第3話

 結局、昨日のうちに森屋先生から九大を勧められていることを母に言えないまま、翌日のハイレベル模試を迎えた。

 さすがにハイレベルと名前が付けられただけあって、いつもの模試より難しい。国語はどれも文章が長い上、記述の文字数が多かったり、英語は難しい長文を読んだ上で長い英作文を書かされたりして、いくら得意科目とはいえ参ってしまった。そこそこ出来たような気はするが、あまり自信はない。

 そして、ここに来ての数学である。先生達いわく、ハイレベル模試の数学は毎年、文系平均が二十点くらいらしい。だから出来なくても気にするなと試験監督に来た数学の先生は笑った。

 先生いわく受けるポイントとしては、とりあえず何か書いておけば部分点が入る可能性があるから、解き方が分からなくても問題文をグラフや図に起こせとのことだった。そんなアドバイスがあったところでチャイムが鳴る。先生の『始め』という合図で、問題用紙のページをめくった。

 大問一は二次関数、大問二は平面図形、大問三は確率の問題だった。さすがハイレベル模試というべきか、普通小問の一問目には基礎的な問題が来そうなものだが、一問目からどれもこれも定期テストの大問の最後の問題のような難しいものだった。

 訳が分からなくても、とりあえず先生に言われた通りに問題をグラフに直したり、図を描いて補助線をそこに書き入れたり、場合分けをしたりしてみるが、そこから先には全然進まない。文系平均二十点の理由が分かった気がした。ここまで一問も完全に解けた問題がないが、私は二十点も取れるのだろうか。平均を下回ることだけはどうしても避けたい。

 最後の大問は苦手な図形と方程式の問題だった。うんざりするが、問題を読んでグラフを描き、そこから求められそうな式と値だけを求めてそれを書き入れた。そこまでして、ふと昨日、吉乃ちゃんに教えてもらった問題に似ている事に気付いた。解けそうな気がして、座標を設定してから計算に入る。

 必要になる値を計算して、点と直線の式を用いて、場合分けをして考える。珍しく手ごたえがあった。吉乃ちゃんに感謝だ。しかし、どこかで計算を間違ったらしく、途中から色々とつじつまが合わなくなってきた。どこを間違ったのか計算をし直して、ようやく小問の一つ目が解き終わった頃に、終了を知らせるチャイムが鳴った。先生の『やめ』という声に、シャーペンを置く。後ろから回収される解答用紙を渡して、机に突っ伏す。燃え尽きた。

 これで今回の模試は終わった。結果は二週間くらいで届くらしい。それまでに、どうすればいいか考えておかなければならない。結果なんて届かなければいいのに、と思った。



 昨日と同じ一時前の電車で家に帰ると、リビングには母一人だけがいた。土曜は午前中だけなので、母は昼にはもう仕事から帰って来ているのだ。

「ただいま。紗也佳は?」

 一応、リビングを見回して問う。

「おかえり。紗也佳ならお昼を食べてもう遊びに行ったよ。お昼、そうめんだけどいい? カップ麺とかもあるけど」

 台所に向かいながら母が言った。

「ううん、そうめんで大丈夫。着替えて来るね」

「はーい」

 母の返事を背中に受けて二階の自室に行き、制服から着替えてまた戻って来る。

 戻って来る頃には、もうそうめんが食卓の上に乗っていた。

「模試はどうだった?」

 刻んだネギを出しながら母は尋ねた。やっぱりそう来るか。

「さすがにハイレベルって言うだけあって、難しかった。でもまあ、やれるだけやったよ」

 それを受け取って麺つゆに入れながら答える。

「出来たの?」

 試験や成績関係になると、母に曖昧な答えは通用しない。眉間にしわを寄せてしっかり聞いてくる。

「ん、まあまあ」

 気まずい気持ちでそうめんをすすった。

「へえ。それで、結果はいつ分かるの?」

「二週間くらいかかるって」

 薄いリアクションを示してから尋ねる母に、即座に答える。

「そう。いい結果が出るといいわねぇ。確か、志望校の判定も出るんでしょ?」

「あ、その事なんだけど」

 ちょうどいいタイミングだと思って、例の件を話すことにする。これを逃すと話さないままになってしまうかもしれない。

「私、今回も早稲田を第一希望にして、九大を第二希望にしたんだけど、実は前から森屋先生に九大の文学部を凄く勧められてて」

 言った。とりあえず、話を切り出すとこまでは出来た。

「あら、そうなの?」

 母は少し驚いたような顔をして言った。ドキドキし過ぎて心臓が痛い。その次の言葉までが酷く長い時間のように思われる。

「実は私も、九大の方がいいんじゃないかと思ってたのよ」

 あっさりと。事もなげに。

 少し真面目な調子ではあったものの、予想以上の軽さで母は言い放った。裏切られたような感覚に打ちのめされる。信じられない。だって、早稲田を勧めた張本人なのに。嘘。なんで。胸に渦巻く思いは、しかし、口から溢れ出る事はない。

「そう、なんだ……」

 代わりに出て来たのは、相槌の言葉と情けない笑み。

「色々調べてみたんだけど、やっぱり校風なんかは九大の方が真由美に合ってる気がするのよねえ。それにもし何かあった時は、九大なら福岡だから、車で三時間くらいで行けるし」

 理由を続ける母の言葉に反論する気力は起きない。こうして実際に九大を勧められてみると、反論するどころか、じゃあ変えなきゃ、という思いが自然と胸を支配する。そんな自分に嫌気がさした。だって、九大に行った方がいいのではないかと思ったことはあっても、九大に行きたいと思った事はないのだ。寧ろ、今になってより早稲田に行きたい気持ちが高まった気がする。それでも、母が九大に行くことを望んでいると思うと、それを言葉に出来ない。

「そう、だね。先生には、今回の模試の結果見て考えます、って言っといたし、結果見てから考えるよ」

 『じゃあ九大にする』と言わなかったのが、私に今出来る精一杯の抵抗だった。限りなくイエスに近い回答でも、こうすることしか出来なかった。実際もう、半分早稲田に行くことを諦めている自分がいる。

「そう。じゃあ、なおのこと結果が待ち遠しいね」

 母は機嫌よく言い、私はそれに『そうだね』と首肯しながらも、先程より強く結果なんて帰って来なければいいのにと思った。



 その日の夕方、中学校教師でバレー部の顧問をしている父が帰って来た。

 蚕が家にやって来る前日から九州大会で福岡に行っていて、ベスト8まで残ったらしいが、準決勝で負けてしまったそうだ。でも、ここ数年で一番の好成績に父はどこかご機嫌だった。

 それを言ったら紗也佳と母には『そう?』と首を傾げられてしまった。父は、よくしゃべる母と対照的に、無口であまり感情を表に出さない人だから、そういう喜怒哀楽が分かりにくい。

 でも私は性格が父に似ているせいか、なんとなく父の考えやら感情が分かった。私は思い悩んでいるというのに、父はご機嫌だなんてなんだか無性に腹が立つ。

 模試も終わったし、明日は日曜で休みだし、イライラしても仕方ないと思い、自室に籠って、スマホで気になっていた蚕の野生時代について調べようと思った。進路とは全く関係のないことをしたかった。

「真由美、いいか」

 そんな時、ノックの音と父の声が聞こえて来た。

「何?」

 スマホの画面を眺めたままおざなりに答える。

「真由美、九大に行くんだって?」

 部屋に入りながら、父は聞いてきた。

「お母さんがそう言ってたの?」

 肯定も否定もせず、逆に聞き返す。母の中ではもう九大に行くことが決まってるのか。

「ああ。お母さんはそう言ってたけど、いいのか?」

「いいって、何が?」

 本当は何について聞かれているかは、わざわざ聞かなくても分かる。父には、私が九大へ行きたくないのが分かっていて、それでいいのかと聞いているんだろう。 私が父の微妙な表情や行動の変化から考えをなんとなく分かるように、父も私のことをなんとなく分かるのだと思う。でもそれを分かっていながら、わざわざそう聞いて来る父にイライラして、冷たく言った。八当たりだと分かってはいるけれど、分かっていてどうこう出来る問題でもない。

「早稲田に行きたいんだろう?」

 直球で言われて言葉に詰まる。イライラすると同時に、分かってくれている人がいるという事実に安堵している自分もいて、なんだか複雑な気分だ。

「お母さんにも言ったけど、模試の結果見て、それから考える」

 複雑な思いのまま、母に返したのと同じ答えを伝えた。心のどこかで早稲田に行くべきだと父から背中を押してほしいと思っていたのかもしれない。

「そうか」

 しかし、父から返ってきたのは短い返事だけだった。それだけを残して、父は部屋を出ていく。後押しを期待したのは私の勝手だ。それでも、それがなかったことによって父への苛立ちがさらに募った。あんな質問をして、一体何がしたかったんだろう。

 気分が悪くなって、立ち上げたばかりの検索アプリを閉じた。

 ベッドに倒れこむようにして寝転ぶと、天井を仰ぐ。白い天井は蚕を想起させた。私はきっと蚕の蛹のようなものなのだろうと思う。母という繭にぐるぐるに囲まれて、守られて、身動きが取れない、そんな生き物。



 私は昔から母が好きであると同時に怖かった。

 母が中学校の音楽教師ということもあって、楽譜ぐらい読めるようにと私は五歳の時からピアノを習わされていた。でも私はそれが大嫌いだったのだ。

 そのため私がピアノを自主的に練習しないから、見かねた母がピアノのレッスンがある日に、付きっきりで練習させていた。私はそれがたまらなく嫌だった。

 私が楽譜を上手く読めなくて手が止まってしまうと、すぐイライラした様子で口を出してきたし、どうしても苦手な部分を何度も間違えてしまうとすぐ怒ったし、出来ない自分が悔しくて泣いてしまうと、怒られたせいで泣いているのだと決めつけて怒ってどこか行くし。

 それに怒り方というのも、叱りつけるというよりは冷たい目で私を見て突き放すようなことを言うのだった。私はその母の表情を見るたびに、自分はなんてダメな奴なんだろうと自己嫌悪じみた気持ちになったのを覚えている。

 今でも母は私の試験の点数が悪かったりすると、あの頃と同じように失望と呆れと諦めと見下しのない混ぜになった冷たい目で私を見て、突き放すようなことを言うのだ。

 私はそんな表情と口調にさらされる度、死にたくなるほど絶望的な気持ちになる。小さい頃のピアノの経験がきっとトラウマに近いものになって自分の中に巣食っているせいかもしれない。

 だから私は、母にそんな表情をさせないよう、精一杯頑張って来た。それは呼吸をするくらい自然なものとして身についていった。母の望むような優秀な生徒であり、いい姉であり、よく出来た娘であろうとした。その習慣が、今は母に反対出来ない足枷となっている。どうすればいいのか分からない。

 でもそれに気付けたのは良かった、と自分に言い聞かせてみる。大丈夫、どうにかする、と自己暗示。そう、進路のことはどうにかしなければならないのだ。自分の意志を優先させるのが一番望ましいに決まっている。

 それに、よく考えれば数学が壊滅的な私の成績で九大に行けるわけがないのだ。成績が返って来たところで、そんなに心配することもないだろう。そう考えると少しだけ楽になった気がした。

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