹になっていたが。やはりいくら気を使っていても、ストレスだったり弱ったりで死んでいくものもいるらしい。だから最初にあれほどたくさんの蚕をもらってきたのかと納得する。

 自分が蚕に似ているのではないかと思ってからは、不思議なもので、蚕を見てもさほど気持ちの悪いものとは思わなくなった。蚕が大きくなるにつれ、ますます可愛いと言いながら丹念に世話をする母程ではないけれど、今でも気持ち悪がって蚕を極力見ないようにしている紗也佳のようでもなかった。愛着が湧いたのかもしれない。毎日の計測の時には私も同席して、蚕の成長を観察するようになっていた。

「そろそろ繭を張るかもね」

 その日の計測を終えた母は、そんなことを言った。

「え、そうなの?」

 驚いたように紗也佳が聞く。

「うん。身体の色が少し黄みがかって皮膚が透けるようになってきているでしょう。そろそろ繭を張る合図なのよ」

 その辺りはさすがに調べているらしい母が説明した。

「そろそろ枠に入れようかねえ」

 そう言って母は百均で買って来たような、木製で中に仕切りの付いたアクセサリーケースのようなものを取りだした。

「それに入れるの?」

 紗也佳が興味深そうに聞く。

「そう。繭を張るのにちょうどいい隙間が必要なんだって」

 そう言うと、母は黄みがかったような色をした三匹をそれぞれ仕切りの中に入れた。

「餌は入れなくていいの?」

 私が聞くと、母は首を横に振る。

「糸を吐く時は三日三晩何も食べないの。そうやって繭を張るんだよ」

 辞書には載っていなかった知識だ。ハンドブックに書いてあったのだろう。

「じゃあもう、桑はそんなに採って来なくていいの?」

 心なしか嬉しそうに紗也佳は言う。無理もない。あまり取って来なくていいということは、藪にあまり長いこと居なくてもいいということだ。その分虫さされも減ると考えられる。

「うん、残りの二匹分だからそんなに量はいらないわね。それに近々この二匹も繭を張るだろうし、そうなったらもう採りに行かなくていいよ」

「やった、よかった!」

 紗也佳はそう言ってガッツポーズをした。



 仕切りに入れた蚕のうち、二匹が繭を張り終わった頃、例のハイレベル模試が返ってきた。

 仕切りに入れた五匹のうち、三匹は繭を張り終わる前に死んでしまって、四十匹近くいた蚕で繭を張れたのはたった二匹だけだった。

 森屋先生から『頑張ったわね』と微笑まれて返却された成績個票を見て、血の気が引く。

 九大にC判定が出ていた。元々得意な国語と英語がそこそこ取れていたのは想定内だったが、吉乃ちゃんに教えてもらった数学が出来ていたせいで、思ったより点数が取れてしまっていたのだ。

 母にこんな結果を見せたら、絶対に九大を勧められるに決まっている。

 目の前が真っ暗になるような気持ちを駆り立てるように、外は大粒の雨が降りだした。

 帰宅後、雨合羽を着ていたとはいえ濡れた制服を着替えてから、ひやりと涼しいリビングに入る。

 蚕を入れている仕切りの付いた箱のあった場所をなんとなく見れば、箱ごとなくなっていた。

「お母さん、蚕はどうしたの?」

 テレビを見ていた母に聞けば、母は私の方を振り向く。

「ああ、さっき流してきたよ、そこの側溝に」

 ガツンと鈍器で頭を殴られたような衝撃を受けた。

 蚕を、流した?

 水分が大敵だといって細心の注意を払っていたあの蚕を、この雨の中、側溝に?

「え、なんで」

 かすれた声で問いかける。喉がからからに干上がっていた。

「だって、たった二匹じゃ糸も取れないし、孵化して蛾になったら気持ち悪いじゃない」

 笑って答える母の言葉に足元がぐらつくような感覚を覚える。ついこの間まで母は可愛い可愛いと言って、目をかけ手をかけ世話をしていたのに。

 それなのに、そんなにあっさりと。

「そう」

 相槌を打って、無意識のうちに後ずさる。

 そんな母に言い知れない恐怖と気持ち悪さを感じた。それはぐるぐると胸中で渦を巻き、なんだか私はそこにいられなくなって、踵を返すとリビングを出た。

 呼吸が荒い。言い知れない不安が胸を圧迫する。なんでこんなに私が混乱しているのだろう。うつむいて頭をかきむしる。薄暗い廊下に、玄関から薄明かりと共に雨の音が差し込む。

「そうだ、蚕」

 雨の音に気付かされ、はじかれたように顔をあげた。

 蚕。流された蚕はどうなったのだろう。

 そう思うと何故かいてもたってもいられず、サンダルをつっかけると、手についた傘をひっつかんで外へ飛び出した。

 訳の分からない衝動に突き動かされて走る。目指すのは天降川だ。この辺りの側溝の水はあそこに流れ着く。今更行ったって蚕が見つかるわけでも、助けられるわけでもないと分かっている。でもそうせずにはいられなかった。


 走りながらでは傘もあまり役に立たず、真夏の生ぬるい雨が身体にぶつかる。足元で細かい砂が泥水になって跳ねる。サンダルと素足の間にそれが入って不愉快極まりない感触が伝う。それでも走った。全力で走った。五十メートル九秒代の鈍足だけど、それでも走ったのだ。

 自転車ではすぐなのに、自分の足だとこうも遠いものかと思う程、その距離は長く感じられた。息が切れ、汗が噴き出す。それでも走って、走って、ようやく橋の中央までやって来た。

 欄干から天降川を見下ろす。雨で増水した川は濁った茶色い水が轟々と流れていた。それを見て、ああ、とため息が出る。

 彼らはここに飲み込まれてしまったのだ。小さな繭では一たまりもない濁流に。県下でもワーストに入る汚い川に。大敵である水に放り込まれて無事でいるはずがない。

 せっかく飲まず食わずで繭を張って、ようやく無事に繭を張り終えた二匹だったのに。自力で必死にやって来たのに。それさえも、母の手で全部なかったことにされてしまった。蛾になったら気持ち悪いという、ただ、それだけの理由で。

 絶望にも似た恐ろしさを感じながらただ茫然と川を眺めていると、雨の音がやけにうるさく感じる。膝から下はもうずぶぬれだった。

 違う、私は蚕じゃない。

 そうに自分に言い聞かせても、心の奥底では不安が澱のように溜まって淀んでいた。そうだ。心はどうしようもなく蚕のままなのだ。

 ああ、ともう一つ溜め息のような感嘆詞を吐いて、ぬれるのも構わず欄干に寄りかかる。身体的な疲れも来ていた。

 とりあえず、私はこのままではいけない。このままでは本当に母に全てを無かったことにされてしまう日がいつか来るだろう。それだけは避けたい。しかしこの染みついた母に対する意識をどうしろというのか。どうすればいいのか分からなかった。なんだかもう考えるのがひどく疲れることのように思えてくる。

 ――この蚕のようにはならない。

 気だるい頭で、それだけは、と心に決める。しかしどうすればいいのか、という方針は誰も与えてくれない。自分で考えなければならないのだ。

 いつか蛾のように羽ばたいて行かなければならない。蚕蛾以外の蛾のように。

 川に流される前に、そこから飛び立たなければならない――夏も終わりに差しかかった夕方、私はそう心に決める。

 それでも、生ぬるい雨と暗い空、流れる濁流は、私の不安を掻き立てるばかりだった。

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蚕は空に羽ばたけない 佐倉島こみかん @sanagi_iganas

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