第16話

 テーブルの上の焼き魚と白米を見詰める。ラップが掛けられたそれらは既に随分と冷えてしまっており、食べるなら温め直すべきだろう。


 昨晩から何も喉を通していない篠宮は、それでも空腹を感じられず、ソファで膝を抱えたまま、ただぼんやりとどこかを見詰め続けた。畑野と別れた翌日の夕暮前、実に三食を抜いている訳で、吐き気や頭痛が空腹や、水分不足、睡眠不足によるものか、或いは精神的なものなのかは既に判別もできなかった。


 暖房の音だけが微かに聞こえる室内。篠宮は自身の隣に置いていた提灯を見る。


 達筆で『しのみや』と描かれた彼女からの贈り物を見た篠宮は、目頭が熱くなっていくのを自覚する。鼻をすすって、目を自身の服の袖で拭った。思い返す度に泣きたくなって仕方が無く、畑野というお人好しが自分の中でどれだけ大きな存在になっていたかを再認識するばかりであった。


 本当は、心のどこかで自分が間違っているんじゃないかと思っていた。狼狽えて決めつけた幼い自分とは違う、心の冷静な部分が己の勘違いを指摘していた。けれども、過ちを過ちと認識するための質問は、彼女からの沈黙という返答で切り捨てられた。


 酷く熟れたトマトのように、少し力を加えたら心が潰れてしまいそうだった。


 もう少し、もう少しだけ経ったらいつも通りの日常が始まる。いつも通りに戻る。そう自分に言い聞かせながら傷心に俯いていると、不意に、テーブルの上に置いていたスマートフォンが鳴動した。思わず顔を上げて、無意識に「先輩」と、彼女を期待した。


 しかし、振動するスマートフォンの画面に表示されているのは、期待した彼女の名前などではない。むしろ、自身が最も苦手とする人物の名前だった。『母』と簡素に一文字だけ登録していたその人物からの着信を見た篠宮は、声を失う。


 ――今更、何の用だろうか。ロクな用件だとは思えない。


 彼女とまともに会話したのは数年前の話で、事実上、親子の縁は切れていると言ってもいい。そんな相手からの着信を、篠宮は喜んで受け取る気にもなれなかった。


 しばらく画面を眺めていた篠宮は、微かな溜息をこぼして手を伸ばす。


 無視をしようかとも思ったが、大事な用件かもしれない。聞くだけは聞こうと考えた。応答のボタンをタップした、スマートフォンを耳に当てる。


「……もしもし」


 明るい声を出す気力も意思も無く、篠宮は沈んだ声で応答した。


 久方ぶりの会話だろうが挨拶をする気なんて無く、そして、それは相手も同様だった。


『貴女、恋人は居るの?』


 凍てつくような、静かで鋭い――昔と変わらない母の声が鼓膜を叩く。


 あまりにも単刀直入に本題を切り出すものだから、篠宮は微かに面食らう。用件をかみ砕いて咀嚼するのに少しだけ時間を要してから、篠宮は眉を寄せた。


「何? 急に電話してきて何の話?」


 いくら家族間とはいえ、久しく会話をしていない相手に挨拶も無くプライベートの話をしたいとも思えない。お互いにそういう関係でないことは承知しているだろうと、反感を込めて突き返すと、母親は露骨な溜息をこぼした。


『貴女に縁談が来ている。名高い書道家の男性よ、受けなさい』


 あまりにも急で、唐突な話だった。篠宮は思わず目を剥いて、言葉を失う。


 テレビや漫画で見て、時代錯誤だと思っていた旧態依然な風習だと、他人事だと思っていた話を肉親から聞かされて、篠宮は己の耳を疑った。そして、そんな話をよりにもよって、追い出す形で別居した実の娘に言う母親が信じられなかった。


 篠宮が絶句していると、母親は矢継ぎ早に用件を重ねる。


『とても優れた芸術家としての素養を持っているけれども、人格に問題があるみたいでね。四十を過ぎても安定した家庭を持てないまま、今代で向こうの家系の血筋が途絶える。こちらとしても悪い話じゃないからと、縁談を持ち掛けて貴女の写真を見せたら「是非」と言ってくださったわ』


 脳が焼き切れるのではないかと思うような怒りが込み上げて、今すぐに実母を口汚く罵って通話を切ってしまいたかった。けれども、感情的になってもまともな話し合いにはならないだろうと自分を落ち着かせ、篠宮は諭すように口を開く。


「どうして私がそんな話を受け入れないといけないの?」


『貴女にとっても悪い話じゃない筈よ』


「良い話かどうかは私が決める。顔も知らない人との縁談を、数年会話もしていない母親から急に渡されて、笑顔で快諾すると思う? 自分の相手は自分で決めるよ」


『貴女は芸術家として篠宮の家系に何一つ貢献しなかった。安い体の一つや二つ、売ってしまいなさい。それが「篠宮」の家系に生まれた貴女の責任よ』


 話が通じなかった。同じ言語の筈なのに、何も伝えられない。


『私は貴女を自分の娘とは認めていない。芸術の才を持たず、加えてそれらから逃げ出して、あの子の脚を引っ張るだけの枷――子と認めようにも、貴女は親の顔に泥を塗った。あの子と同じ血を引いているのに、どうして貴女だけこんな風になってしまったのかって、私がどれだけ嘆いたことか分かる?』


 頭痛が増していく。視界が熱されたビニールのようにぐちゃぐちゃに歪んで、吐き気を催した。胃酸が込み上がってきて、口の中に酸味を覚える。吐き出してしまわないように唇を噛み締めて意識を逃がし、己の膝に爪を立てた。


『でも、もしも貴女が立派な血筋を篠宮家に引き入れたのなら、その生には意味があった。貴女を産んだ意味がそこに生まれる。――皆、それを望んでる。貴女がそうしてくれることを望んでいる。貴女の存在意義を認めてくれる』


 ずっと、望んでいた。自分の存在を、生きていることを誰かに認めてもらいたかった。そして、そう望むように只ひたすら自分を追い詰めた彼女は、他の誰よりもそれを理解している。だから、それを利用した甘言で引き込もうとしている。


 でも、何故だろうか。その言葉には微かも惹かれない。


 飢えて、乾いて仕方が無かった心を、初めて本当の意味で満たしてくれた人が居た。自分の心を掴んで離さない彼女の言葉を思い出す度に、積み重ねてきた劣等感や苦悩が霧散していくのを感じるのだ。篠宮は隣に置いている提灯を一瞥し、彼女の顏を思い出す。彼女は姉に言われて、自分に手を差し伸べてくれたかもしれないが、貰ったものは、全て本物だ。物だけではなく、心も、言葉も。


 目を瞑るだけで思い出に浮かび上がってくる彼女。申し訳なく思いつつも、篠宮は彼女を言い訳に使った。


「恋人が居るから無理。引き受けられない」


 篠宮は彼女を説き伏せるのも面倒になって、嘘を吐いた。


 一拍、沈黙という間を置く。そして、躊躇いなく母親は切り捨てた。


『別れなさい。どんな相手かは知りませんが、どうせロクでもない相手でしょう』


「っ、ふざけ――!」


 全身の血液が沸き、篠宮は目を剥いて彼女に罵声を浴びせようとした。自分はともかく、何を知らずとも畑野を馬鹿にしたことだけは許せず、感情任せに口を開きたかった。しかし、彼女とは根本的に価値観が異なり、きっと彼女には何を言っても無駄だろうと考え直して呼吸を整える。


「……ふざけないでよ。お母さんに何が分かるの?」


『私が選んだ相手にしておきなさい。昔から、貴女は間違えてばかりだった』


「会ったこともない人を『ロクでもない』なんて貶せる人の価値観に基づいた『立派な人』を私は信用できない。自分の相手は自分で選ぶ。私は……! 私は、篠宮家の道具じゃない!」


 悲痛に張り詰めた声でそう反論をすれば、面倒そうに母親は閉口する。呆れたような溜息を露骨にこぼしてから数秒の沈黙が流れた。ほんの少しでも家族としての情があれば、もしかしたらこの言葉で身を引いてくれるかもしれない。そんな淡い期待を抱く篠宮だったが、実母は誰よりも無情だった。


『家系に貢献するどころか、顔に泥を塗り、優秀な姉の足を引っ張った。愛玩目的で飼育される畜生以下――道具と呼ぶに相応しいでしょう』


 言葉が出なかった。何かを言い返そうとしたが、喉がそれを拒絶した。掠れる呼気だけが発され、篠宮は己の四肢の末端が震えるのを知覚した。微かに呼吸が荒くなり、目頭が熱くなっていく。気を抜くと今にも泣いてしまいそうで、篠宮は己の唇を噛み締めた。


 呼吸音が震える。きっと、電話越しの彼女にもそれは伝わっていることだろう。


 篠宮はどうにか涙を引っ込めようとも思ったが、ぽつりと、雫が膝を叩くのを抑えられなかった。涙を袖で拭いながら、叫ぶように尋ねる。


「篠宮、の、姓を……名乗るなって。篠宮の名義で筆を握るなって言ったのは母さんたちでしょ!? お姉ちゃんとの血縁を知られたくないから、一人でやれって言ったのは二人でしょ!」


 泣き叫ぶように尋ねると、酷く冷めた声が返ってくる。


『なら、篠宮の姓で絵を描いても構わないと言ったら、貴女は描ける?』


 ――問われて、呼吸を忘れた。一瞬の絶句を餌に、悪意が肥大化する。


『好きに名乗りなさい。楼海の実妹というメディアの誇大評価と民衆の関心の中で筆を握ってその能力を存分に発揮しなさい。貴女がそこまで言うのであれば、私はそれを許しましょう。対価に何を求めることもしない、ただ、自由にやりなさい』


 できるのか? と、問うような母親の言葉に、篠宮は何も言い返すことができなかった。ただ、孤独と悔しさが頬を濡らすばかりだった。そんな自分が情けなくて、拳を強く握りしめる篠宮を、母親は鼻で笑う。


『貴女の絵を評価する人間なんて居ない。出涸らしの滓に惹かれるような人は居ない。そんな貴女でも皆に認めてもらえるような、そんな提案をしたつもりだったのだけれどもね……まあ、いいわ。断るというのなら、これ以上の無理強いはしない』


 愛想を尽かしたような声色で、母親は会話をそう切り上げた。


 篠宮はもう、彼女に何を言い返すような気力も残っていなかった。ただ、唇を噛んで懸命に嗚咽を殺して、双眸から溢れ出る熱を拭いとるのに終始する。


『ただし、貴女はもう篠宮家の人間じゃない。二度と、家の敷居を跨がないように』


 そう言うと、彼女は返事を待つこともなく通話を切った。


 プツ、という無機質な切断音を聞いた篠宮は、耳に当てていた携帯電話をソファの上に落とす。もう、誰も自分の声を聞いていない。どんな泣き言を聞く人も居ない。それを理解していた途端、意地で懸命に堪えていた嗚咽が溢れ出た。


 篠宮は膝を抱えるように座り、己の腕に目を押し当てる。じわり、と熱が服に染み込んでいく。嗚咽の度に肩が揺れ、不規則で荒い呼吸が彼女の涙を音にした。


 自分に何も期待していなかった。どうしようもない奴だと自覚した上で、心を満たすための日々を送ってきた。そんな生き方を変えようと思わされるような素敵な人に出会って、少しだけ自分を認めてあげて、期待して。そんな風に変化してしまったから、今の自分が情けなくて仕方が無かった。


 何を言い返せない自分も、絵を描けない自分も。篠宮は全てが嫌になった。


 誰かに助けてほしかった。誰かに、傍に来て励ましてほしかった。そう考える度に、自ら突き放した彼女の顏が思い浮かんできて、胸が締め付けられていく。苦しくて吐き出してしまいそうになりながら、彼女との思い出に縋る。


 ――こんな風に苦しくなるのも、全て貴女のせいだ。


 変わってしまった心が、そう泣き言をこぼした。








 燦然と輝く夜の街に、畑野は瞳を細めて白い吐息をこぼした。


 信号、自動車のヘッドライトと街灯、夜の店のネオンライトに、古い店の蛍光灯。看板を照らすスポットライトや人々の持つ携帯電話に大型ビジョン。人々の呼吸音が聞こえてくるから、畑野は夜の街が好きだった。夜遅くだというのに、未だ活気を失わない街を孤独に歩きながら、畑野は思考に没頭する。


 ――じゃあ、何で先輩は私に優しくしてくれるんですか?


 一晩、寝る間も惜しんで考え込んでも答えは出なかった。理屈ではなく感情で行動したが、しかし自分の感情が分からない。最初は、何となく彼女の生き方が嫌だったという、そんな漠然とした嫌悪感が行動理念だったが、途中からそれは変わって行った。その正体を知らぬまま、それに名前や意味を見出さぬまま行動していた。


 篠宮がこの問いに抱く本心と、畑野がこの問いで悩んでいる部分は、少しだけズレている。彼女は『楼海の回し者でないのなら、何故こんなに自分を気に掛けるのか』を知りたがっているのだ。返答が無いのであれば、やはりお前は回し者だろうというロジックであり、それを否定するために何かしらの返答を欲している。


 対する畑野は『正しい返答』をしようとしている。何かしらの返答があればそれでいいという彼女の思いを理解しながらも、自分の感情に嘘偽りの無い返答でなければいけないとも考えている。その場凌ぎの返答であっても彼女の誤解は解けたかもしれない。しかし、今後のことを考えると自分のスタンスはハッキリとさせておきたかった。


 それに、我ながら面倒くさい性格をしているのだ。


 こういう物事はハッキリとさせておかないと、露骨に顔に出る。


 畑野は強張った自身の表情を叩くように揉みながら、思案に明け暮れた。


 そうして歩き続けた畑野がコンビニエンスストアの脇を歩きぬけようとした時だ。先日の焼き直しのように、見知った顔が二つ、店から出てきた。


「む」

「お」


 既視感を覚える再会に畑野は思わず声を上げ、そんな畑野を見た新藤もまた、意外そうに口を開いた。――コンビニから並んで出てきたのは新藤と志島であった。手には菓子類や酒が大量に詰め込まれており、これから何をするのかは想像に難くない。


 志島は意外なエンカウントに驚きつつ、再会を喜んだ。


「畑野! 奇遇だな。こんなところでどうしたんだ?」

「散歩よ、散歩。そっちは……まあ、聞くまでも無さそうね」


 畑野の声に応じるように、二人は手に持ったビニール袋を持ち上げる。男二人で卓飲みとは、随分と仲の良い幼馴染だと羨ましくなる。畑野はつい先日、全く同じ場所で同じように遭遇した新藤に視線を投げる。


「新藤も。また会ったわね」

「また会ったな。――と、言っても俺はこの辺りに住んでるんだ。日が沈んでからこの辺りに来れば、結構な確率でエンカウントできるぜ」


 特段彼に会う理由は無いが、畑野にとって彼は篠宮の来歴を教えてくれた恩人でもある。こと、『篠宮家』に関しては畑野以上に詳しいだろうから、接点を持つことに損は無い。それに、先日の飲み会の件でも世話になっている。


「この前は助かった」

「気にするな。振り向いてくれない誰かさんに恩を売りたいだけだ」


 新藤は軽薄に笑いながら、絶賛片思い中の楼海への下心を語った。あれから楼海と接触して連絡先を交換したものの、いかに恩義があれども勝手に教える訳にもいかない畑野は、その件を秘匿する方針を採ることにした。


 二人の会話の一部を理解できない志島は少しだけ不満そうにしつつ、友人同士の仲が良好であることを嬉しそうに眺めていた。そうして会話にも一区切りがついた頃、新藤は手に持っていたビニール袋を掲げて提案する。


「今から俺の家で飲むけど、来るか? 安心しろよ、下心は無いから」

「……その心配はしていない。けど――」


 新藤は楼海に執心で、志島はそもそも色恋に興味が無いことを公言しているし、彼の人柄も理解している。そういった心配はしていないが、そもそも特別親しい間柄でもなければ、誰かと酒を酌み交わしたいとも思わないし、何よりも。


 畑野は少しだけ目を細め、行く当てもない夜の街を一瞥した。


「――少し、考えることがある。今回は遠慮しとくわ」


 畑野は白く曇る吐息をネオンライトに乗せる。そんな畑野の言葉を聞いた新藤は、そうしつこく誘うこともせず、快活に笑って「そうかい」と、ポケットに突っ込んでいた手をひらひらと振る。誘いは嬉しいが、今は何よりも篠宮のことが気掛かりで、彼女に勝る優先事項は無い。だが、誘いは嬉しく思っている。


「また誘って。そん時はこの前の礼も兼ねて奢るから」

「ジョニ青を飲んでみてーんだ」

「言ってろ。――それじゃ、また」


 そんな高いものに手を出せるかと笑いつつ、僅かながら気分転換になったと肩の力を抜く。そうして二人に別れを告げようとした、その時だった。


 静観を決め込んでいた志島が口を開く。


「畑野」


 そう呼び止めてくる志島を振り返れば、彼は心の奥底を見抜くような鋭い視線を畑野に突き刺してくる。彼には、現役作家やサークルの部長、一般大学生といった様々な『貌』があるが、今、彼が浮かべているこの表情は、畑野をよく知る友人としての顔だ。


「――何か悩んでるなら、聞くぞ」


 まるで畑野の悩み事を全て見透かしたかのような口ぶりだったが、彼ならばそう驚きではない。最初に会話した時、言葉選びだけで文章を取り扱う趣味を持っていることを看破してきたのだから、勘の良さは折り紙付きだ。


 畑野は提案に悩む。篠宮の件を第三者に吹聴していいものか、そもそも、それによって事態が好転する可能性があるのかも視野に入れなければいけない。だが、『自分のことは自分が一番よく分かる』なんて言葉は実際のところ状況次第で、自分のことだからこそ分からないこともある。作家として、友人として、畑野を知り、多くの事柄に見識を持つ彼の知恵を借りることで分かることもあるかもしれない。


 今、最も優先すべきことは何だろうか。


 電話越しの彼女の声が震えていた以上は、その涙を拭うのが曲がりなりにも一度手を差し伸べた人間の責務で、同時に、篠宮の友人である畑野の責任だ。


 畑野は瞳を瞑って考え込み、深呼吸をして脳に酸素を回す。一度、判断を間違えて彼女を傷付けた。今度は傷付けてしまわないよう時間をかけて熟考し、それから、いつの間にか力が入っていた握り拳をそっと緩め、微かに笑った。


「……流石」


 言葉を聞いて、志島は手に持っていたビニール袋を新藤に押し付けた。








 小さな街灯が一つだけ提がる、街の明かりも届かない暗く寒い公園の一角。


 二つ並んだベンチのそれぞれに、畑野と志島は腰掛けていた。


 二人は顔を合わせることもせず、ぼんやりと星や遠くの街明かりを眺める。


「意外かもしれないけど、最近よく、篠宮と話をする」


 白い吐息をこぼしながら、畑野がそう切り出した。その言葉に、志島は意外そうに目を丸くして畑野を見た後、しかし、納得できる出来事の数々を思い出して視線を戻す。「そうか」と、掘り下げることもなく納得を示した。


「仔細は伏せるけど、ちょっとした切っ掛けで接点を持つようになって、色々と知っていく内に色んなことを抱えている奴だって理解した。ああいう類の人間が世界で一番嫌いだと思っていたけど、知っていく内に無視できなくなっていった」

「……芸術家の家系、だったか?」


 知っているのか、と驚きに彼を見れば、志島は寂しそうに目を細める。


「知っているさ。お前も知っているだろうが、新藤が彼女の姉にご執心でね。アイツとの付き合いは長いし、彼女の姉とも接点がある。耳を塞いでいたって入ってくる情報は無数にあって、その中には篠宮さんの話も含まれている」


 志島は深いため息と共にベンチに背を投げ預け、星を仰いだ。


「才に恵まれず、玉に比較された石。『楼海』という名の光によって生み出された濃く深い影が彼女だ。彼女には及ばないが、俺も一定の結果を出した身だからな、『そういうもの』には多少なり縁がある。よく、分かるよ」


 噛み締めるような表情で呟く志島の横顔を、畑野は一瞥する。


 彼は高い実力を有した作家だ。だが、一般的に、作家がプロとして活躍するためには、狭き門である新人賞を受賞しなければならない。彼が登った分だけ落ちていった者が居て、地球の裏側から声を届けられる現代、国内の声は少し耳を澄ませば聞こえるだろう。


「少し前、お前が珍しく飲み会に参加した日。彼女を押し付けただろう?」

「ええ、あの時はぶっ飛ばしてやろうと思った」

「勘弁してくれ」


 志島は肩を竦めながら微かに笑い、それから、少しだけ嬉しそうに続ける。


「……俺や彼女のような、妬みや僻み、期待や責任に重圧を感じ続ける一般人にとって、お前のようなお人好しな変人は、何よりも有難い存在なんだ」


 続けられた志島の言葉に、どこぞの姉妹にも言われた言葉を思い出す。誰も彼もが示し合わせたように口を揃えていうものなのだから、そろそろ自覚するべきなのだろう。


 畑野が理解しかねるという調子で肩を竦めれば、志島は足を組みながら続ける。


「何にも左右されない確固たる自分の生き方を持っていて、決して折れない鉄のような信念が脊椎のように地殻から脳まで伸びている。努力する苦しみを理解して、成功することへのあこがれを理解できる奴だから、成功した人間にも、挫折した人間にも、お前は共感して寄り添うことができる。――お前という異物が、少しでも彼女の捻れを正してくれたなら、という打算もあった」


 そう語る志島に、畑野は少しだけ驚きを覚える。


 新藤の幼馴染である彼は、篠宮家のことをずっと前から知っていた。そして、篠宮がその家系の人間であること、苦悩を抱えて生きていることを知っていた。それを加味して、よくもまあ、あんな白々しい物言いができたものだと感心する。しかし、あの日の『分かるだろ? この場ではお前しか居ない』という言葉の真意を察して、嘆息した。


「だったら、まんまとアンタの手のひらの上で踊らされたわ。私は結局、アイツのああいう生き方を無視できなかったし、その根源が家系や劣等感にあると知って、それを無視できずにどうにかしてやりたいと思った」

「――そして、何かを掛け違えた」


 間髪入れずに差し込まれた志島の指摘に、畑野は息を呑む。見れば、彼は全てを見透かしたような夜に紛れる黒瞳をこちらに向けていた。


「篠宮さんはああ見えて厚意や善意には真摯に応じるし、お前は努力する人間を見捨てない。お前が彼女とのことで何かを悩むとしたら、善意と善意がすれ違った結果だ。俺はお前ほどのお人好しを知らないけど、同時に、お前ほど不器用な人間も知らないからな」


 よくもまあ、知ったようなことを言ってくれるものだ。


 しかし、彼の指摘は見事に正解している訳で、畑野は感服するばかりである。それでも素直に正解を伝えるのは癪なので、「作家辞めてエスパーやりなさい」と敬意を含んだ小言を吐き捨てる。志島は軽く笑ってから、「カウンセラーなら考えたことがある」と昔を懐かしむように呟いた。


 それから、二人は揃って遠くの街明かりを眺める。夜も冷めない人の活気、行き交う人々の雑多な足音とアルコールの香り、目を奪うネオンライト。不思議なノスタルジーに浸りながら畑野はぼんやりと夜の景色を眺める。


 そして、夜空の星に読み聞かせるように言葉を紡いだ。


「――誤解はすぐに解ける。だけど、今後も彼女との関係を続けていくなら、私は何を目指すべきなのか、彼女にどう生きてほしいのかをはっきりとさせないといけない。昨日、彼女に聞かれた。『じゃあ、何で先輩は私に優しくしてくれるんですか?』って」


 本題を切り出した畑野を、志島は真剣な眼差しで見た。


 畑野は静かに瞳を瞑り、そして、網膜に焼き付いたかのように浮かび上がる彼女の表情に唇を噛む。意識して肩の力を抜き、瞳を開きながら続けた。


「自分のことがよく分からない。なんで、何が目的で私は彼女の味方をしようとしているのか、彼女にどうしてほしいのか。何も分からないまま、ただ漠然と彼女を苦しくない方向に導こうとした。それは多分、アンタ達の言う『お人好し』が『正しい行為』をしようとしたんだろうけど、そこに私の感情が無い。でも、表面化していないだけで、行動の中には確かに私の意思がある筈。私は、それを知りたい」


 我ながら面倒くさいことを言っていると自覚していたが、人間というものは存外に、自分の感情を客観視できていないものなのだ。客観性を維持しようとしてもバイアスは掛かるし、俯瞰しようとしても没入してしまう。『自分』を知るというのは、言葉よりもずっと難しいことだから、自分探しの旅なんてものをする人が居るのだ。


 そんな畑野の相談を聞いた志島は、ポケットに手を突っ込んだまましばらく沈黙する。ずっと遠くに車の走行音が聞こえる、静かな夜の公園。沈黙は長くなかった。


「俺よりお前の方が、畑野という人間について詳しい。俺が知るお前はごく一部で、それに基づく意見は所謂偏見というヤツに分類されると思う。だから、その上で語るよ」

「頼む」


 頷くと、すぐに返答がくる。


「お前は、小説を書くのが好きなんだ」


 言われるまでも無く自覚をしていることを改めて言われ、畑野は眉を顰める。何の話だと彼の瞳を見れば、冗談を言っているような素振りは見られなかった。


「『何を当たり前のことを』と言いたげだな。……ああ、お前自身も分かり切っていることだろうけど、お前は小説を書くのが好きで、掘り下げるなら、何かを生み出すという作業を肯定的に解釈しているんだ。努力も挫折も成功も、苦悩も安堵も、全部ひっくるめて創作という行為を好きなんだと思う」

「そりゃ自分でも分かってるわよ。じゃなきゃ、こんなに頑張ってない」

「だったら話は早い。お前の行動理念は単純だ」


 志島はそう告げると、何気ない調子で畑野の『感情』を看破した。




「――お前は好きな人に自分の好きなものを嫌いでいてほしくないんだ」




 そう言われて、畑野は言葉を失う。驚きや衝撃ということはなく、ただ、布地に水が染み込むような、自然の摂理の如く心に浸透していく言葉に、反発や不信は芽生える余地も無く、彼の言葉を聞いた途端、忘れ物を思い出したように納得した。


 ああ、そういうことか。思わず、そう胸中で呟いてしまった。


 篠宮に、何かを作るという行為を――絵を描くという行為を嫌いでいてほしくないのだ。だからキャンバスに固執せずに済む別の道を、提灯づくりなんてものを提示した。最初は『篠宮』という人間への興味や善意が行動原理だったかもしれないが、彼女の抱える全てを知ってからも尚、自分を突き動かし続けたのはたぶん、それだ。


 誰にだって、子供にだって分かる感情だ。


 身近な人に、自分の好きなものを否定してほしくない。ただ、それだけ。


 志島は少しだけ笑いながら言葉を続ける。


「彼女の今までの生き方は、喉の渇きを潤すために海水を飲み続けるような行為だ。そのまま未来永劫、満たされることなく朽ちていく。だからたぶん、最初にお前が動いたのは、そのまま放っておけないっていうお人好しな感情だったはずだ。破滅的な生き方を止めないといけない、という危機感がお前を突き動かしていた」


 その推論に否定の余地は無かった。


「……正解。たしかに、最初はそうだったと思う」

「お前はそういう奴だよ。でも、お前は彼女の問いにそう答えなかった。それはたぶん、破滅的な生き方でなくなれば、それで構わない――とは思えないくらい彼女に入れ込んだからだ。背けた瞳で再び絵を見てほしくて、止めてしまった歩みを再開してもらいたくて、お前は火夫の如くボイラーと向き合い続けた」


 志島は「よいしょ」とベンチを立って、大きく背筋を伸ばす。


「俺の知る『好き』は友愛や親愛だけだからさ、お前が彼女に抱く感情がどんなものかは分からないよ。でも、どんな種類かは分からないけど、お前は彼女が『好き』なんだ。そして、そんな相手には自分の好きなものを好きになってほしいものだろう。俺だって、新藤やお前には小説やサークルの皆を好きになってほしいと思っている」


 志島は振り返るように畑野を見る。随分と格好つけた素振りに思わず笑ってしまうが、これだけ世話になった今宵ばかりは茶化さないでおいてやろう。畑野はしばらく瞳を瞑って自身の心と向き合い、それから、志島に続いて立ち上がった。


「……絵を好きになってほしい訳じゃない。絵を描いてほしい訳でもない。ただ」


 畑野は梅干しが嫌いだ。しかし、苦手なものを克服して好きになろう、と小学生時代に熱血教師に言われ、余計に嫌いになったことがある。だから、嫌いなものを好きになれという言葉がどれだけ酷かは知っているつもりだ。


 しかし、心の底では好きなのに、環境がその心を捻じ曲げたのであれば、その環境から守ってやるくらいは許されるだろう。


 畑野はようやく見付けた自分の心を噛み締めるように、鮮やかな星空を見上げた。


「何も気負わず、筆を握れるようになってほしい」

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