第15話

「ところで先輩、夕飯はどうしますか? もうだいぶ遅い時間帯ですけども」


 ちらりと時計を見る彼女に釣られるように、彼女を家に送り返すついで、家に上がって珈琲をご馳走になっていた畑野も時計を見る。工芸教室で宣伝用の作品まで作成し、そうして帰宅する頃には、既に二十一時になっていた。夕飯にも少し遅いような時間帯だ。


 明日は授業が入っている。あまり遅いと終電を逃して泊まることになり、ここから通学もできない訳ではないが、荷物を取りに帰ったりと面倒だ。畑野は顎に手を当てて考えた後、申し訳なく思いながらも帰宅の旨を告げた。


「せっかくだからご馳走になりたいところだったけど、流石に遅いから帰るわ。明日は一限から授業が入ってるし、始発で授業道具取りに戻って登校して――ってのも面倒だから、悪いけど早めに帰っとく」


 至って健康的な生活を送っている自覚のある畑野は、小さな欠伸をする。そんな畑野を見ながら、少しだけ寂しそうな顔をしつつも「分かりました」と篠宮は頷いた。


「――あ」


 その時だ。ふと、篠宮は何かを思い出したように動きを止めて呟く。


 そして、ちらりと畑野を見た。


 その視線の意味が分からずに首を傾げる畑野だったが、篠宮は微かに染めた頬で何かを思案するように畑野を見詰め続ける。「むむ」と酷く困ったように唸りながら悩んだ彼女は、やがて仕方が無いといった体を装いながら寝室の衣装棚を漁り始めた。


 棚から銀色に光る何かを取り出した篠宮は、ぱたぱたと駆け寄ってきて、恥ずかしそうに、けれどもそれを誤魔化すように素っ気ない表情と口ぶりで、それを差し出してきた。


 それの正体に気付いた畑野は、思わず言葉を失って目を見開く。


 いいのかと顔を見れば、彼女は耳まで赤く染めて視線を逸らしていた。


「合鍵……いちおう、渡しとくので」


 シーリングライトに照らされる銀色のそれは、鍵だった。


 彼女の柔らかく小さい両手の上に乗せられた合鍵を、畑野はどうしていいか分からずに茫然と眺める。渡されたからには受け取ればいいのだろうが、その意図はどう解釈すればいいのだろうか。今後、何かがあった時のための保険として持っていればいいのか、或いはいつでも好きに家に来てくれということか。後者だとすればまるで告白のようで、つまるところこれを受け取る行為は、その感情に応えるということなのではないだろうか。


 畑野は非常に険しい顔で逡巡するが、ほんの僅かに篠宮の表情に不安が滲んだのに気付いた瞬間、受け取らないという選択肢はないと気付く。「じゃあ」と指を伸ばした畑野は、彼女の手から合鍵を預かった。キーホルダーも無い、質素な鍵だ。


「一応、預かっとく」


 畑野はそう告げて微かに笑った。合鍵を差し出すという行為が、親愛や恋愛や、友愛や、そういった感情に基づくものであることは疑うまでも無い。あの篠宮が、勇気を出してそれを行動に起こしてくれたという事実を、今は噛み締めるべきだろう。


 畑野が鍵を受け取ったことに、照れくさそうにしながらも安堵するような表情を見せる篠宮。こんな顔を見せてくれるのなら、またいつかこの合鍵でこの家を訪れたいものである。畑野はそんなことを思いながら、受け取った鍵を財布の中に入れつつ帰宅の支度を進めようとして、不意に提灯に目が留まる。


 あまりにも美しい、藍と群青の混じる水の情景。一人の芸術家の、再起の一歩目――いや、それにも満たない、歩き出すために軸足に力を入れるような、そんな作品。


 これを持ち帰ると、流石に人目に付きそうだ。


 この世で三番目くらいにはこの一枚の価値を理解している畑野は、しばらくこれを眺めて、次に自分の稚作を見た。比べるとあまりにも酷い差に思わず笑ってしまいながら、ぼんやりと浮かんできた感情のままに口を開く。


「ねえ、篠宮」


 呼び掛けると、彼女はどうしたのかとこちらを見た。


 そんな彼女に、提灯を示す。


「これ、置いて行ってもいいかしら」


 畑野がそう告げると、途端に篠宮は不安そうな表情を浮かべた。まるで、自分の作品は持ち帰るにも満たない酷いものだったのかと、そう問いたげに不安を見せる。


「……持って帰りたくないってことですか」


 少し不満そうに、寂しさを隠そうともせずに呟かれた言葉に畑野は誤解が生じていることを察する。「ああ、いや」と言葉足らずだった自分を胸中で叱責しながら、畑野はテーブルの上の、彼女が描いた提灯を手に持ち、棚の上にある自分のそれと並べて見る。


 改めて並べると、やはり技量差が顕著で笑ってしまう。しかし、同時に、完成度が全く異なるこの二つの作品が並んでいる様に不思議な安心感を覚えた。これは互いへの贈り物かもしれないが、同じ時間、同じ場所で共に作った相手のための作品を、畑野は大切な思い出の記録として残しておきたいと思ったのだ。


「何となく、この二つは傍に置いておきたい」


 明確な理由など無い。彼女の苦悩に手を差し伸べるのと同じように、理由なんて無いけれども、そうした方がいいと思ったからそうするのだ。畑野のそんな言葉を聞いた篠宮は少しだけ怪訝そうな表情をしていたが、言葉に突き動かされるように並んだ提灯を見て、アンバランスなそれらをしばらく眺める。まるで夫婦茶碗のような、異なる姿だけれども、並べることで新たな意味を持つその二つに、畑野の言葉の真意を見出したのだろう。篠宮は微かに頬を緩めた。


「いいんですか、先輩の提灯と並べて」

「何よ、馬鹿にする気? 達筆でしょ」

「字はお上手ですね。字は」


 篠宮は棚の上の提灯をそっと手に取り、描かれた雑多な絵を撫でる。ピンク色の不格好なハートマークや異形の怪物になりつつある猫、焦げ茶色の星。器用な人だと思っていたから、こういう不器用な部分を見るとどうしたって愛おしく思えてしまった。それに、どんなモノだろうと、そこに宿る思いは確かなものだ。「絵も、好きですけど」小さな声で囁いた篠宮は、畑野の提灯を棚に戻す。


 畑野はそれに続く様に、隣に提灯を並べた。そして、呟く。


「また、来るから」


 ――あの合鍵は、そういうものだろう。そんな意図を含めて呟けば、篠宮は微かに驚いたように目を開いて、恥ずかしそうに瞳を伏せた。ほんのりと頬を染めながら何かを返そうと口を開きかけ、止まり、笑い、次いで「はい」と心の底から湧き上がる何かの感情を隠そうともせずに言葉にした。


 並べられた提灯を、しばらく二人で眺める。言葉は無く、ただ秒針の音だけが室内に響き続けた。そんな気まずさを感じさせない沈黙を打ち破ったのは、篠宮だった。片付けて壁際に置かれたイーゼルと、薄汚れた古いキャンバスを一瞥した彼女は、次いで再び提灯を見て、何かを噛み締めるように瞳を瞑った。


「ありがとうございました」


 何の礼だと畑野が篠宮を見れば、篠宮は笑う。


「何から何まで、色々と……本当に」


 重ねられた言葉には、幾重にも積み重ねられた畑野との時間に対する感謝が含まれていた。畑野はそれを察して、少しだけ頬を綻ばせる。


 彼女との出会いは最悪だった。嫌悪から始まったこの関係だが、こうして時間が積み重なっていったのは、ほんの少しだけお互いに歩み寄って知り合った心の奥底が、分かりあえるものだったからなのだろう。だから畑野は彼女を放っておけず、彼女も畑野の厚意を受け止めた。そうして今日、ほんの少しだけでも前に進めた篠宮は、けじめとして畑野に感謝の言葉を贈った。だったら、素直に受け止めるべきだろう。


「どういたしまして」


 物事を正しく伝えるために、言葉を飾る必要がある。海より深く、山より大きく、空より高く。物体を伝えるならば齟齬が無いよう熟慮の末に言葉を捻出する必要があるのだが、『心』を伝えるときは別だ。表情や声、関係性が、どれだけ飾らない言葉を語ろうとも、言葉よりも雄弁に感情を相手に届けてくれる。


 畑野の飾らない言葉を聞いた篠宮は、緩みそうになる頬を、唇を噛んで隠す。それでも堪え切れずに嬉しそうに笑った彼女は、照れくさそうに告げた。


「絶対、また来てくださいね」


 出会った時の彼女からは想像もできないような随分と可愛らしい笑顔に、畑野も笑った。それから、こんな笑顔を向けてくれるようになった彼女と離れることに、自分自身でも驚きだったが、寂しさを覚えた。もちろん、と告げて頷こうとも思ったが、それでもきっと、胸に宿る感情の全ては届かないだろうと判断したから、畑野はそっと彼女の華奢な体躯を抱き締めた。畑野の内には色々な感情があって、きっとそれは、そのままでいてはいけないものなのだろうが、今はそれに答えを出さず、ただ抱擁した。


「――あ」


 篠宮の身体が驚きに硬直する。


 しかし、畑野に身を委ねるように、少しずつその身体から力が抜けていった。篠宮はその小さな手で畑野の腰回りに抱き着いて、小動物のように額を肩に擦り付ける。くすぐったい感触に思わず笑ってしまいながら、畑野はそんな彼女の頭を撫でた。




「トイレだけ借りていくわね」

「はーい!」


 抱擁を終えて帰りの身支度を済ませた畑野は、コートと荷物をソファに置いてトイレへと向かった。そんな彼女を上機嫌に、浮かれているのを自覚しながら篠宮は見送る。


 彼女の姿がトイレに消えるのを見送りながら、篠宮はトクトクと跳ね続ける己の心臓を確かめた。壊れてはいないだろうか、健在か。確かめてから、心も体も落ち着かないまま、微かに頭に残る畑野の手の感覚を、両手で頭に触れて確かめる。


「うへへ」


 思わずだらしない笑みをこぼしてしまった。今日は、少しだけ遅めにシャワーを浴びようか。そんなことを考えつつ、抱擁の余韻に浸った。


 それから、棚の上の提灯を眺める。久しぶりに――とても久しぶりに絵を描いた。腕は鈍っていたし、幼少期の自分よりも色遣いが大雑把になってしまっていた。技術は確かに衰えていたが、しかし、初めて絵に心を宿せた。


 宿す感情を初めて得たからなのか、成長して感性が身に付いたのか、はたまた、そうすることを恐れずに済んだのかは分からない。だが、目を背けたくて仕方が無かった絵の世界を、少しだけ好きになれたような気がした。


 全て、畑野のお陰だ。


 初めは、嫌な人だった。それしかないと思っていた自分の生き様を否定してきて、その癖に自分に特別な感情を抱いてくれない。自分という一人の人間を認めてくれなかった。破滅的な生き方を選んだ自分を唯一認めてくれなかった人で、同時に、生き足掻いていた一人の画家を、その努力を見てくれた。『嫌な人』はいつの間にか『変な人』に変わっていた。そして今、こうして彼女を想うと心がぐちゃぐちゃにかき乱されることを考えれば、『変な人』もいつの間にか『特別』に変わってしまっていたのだろう。


 こんなにも心が揺れるのならば、この感情はきっと――


 篠宮が己の心に名前を付けようとしたその瞬間だった。


 ヴー、と振動音が静かなリビングに響く。一瞬、篠宮は自分の携帯電話に触れるが、バイブレーションの出どころはそこではなかった。


 そして、よく耳を澄ませた篠宮は、ソファの上に乱雑に置かれた畑野のスマートフォンが音の発生源だと気付いた。コートの上に置かれたスマートフォンの画面が点灯していて、篠宮は得心したように「あー」と呟き、彼女の携帯に誰かからのメッセージが届いたのだと気付く。一瞬、送られてきた文面とその送信者を見てしまいそうになったが、篠宮は慌てて目を逸らして、人様のプライベートに干渉しないよう注意した。


 しかし、目を逸らした半秒後。送信者が設定したアイコン画像が自分の見知った絵だったことに気付いて、篠宮は目を剥くように見開き、動きを止めた。


 アイコンは、幼少期の自分が描いたフグの絵だった。


 テーブルの端にある設定されたアイコン画像と同じ絵を見てしまった篠宮は、嫌に加速する動悸を抑えるように胸に手を当てた。幼少期の自分が描いた絵を、メッセージアプリのアイコンに設定している人物が居る。そして、その人物が畑野のスマートフォンに何かのメッセージを送った。その事実を紐づけてしまった篠宮は、駄目だ、とは分かっていたけれども「すみません」と詫びながら送られたメッセージを見た。




 お久しぶりです。妹の様子はどうでしょうか?


 無理のない範囲で定期的に教えてくださると助かります――楼海




 ろうかい、と、篠宮は途端に乾いた口で呟いた。


 脳が熱を帯びていく。処理能力を上回る情報を叩き込まれた機械のように、熱く鈍くなっていく脳を酷使して、篠宮は畑野にこのメッセージが送られてくる意味を熟考した。しかし、考えるまでも無い。畑野と楼海には接点があったということなのだろう。


 しかし、何故、畑野はそれを今まで話してくれなかったのだろうか。


 ああまで楼海について話していたというのに、それに関して一切の言及をしてこなかったのだ。言い忘れていただとか、そんな話ではないだろう。間違いなく畑野は楼海との接点を自分に隠していた。隠していたのだ。


「なん、で?」


 思わず乾いて掠れた声が漏れ出た。視界が大きく揺れる。熱で歪んだプラスチックのように、視界が曲がって、眩暈を覚えた。篠宮は目を瞑って深呼吸をして、どうにか動揺を鎮める。嫌に跳ねる心臓を叩くように落ち着かせて、思考を巡らせた。


 姉との接点を隠されていたのはショックだった。


 しかし、問題は『いつから二人は繋がっていたのか』だ。考え始めると悪寒が止まらなかった。普段の自分なら、自分の事情を知ったお人好しの畑野が、姉とどうにかコンタクトを取ってくれたと解釈するだろう。


 それならば、隠していたことにも理由が付く。姉との関係が良好ではない自分が知ったら、傷付くと考えたのだろう。確かに、もう少し前にそう告げられていたら、彼女に心を許すのを躊躇ったかもしれない。だから、その判断は正しい。


 だが、もしもそうでなかったとしたら。


 最初から、姉に言われて接触してきていたとしたら。


 休日にわざわざ呼び出してきたり、一緒にクレープを食べたり、水族館に行ったり、提灯の絵付けを楽しんだり。彼女の善意だと思っていた行動の全てが、楼海からの根回しだとしたら。――そう考えた途端、脳髄に蛆虫が湧いた。


 心がぐちゃぐちゃに掻き回され、呼吸が微かに荒くなる。


 姉が嫌いな訳ではない。二人が接点を持つことが嫌な訳でもない。隠し事はショックだったが、それも配慮の上だと思える。だから、悲しいなんて感情はそこには無い。


 だが、姉からの指示で畑野が動いていたかもしれないという可能性が、篠宮の心を蝕んでいた。


 彼女がくれた優しさが姉からのものであったとするなら、惹かれつつあったこの心は、一体どうすればいいのだ。誰にでもなく問い掛けながら、篠宮は痛む胸を押さえ、唇を噛み締める。


 考えて見れば道理だった。畑野には、自分の為にああまで行動する義理なんて無いのだから。この接点を隠していたことも、彼女の行動も、彼女が楼海の回し者だったと考えれば辻褄が合う。悲観的な理屈が最悪な場所で整合性を合わせるが、彼女の行動が自分の為ではなかったとしても、彼女から貰った全てが本物だったから、彼女を憎むなんてことはできなかった。彼女を慕う心と、けれども彼女の行動が楼海からのものだったという認識の狭間で、篠宮は吐き気を催すほどの苦悩に苛まれた。


 その時、トイレの水が流れる音が聞こえ、篠宮はハッと我に返って顔を上げる。そして、点灯していたスマートフォンが自動消灯するのを確認してから、唇を強く噛んで腕を抓り、平静を取り繕うために悲痛な感情を殺す。人の携帯を見たなんて非常識な真似を誤魔化す意図はあったが、それ以上に、彼女が隠そうとしていたなら、それを暴く訳にはいかなかった。


「さて、それじゃあ邪魔したわね」


 洗った手をハンカチで拭きながら畑野が戻ってくる。一瞬、どうしよう、と心が揺らいだ。どのように彼女と接すればいいのか、先程のことはやはり尋ねるべきではないのか。しかし、胸中でどれだけの苦悩や葛藤を抱こうとも、篠宮は、感情や表情を取り繕うことばかり上手になってしまっていた。


「――いえ、また来てくださいね」


 確か、笑顔はこう浮かべるものだった。なんて確かめるように篠宮は笑顔を作って彼女を送り出す。先程のメッセージの件も、隠し事の件も。彼女に確認を取りたくて仕方が無いし、今はぐわんと歪む世界を正しく認知するのに必死だ。


 だが、彼女がそれを隠そうとしていたなら――いや。


 篠宮は自分を誤魔化そうとして、それを叱責するように否定した。


 真実を知るのが怖い。その癖、心のどこかでは確信してしまっている。


 畑野のくれた優しさは、きっと楼海からのものだ。


 畑野と楼海に接点があるだとか、楼海が自分のために行動をしてくれていただとか。それらは嬉しいし、悲しむ理由も無い。ただ、畑野からもらっていた優しさが、確かに形に残っている本物の優しさが、楼海から贈られたものだという事実が辛くて仕方が無かった。哀れな自分は、ほんの少しでも両想いの部分はあるんじゃないかと思っていた。


 とんだ片思いであった。


 それでも、貰ったものは否定できないくらい確かなものだったから、篠宮は懸命に笑顔を作る。そして、大切な先輩を送り返すのだ。また来てくださいね、と告げながら、次に会う時にどんな顔をすればいいのかも分からないまま。








 車両は殆ど貸し切り状態だった。微睡に身を委ねてしまいたくなるような、暖房が心地よく効いた車内。畑野は窓の外に広がる星空をぼんやりと眺めていた。


 篠宮という少女のことが頭から離れない。


 網膜には彼女の姿が焼き付いて、鼓膜からは彼女の声が離れない。鼻孔はシャンプーの銘柄を延々と考え続けて、指先が彼女を求める。心の大部分を占めて止まない篠宮。そんな彼女を出発前に抱き締めた。筋道を立てて、至って自然にその行動を起こしたつもりだったが、思い返せば半ば衝動的なものだった。


 だからきっと、そういうことなのだろう。


 畑野はその事実を他人事のように認め、彼女から離れていく電車の中でこんなことを考えても仕方が無いだろうと思い直す。今はどうにか頭の隅の方に置いておかないと色々と考えてしまいそうで、畑野は思考の逃げ道としてポケットからスマートフォンを取り出した。


 そして、点灯させた画面に誰かからのメッセージが届いていることに気付く。


 送信者は楼海。先日、連絡先を交換した彼女から、篠宮の近況を尋ねる旨の連絡が届いていた。相変わらず姉馬鹿だと笑いつつ、こんなに想ってくれる家族が居るのなら、自分の割り込む余地は無いのかもしれない、と、畑野は返信の文面を考える。


 親指が画面のキーボードを叩こうとして、ふと、動きを止めた。


 受信時刻は、畑野が篠宮の家を出る直前だった。


 一瞬、畑野の脳裏に、去り際の篠宮の強張った笑顔が過った。そうと気付けないくらい自然な笑顔だったが、直前に浮かべていた満面の笑みと比べると、明らかに固い表情だ。畑野は今まで彼女に楼海との接点を隠してきた。そして、家を出る直前、スマートフォンをソファの上に置いたまま手洗いへ向かった。


 書きなぐるような線が点と点を結んで、胸に不安が渦巻く。杞憂で済めばいいが――畑野は楼海から送られた文面を見詰めながら熟考する。電車がどこかの駅に到着するが、それを確かめることもせずに、考えた。彼女はもしや、このメッセージを見たのではないだろうか。それを確かめる術は直接聞く以外には無かったから、議題を変えた。


 この連絡を見ていたら、彼女はどう思っただろうか。


 自分と楼海の関係性を邪推するだろう。もしかしたら、ずっと前からの関係だと思うかもしれない。そうなればきっと、彼女は自分の行動は全て裏で楼海が糸を引いていたと考えるかもしれない。――彼女に向けられる全ての目を奪って、その癖に彼女を家族の中で誰よりも愛して、彼女を含む家族の全てから逃げ出したのに、結局、彼女に手を差し伸べようとしたのは姉だけだったと考えるかもしれない。


 グルグルと巡るような思考がそこに行き着いた途端、「篠宮」と言葉が漏れ出た。


 畑野は思わず電車を駆け出て、唯一の相乗りだった残業終わりのサラリーマンの怪訝そうな視線を受け止めながら駅のホームで連絡先を探す。『篠宮』の名前を探し出した畑野は、ほんの少し荒くなった呼吸のまま、彼女に電話を掛けた。


 杞憂だったらそれでいい。だが、もしも、そうでなかったら。


 コール音が重なる度に苛立ちと不安が募っていく中で、八コール目。風呂にでも入っているのだろうかと断念しかけた直前に、彼女は電話に応じた。


『もしもし、どうしたんですか? 忘れ物でもしちゃいましたか?』


 無邪気に、明るい声色で応答した篠宮に、畑野は安堵の吐息を漏らしそうになる。しかし、耳を澄ませばその声が微かに震えていて、畑野の不安が確信に変わる。数秒、沈黙してどうするべきかと考えた。けれども答えは出ないまま、畑野は彼女の名を呼んだ。


「篠宮」


 真剣で、余裕の無いその声がどんな感情で紡がれたものなのかは、もはや考えるまでも無いだろう。荒い呼吸が初冬の夜風に白い呼気を乗せる中、電話越しの彼女はしばらく沈黙していた。もはや確かめるまでも無くて、畑野は己の迂闊を呪った。


 一分にも迫るような沈黙の後、電話越しの彼女が震える声で告白した。


『……ごめんなさい。お姉ちゃんからの連絡、見ちゃいました』


 今にも泣きだしてしまいそうな、弱い声。その声を聞いた畑野は、改めて自身の失態を悔いながら思考を巡らせる。勝手に人の携帯電話を見るなんて、などと安易な責任転嫁や糾弾をするのは容易だが、彼女には最悪の隠し事をしていたのだ。


 この際、その点に関しては言及するべきではない。


「篠宮、ごめん。楼海との関係をアンタに隠していたのは、完全にこちらの落ち度よ。聞けばアンタが不快に思うと考えたから、言うべきではないと判断した――こっちが勝手にそう考えて、隠し事をした。非は全面的にこちらにある」


 真面目な性質の彼女が少しでも自分を追い詰めてしまうことが無いよう、畑野は隠し事をしていた件を詫び、非の所在が自分にあることを語った。だが、『いえ』と弱々しい声がそれを拒む。


『私の方こそ、勝手に見てしまって本当にごめんなさい』


 悲痛な声色の謝罪を告げたきり、彼女は押し黙る。


 会話が続かなかった。初めてだった、篠宮との沈黙がこんなにも居心地が悪いのは。つくづく自身の不甲斐なさを呪いながら、畑野は苦い顔で歯を食い縛る。そして、思考に没頭する。彼女がショックを受けているのは明らかだ。彼女にとっては最悪の隠し事をしていたのだから当然だが、もしも彼女が誤解をしているのなら、解かなければならない。


 まずは経緯から語るべきだろうと、畑野は唇を湿らせる。


 しかし、畑野が口を開くよりも先に、彼女は声を絞り出した。


『……もう、無理して私に会わなくても大丈夫ですよ?』


 酷く悲しそうなのに、どうにか明るく在ろうと取り繕った苦しい声が、この関係を終わらせようとした。彼女の言葉を聞いた途端、畑野は思わず声を失う。


 声を失って、それでもどうにか彼女の名を呼んでその思考を制止しようとして、掠れた呼気だけが出た。唇を噛むように口を閉ざして、目を見開く。強く瞳を瞑って固唾を飲み、彼女にそんな言葉を言わせた自分を胸中で非難した。


「どうして」


 彼女がどうしてその思考に行き着いたのかを聞かなければ、その苦悩を解消してやることはできない。だから、まずはそれを尋ねなければいけないのだが、緊張が声を強張らせて、まるで詰問をしているような口ぶりになってしまった。


 柔らかい言葉で訂正をしようとするが、その前に篠宮が返答をした。


『お姉ちゃんに言われて、私の様子を見に来てくれてるんですよね? 「妹の様子はどうですか」って、そういうことじゃないんですか?』


 不安定な声と感情で紡がれた言葉は、畑野が想定する最悪の誤解を示していた。


「ちがっ――!」


 違う、と、声を大きくしてそれを否定しようとした。しかし、とても静かで、けれども寂しそうな激情に揺れる声が畑野の言葉を遮った。


『お姉ちゃんにお願いされたから、私に優しくしてくれるんでしょう?』


 その声は今にも泣きそうだった。そして、畑野は彼女の誤解が自分の想定していたそれと、少しだけ異なることに遅れて気付く。


 篠宮は、楼海から助けられることに忌避感を示すと思っていた。


 だが、違った。彼女は、畑野の行動が畑野自身の思考に由来するものでないかもしれないという可能性に怯えていた。畑野の感情が、篠宮を向いていないことに怯えていた。自分が考えるよりもずっと、彼女にとって畑野の存在は大きくなっていて、畑野はそれを軽視してしまっていた。その事実を痛いくらい噛み締めて、畑野は息を整えてから、落ち着かせるように篠宮に語る。


「違う。それは違う、篠宮。聞いて――楼海と出会ったのはアンタと知り合った後だし、楼海からアンタをよろしくと言われたことはあっても、そう言われたから行動してるなんてことはあり得ない。私は私の意思に従って行動してる」


 嘘偽りなんて無い。全て、本当のことだ。


 全てを伝え終えると、再び沈黙が訪れる。人気の無い終電間際の吹き抜けのホームに、初冬の夜風が吹いた。身体が酷く冷えるのは季節のせいか、それとも。寒さを意に介さずに彼女の返答を待っていると、電話越しに鼻をすするような音が聞こえた。嗚咽を殺すような音と共に、篠宮が震えて掠れる声を絞り出した。


『じゃあ、何で先輩は私に優しくしてくれるんですか?』


 問われて、「それは――」と即答をしようとする。


 しかし、口を開いた直後、畑野は言葉を失って立ち尽くす。


 何故、自分は篠宮という人間にここまで入れ込んでいるのか。そんな単純で、けれども彼女が何よりも答えを求めている問いの返答を、持っていなかった。


 どうして自分が彼女に手を差し伸べるのかを、答えられなかった。自分の中に答えが存在しないことに気付いた畑野は、目を見開いたまま茫然と立って、思い返す。ただ漠然と、彼女の生き様を放っておけなくて始めた関係で、彼女にどう生きてほしいのか、自分の中で結論を出せないまま、ただ彼女が前を向いてくれればいいと考えて、できることをし続けた。だが、どうして。そんな動機の部分が欠如していた。


 いや、動機も無く行動をする人間じゃないことは自覚している。だが、それを言語化する術を持たなかった。小説を書いている人間だというのに、情けない話だ。


「それは」


 思わず、適当な言い訳を取り繕ってその場凌ぎをしそうになった。けれども、嘘を言うべきではないと思い直して閉口し、結局、畑野は何も言えずに沈黙する。


 『ドアが閉まります。ご注意ください』――そんなアナウンスの後、空気音を発して電車の扉が閉まる。終電数本前の電車が自宅の方に走っていくのを見送ることもできず、畑野はただ何も無い空間を見て、返答に窮する。


 やがて、畑野の返答を待つこともなく、篠宮が沈黙を払い捨てた。


 小さな、小さな嗚咽を呑み込んで、彼女は柔らかい声色で語った。


『……意地悪なこと言ってごめんなさい。でも、切っ掛けがどうであれ、先輩から貰った多くのものは私にとっての宝物です。それに、先輩のお陰で少しだけ前に進めました。大嫌いだった絵を、ほんの少しだけ好きになることができました。だからもう、私は大丈夫です。お姉ちゃんにも、そう伝えてください。……大好きです。おやすみなさい』


 プツ、と何かが切れるような音がしたかと思うと、彼女の声が聞こえなくなった。「篠宮」と慌てて彼女の名前を呼んで、少し遅れて通話が切れたことに気付く。そんな馬鹿馬鹿しい行動で自分が酷く動揺をしていることを自覚した畑野は、茫然としながらスマートフォンを耳元から離し、画面を見詰めた。


 『篠宮』と『通話終了』の文字。それらをしばらく眺めた畑野は、何種類もの絵の具を溶かしたバケツのような、形容しがたい感情とそれを宿す表情で、画面を見つめ続ける。全身から力が抜ける。酷い脱力感と倦怠感と頭痛を覚えながら、畑野は思わず手に持っていたスマートフォンを駅のホームに落とす。ガシャン、と酷い音を立てながら跳ねたそれを拾おうとしゃがみ込んで、手を伸ばし、しかし、取るのも億劫になって止まる。


 スマートフォンに伸ばした手で、そのまま己の髪をくしゃりと掻く。


 二人が落ち着いて話し合えるような機を見計らって引き合わせるつもりだった。隠し事は彼女の為にやったつもりだったが、それが裏目に出た。最悪だ。


 楼海も篠宮も悪くない。全部、自分の失態だ。


「くそっ……」


 情けない自分を責めるように、畑野は毒を吐いた。

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