第18話
ただいま、と言うことすらなくなった。
帰路を辿り終えて自宅に着いた篠宮は、鍵をかけた後ろ手をそのまま壁に這わせて、真っ暗な玄関に橙色の照明を灯す。玄関からの心安らぐような暖色の明かりが差し込むリビングや寝室は、仄かな明かりによって、余計に暗さを際立たせている。篠宮は玄関にしばらく呆然と立ち尽くしたまま、無為に時間を浪費する。悩みが行動を抑止する癖に、がんじがらめの思考が思考の前進を許さない。結果、無駄な時間だけが流れる。
一分ほど虚無の時間を過ぎた篠宮は、惰性のまま靴を脱いで上がる。照明を点けることもなくリビングのソファに荷物を置いた後、そのままソファに腰を落とそうとして――ふと、棚の上に置かれていた二つの提灯を見た。暗い部屋で静かに佇むそれをしばらくぼんやり眺めた篠宮は、背伸びをして棚の上から提灯を取る。
『しのみや』と描かれた、畑野が作ってくれた物だ。
ソファにどさりと腰を落として、提灯の底にあるスイッチを入れる。LED式の近代的な提灯は、途端にぼんやりと淡い暖色の明かりでリビングを照らした。目を細めてしまうような柔らかい光を見詰め、篠宮はその提灯をコト、とテーブルに置く。
蝋燭のような不安定に明滅する趣は無いが、このまま眠ってしまって構わないのだという心地よさがあった。
ソファの上で膝を抱えて座り直し、その不器用な提灯を見詰める。達筆な文字と、あまり上手じゃない絵。猫やカエル、星、ハート、小学生の落書きのようなものの群れ。不格好にデフォルメされたカエルの絵には吹き出しが付けられており、小さく『カエル』と書かれている。ケロ、でもゲコ、でもなく、カエルだ。思わずクスリと笑ってしまいながら、仄かな明かりの向こう側に日々を思い出す。
もし、あの日に筆を握ることができなくても、罪悪感を抱くことが無いように。そんな意図を込めて彼女はこんな絵を描いたと語り、すぐにそれを嘘だと撤回した。彼女はうそつきだけれどもお人好しだから、本心がどうなのかは分からない。しかし、結局、畑野は楼海と陰で繋がっていて、もしかしたらとても上手な絵を隠すための嘘だったのかもしれない。そんな疑念を持った途端、篠宮は自己嫌悪に苛まれ、唇を噛む。
ふと、目尻から熱いものが頬を伝う。濡れた感覚に雨漏りを疑って天井を見上げた篠宮は、少し遅れてその正体が涙だと気付き、指でそれを拭った。意識を切り替えようと、目の前の提灯から視線を逃がした篠宮は、ふと、書架の中段に目を止める。
たった一枚の画用紙に描かれた絵を挟んでいたその書架は、大切なものを『大切なもの』として保管する場を設けない篠宮が、それでも特別に保管しておきたいと考えたものが書物の隙間に煩雑に詰め込まれている。幼少期、絵を描いていた時代のものから現在まで多種多様だが、その中で最も真新しい紙片が目に留まった。
ふらふらと、引き寄せられるようにそちらへ向かった篠宮は、本の隙間に挟んでおいた紙片を抜き取る。それは、つい先日に畑野と向かった水族館のチケットだった。
最初、演劇サークルとこの水族館を訪れた日、時間帯、メンバー、心残りを除く思い出の殆どを覚えておらず、チケットなんて今はもう、最終処分場に埋められているだろう。それなのにどうして、彼女との思い出をこうして残そうと考えたのだろうか。
『私も何かを作って届ける側の人間だから、アンタの抱えている苦悩は少しでも理解できるつもり。言いたくないなら聞かないけど、もし吐き出して楽になれることがあるなら、私が聞く』――そんな風に言ってくれた人が、今まで居ただろうか。それも、自分から何か伝えたわけでもなく、自覚すらしていない、ただ、心の奥底に溜まっていた膿に気付いてくれたのだ。劣情や悪感情でも、侮蔑でも血筋による因縁でもない、ただ純然な親愛の感情が何よりも心地よかったのだろう。
ぼんやりと、篠宮は立ち尽くしてチケットを眺める。
眺める間、彼女と積み重ねてきた時間を際限なく思い出す。彼女の言葉や瞳、息遣い、声、感触。心。思い返す度に目頭が熱くなっていく。色々な時間を過ごしてきた。よく覚えてもいない行為に始まって、フードトラックを経て水族館に行き、美術館を巡って、居酒屋で再会してから、同じ寝室で夜を明かし、一緒に絵付けを楽しんだ。誰かをこんなに好きになった経験が無かったから、胸に空いた穴とどう向き合っていいかも分からず、求める心をどう抑えればいいかも知らなかった。強く唇を噛むけれども、目尻に涙の粒が生まれる。『今日、楽しかった?』という問いと、頷いた自分に、嬉しそうに『そっか』と笑ってくれた彼女の笑顔。それらを思い出した途端、小さな玉粒の涙が床に落ちた。
袖で涙を拭って、大切なチケットを濡らしてしまわないように書架に挟み込む。焼き付いて離れない彼女の声と言葉を脳裏に幾度も反芻させながら、果ての無い感情をどうにか終わらせるべく、今は全てを忘れるために寝てしまおうと、篠宮はソファに掛けておいたブランケットを広げる。――その時、棚の上の提灯が目に留まる。
それは、思い出を投影した作品だ。陰で佇む自作の提灯には、焦がれるほど愛おしい彼女との思い出が描かれており、写実性の中に、僅かながら『自分』が見えた。『アンタの絵――私も見てみたかったわ』という、惜しむような畑野の言葉を思い出した篠宮は、すすり泣きながら、濡れ腫らした瞳でしばらく提灯を眺める。
やがて、力任せに袖で涙を拭うと、何かに突き動かされるように、リビングの端に置いてあったイーゼルを組み立てる。幼少期、絵に理想や憧れを抱いていた頃と、挫折して筆を折った頃、そして堕落した生活に溺れていた日と、ほんの少しだけ変わることができた、畑野の隣に居た頃の自分が、今の自身の背中を押していた。
涙は止まらなかったけれども、画材を用意する手も止まらなかった。
組み立てたイーゼルに、かつて絵を描けなかった古いキャンバスを乗せる。玄関から差し込むほんのりと明るい橙の照明と、窓の外から差し込む天体の灯、そして眩い人工灯の数々。暗い室内に正しい色彩も分からず、ぼやけた視界は自身の描いた輪郭線も曖昧に捉える。そんな不都合な条件に言い訳する気にもなれず、最後に一度、ぐいと袖で涙を拭って、鼻をすする。キャスター付きのテーブルを脇に、組み立て式の椅子に座す。篠宮は己の目に映る、微かな赤と、広がる黒と、そして憎いくらい鮮やかに世界を彩る群青を再現するために、筆を取った。下書きなどせず、失敗さえ微塵も恐れず。
固まった透明水彩の絵の具を水で溶かし、ぼやけた視界いっぱいに広がる自宅の一室と、窓に映る景色の色を作り出す。そうして筆に色を取った篠宮は、キャンバスに筆先を近づける。かつて、怖くて仕方が無いと断念した。才能の差を痛感し、厳しい罵声や侮蔑の言葉、失望や不満を吐きかけられ、キャンバスに絵を描く行為が怖くなった。
しかし今は、不思議と恐れるものはなかった。棚の上の提灯が、そこに描かれた思い出が篠宮の背中を押し、その筆先に宿るような気配がする。積み重ねてきた時間に突き動かされるように、篠宮は一息に筆をキャンバスへ滑らせる。
――キャンバスと、心が重なった。色が、満を持して乗る。
五年の歳月を経て、古びたキャンバスにようやく色が芽生えた。
この薄暗い部屋では正しい色は認識できず、この古い布地は正しく発色してくれるかも分からない。けれども、確かに自分の作り出した色がキャンバスに乗ったのだ。
五年、あまりにも長い時間を費やして、ようやく一歩を踏み出せたような気がした。けれどもそんな感傷に浸る間もなく、篠宮は一心不乱に、今この目に映る情景と抱く心を色に含ませ、キャンバスに乗せていく。水に溶けた絵の具が様々な色を以て己の心を表現し、滲んだ瞳に映る景色を再現する。
今まで、何の為に筆を握ればいいのか分からなかった。怖くて、嫌で、そんな風に思うものとどうしてわざわざ向き合わなければいけないのかを知らなかった。辛いだけなら向き合いたくなんてないし、誰も褒めてくれないなら苦行を耐え忍ぶ活力も湧かない。
そう思っていたのに、今はただ、たった一人に見てほしいというだけの気持ちが筆を動かした。この世に生を享けて二十年、初めての感情だった。
秒針がグルグルと時計を周り巡る。分針が微かに遅れて追従し、時針が歩を刻む。景色と感情に溺れるような感覚の中で、命を燃やしてキャンバスに心血を注ぎこむ。
そうして二時間が経過した頃、止まることを知らなかった篠宮の筆が、ようやく静止する。絵に没頭していた篠宮は、我に返ったように腫らした瞳を見開く。指先に絵の具を付着させた手の甲で目尻を拭って、微かに鼻をすすりながらキャンバスを俯瞰した。
理性と感情の狭間に揺れた晩、借家の一室で窓越しに見た夜景。
淡く涙に滲むその一枚はあまりにも物悲しく、そして、同時に己が二十年の生涯において比肩するもの無き大作と自負した。篠宮は握っていた筆を布巾の上に置いて数秒、胸に大きく空いた穴が際立っていくのを感じる。
因縁を乗り越え、妄執を振り払い、ようやく進んだ一歩だ。しかし、苦渋や辛酸と共に踏み抜いた一歩は絵を描きたいから刻んだ歩幅ではない。出来の良し悪し、好きとか嫌いとか良いとか悪いとか得意とか苦手とか、そんなことはどうでもよかった。
篠宮は目尻にじわりと滲んだ涙を拭って、唇を噛み締める。
ただ一言、誰かに。或いは彼女に言ってほしかったのだ。けれども、それが耳に届くことは無いのだろう、と、渇望するその言葉を胸に、画材を片付けようと篠宮が手を動かした時だ。ふと、玄関の方から誰かの声がした。
「――やっぱり絵、上手いわね」
心が揺れるような、大切な人の声に、篠宮は声を失いながらそちらを見る。
橙色の淡い照明が灯る玄関。冬の冷気に頬や鼻先を紅潮させた『彼女』が居た。自分が何よりも欲していた言葉を、まるで心を汲み取ったかのように優しく紡いでくれた彼女を見て、篠宮は思考が錆びて鈍るのを知覚する。どうして彼女が、ここに居るのだ。
「……どう、して」
茫然と問い掛ける。泣きたくなるような邂逅で驚きたくなるような遭遇だが、何よりも先に訪れたのは、居るはずの無い彼女がここに居ることへの疑問だった。しかし、尋ねた直後、篠宮は彼女の言葉を思い出す。『また、来るから』と。
彼女は――畑野は、片手をポケットに突っ込んだまま、もう片方の手で何やら銀色に光るものを持ち上げて揺らす。少し疲れたような表情で、微かに荒い呼吸のまま彼女は笑った。かつて篠宮が渡した合鍵を確かに示して「不法侵入」と冗談めかして呟く。
その手にあるものが自身の差し出した鍵だと視認した篠宮は、彼女がそれを用いて部屋に入ってきたことを理解する。だが、手段は理解しても動機は分からなかった。どうして、あんな風に一方的に突き放したのに、彼女がここに居るのか。
「悪い。勝手に入って」
畑野は優しい表情で詫びながらリビングに踏み入ってくる。言いたいことや聞きたいことや、見せたいものが頭の中で煩雑に入り乱れた篠宮は、混線した糸のような感情で理性的な言葉も紡げず、ただ「せんぱい」と、感情が促すままに彼女を呼んだ。
篠宮の目の前に立った畑野は、真剣な、それでいて優しい表情で篠宮を見詰める。かと思えば、その両手を篠宮の頬に伸ばし、硬直する彼女の柔らかい頬をぐにぐにと弄る。行動の意図が読めずに戸惑い、疑問符を浮かべる篠宮に、畑野は小さく息を吸い込んでから言葉を紡いだ。
「アンタに隠し事をしていた。先の行動で私に対する信頼は既に失われたと思っているし、アンタの問いに対する返答を持っていなかったせいで、不安にさせて傷付けた。色々と言わなければいけないことがあると思うけど、でも、先ずは聞きたい」
ただ愚直に、真っ直ぐな感情を篠宮に示す畑野。篠宮は真っ直ぐ揺るがず、吸い込まれるような深く力強い黒瞳から目を離せない。複雑に絡まった感情の糸がやさしくほどかれていく感覚に、篠宮は目頭が熱くなっていくのを知覚する。そんな篠宮に、畑野は篠宮の頬を挟む手に力を込め、強い眼差しと共に問う。
「――この私が! 人に言われただけで動く人間だと思う?」
『畑野』という人間は、とても変な人だった。
大学でも屈指の有名人だった志島を追って入った文芸同好会は、案の定、まともな活動をしていない仲良しサークルだった。その構成メンバーの殆どが短期的欲求を満たすために好きに生きる中、志島と同様に小説に打ち込み、しかし、彼のようには実績を残せなかったはみ出し者が居た。社交性が無いわけでも、友人が極めて少ない訳でもないものの、人の意見に流されることはなく、自分が決めた生き方を選んでいるのだろうと思わされる『変な人』だった。
畑野に対してそれ以上の感情は無かった。強いて挙げるなら、劣情や悪感情は向けてこない彼女を自身の最も苦手とする人間だと認識して、同時に、彼女からのささやかな軽蔑に近い感情を知覚していた。誰彼、男女を問わずに身体を許して承認欲求を満たそうとする生き方を嫌悪しているのだろうと、彼女を高潔な人間としてカテゴライズした。
転機は、晩秋の飲み会だった。公募の作品を無事に書き上げた達成感からか、珍しく飲み会に参加した彼女が、驚くべきことに泥酔した自分を寝泊まりさせてくれたのだ。その晩に起きた出来事を互いに正しくは知らないが、それを機に彼女との縁を結び、彼女と様々な時間を過ごした。彼女は――何かできることは無いかと考えて自分を呼び、未練の残る水族館に一緒に行こうと提案してくれた。楼海のパトロンに自分を友人と名乗り、体調不良と聞いて迎えに来てくれて、寂しさを紛らわせてくれて、前を向いて歩き出せるように、手を引いてくれた。
それらは全て、楼海の差し金だった。そう思っていた。
畑野は彼女から言われたから動いているのだと、そう考えていた。だが、本当に? 彼女の問いに、心が思わず後退りをして、狭くなっていた視野が少しだけ広がる。
ほんの数か月前までなら、迷うことなく楼海の差し金だと彼女を拒んだだろう。
だが、畑野というお人好しを知った今も尚、本当にそれだけだと切り捨てられるだろうか。何度も見てきたのではないか、目の前の人が、自分自身の意に沿わない行動は決してしない、信念を持った人間だと。もしも万が一に楼海から何かを言われていたとしても、それはたぶん、姉と彼女の意向が合致しているから彼女は動いているだろう。
そんなに器用な人でないことも知っている。
だから、自分が惹かれたこの人の行動は、疑うようなものではない。
疑ってはいけないものだった。
瞼に、水が溜まっていく。熱を帯びた瞳が、熱いものをこぼす。久しぶりだと思ってしまうような、渇望した再会に情けない顔を見せたくなくて、拳を握り、唇を噛み締め、懸命に涙を堪えて彼女を見詰め、謝罪を口にしようとする。しかし、ほどけた緊張が再び気張ることを許さず、篠宮は小さな嗚咽をこぼす。震える唇を何度か噛むも、涙は消えなくて、震える喉と肺で呼吸を繰り返す。ぐい、と手の腹で涙を拭った。
畑野が自分のために行動してくれるのは、彼女が自分の味方だからと勝手に思い込んだ。だから、彼女が楼海との繋がりを隠していたと知った時、彼女が味方だから助けてくれた訳ではないのだと、傷付き、身勝手に誤解した。
彼女が姉との繋がりを隠していたのは本当だ。彼女が、どうして自分を助けてくれるのかを語らなかったのも本当だ。しかし、誰かに言われて意に沿わない行動をしていると思ったのなら、それは大きな間違いだ。――彼女は、自分を見てくれている。
そう理解して、篠宮は彼女に詫びた。
「ごめん、なさい……!」
途端、嗚咽に震える華奢な体躯を畑野が優しく抱き締める。
そして、穏やかに笑いながら、軽くその背を叩いた。
「ん。こっちこそ、不安にさせてごめんね」
「落ち着いた?」
嗚咽が収まった頃合いを見計らって、畑野は自分の胸元に顔を埋める篠宮に尋ねた。ソファに座して泣きじゃくる篠宮を受け止めること数分、ようやく、声が収まってくる。
夜景から差し込む明かりだけが仄かに照らす室内にもようやく目が慣れてきて、畑野は彼女に視線を落とす。抱き着いたまま何も言わない彼女は、少し鼻をすすった後に抱き着く手をいっそう強めて、額をグリグリと押し付けてくる。「こらこら」と笑いながら彼女の背中を撫でれば、彼女はようやく身体を離し、目尻の涙を拭った。
それから畑野の隣に座り直して、その肩に頭を預けた。
「……なんで、来てくれたんですか」
「アンタが泣いていると思ったから」
問いに軽口を叩く畑野に、篠宮は少しだけ不満げな表情を覗かせる。しかし、求めている通りの回答でなくとも、それが心地の良いものだったから「泣いてよかったです」と、自分の瞳の端を拭った。
それから、畑野は篠宮の腰に手を回してその体躯を抱き寄せながら、彼女が古びたキャンバスに描いた絵を一瞥する。微かに滲む夜景――見惚れるような一枚を噛み締めるように見詰め、目を閉じ、少しだけ笑った。それから、自身のスマートフォンを取り出す。
「……改めて弁明するけど、楼海と接触したのはアンタと知り合った後。美術館に行ったでしょ? 彼女があの時、パトロン経由で私達のことを聞きつけ、駅で待ち伏せをした。アンタを送った後、バーに招かれた」
そう言いながら、畑野は楼海との連絡のやり取りを画面に表示する。プライベートなものを見せるのは憚られるが、隠し事に関しては共犯と言った。互いの問題は互いで解決しようと約束したのだから、この件に関しては事後承諾を得よう。
篠宮は畑野が差し出したスマートフォンを受け取った。柔らかく小さな、絵の具の付着した指で絵の具を付けてしまわないように慎重にスクロールをして、メッセージ履歴を遡っていき、最上段のメッセージ送信日が、一緒に美術館を訪れた日、日付が変わった直後だということを確認した篠宮は、それを畑野に返す。
「もっと……話を聞くべきでした。勝手に傷付いて逃げて、本当にごめんなさい」
酷い悔恨に支配された篠宮の言葉に、畑野はため息をこぼす。ゴン、と自身の肩に頭を預ける彼女に、側頭部で頭突きをした。
「こっちこそ、ちゃんと話をできなくて、あと黙っていてごめん」
「でも……それは、先輩が私を思ってしてくださったことじゃないですか」
「――うん。だから、これはどっちが悪いとかの話じゃないと思う。今度はちゃんと話すから、今度はちゃんと聞いてほしい。私は、身勝手に裏切ったりしないから」
しばらく返答は無かったが、その間、彼女がその言葉を肝に銘じていることは聞かずとも分かった。数秒の後、彼女は重々しく頷いた。
「約束します」
その言葉を聞いた畑野は、微かに笑って頷き返した。
彼女は酷く不安定だった。楼海や絵の件で少しずつ変化し、今までの生き方を否定し始めた頃の出来事で、だからこそ、ここまで酷く揺れた。しかし、真っ直ぐに向けられたその目を見る限りでは、もう心配は要らないのだろう。畑野は彼女の描いた作品も一瞥し、今の彼女をそう評した。
「それと……もう一つ話さなければいけないことがある。どうして私が、アンタに優しくするのかという質問の返答」
そちらを差し置いて円満な和解とするのであれば、彼女を不安にさせたこの数日は酷く無意味だったことになる。この話にも結論を出さなければならないだろうと切り出すと、その覚悟が伝わったようで、篠宮も真剣な表情で佇まいを直した。
「色んな奴に相談しながら色々と考えた。私は――正直なところ、あまり深く考えずに行動をしていた。理屈よりも感情を優先して、『そうするべき』と思ったらそれに従った。誰を傷付ける訳でもないなら構わないだろうと思っていた矢先、結局、アンタを不安にさせた。無償の慈悲を差し出す側の気持ちよさに浸って、受け取る側の気持ちを考えていなかったのよ」
謝意を言葉に含むと、篠宮は物言いたげな表情を見せた。
「違います。私が、勝手に不安になりました」
「人と人との繋がりで『関係』というものが構築されている以上、不安は自給自足できるものじゃないでしょ。関係に由来する感情は、何らかの行動に起因する。どんな形にせよ、今後もアンタと関係を構築していくなら、後顧の憂いは断っておきたい」
自身の思いも込めて語ると、篠宮は反論の余地を見いだせなかったようで肩を落とす。彼女が自分を決して悪者にしないよう振舞ってくれていることが見え透けているから、畑野は嬉しくなって、彼女のそういうところに惹かれているのだろうな、と笑う。
「私は――」
畑野は微かに笑いながら、そう切り出した。
「私は、悔しいんだと思う」
静かに紡がれた畑野の言葉に、篠宮は驚いたように目を丸くする。
志島に伝えられた、『好きな人に自分の好きなものを嫌いでいてほしくない』という本音を、自分なりにかみ砕いて解釈して、その結果に導き出した答えは、それだった。篠宮はその答えの真意を図りかねるように戸惑いを口にする。
「悔しい……ですか?」
「ええ。志島のようにプロじゃないから、どの口で抜かすのかと言われるかもしれないけど……夢を見ることの苦痛と懸ける想いはよく知っている。だから、頑張っている奴が報われないことが、私には我慢ならなかった」
ぼんやりと、過去の己を眺めるように夜景の映る窓を見る。ほんの少しだけ反射した己の顔は、何かを懐かしむようだった。
「私は恵まれてる。家族は誰一人、ただの一度も作家の夢を笑わなかったし、この情けない背中を押してくれた。結果を残せなくても諦めを促さないし、励ましてくれた。友人にはプロが居るし、愛読者だって居てくれる。不自由無く、思う存分没頭できる環境で、ただ結果を残せずに足掻き続けている。或いは、だからこそなのかもしれないけども」
飯塚のように小馬鹿にする者は居る。だけれども、自分の身近に居る人間はいつだって夢見事を喚く馬鹿な芸術家もどきの背中を押してくれた。しかし、そうでない者も居る。
羨むような、それでいて綺麗なものを見るように頬を緩める篠宮を畑野は見る。
「そんな環境で結果を残せなくても励まされている奴が居る一方で、誰に認められずとも努力をし続け、その努力さえ否定されて折れた同志が居る。最初はちょっとした縁から始まって、言動と性格の乖離に興味を抱いて近寄ったけど、もしもアンタに優しくしているとして、そこに理由を付けるなら、私はそれが悔しくて仕方が無かったからだと思う」
畑野が己の感情を言葉に紡ぐ中、篠宮は静かにそれに聞き入る。
そんな篠宮の瞳に視線を戻し、畑野は少しだけ自嘲気味に笑った。
「馬鹿な奴だと言われるかもしれないけど、頑張ってる奴には報われてほしいのよ」
言葉に、篠宮の表情が硬直し、瞳が見開かれる。それから、篠宮は今にも泣きだしそうな表情を堪えるために歪め、笑い、首を横に振る。
「頑張ってなんて……! 私がどうしようもない時間を過ごしている間にも、努力を続けてた人だっているはずです。だから、そんなこと――」
「努力は相対評価じゃないでしょ。人と比べてどうすんのよ」
否定すれば、篠宮の顔が一層歪む。
確かに彼女は挫折し、道を誤った。その間は世間的に認められる努力なんてしていないのかもしれない。けれどもそれは、努力を否定されたが故の迷走で、次に繋げるための助走だ。目に見える形で残らなくても、誇っていい筈だ。
「芸術家というものは結果が全てなのかもしれないけど、過程は絶対に消えない。どれだけ遠回りして立ち止まっても、歩いてきた足跡は人生に残る。今がどれだけ落ちぶれていたって、積み重ねた努力が消える訳じゃないでしょ」
『努力すれば夢は絶対に叶う』なんて世迷言は言えないし、報われない努力が世の過半数を占めていることは理解している。成功者は知ったように『努力の方法が間違っている』なんて語るが、正しい努力を誰も教えてくれないとも知っている。
だが、結果が出なくても、それは努力だ。望んだ通りにはならなくとも、いつかどこか、何かの形で報われる日が来たっていいじゃないか。畑野がそんな思いを胸に真剣な表情で彼女を諭すと、彼女は悲痛に顔を歪めて俯かせる。
彼女について知っていることはそう多くない。積み重ねた時間は浅いし、過去については言葉で聞いただけ。だが、このリビングで、イーゼルに挟まれている古びたキャンバスが、他ならぬ彼女の積み重ねてきた苦痛と苦渋を物語っている。
彼女より絵が上手な人も、頑張った人も大勢居ることだろう。彼女のようには腐らず、努力し続けた誠実な人間だってきっと居るはずだ。それでも、だ。
「頑張ったでしょ、アンタは」
静かな声色で彼女を諭すと、彼女は大きく瞳を揺らして唇を噛み締めた。膝上で握った彼女の拳が震え、認めるか否かの深い葛藤を抱く。瞳から熱い雫が落ちた時、篠宮は顔を涙に歪め、鼻をすすりながら小さく頷いた。「……うん」とただ一言、ようやく。
懸命に涙を抑えるために目尻を拭う彼女を横目に、畑野は静かにそれを待つ。
報われなければ意味が無いと考えた途端、腐っていく。結果が出せなければ無駄だと思った瞬間、夢は潰える。誰も彼もが望んだ通りの結果を出せるわけではないからこそ、少なくとも自分だけでも自分の努力を讃えてやるべきだと、畑野は考えていた。
やがて、小さな嗚咽が消えた頃。畑野は話を纏めた。
「これが私の回答。不安は払拭できた?」
尋ねると、彼女は目尻の涙を拭う。目は既に真っ赤で、目蓋も腫れていた。
彼女は微かに涙を見せつつも柔らかい笑みを覗かせ、頷いた。
「……はい。もう、大丈夫です」
篠宮は柔らかい口調で、けれども迷いの無い声色で断言した。
その言葉に安心した畑野は、「そっか」と頷いた。途端、全身の力が抜けて、嘆息と共に天井を仰ぐ。そんな畑野を申し訳なさそうに、同時に嬉しそうに見つめていた篠宮は、少しだけ目を細めて口を開く。
「……美術館での話、覚えてますか?」
不意の質問。先日の駅での電話がフラッシュバックするが、今回は返答できずとも問題ないだろう。多少気楽に「ふむ」と考えながら、覚えている範囲の出来事を脳内で列挙し、彼女の考えていることを言い当てようと試みる。
「楼海は天才だってこと?」
「ぶぶー」
「父親の暴言」
「ぶー、外れです」
「……んー」
畑野は少しだけ考えた後、本命を口にした。
「『もしも私の変化を期待しているなら、諦めて私を捨ててください』」
彼女の言葉を思い出しながら、少しだけ笑って言ってやると、彼女は恥ずかしそうに頬を染めながら「正解です」と笑った。赤くなった顔を手で扇ぎながら、言葉を探すように瞳を瞑った。しばらく熟考していた彼女は、やがてばつが悪そうに口を開いた。
「あれ、取り消させてください」
恥ずかしそうに撤回をする彼女をどうからかってやろうかと笑うが、これで更に撤回でもされたら困るのは自分で、畑野は緩む頬を手で隠しながら、彼女を流し目に見た。篠宮も少しだけ頬を緩めつつ、思いの丈を吐露する。
「どうしようもない生き方だって自覚はありましたけど、それでも、そんな生き方でも自分の人生だったから、否定するのが怖かったんです。本当は、そんなやり方で満たされるものは何も無いって知っている癖に、自分を変えることに臆していました」
「でも」と彼女は続ける。
「先輩から、歩き出す勇気と力を貰いました。乾いた心の満たし方を教えて貰ったから、私も――変わろうと思います」
それは畑野への宣言であると同時に、自分自身への別れの言葉だった。腐り塞ぎ込んでいた過去の己に別れを告げ、前へ進むための通過儀礼だった。
彼女が前を向ける日まで長い目で見守ろうと、それまで支えて守るつもりだった畑野は、少しの驚きを表情に示す。そして、自分も彼女を過小評価してしまっていたのかもしれないと、頬を緩めた。
篠宮は、窓際に置かれたイーゼルと、そこに描かれた一枚の絵を見る。古いキャンバスに透明水彩で描かれた滲む夜景は、楼海のそれに比べれば技量に劣るかもしれないが、この二人にとって、この絵はどんな高価なものよりも価値がある大切な一枚だった。
彼女が何年もの間抱えてきた苦悩や葛藤の結晶、苦痛や悲痛の旅路の末に導き出した答えだ。幾度もの足踏みの末にようやく踏み出した一歩の残した足跡だ。未熟で、拙いものかもしれないが、彼女が前を向いて歩き出したから生まれたものだった。
篠宮は滲む夜景の窓の奥、浮かぶ星に願いを込めるように呟いた。
「――また、夢を見ようと思います」
そんな彼女の横顔を、畑野は静かに見詰めた。
畑野が筆を取るのは、誰かの背中を押すためだ。作家の主張というものは作品を介さねば読者には届かず、それが独り善がりの独り相撲になっていないかというのは、幾度でも憂慮すべきだ。当然畑野もそんな悩みを抱えたことはあり、それは篠宮との関係においてもそうだった。ずっと、独善的ではないかと心の奥で思っていた。
だから、彼女からこの表情とこの言葉を聞けただけで、十分だった。努力は報われるべきだと先程高説を垂れたが、やはり自分自身で体現しなければ説得力に欠くだろう。言葉と表情を脳に焼き付けるように、畑野は噛み締めるように瞳を瞑った。
「……また、嫌になる日は来ると思う。離れたいと思ってしまう日も来ると思う。その時傍に居るのが誰かは分からないけれども――もしも変わろうと思うなら、きっと支えてくれる人は居る。誰も居なかったら、どんな喧嘩別れをしたとしても、私を呼びなさい」
畑野がそう語ると、篠宮は聞き入るように耳を傾ける。
「背中くらいは叩いてやるから」
そうハッキリと告げれば、彼女は畑野らしい物言いに嬉しそうに笑う。だらしなく頬を緩めながら「暴力反対」と、詩を読むように呟いた。それから、彼女は多分の思いを込めた瞳と表情で畑野を見詰め、「……本当にお人好しですよね」と笑った。
畑野は肩を竦めつつ、同様に笑って返す。
「誰にだってこんな優しい訳じゃないわよ。そうしたって構わないと思えるくらい、アンタのことを――」
「す、ストップ! 駄目ですよ! 駄目ですから!」
胸中をそう語ろうとした瞬間、口元にバツ印を組んだ彼女の指が当てられる。思いがけぬ制止に驚き言葉を止め、目を丸くしながら篠宮を見る。見れば、彼女は慌てた様子で畑野の言葉を止めに入っており、ほんのりと頬が染めながら、甘い感情を宿した瞳で訴えるように畑野を見詰めていた。
畑野は微かに首を傾げながら尋ねる。
「何が?」
尋ねると、彼女は唇を引き結んで言葉を探すように視線を逸らす。そうして悩んでいる内に、段々と彼女の顏が見ていられないくらい赤くなっていき、唇に触れた指先から熱が伝わってくる。彼女は察しの悪い畑野を恨むように視線を戻し、数秒畑野と視線を交えて、恥ずかしそうに顔を俯かせた。蒸気でも出るのではないかと思うくらい、耳まで赤く染めて、震える声を絞り出した。
「……いま口説かれたら、絶対に落ちます」
思いがけぬ言葉に絶句していると、彼女は恐る恐る顔を上げた。
「好きになっちゃうから、駄目です」
弱々しく打ち明ける篠宮に、畑野は目を丸くしながら彼女の顏を見詰めるほかになかった。しばらく呆然と彼女の言葉を頭の中で反芻し、それから、あの彼女がこんなに可愛らしい一面を見せていることに嬉しく思う。或いは、こういうやり方で色々な相手を落としてきたのかもしれないなと笑った。
何のジョークか、見事にその中の一人になってしまった畑野は、自身の口元に伸ばされた彼女の手を剥がす。それから、顔を真っ赤に染める彼女の顎に人差し指を伸ばし、親指で、その柔らかい桃色の唇に触れた。身を硬直させ、されるまま戸惑いと期待に瞳を揺らす彼女に、畑野は軽口を囁いた。
「ばーか」
言われたら、余計に止まらないに決まっている。
鼓動の音が聞こえるような静かな夜の一室で、篠宮は身を委ねるように瞳を瞑った。愛の告白もまだだというのに、順序が違うような気がしたが――この関係の始まりを思い出せば、そんな言葉も出てくるまい。しかし、その理屈を持ち出すのなら、この後に彼女に伝えなければいけない言葉がある筈だ。
――なんて思考も、彼女の唇の柔らかさに霧散してしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます