寄生
釣舟草
第1話
若い頃の恋は失敗ばかり。赤面を枕に埋め、足をバタつかせたくなるような思い出も数知れず。もしあのときに戻れたら……。そう思う瞬間が、幾度となくある。
その中のひとつ。これは、臆病で傲慢な少女だった私の、痛々しい恋の後悔の物語。
正田慎一郎君と初めて出逢ったのは、高校の入学式だった。よく晴れた日で、体育館に紛れ込んだ白い蝶がヒラヒラと飛んでいたのを憶えている。
出逢った、と書いたが、正確には私の方が一方的に彼を認識したに過ぎなかった。正田君は、艶やかな小麦肌とサラサラ直毛の髪。小さな顔に反比例する大きな瞳と、スッと通った鼻筋が印象的。誰もが振り返るほどの美少年だった。ちょうど、当時TVで毎週放映していたレンジャーものの主人公に似ていたかもしれない。
隣のクラスの列でおしゃべりする正田君に、すっかり目を奪われた。校長先生の話なんて、耳に入らなかった。
入学式が終わり、教室に戻ってからも、正田君の横顔が頭を離れなかった。下校時刻になると、密かに心をときめかせながら廊下へ出た。手を洗うふりをしながら、隣のクラスのホームルームが終わるのを待つ。
隣のクラスのドアが開き、生徒たちが続々と下校し始めた。私の胸の高鳴りは最高潮に達していた。
正田君は、五人の男女の輪の中にいた。昨日観たドラマの話なんかをして、揶揄ったり揶揄われたりしながら階段を降りていく。格好いいのに驕りもせず、仲間から慕われているのが分かる。
私はすました顔で蛇口を締めて手を拭くと、当然そうするつもりだったかのように、下校する生徒たちの波に加わった。勿論、視線の先にいるのは正田君オンリーだ。心臓の鼓動が周りに漏れるのではないかと、気が気でないほどだった。
下駄箱の前で靴を履き替え、正田君は校門の前で桜の木に寄り掛かった。自転車通学組が自転車を取ってくるのを待つらしかった。彼はひとりだった。私は桜を見るふりをして、正田くんの美しい横顔を盗み見た。
柔らかな風が吹き、ふわっと髪を揺らす。
次の瞬間、彼の絹糸のような髪に、桜の花びらが一枚舞い降りた。
「爛漫の春」とか、「永遠の一瞬」とか、歌謡曲の歌詞に何気なく登場するそんな言葉たちの意味を、このとき初めて理解した。髪に一枚の花弁をつけた彼の華やかさは、どんな煌びやかな世界の王子にも劣らないと思った。
声をかけることなど思いもよらない。ただ見惚れているだけで良かった。この幸せな時間が永遠に続いたなら、どんなに良かっただろう。
私のささやかな願いは、簡単に裏切られる。彼の友人の男女が自転車で校門に到着した。
「頭に花びらついてんだけど、きめーよ」
「あざとっ!」
輪の中にいる女子が彼の髪に触れ、花弁を払い落とす。
ゴミのように払われた花びらは、ひらりと固いアスファルトに着地した。たくさんの花びらが辺り一面に散乱している。もう、どれが彼を彩った花弁だったか分からなくなってしまった。
これだからリア充は嫌い。
理想郷を破壊されたような憎々しい気持ちになる。
顔を赤らめて言い訳する正田くんは、可愛かった。彼が仲間たちとともに帰っていったあとも、私はその場から動くことができなかった。
その夜、夢を見た。
月光が、白い森をくっきりと写し出していた。神聖な空気を漂わせる、美しい森。澄んだ冷気に震えながら、私は歩いていた。
真冬なのに、樹液を求めて虫たちが木々に群がっている。
巨大な一本の樹木を見つけたとき、なぜかふと思い出した。小学校の理科の授業だ。眼鏡をかけた陽気な男性の先生だった。
「蝉はね、地中に何年も潜って生活するんだ。木の根元を掘ってごらん」
私は大樹の根を掘ってみた。
……いた。
真っ白な幼虫が、一匹。ウニョウニョと無数にうごめきながら、鎌状の口だけはしっかりと木の根を刺している。
虫の顔を覗き込んだ瞬間、ギョッとして尻餅をつき、はずみで目を覚ました。
自分の荒い息。顔は引き攣る。
あの幼虫は、私だった。
火照ったように、媚びるように肢体をくねらせているくせに、何を訴えるでもない瞳は何も見ていない。その口だけは異様に鋭く、深く樹木に差し込み、貪欲に樹液を啜っていた。
ゾワゾワと鳥肌が立ち始める。
美しい木を汚染していたのは私だった。醜悪なのは私。あれはまぎれもなく、正田君に心を焦がして変わり果てた自分の顔だった。
身体中の熱がスーッと冷めていく感覚がする。
寂しい。どうしようもなく。
あの大樹はきっと、正田君だ。土の中で自分を啜る私になど気づきもしない。知らぬ間に取り込まれているのに、それをものともせず、凛として天へ枝を伸ばすのだ。
不意に潮騒が聞こえた。ような気がした。
幼い頃に行った海の記憶だ。なぜ今、それが蘇るのだろう。
夕方のオレンジの世界。波に流されてしまった砂の城を前に、泣きじゃくっている幼女は私。そんな私を、イライラと諭しているのは母。
「他のお友達を見てごらんなさい。もうみんなお片付けして帰ろうとしてるの。座り込んでピーピー泣いてるのはアンタだけ……」
ねぇ、私は私で、自分の城を作るしかない。
誰にも邪魔されない城を。
彼らとは決して交わらない場所で。
ほどなく、私は理想の彼氏を見つけた。同級生の狭山彰君。『シックスセンス』の頃のハーレイ・ジョエル・オスメント似の美貌の彼は、境界知能だった。言葉の発達には特に遅れが顕著で、年相応の言葉を発することはなかった。歩く姿も独特で、ピョコピョコと跳ねるよう。そのせいでイケメンなのに薄気味悪がられ、教室では空気のような存在だった。それが良かった。
最初に声をかけたのは、私の方。
いつも放課後、図書館の物置でこっそり待ち合わせた。鍵が開いていたので、いつでも忍び込めた。そこは夢にまで見た、二人きりの世界だった。
狭山君の前では、何でも話すことができた。狭山君は表情に乏しく、私が何を話しても、何も言わずに仏のように、あるいは白痴のように私を見詰めていた。ときどき、「聞いているのかな?」と思うときもあった。心が通っている感覚は皆無だった。それで良かった。言葉なんていらない。特別な存在である彼がそばにいるだけで、満ち足りた気持ちになれた。
生まれて初めて、男の子とのハグやキスを経験した。口の中に舌を入れられたとき、彼も普通の男の子なんだなと、少し残念に思った。神聖だった彼が俗的な場所へ堕ちたような感じ。あるいは、私の中の彼の理想像が金槌で殴られて変形したみたいな。
それでも、相反する興奮がすべてを押しのけた。古書と彼の匂いに包まれて、生まれてきてよかったと思った。家にも学校にも居場所が無かった私の安住の場所。それはまるで、波打ち際の砂の城だった。
時は流れ、私たちは二年になった。狭山君との秘密の逢瀬は、クラスが離れても続いていた。そして、正田慎一郎君が同級生になっていた。
野球部に入った正田君は坊主頭になっていた。頭部の形と顔面偏差値が色濃く問われる坊主頭は、正田君によく似合っていた。より一層、彼の溌剌とした輝きが増したように感じられた。
あの日、桜と一体化した彼の美しさは健在だった。立ち姿も歩く姿も話す声も、全てが魅力的だった。
それでも、今は穏やかな気持ちでいられた。私にはもう自分の城があったからだ。
次の席替えで、正田くんと私は隣同士の席になった。窓際の一番後ろ。先生の目を盗んでお喋りしたくなる場所だ。
「小宮山さん、よろしくね」
正田君は白い歯を見せて笑った。彼は人懐っこく明るかったが、一方で思慮深く繊細だった。人に自分の要求を押し付けるようなことは一切なく、周りの席の者たちに信頼され、すぐに打ち解けた。私と意気投合するのにも、時間は掛からなかった。
外交的な正田君と内向的な私とでは、根本的に互いを理解し合えるということはなかった。それでも繊細な感覚の者同士、通い合う部分もあり、よき隣人同士となった。休み時間をともに過ごすことは一切なかったが、授業中や自習時間には、他愛のないことで笑いあった。
「小宮山さんって癒し系だよね」というのが、正田君の口癖になった。私も、正田君と心が一つになる感覚を何度も味わった。そして、それを友情だと信じた。
やがて、次の席替えの日が決まると、正田君はソワソワし始めた。そして、席替え前日の帰り際、私にこう言った。
「好きです。付き合ってください」
喜びと失望という、相反する2つの感情の波が押し寄せた。陰ながら憧れていた人からの告白は嬉しい。でも、その時期はもう過ぎてしまった。今はずっと変わらない友情を信じていたのに。
クラスは騒めいていた。人気者の正田君が窓際族の女に告ったとなれば、そうなるのは必然だ。
隣の教室からも、帰宅する生徒たちがわらわらと出てきていた。狭山君が廊下からこちらを見ている。ショックを受けているようだ。
返答できないまま、私は鞄を掴んで逃げた。正田君を無視する形になった。
教室を出るとき、背後から正田君の懇願するような声を聴いた。
「小宮山さん、愛してるよ」
その日も、いつものように図書館の物置へ行った。狭山君はもう着いていた。正田君の話はしなかった。その必要は無かった。
狭山君は至っていつも通りだった。ショックを受けているように見えたのは、もしかしたら私の思い込みだったかもしれない。私たちはいつも通りにいちゃついて過ごした。彼の表情は、その日も読み取ることができなかった。
夜、シャワーを浴びながら考えた。正田君はなぜ私を好きになったのだろう。
曇った鏡を流すと、そこにはみすぼらしい顔。私など取るに足らない、彼の周囲にいるどの女子にも敵わない見た目なのに。
「でも、話していて楽しかったじゃない?」
聞こえた声は、たぶん私の幻。
「見た目じゃないの。アンタの癒しの力よ」
癒しね。
ふふっ、と、口角から冷たい笑いが漏れる。
「付き合ったら幻滅されるよ。正田君は今、鏡に映ったアンタを見てるからね」
うるさい、うるさい。
「狭山君はどうするの? カースト上位のイケメンに告られたから捨てる? それはモラルとしてどうなの?」
そうだ。この告白を受けることは、大切な城を捨てることだ。
「ねえ、狭山君を捨てて正田君に走った結果、アンタは捨てられるのよ。だってそうでしょ。彼は本当のアンタの醜さを知らないのよ。正田君はあんたの本性に気づき、ひきつった顔をしてリア充女子の手を握るの。正田君の女は他にいくらでもいるのよ」
……そうだ。
「狭山君をごらん。きっとアンタが正田君を選んだとしても、何も言ってこないよ。それどころか、きっと誰にも愚痴をこぼさない。すべて自分の中で消化する。いい子じゃない。都合のいい子。だから人柱に選んだんでしょ」
そう。狭山君との関係は、自分の手で一から作り上げた城だ。捨てられるはずがない。例えそれが、脆い砂の城だとしても。
腹が決まった瞬間だった。
その夜、またあの夢を見た。
凍った森で、大樹の根を掘る。探しているのは、自分自身。
見つけた。
セピア色の透明な殻の中に成虫がうごめいている。これが私。
気がつくと、私は暗く湿った土の中でうずくまっていた。どこからともなく、弦のような植物が身体中に絡みついてくる。弦は、みるみるうちに私の身体全体を覆い、緩やかに締め上げてきた。少し窮屈で、少し不快。でもそれはとても優しくて、恐怖は無い。それどころか、不思議と安心感さえある。
ねえ、正田君。私に気づくのが遅すぎたんじゃない? もう取り込まれてしまったよ。
悲しくも満たされた気持ち。
気がつくと、うなじから褐色の茎が伸び始めていた。どうやら私はこの植物に寄生されたらしい。
茎は重く湿った土を破り、地上へ顔を出す。
これでいい。私は報われたんだ。
翌日、何も無かったような顔で席につくと、すでに待機していた正田君が慎重な面持ちで訊ねてきた。
「考えてくれた?」
私は用意してきた言葉を口にした。
「お母さんがまだ早いって。ごめんね」
正田君は悲しそうにうなだれた。そうだろうな、と思う。ここまでのイケメンのことだ。告白を断られるなんて、もしかしたら初めてかもしれない。
「分かった……。小宮山さんは高嶺の花だもんね」
そう言う正田君は、もう前を向いていた。
「じゃあ、最後に握手しよう」
あのとき。
あのとき、握手を断るべきだった。
正田君の手の温もり、柔らかな感触は、私の穏やかな世界をバラバラに破壊した。
私はただ、井の中の蛙でいられれば良かったのに、その握手のせいで大海へ引きずり出されてしまった。
正田君は、すぐに別の女生徒と付き合ったようだった。
そのあと、私にも変化があった。
狭山君とお別れした。思った通り、狭山君は何も言わなかった。引き止めさえしなかった。たぶん私は最初から一人だった。狭山君と付き合っていても、いなくても。私はずっと、彼を通して鏡に映った自分を見ていたにすぎない。
私は何を守っただろう。
そして、何を失っただろう。
穏やかな狭山君を利用し続けた日々や、正田くんの求めた温かな心のふれあいを拒否した瞬間。
違う、もっと前だ。
自分の情熱を否定し、殻に閉じこもったあの春。あの桜の下。
今夜も、寝床で目を閉じると向かうのは、月光さえ凍り付くようなあの森。
毎晩毎晩、冷たい大樹の根を掘り続ける。
私のうなじからは、今も褐色の茎が伸び続けている。
風に吹かれ、茎が揺れるたびに叫びたくなる。
(だれかお願い、ここから連れ出して)
茎は月光に照らされ、今夜も風に吹かれていることだろう。
寄生 釣舟草 @TSURIFUNESO
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