第17話

 帰宅した畑野は、真っ暗な室内でぼんやりと光るディスプレイを一瞥した。


 開きっぱなしだったノートパソコンをしばらく眺めていた畑野は、羽織ったコートをそのままにデスクに座る。――画面の中には、ずっと誰かに比較され続け、それでも足掻き続けてきた一人のフォワードが居た。彼女は誰に認められることも無く努力を続け、チームの明暗を分ける強豪校との試合に臨んでいる。


 カタ、と、脳の中に湧き出し渦巻いていた無数のアイデアの群れを電子の世界に送り込む。久しぶりの執筆、先程まで触れていた外気温による指先の麻痺もあってか指が固い。それでも、自身の見出した解答を残しておきたくて、畑野はキーボードを叩く。


 結末は、誰もが望むものであってほしい――それは作品としての正解ではなく、畑野という自称作家にとっての矜持だ。何のために筆を執るかと尋ねられた際の返答は多種多様だろうが、畑野の根底には、臆し怯む誰かの道標になるべきという理由がある。


 だからこの物語も、これを読んだ大勢が納得のいく形で、誰もが望む通りに締め括る。そして、その『誰もが』には登場人物も、主人公も含まれているのだ。彼女は、非才のストライカーは一体何を望んで、苦難の道を進んだのか。


 ゴール前、華々しい活躍を見せる幼馴染。そんな彼女の後姿を眺める主人公は、どうして認められぬままに足掻き続けたのか。何かを望んでいたから努力を続け、それ故に、物語を締め括るのはその渇望を満たす行為で、努力の延長線上であるべきなのだ。


 ――試合も終盤、窮地に立つ。チームの得点源として徹底的に対策を講じられたエースは思うように動けず、一点差のまま試合が終わろうとしていた。誰もが諦めようとしていたその時、軽視されてマークの緩かった主人公にパスが出される。


 絶好の機会でパスを受け取れるように繰り返した切り返しの技術が、その一見すると無謀なパスを紙一重で成立させた。今までなら追い付かれていたであろうドリブルは、地道な反復練習の積み重ねで距離を縮ませなかった。誰よりも近くで見続けてきたエースのテクニックでディフェンスを抜き去り、ゴール前、キーパーと対面した際の緊張や不安は、積み重ねてきた時間が拭い去った。


 期待も信頼も無い、エースの陰であった名も無きフォワードが苛烈な一点を叩き込む。束の間の静寂の後、コートに歓声が響き渡った。チームメイト達の雄叫びが鼓膜を襲う。しばらく現実を直視できなかった主人公は、やがて、それでも満たされぬ己の心を自覚する。渇望する何かがその先にあると信じていたから、努力して足掻き続けてきた。しかし、あると思っていたものはここには無かった。


 ほんの少しの肩透かしと失意の中、自陣に戻ろうとする。


 その時、幼い声が鼓膜を撫でた。


『ナイスシュート!』


 それは観客席の最前線に居た子供で、親子ともども今のシュートに目を輝かせていた。その姿に幼少期の自分や幼馴染を重ねた主人公は、同時に、自分が渇望していたものの正体を自覚する。


 歓喜や興奮ではない、チームへの祝福でもない。ただ、自分という一人のストライカーを認め、称賛してくれる声が欲しかったのだ。それはきっと、エゴイストの思想なのかもしれない。けれども、ストライカーなんてものはそれくらいが丁度いいのだろう、と、主人公はかつての相方である幼馴染と共にゴールを見据えた。


 カタ、と区切りをつけた畑野は、打ち込んだテキストに保存をかけた後、立ち上がる。脳裏に焼き付いて離れない一人の少女の顔を思い出しながら、ノートパソコンを閉じた。棚に置いていた銀色のそれを手に取ってから、玄関の方へと足を運ぶ。


 ストライカーは賞賛の声を渇望した。では、画家は? 類稀な才覚と幼少期から比較され続け、筆を折ってしまった彼女は何を望んでいる? 畑野は纏まりつつある思考と伝えるべき言葉を頭の中で整理しながら、終電が無くなる前に、と急ぎ足で家を出た。








 会社帰りのサラリーマンや若者の喧騒が絶えない居酒屋の一角。急遽のセッティングのせいか、いつもより少しだけ人が少ない文芸同好会の飲み会にて、篠宮はノンアルコールのカクテルをチビチビと飲む。


 母親との諍いや畑野との別離の傷心に、モヒートが深く染みた。まだ少し赤くなっている瞳を見られたくなくて伏せて、誰に話しかけることもなく周囲の会話に耳を傾ける。この世で一番自分を見てほしいと願った人を突き放した今、いつものように誰かの気を引こうなんて気にもなれず、それでも孤独は寂しくて、人の中に紛れるように座す。


 起業未経験の飯塚による立派な経営論も、適当に聞き流す佐々木の乾いた対応も、今は心地いいとさえ思えた。


 けれども、こうして居酒屋で酒を飲んでいると畑野を思い出して仕方が無かった。あの日のように、今日も彼女が来てくれるのではないかと、期待の宿った眼差しで出入り口を見てしまうのだ。自ら彼女を突き放した以上、そんな訳もなく、そんな権利もないというのに、身勝手にも彼女を欲してしまう。締め付けられるような胸の痛みを忘れるために、篠宮はモヒートを呷った。清涼感が胃に届くと、余計に胸の靄が際立ってくる。胸中で名を呼んでみるも、暑いときに暑いと愚痴を言ったところで涼しくなるわけではないことと同様、満たされるものは何も無かった。


「なに、泣いてんの?」


 不意の声は、隣に座っていた佐々木からのものだった。幾らか不快そうに眉を寄せ、吐き捨てるように尋ねてきた佐々木に、篠宮は目尻に触れながら否定した。


「いえ、過去形です」

「……」


 そう伝えると、佐々木は何とも言い難い、舌打ちでもしそうな表情で篠宮を一瞥した後、鼻を鳴らして近くにあったエビチリの皿を篠宮の方へと押してくる。意外な行動に少しだけ目を丸くすると、鬱陶しそうに彼女は目を逸らした。


「……あ、ありがとうございます」


 彼女からは少なからず嫌われていると自覚していた篠宮は、思いもよらぬ行動に戸惑いつつ、しかし礼はしっかりと伝えた。彼女は反応をすることなく他の友人との談笑に戻ったから、篠宮もその陰で箸を取り、モヒートを片手にエビチリをもそもそ食べる。


 腹が膨れると、少しだけ活気が戻ってくるような気がした。


「篠宮さーん、今日も二次会考えてるんだけど、来る?」


 ふと、佐々木の奥に居た飯塚が軽薄そうな表情で佐々木の肩越しに顔を覗かせてきた。そんな彼を鬱陶しそうに見た佐々木は、小声で「無視でいいから」と篠宮に呟くも、そんな訳にもいかないだろうと、篠宮は少しだけ考える。その誘いに下心があるのか否かは判然としなかったが、どうしたものかと考えようする。しかし、どうしたって心を掴んで離さない人が居て、その人を忘れて何かを楽しむことも、その人を差し置いて誰かに認めてほしいとも思えなくて、篠宮は微かに瞳を伏せた。


「……すみません」


 詫びると、飯塚は僅かな間も入れずに満面の笑みを浮かべて快諾した。


「オッケー! いいよいいよ、気にしないで。気が向いたらでいいからさ!」


 誰の目にも明らかに好感を持たれようとしている飯塚だったが、それでも、あくまでも篠宮の意思を尊重しようとする様には文句のつけようもない。サムズアップを鬱陶しそうに見ている佐々木の傍らで、篠宮は今までの自分の視野狭窄を痛感する。


 ほんの少しだけ視点を広げると――たとえば佐々木は男目当てで、大した意義も無く文芸同好会に所属して、疎ましい相手を排除しようとする人間だが、それでも困っている相手に追い打ちをかけるような真似はせず、ほんの少しだけ優しさを見せてくれる。飯塚は下半身的欲求に素直に生き、畑野のような相手は平然と小馬鹿にするものの、人としての致命的な倫理の一線は越えず、他人の意思を尊重する側面もある。


 じゃあ、篠宮という人間にはいったい、どんな魅力があるのだ。


 短期的欲求を満たすために人に身体を許し、劣情や悪感情を食らって生き、大した取り柄も持たず、褒められる外見は遺伝のものである癖に、遺伝元の親の言うことを聞かない。勉強も特別に得意な訳ではなく、誰かに優しい訳でもない。絵も下手くそで、嫉妬や劣等感に苛まれる小さな器の持ち主だ。


 比較して、段々と自身の矮小さを痛感していく。


 どこかに消えてしまいたかった。


「――姉貴と喧嘩でもしたのか?」


 対面に座って成り行きを見守っていた新藤が、ウイスキーを片手に問い掛けてくる。先ほど来たばかりだと思っていたが、どうやら随分とアルコールが回っているようで、珍しく顔が赤い。そんな彼の意外な問い掛けに楼海の顔を思い出し、同時に、畑野との一件の発端が彼女であることを心の片隅に思う。だが、喧嘩をしたわけではない。


「……いえ」

「それなら畑野か」


 卓上のレバニラを見ながら、新藤は何気ない様子で呟いた。


 彼からその名前が出てくると思っていなかった篠宮は、思わず目を見開いて彼を見た。「どうして……」と呟くと同時、畑野が迎えに来てくれたあの日、彼女を呼んだのが新藤であることを思い出す。同時に、彼が楼海とも繋がりを持っていることも。もしかして、ここにも姉は根回しをしていたのだろうかと身構えそうになる。


「おい新藤、もう酔ってんのかよ?」

「うるせえ、宅飲みしてたんだよ。誘うならもっと早く誘え」


 途中で飯塚から茶々が入るが、新藤は鬱陶しそうに手を払って会話を打ち切った。


 そして、そのまま篠宮を見る。


「志島と家で飲もうとしている時に、畑野と会った。思い詰めた表情だったぜ」


 少し試すような視線で篠宮を見る新藤。彼の言葉に、篠宮はきゅっと胸が締め付けられるような思いを抱き、同時に、不安が芽生える。彼女に、酷いことをしてしまったのではないか。被害者面をしていたが、自分が彼女を突き放したのは事実だ、と。


「その顔じゃあ図星みたいだな。前々から裏で繋がってんじゃないかとは思ってたが、喧嘩をするくらいには親しかったらしい」

「……喧嘩」

「無関心な相手とするもんじゃない。正負は知らんが、少なからず心の深いところまで通じ合ってたんだろう、お前たちは」


 彼は足を組みながらウイスキーを一気に呷り、心地よさそうに目を細めた。


「人間は変化を嫌う。だから、諍いを起こそうとするには相応のエネルギーが必要だ。エネルギーとは感情で、喜怒哀楽なんて単純な四種じゃ留まらない、好意や悪意、善意や敵意、欲求に怠惰――俺は作家じゃないから言葉も尽くせんが、つまるところお前たちは、現状を放棄してでも相手と別離することを選んだ。そんな感情があったんだ」


 焼き鳥に手を伸ばし、一気に頬張って咀嚼する新藤。彼の指摘は尤もで、篠宮は畑野への感情を捨てようと思ってしまう程の悲壮を抱いた。


「先輩は……怒ってましたか?」

「俺の目には、誰かを心配しているように見えたな。どうでもいいと切り捨てられないくらい大切な相手のために、悩んでいたよ」


 万力で締め付けられるような圧迫感を胸に抱き、呼吸が苦しくなる。


 会いたい。会って謝って、今までのように戻りたかった。けれども、同時に彼女は楼海からの差し金で動いていて、その中に自分への感情なんて存在しなかったのだろうと思うと、胸が張り裂けそうなくらい痛んだ。


 つくねをもう一本、一気に頬張りながら篠宮を眺めた新藤は、もぐもぐと、静かにそれを咀嚼して嚥下した後、口直しにウイスキーを呷り、言葉を続けた。


「……心にも慣性があると思っている。動き出した心を止めるのにエネルギーが必要だったように、止まっていた心を動かすにも相応のエネルギーが要る。お前たちの喧嘩には相応の感情があったかもしれんが、お前たちの繋がりにも相応の感情があった。和解ってのは、そいつを思い出すことに終始するべきだ。謝罪や反省は、そこに付いて回る」


 酔った彼はとても饒舌で、そして優しかった。


「こんな酔っぱらいでよければ謝罪の一つくらい考えてやる。何があったか言ってみろよ、相談に乗るぜ」


 酔っているけれども、自分よりずっと理知的で理性的だった。


 篠宮は新藤に畑野との諍いの件を相談しようかとも考えたが、結局、これは喧嘩ではなく順当な別離なのだ。彼女に、意に沿わない行動をしてほしい訳ではない。どういう縁があるのかは知らないが、裏で繋がっていた楼海の差し金なのだとしたら、今までの行動は彼女の本意ではない筈だ。新藤に相談した結果が、万が一にも畑野の害になるのだとしたら、この口は噤んでおくべきだろう。


 篠宮は折角の提案を断ろうと顔を上げ、口を開こうとする。


 その時、入り口の方から歩いてきた何者かが口を挟んだ。


「――そいつは俺達の仕事じゃないだろう」


 それは、志島だった。外は相当冷えていたようで、鼻先を少し赤くさせた彼は寒そうにしながら新藤を見る。何やら含むような彼の言葉に、新藤はグラスを片手に見定めるような目で志島を眺める。やがて、薄く笑って「そうかい」と肩を竦め、それ以上、この件に口を挟むことは無かった。篠宮は何やら知ったような口ぶりの志島を見る。


「志島さん」

「さっき、畑野と話してきた。……家柄や血筋との確執が君の視野を狭くさせているのかもしれないが、本来の君は、お姉さんよりずっと柔軟に物事を俯瞰できるはずだ」


 志島はそう言いながら上着を背もたれに掛け、空席に腰を落とした。


 畑野と話してきた、なんて言葉が、今は自慢に聞こえて仕方が無い。


「……志島さんも、姉に詳しいんですね」

「君よりずっと楼海には詳しいよ。同時に、彼女よりずっと君に詳しい」


 鋭利な刃物のような言葉が突き刺さり、篠宮は言葉を呑む。


「――実績や才能なんて陳腐な上面より、ずっと根底の部分で畑野と楼海は同類だ。他者の評価に囚われず、芯を持って目指すべき場所を見据えている。そういう価値基準で話すなら、俺は君の同類だ。だから、劣等感や嫉妬という感情が曇らせる目を何度も見てきたし、今、俺の目の前にそれがあるとも語ることができる」


 篠宮はモヒートの液面に映る己の曇る瞳を見て、眉尻を落とした。唇を噛む篠宮の傍らで、新藤が口を挟んだ。


「遠回しだな」

「俺もお前も端役だからな」


 肩を竦める新藤を鼻で笑い、志島は篠宮を見た。


「――君達に必要なのは、対話だ」


 篠宮は、その言葉を噛み締めるように俯く。


 感情は畑野を求め、道徳や理性が彼女を拒む。楼海という、有無を言わさずに自身の味方をしてくれる数少ない家族であり、同時に自分から全てを奪い取って行った天才。彼女からの情で想い人が動いているという状況を、どう受け止めればいいのか分からなくなってしまった。ただ、数少ない道徳心は、彼女に本意でない行動をさせるべきではないと訴えてくるから、それに従ってきた。


 グラスに残るモヒートが、持つ手の震えに呼応するように揺れた。


 何をしようとも、決して胸から離れることのない彼女を思い出す。世界で一番嫌いな、自分を認めてくれない類の人間だったというのに、間違いを正すために奮起してくれて、頑張ったら笑顔で褒めてくれる。誰よりも自分の本質を見てくれる彼女が好きで好きでたまらなくて、彼女の目や声や言葉で心が満たされている事実から、もう、目を逸らすことなんてできなかった。


 篠宮は理性や感情の狭間に揺れながら、声を絞り出した。


「……少し、考えてみます」

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