第19話
一年の月日が経ち、多くの変化が人々に訪れた。
たとえば、畑野という作家志望の大学生は、その呼称から『志望』を外すこととなった。志島という作家は文豪の名を冠する賞を受賞し、楼海という水彩画家は、絵に疎い者でも名前を聞くような傑物へと変化した。
世の人々はそれらを大きな変化と呼称するだろう。実際、当事者達にとっても人生の転機だった。だが、そんな当事者たちの関心を惹き付ける小さな、とても小さな変化も近くに存在した。列挙したそれらに比べるとずっと些細で小さな変化で、世間の評価なんてものは何も変わらず、その名前を知る大衆も存在しない。
それでも、確かな変化だった。
――篠宮が東京藝術大学を受験した。
「そろそろ発表ね」
畑野のプロデビューを契機に同棲を開始して数か月。彼女のアトリエや畑野の執筆部屋とは異なる、二人の交流スペースとして設けたリビングのソファの上。青褪めて冷や汗を流しながら緊張の面持ちで虚空を眺める篠宮に、畑野は呟いた。
朝の鋭い冷気を穏やかな暖房が中和するこの時間、言葉は無かった。
この一年で少しだけ髪を伸ばした篠宮は、膝の上で手を組んで、祈るように俯く。ここまで緊張する彼女を初めて見たが、流石に倍率十五倍の難関だ。それに、かつて背を向けた事柄で掴みかけている夢なのだから。畑野は彼女の不安を払拭しようかとも思ったが、あと少しの話なのだから、その緊張も楽しんでもらおうと割り切った。とはいえ、だ。
畑野は彼女のアトリエに煩雑に置かれていった無数の絵、スケッチブックの群れを見る。人は努力をした人が報われることを望み、そうでない者が成功することを妬む。絵に背を向けて歳月を無為に過ごした彼女の合格を否定する者も居るかもしれないが、アトリエに刻まれたそれらは、彼女の吐いた血反吐だ。それを視認できる自分くらい、応援したっていいだろう。
畑野は「大丈夫」と小さな声で呟いた。
『きっと合格する』という言葉は重荷になるだろう。そんな甘い世界ではないのだから。だから伝えるとしたら、『落ちたって死ぬわけじゃない』くらいだろうけれども、そんな言葉が彼女の背中を押すとも思えないので、畑野は黙った。
この三十分で染みついた手癖で、藝大の合否発表ページを更新する。
そして、見慣れた画面が見慣れぬ画面に変化して、「あ」と畑野は呟いた。
「来た」
呟けば、篠宮はびくりと肩を震わせる。揺れる瞳で畑野を見上げ、しばらく視線を交えて腹を括った彼女は、震える指でスマートフォンを操作しようとする。そんな覚束ない所作を見た畑野は、苦笑しつつ彼女に自身のスマートフォンを差し出した。
「す、すみません」
彼女は詫びつつそれを受け取り、合格発表と記載されたページの、彼女が志願した学部の項目を見る。合格発表と記載されたPDF形式のリンクを見詰め、彼女は固唾を飲んだ。唇を噛み、離し、瞳を瞑って深呼吸。長い深呼吸の後、彼女は意を決したように目を開いて、「やることはやった!」と自身を鼓舞した。突如の大声に驚き目を見開く畑野だったが、少しして「おう」と、笑い返せば、篠宮は緊張もほぐれたように笑みを浮かべた。
迷いなくリンクを踏むと、スマートフォンがPDFを開いた。
途端、画面いっぱいに最終合格者の受験番号が列挙される。覗き込んでいた畑野もその情報量に眩暈を覚え、この番号一つ一つの背景に血反吐と苦悩が詰まっているのだろう、と、気を取り直して目を細めながら美術学部の日本画から篠宮の番号を探す。
少しだけ激しくなる動悸と共に、上から順番に番号を追っていく。ハチ、イチ、ニ、サン――違う、違う、違う。篠宮のそれと異なる番号が連続して、じわりと手汗を握る。けれども、自分より緊張して不安に思っている人物が居る以上、自分が緊張してどうするのだ、と、畑野は拳を握り締めて緊張を殺した。
そうして上から数字を追い続けた畑野は、ふと、見慣れた数字があったような気がして、視線を止める。緊張のままに流し見てしまったそれに視線を戻して、テーブルに置いてある受験番号と見比べながら数字を確かめた。ハチ、イチ、ニ――
「あ」
「え」
二人の声が重なった。思わず視線を合わせた後、揃ってもう一度画面を確認する。
何度確認しても間違いは無く、番号も変わらない。つまり、どういうことだ? 番号の確認に脳のリソースを割き過ぎた畑野は、どうして番号を確認しているかも忘れて、少し経ってから思い出す。そう、藝大の合否だ。そして、ここに番号があるということは。
「――ご、合格! 篠宮!」
畑野は篠宮を見る。しかし、彼女は、まるで実感が湧かないとでも言いたげな呆けた表情で畑野を見ていた。明らかに喜びの感情などというものは見当たらず、自分との感情の落差に畑野は驚き、思わず眉を寄せて尋ねる。
「合格……だけど、どした? 番号忘れた?」
畑野は彼女が心配になって、テーブルの上の番号を差し出そうとする。しかし、彼女は「あ、いや、番号は分かってます」と、先程の緊張が嘘のように恐ろしいほど落ち着いてそれを断った。そして、溜息のようなものを吐くが、微かに震えていた。
「番号は分かってますし、合格したことも分かりました。ただ……」
「うん」
「ただ……ん? あれ? 私合格したんですか?」
冷や汗を浮かべた篠宮は、強張った笑みと共に数秒前の言葉も忘れて尋ねてきた。明らかに正常でない彼女の様子に、畑野は慌てて彼女の肩を掴んで揺らす。
「だ、大丈夫か! 正気に戻りなさい!」
「しょ、正気!? 正気って何ですか!?」
二人して錯乱しながら哲学的命題に答えを求めること十数秒、ようやく実感が湧いた篠宮は、自分より狼狽えている畑野に焦点を合わせる。しばらく、見つめ合って沈黙して、それから、最後にもう一度だけ見間違いでないことを確認した篠宮は、呟く。
「合格……したんですよね?」
地に着かない足と、震える呼吸と、喉。揺れる瞳。現実とは乖離したどこかに不安定に浮かぶその身体を、思い切り叩き付けるように地面に下ろすべく、畑野は彼女の双眸を見据える。その感覚は知っている――受賞の連絡を受けた時のそれと、一緒だ。
「おめでとう」
実感は、その言葉の後に来るだろう。畑野が真っ直ぐに彼女を見詰めてその言葉を伝えると、篠宮は大きく息を吸い込んで、目を瞑り、吐き出す。
脱力したように背もたれに背を預けた篠宮は、顔を手で覆いながら口を開く。
「何年も……筆すら触ってなかったくせに、一年頑張っただけでギリギリ滑り込んで受かった。でも、周囲は二年浪人組と同じ目で見てくるはずです。藝大って現役合格率かなり低いんですけど、言い換えると、浪人組はそれだけ磨き上げる時間があったってことで、比較されると私の弱点とか欠点とか浮き彫りになるし……」
ぶつぶつと、思考の渦に浮かび上がってきた言葉を呟く篠宮。前まではどうすれば魅力的に見られるかという話し方をしていた彼女も、最近、畑野の前ではこうして自分の世界に没頭して言葉を紡ぐことが増えてきた。けれども畑野は、それが嬉しかった。
「お姉ちゃん――『楼海』は、美大にも行かずに活躍している。学ぶ段階に居る人間と実績を残している人間には天と地の差があります。私とお姉ちゃんの関係を知る人は絶対に居ると思いますし、そうなれば、いつかは比較される」
ふと、彼女は自身と姉を比較する。大きな目標と比べると、矮小な自分が嫌になる。今日ばかりはそんな退廃的な思考を止めるべきじゃないかと口を開きかける畑野だったが、篠宮はバッと背筋を正して、それから力強い眼差しで畑野を見た。
「――合格は、『楼海』の一歩先へ行くための、スタートラインです」
そう、ハッキリと断言した彼女に、一年前の弱さは見当たらなかった。それは寂しくもあったが、同時に、嬉しくもあった。あの頃の弱く怯える彼女は居らず、目の前に居るのは、一人の夢を追う芸術家だ。そして、その姿にはかつての自分が見える。
如何に大人気とは呼べないような作家であろうとも、こちらはプロ。対して彼女は学生だ。分野は違えど、依然としてこちらは芸術の世界では先輩な訳で――畑野はそう考えた後に、今の彼女にただの称賛は不要だと判断して、ニヤリと笑った。
「……生意気な」
「予備校の先生にも言われました」
不敵に笑って返す篠宮。
中々見る目のある先生に恵まれたようで、だからこうして無事に合格できたのだろうと、篠宮をよく見てくれた先生に感謝した。同時に、篠宮の努力を胸中で讃える。大学を中途退学し、予備校に通い、着彩のセンスを買ってくれた予備校教師の伝手でデザインの業務委託を請け、自身に掛かる費用を最低限自身で稼ぎながら、睡眠を削って。
その努力に、畑野は生意気を許してやることにした。
「寿司、肉、ピザ。どれがいい?」
「――お寿司!」
元気な返事に、畑野は笑みを返した。
共通の知人友人も招いて自宅で祝賀会を開こうという運びになったものの、ここ一年間、まともに人との交友関係を築いてこなかった篠宮は呼べる相手も居ないということで、そちらに関しては畑野に一任されることとなった。篠宮が寿司の宅配を取る中、畑野は彼女との共通の知人を少ない連絡先から探し、打診する。
数分も立たぬ内に三名から即決での参加の旨を頂戴した。
満足そうな表情を浮かべる畑野に、篠宮が尋ねる。
「どなたを呼んだんですか?」
「さて。来てからのお楽しみということで」
なんて意味深長な笑みを浮かべる畑野に、彼女は小首を傾げた。
そうして、人を招くためにあれやこれやと部屋の模様替えや片づけをしていると、あっという間に十二時を迎えた。そろそろ来賓のお客様方が来るのではないだろうかと考えた途端、それを待っていたかのように部屋のインターフォンが鳴らされた。
既に到着している寿司の前、ソファに座って来客を待っていた畑野は、その音に立ち上がる。同じく立ち上がって迎えに行こうとした篠宮を手で制し、「私が行くから」と、主役には座って待つように促す。
三名の内、とある人物にだけ少し早めに来るよう促しておいた。
遅刻をしていなければいいが。そんなことを思いながら覗き穴を確認した畑野は、その向こう側に居る人物が確かに時間通りに来たことに頬を緩め、鍵を開けた。
その人物は緊張した面持ちで会釈して足を踏み入れ、固唾を飲んでリビングに続く扉を見る。この怪物でさえこんな表情を見せるのだから、家族というものはそれほどまでに縁が深いものなのだろうと笑いつつ、畑野は奥を顎で示し、客を連れてリビングに戻った。
「あ、いらっしゃ――」
戻ると、篠宮が立って来客を迎え入れようとする。しかし、畑野の後に続いて緊張の面持ちで入ってきたその人物を見て、目を見開き絶句する。
「……お姉ちゃん」
夜空のように真っ黒で艶やかな黒髪と、篠宮にそっくりな顔立ち。
畑野が他二名と時間をずらして招いたのは、彼女の実姉である楼海だった。
驚き、茫然と呟く篠宮に対して、楼海は酷く強張った表情で揺れる瞳を返した。
「お……お邪魔、します」
数秒、部屋に沈黙が訪れる。固唾を飲む音が聞こえた。
二人を引き合わせた畑野は、しかしその沈黙を取りなすことはしない。今まで篠宮や楼海と積み重ねてきた時間こそがその関係を取りなすものであり、ここから先は、二人で歩み寄っていくべきだと静観しつつ考える。
数年前、事実上の家族との絶縁からコンタクトすら取っていなかった篠宮は、突如の邂逅にどう接していいのか分からない様子で戸惑い、畑野に助けを求めるような視線を向けてくる。同時に、楼海も話の糸口を求めるような視線を向けてくるが、畑野は素知らぬ顔でスマートフォンを取り出し、「あ」とわざとらしい声を上げた。
「他の二人が迷ってるみたいだから案内してくるわ。適当に話してて」
「え、いやっ――! ちょっ」
すっとぼけたことを抜かす畑野に、楼海が顔色を変えて縋るような声を上げ、篠宮も冷や汗と共に「私が行きますよ!」なんて逃避を試みようとするが、畑野はそれに頷かない。かつては確かに確執を持った姉妹だったが、今の二人を引き剥がしているのはその残滓に過ぎない。もう、大丈夫だろう。
畑野は意地の悪い笑みを浮かべながら軽く手を振り、二人の制止も構わずに部屋を出た。
「主役は座って待ってなさい。それじゃ、行ってくる」
そう告げるや否や、他に言葉を交わす間もなく畑野は部屋を出ていく。
取り残された篠宮と楼海は、押し黙ったまま彼女が去った扉を眺め、示し合わせたように顔を合わせる。「あ」「その」と言葉が重なって、譲り合うように同時に黙る。再び数秒の沈黙が訪れた後、楼海は落ち着きなく部屋を見回しながら口を開いた。
「ご、合格……おめでとうございます」
彼女から切り出して来たことに怯みつつ、固唾を飲んでから返した。
「あ、う、うん……ありがとう」
恐る恐る、丁寧な所作と口調で篠宮の合格を祝す楼海だったが、かつての彼女はフレンドリーに話しかけてきていただろうと、篠宮は疑念を抱く。しかし、考えるまでもなく、その他人行儀が他人のように過ごした数年間に由来すると察した篠宮は、形容しがたい感情と表情で、楼海を見た。彼女は酷く緊張していて、そんな彼女の姿は初めて見たような気がした。
彼女のことは嫌いではない。昔から今までずっと味方をしてくれている人物で、寧ろ好意的には思っている。今日だって、さっき連絡したばかりなのにすぐに駆け付けてきて、こうして合格を祝ってくれているのだから。
しかし、彼女は篠宮にとってコンプレックスの象徴だ。己の持ち得なかったものを持って生まれ、家族の関心や愛情を一身に浴びて育ち、その癖、畑野を除く誰よりも篠宮に優しく、篠宮を愛していた。篠宮はそんな彼女とどう接すればいいのか分からなくて、そして、そんな篠宮の感情を察して、楼海も距離を置いてくれていた。
過ぎたる歳月が、ここまで距離を開けていた。
「取り敢えず……座ってよ」
「……はい」
篠宮は彼女にソファを示し、楼海は頷いてそこに腰掛ける。珈琲でも振る舞おうかとも思ったがそんな作業をする気にもなれず、同じソファの少し離れた位置に座った。
それから、しばらくの沈黙が二人の間に流れる。何を言えばいいのか、どう口を開けばいいのかも分からないまま無為な時間が続く。楼海は落ち着かない様子で部屋を見回し、時折篠宮の方を見ては、彼女の視線が自身を向いていないことを確認して肩を落とす。そんな篠宮は、彼女にどのような顔で向き合えばいいか分からず、窓の方を眺めたままずっと押し黙っている。
その思い詰めたような篠宮の表情を見て、楼海は固唾を飲んだ後に切り出す。
「ずっと……後悔をしていました」
言葉に、篠宮は彼女を見た。互いの瞳が不安に揺れていた。
「貴女がその筆を折って、逃げるように一人暮らしを始めたのは私達家族が原因です。特に、私が……貴女に向けられるはずだった愛情も、関心も、興味も、称賛も、全て奪い取って、その癖に恨まれたくないと思いながら貴女に良い顔をしていました」
楼海は酷く思い詰めたような表情でそう語る。声が少しだけ震えていて、篠宮は目を見開く。何事も平然とこなしてみせる類稀な才覚が、まさかこんな表情を覗かせるとは思っておらず、それとどう向き合えばいいかも分からない。
「だから、私はすぐに筆を捨てるべきだった」
酷い悔恨の宿る声で絞り出す楼海に、篠宮は動揺を隠さない。『それは違う』と否定をしようと口を開きかけるも、それに先んじて楼海が言葉を続けた。
「……そう思っていたから、貴女が再び絵の道に進んだことを畑野さんから聞いた時、私はとても嬉しかったんです」
ほんの少しだけ、昔に浮かべていたような優しい笑みを表情に見せた楼海。その笑み越しにかつての彼女を思い出した篠宮は、動揺に大きく瞳を揺らす。膝上で拳を握り締め、数年ぶりに聞く姉の言葉に、静かに耳を傾け続けた。
「罪悪感から解放されたという浅ましい感情もありました。でも、それ以上に――貴女が雑音に負けずに立ち上がって、自分の道を見据えてくれたことが、姉として誇らしく、嬉しかった。私と同じ道とか、絵とか、そんなことはどうでもよくて……貴女の望む道が、貴女の目の前に敷かれているだけで私は安心できます」
「素敵なパートナーも居るようですから」と、楼海は畑野が去って行った方を見て目を細める。そこまで知っていることに気恥ずかしさを覚えるが、それよりも、目の前に居る彼女が姉として自分の幸せを願ってくれているという事実を噛み締め、篠宮は目頭が熱くなっていくのを知覚する。何か、想いを伝えたくて、けれども言葉は出ない。
そんな篠宮に、楼海は優しく笑った。
「藝大の合格、おめでとうございます。あそこにはとても独創的な教員や生徒が集いますから、そこでの経験はきっと、大きな糧になります」
言葉が出なかった。声を紡ぎ出そうとすれば、喉が震えてその邪魔をした。
何故だか、泣いてしまいそうだった。
合格した時も、畑野に労われた時でさえ、前を向いて歩くことに執心して、ただ、姉の背を追いかけることに精一杯で。泣いている心の余裕もそれだけの動機も無かったのに、彼女の労いで涙が浮かぶのは、きっと、今、彼女の感情を知ったから。
楼海は穏やかな笑みを浮かべたまま、静かに腰を浮かせた。
「今日は……急に来てしまってごめんなさい。私はこれで失礼します」
寂しさを顔に浮かべず、柔らかな表情のまま退室しようと出口に足を向ける楼海。彼女を呼び止めようかとも思ったが、それでも、どんな言葉を掛ければいいのか分からなかった。
分からなかったけれども、篠宮は言葉も出さずに立ち上がる。
そして、彼女の腕を掴んで止めた。
驚いたように振り返る楼海と、戸惑いを表情に浮かべた篠宮の視線が交わる。
数秒の沈黙が訪れ、困惑する楼海の表情を見詰めながら篠宮は思考を巡らせる。どうして彼女を引き留めたのか――当然だ、彼女が帰るべき道理なんて無いのだから。では、何故彼女は去ろうとしているのか。それは、自分が彼女の存在を好ましく思っていないと誤解しているから。正確には、自分がそう誤解させてしまっているから。誤解を解かなければいけないのに、しかし、彼女にどのような言葉を伝えればいいのか、どうすればいいのか分からなかった。正しい家族との接し方や言葉の交わし方を誰も教えてくれなかったから、篠宮は何もわからず、声にならない言葉を幾度か頭の中で繰り返す。
しかし、それでは駄目だろうと頭の中の誰かが叱責してきた。
畑野はどうして自分達を置いて出ていったのか。二人きりにさせようとしてきたのか。それはきっと、『それで問題ない』と彼女が判断したからだ。期待に応えようなんて気概は自分の中には存在しなかったが、しかし、自分なら大丈夫だという鼓舞に繋がった。
それでも依然として彼女に何を伝えればいいのかは分からない。
今までの謝罪を伝えればいいのだろうか。蟠りに対する感情を吐露すればいいのか――いや、違うはずだ。彼女が望んでいることも、自分が心の内側に抱いていることもそうじゃないだろう。畑野のように感情を言語化することが得意ではないから、誤解をさせてしまうかもしれない。けれども、何も伝えないなんてことはできなくて、篠宮は感情の突き動かすままに、心の内側にある感情を愚直に言葉にした。
「――ずっと、見守ってくれてありがとう。お姉ちゃん」
その言葉だけは、震えなかった。
楼海が思わず目を見開き、言葉を失って口を閉ざす。茫然と篠宮を見詰め、告げられた言葉の処理に時間を食う中、篠宮は拙い言葉を懸命に紡ぐ。
「私にとってお姉ちゃんは、私なんかよりずっと才能があって、家族に愛されていて、羨ましくて妬ましい凄い人で――私を理解してくれる家族だった。私はお姉ちゃんに甘えればいいのか、張り合えばいいのか……どう向き合うのが正しいのか分からなくて、でも、優しくされればされるだけ自分が惨めに思えて、遠ざけてたんだ」
あの時の畑野の言葉がよく分かった。自分のことは自分がいちばんよく理解している、なんて語る人は居るけれども、自分の感情ほどよく分からないものは存在しないだろう。それでも、漠然と感じていた感情を醜い言葉で懸命に紡いだ。
「だから、お姉ちゃんが悪い訳じゃないよ。全部、私が――馬鹿で、臆病で、弱かっただけなんだ。だけど、今はもう大丈夫。お姉ちゃんの思いを理解できるし、自分の思いも伝えられる。私はもう……大丈夫だよ。大丈夫なんだ」
繰り返して何度も大丈夫だと伝える。かつての自分は外的要因に折れ、結果、退廃的に生きていた。だけど、変わることができた。向けられる愛情も、差し出される手も、歪曲せずに受け取ることができる。歪な手段で心を満たしていた頃の自分はもう、ここには居ない。
拙くも、想いを込めて何度も言葉を紡いで、どうにか自分の感情を届けようと四苦八苦する。そんな篠宮の様子を沈黙して眺めていた楼海は、ほんの少し顔を歪めて、涙を堪えるべく唇を噛む。目尻に玉粒の涙を浮かばせ、けれども妹の前では泣かないように気丈で居続ける。まるで鏡のように、篠宮もほんの少しだけ涙に瞳を濡らし、鼻をすすって言葉を続けた。
「お姉ちゃんにとって私は、まだ幼くて未熟で、見守って手を貸さないとどうしようもないような妹かもしれないけど、私は――いつか『楼海の妹』じゃなくて、『篠宮奈々』として世に絵を送り出すから。そのために、藝大に入ったんだ。だから、もう、勝手に比べて勝手に落ち込んだりなんてしないから……!」
声が掠れて震えていく。涙が零れ落ちないように俯き、呼吸を整える。対面する楼海は、ポツポツと落ちた涙も構わず、静かに篠宮を見詰め続けた。そんな楼海に、篠宮は手の甲で目尻を擦りながら、想いの丈を愚直に打ち明けた。
「……また、昔みたいにお話をしてほしい」
楼海の目尻に、ひと際大きな涙の粒が浮かぶ。
敬語を使ったり、気を遣って距離を置いたり。そんな他人行儀ではなく、昔のように接したい。拙くて遠回りになってしまったが、ちゃんと伝わっただろうか。
楼海は小さな嗚咽を殺して、篠宮と同様に目の端の涙を拭う。それでも際限なく溢れてくるものを手の腹で拭いながら、嗚咽の宿るくぐもった声で応じた。
「うん」
――途端、篠宮は小さな子供のように姉に駆け寄り、力強く抱き着いた。
楼海は彼女の華奢な体躯を抱き締め、嗚咽をこぼす。
何年の歳月が空いて、背丈は昔に比べてずっと大きくなった。けれども今、この瞬間、この場所においてだけは、二人は絵に夢を見ていた幼少の頃に戻っていた。一つの筆が折れて止まってしまった時間は、今、ようやく、少しずつ動き出した。
「――げ」
「『げ』とは何だ、こっちは客人だぞ」
「そうだぞ」
アパートの一室の前でポケットに手を突っ込んで壁に背を預け、二人が和解する頃合いを見計らっていた畑野。そんな畑野のもとを訪れたのは、駅から迷わずここまで到着した新藤と志島だった。銀行員と現役作家の組み合わせを見た畑野は思わずうめき声を上げてしまい、そんな反応に、二人は抗議の意を示して見せた。
「や、悪い。それにしても早いわね、指定した時間まで大分あるけど」
畑野は軽く詫びつつスマートフォンを取り出して時間を確認すると、約束の時間まで三十分も余っていた。楼海だけ少し早く到着させて、二人には敢えて遅い時間を伝え、その隙に篠宮と和解させるという計画がご破算になりかけている。困りながら告げると、新藤は腕時計を叩いて見せた。
「時間前行動は社会人の基本だろ」
「先方都合も考えなさいよ」
ばっさりとツッコミを入れると、酒や菓子の入ったビニール袋を片手に新藤はクツクツと笑う。「俺は止めたぞ」と、志島はその傍らで苦笑交じりに肩を竦めた。
一年前、新藤や志島には何かと世話になった。篠宮の中途退学以降もそれなりの接点があり、相談に乗ってもらうことも多かった。少なくとも、今回の合格に関して蚊帳の外に置いていい人物ではないと判断して招いたのだが、今家に入られるのは少しだけ困る。
「まあ……時間前に来るのは結構な事だけど、ごめん。もう少しだけ待ってもらっていいかしら。寒い中に申し訳ないけど、私達に聞いてほしくない会話もあるだろうから」
畑野が扉の方を一瞥してそう告げると、二人は怪訝そうな表情を覗かせた。
しかし、今日の参加者については既に伝えてある。頭の回る二人はすぐに得心したような表情を覗かせ、一人は軽い調子の笑みを浮かべ、もう一人は穏やかに笑った。「ああ、なるほど」と呟きながら、新藤は通行人の邪魔にならない辺りで廊下に背を預け、コートのポケットに両手を突っ込んだ。彼にとっては想い人とその妹の再会で、邪魔をする気にもなれないのだろう。そして、そんな彼と幼馴染の志島もまた、素直にそれを受け入れた。
小さな、小さな声が晩冬の冷気に混じって舞う。
「大丈夫だろうか」
「……大丈夫でしょ。もう、前を向いている」
心配をする志島に、畑野は風に揺れる木々を仰ぎ見ながら返す。
青く澄んだ空を背景に、鮮やかに映える木々がとても美しかった。そんな畑野の視線の先を辿った志島は、返答を疑わず、巻いたマフラーを少しだけ緩めて笑った。
「そうか。よかった」
志島の囁くような声に、それを隣で聞いていた新藤も笑みをこぼす。そうして一瞥する扉の向こう、久闊を叙する姉妹に想いを馳せつつ、新藤は志島の言葉に賛同を示した。
「まったくだ」
アパートの廊下から覗く鮮やかな青空と、晩冬に新芽を宿す木々。水彩画にしたらとても映えそうだ、なんて思いながら、畑野は余寒を噛み締めて時間を潰した。
サークルの姫を抱いてしまった女の話 4kaえんぴつ @touka_yoru
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