第3話 迷走の果て

ズーマーの購入から早2日。諸々の手続きはつつがなく終わったし、単車を伴う通学にも自他共々、あっけなく馴染んだ。

学友達からは一緒に歩いたりバスに乗れないことを惜しむ嘆きや、共に単車に乗れる歓待など反応は様々だったが、件のヘルメットの人間からの応答は特段、何かがあるという訳ではなかった。

というのも、この学校に度々来ているという事以外、ヘルメットの情報は無いのだ。そんなもの、学校関係者には総じて当てはまるのだから情報とも言えない。

だから、出会えたとて和気藹々と話し込める程、明け透けでもないのだ。

そもそも、ヘルメットがズーマー購入の切っ掛けを与えたといっても、その存在自体に惚れ込んだ訳ではない。同じような人間などごまんと居る。彼女が惚れ込んだのは、その生き方なのだ。

だから、出会えたとて意気揚々とのめり込める程、勢い込んでいる訳でもないのだ。

今日も、火野はズーマーを押して帰る。校内でのエンジンの点火は安全面より禁止されているからだ。学校を出た後も、付近で点火して問題になったという噂を聞く。不服ではあるが、校則なのだから仕方がないのだ。例え帰るのが遅くなって誰彼に声を掛けられようとーー

「ああっ!」

一つ、喚声が飛ぶ。前方の出入り口に目を向けていたので、横から同じく自転車を押してくる生徒に気が付かなかった。共々、車体も身体も音を立ててしたたかに倒される。

「ごめんなさい!」

「いえ、構いませんわ。先に行きなさいませ。私の単車は起き上がるのに時間が掛かりますので」

彼女は少し迷ったような素振りを見せ、一つ頭を下げ、素早く走り去っていく。

この振る舞いが、良い子の自己犠牲が良い事かは分からないが、彼女が滞りなく帰る事ができたのならば、それはきっと世間や父母の言う良い事なのだろう。

思い悩みながら、火野はズーマーの車体に背を付ける。大型2輪に比べればずっと軽いが、仮にも単車、自転車とは比べ物にならない程に重い。

免許を取る時に単車の起き上がらせ方は学んだ。しかし、90キログラムを一瞬で上げられる人間がどれ程いようか。

もたもたしていたのが仇となった。助けが行き合うどころか閑古鳥が鳴いている。

わざわざ校則なぞに縛られていた自身が惨めに思えてきた。しかして、それを破る逆風を捌いてやっていけるか分からない自分がまた、虚しかった。

ゆっくりと単車を押し上げ、沈む夕陽を見遣る。

こんな時、思い浮かぶはあのうるさいヘルメットだった。

けたたましいエンジンを響かせ、教師から注意ではなく野次を飛ばされても飄々と投げ返していたのはいつの日だったか。

ヘルメットの内側、箱入り娘1人の叫びなどそう響きはしないだろう。

「このヴァァカアですわぁああああああ!」

「馬鹿はテメェだよ!」

我に帰ると、あのライダースジャケットが逆光を受けて一層黒々しく光っていた。その側には今も唸り声を上げる二つ目の単車--確かカワサキZXR--が。

「もう学校出ろや!わざわざ入口前で棒立ちんなりやがって!」

「……先生?」

「ん?いや私は用務員」

「私にとっては先生ですわ!」

立てたばかり、支えなどしていないズーマーを突き放して革の服を抱きしめる。

「どうしたら貴女のようになれますの?」

「勉強して公務員試験受ける」

「んな事言ってんじゃねえです!もういいですわ!」

ジャケットを突き放し、ズーマーを引き立てる。カワサキと腰が悲鳴を上げた気がしたが、最早どうでもいい。

「わざわざ待ってましたのに!ご機嫌ようっ!」

出入口近くなので、人も仏も咎めはしないだろう。エンジンを高く鳴らし、歩道及び車道に至る前にしっかりと確認し、車線に躍り出る。

行く先は自宅の真逆の西--甲斐駒ヶ岳。



道を見失い早1時間。火野はズーマーを押して、否、引きずられていた。

日はとうに落ち、月光は葉叢に覆い隠された。足元は露と霧でぬかるみ、僅かなグリップも苔と木の根が攫っていく。先述した通り、体重30キログラムに及ぶかも知れぬ小娘が90キログラムのズーマーを支えられる筈が無いのだ。手はハンドルにあり、指針も停止も思うままであれど、濡れたタイヤは勝手に滑落していく。

そも、学生服に運動靴で山を踏破できる筈がないのだ。まして道が無ければ走る事もままならぬ単車になど。

後悔先に立たず。森立する木々に戦意を削がれそうになる度、目指すべき人物像を想起して立ち直る。

しかし、身体はそうもいかないようで、グローブを通した手は震え、ヘルメットを支える首は捻れるような錯覚に襲われていた。

道も灯も視界にはない。だが、自分の記憶ならば信じられる。自分しか信じられない。

そう足を踏み出すと、その先の感覚が急に無くなって身体が転がった。勢い付いてまろび出た何かの窪み。ズーマーのハンドルが地面に突き刺さったのを見た所で、火野の意識は途絶えた。



気がつくと、何処か明るく暖かい所にいた。ふらつく頭で周囲を見回すと、そこは家というには子綺麗で、公共施設にしては我が出てていることに気付いた。手元にはふかふかの毛布、足元からはシーツとバネの感触がする。

痛む節々に無理を通して起き上がると、近くから女の小さな悲鳴が聞こえた。幼さの残る、しかし年嵩は火野と同じ程度のような女だった。

「うっ、動いちゃダメです!」

普段着というには洒落すぎる服を振り回して狼狽えている。言われると何だか気怠く感じてきたので大人しく横になる火野。

「動かしちゃ悪いかなって思ったんですけど、外、すごい雨で、身体冷え冷えで…!」

はて、今日は降る予想だっただろうか、と疑ってみるが、今日こんにちの天気予報は当たるかと言われれば頭ごなしに、はい、とは言えぬ代物だ。いきなり雲が差して雨が降ることもあるだろう。そう思い、話に意識を戻す。

この女、意識混濁の火野わたしを確かに運んだらしいが、さもなくば凍死していただろう。

感謝の眼差しを向けていると、それを見て取った女が答える。

「大丈夫ですよ!救急車はもう呼びましたし、傷は素人ながら手当てさせていただいたので…」

そう、彼女は時計を見遣る。時刻は12時半。

「12時半?」

思わず声を上げる。こうも事が長引いてしまえば、明日の欠席は避けられないだろう。

「遅いですよね。1回、催促の電話を入れたんですけど、向かっているの一点張りで」

「いいのよ。僻地山梨とはいえ、お隣は首都東京、長引きもしましょうよ。……それに、そのお陰であなたにも出会えた事もだの。文句を言ってはバチが当たるわ」

彼女は頬を上気させる。火野からしてみれば社交辞令だったのだが、本気にしたのだろうか。そう思っていると、彼女が肩を震わせているのに気づいた。

「どうかしましたか?」

「いえ。あなたと似てる人を思い出したので。その人、大人しい見目とは裏腹に。ずばずばと物と接するんです。あなたみたいに口説き文句を飛ばしはしませんけど」

どこか畏敬の目線を発しながら、自身に向けるは軽蔑のものであるように感じ、恥に朱を刷く。

そんな火野に、彼女は額をそれぞれ触る。

「熱は普通、ですね。お水持ってきますね!」

言うやいなや、彼女は走り去ってしまった。

ぽつんと取り残された火野は、胸に灼けるようなものがあるように感じた。



「お話、しましょうか」

白湯の入った陶器を手渡しさまに、唐突にそんなことを言うので火野は目を丸くする。

「尋問ですの?私、何かしてしまいましたの?」

「そんなんじゃないですよ。ただ、意識を失わないためには呼びかけ続けるのがいいって聞いて」

そういうものだろうか、と思いつつも相槌を打つ。

「そうなんですね。私、火野といいます」

「私は恵庭といいます。それにしても、火野さんってもしやご令嬢だったりします?」

ずばずばと物と話すのは恵庭も同じなのだろう。類は友を呼ぶのだ。

「いいえ。あなた方と同じ、しがない女子高生です」

「その割には、制服がこの辺りでは見ないものですね。それに口調も」

そこまで遠くまで来てしまったのだろうか、と慄くが、おくびには出さないように心掛ける。

「滅相もない。北杜の一般的な高校ですよ」

「そうなんですか。この辺りにあんな制服の学校あったかな……?」

思案を巡らせる恵庭をよそに、火野は毛布を剥ぎ取って自らが纏うものを見る。恵庭によく似合いそうなふわふわの服だ。

「……お気に召しませんでしたか?」

「いえ。こういう服、着てみたかったんです」

そうなんですね、と引き下がる恵庭に、今度は火野が投げかける。

「こちらは如何様なお家で?まさか趣味でここまで、という訳ではないでしょう」

それに恵庭は、うーん、と唸って答える

「半分正解で、半分不正解です」

「と、言いますと?」

「ここは私の親が営んでいるベーカリーなんです。あっ、でも人も泊めちゃったし、これはもうモーテルかな。……ともかく、そうなんですが、これは趣味が高じてできたベーカリーなんです。だから」

「半々」茶々を入れる火野。

「という訳です」

話の隙間を縫って、部屋を見渡してみる。衝立てでできた入り口からはカウンターが見える。そこやその周りに見える物には派手に文字が綴られている。恐らく、ドイツ語。

「私からもいいですか?……あなたのような人がどうしてここまで?」

一拍置いたのは、警戒と敬遠からだろう。探られて痛い腹だが、そうである以上隠しても意味はない。

素直に、自分の生い立ちとここ数週間にあった事を話す。

話を聞くと、彼女は嘆息する。

「なんというか、わがままですね」

わがまま、と繰り返す。

「だってそうじゃないですか。勝手に期待して、勝手に失望して」

「失望はしてません」

「でも、その一歩前まで行った。ならすぐにそうなりますよ」

火野は言葉を詰まらせる。

「あなたのわがままは何だか可愛気が無いんですよ」

「わがままとは独善。可愛い訳がありませんわ」立ち直って牙を剥く火野。

「愛も尊敬もわがままです。でも人のためのわがままは良い事なんです」

「なら狂愛も隷従も良い事なんですの?」

「結果的に悪くなるわがままは良くないです!」

「結果論が善悪を決めるなら、今の私のわがままを左右することはできませんわ。そもそも、私の行為が必然的に悪いとする理由は?」

「その身勝手さです!自分の事ばっかり」

「どういう」

「結局、そのヘルメットさんに対する立ち回りも性格に惹かれたんじゃなくて、能力や社会的地位に惹かれたんでしょう?」

一息ついて言い放つ。

「本当にカッコ悪いですね」

胸を刺されたような感覚に陥っている火野をよそに、恵庭は言い募る。

「あなたが何処の学校で、どんな成績なのかは知りませんけど、どんな生き方をしようがその嫉妬と羨望ばっかりの性根が変わらない限りは、あなたの人生は錆と膿が滲んだダメダメなんです!」

言い切ってしばらくした頃に、彼女はやっと火野が滂沱の涙を溢しているのに気づいた。

「あっ、いえ、そういう感情が人間に欠かせないものではあるんですけど、そればっかりなのは良くないっていうことを言いたかっただぇで、あなたそのものがダメダメっていう訳じゃなくて、その、その」

「もうたくさんですわ」

吐き捨てる火野に愕然とする恵庭。構わず、ベッドから起き上がって戸口の方へ向かう。

手厚い介護で、傷どころか骨折も良くなったらしい。足取りは軽やかで舞うように進む。

「この先が出口でいいんですわね?」

「駄目ですよ!出ていっちゃ。救急車もきっともうすぐ来ますよ」

「こんな私、いない方が世の為ですわ」

戸の取手を掴み、引き絞る。その最中、背後より声が飛んだ。

「持ち物、見ました!残ってた連絡先にメールしちゃって」

その先は聞かなかった。

連絡先は短期記憶に留めこそすれど、わざわざ何かに残すような密接な関係を持つ人間はいない。だから、それも何かの見間違いだろう。

「手当て、ありがとうございました。いつか、お礼に参りますわね」

火野は扉を押し開け、闇夜に身を投げ出した。


夜陰の狭間に、フクロウの声が木霊する。

見上げる空は暗く、制服と身をうずめる地面は冷たい。側にいて、水を差し出してくれる人もいない。

全ては夢だったのだ。

葉の隙間が覗かせる空は透き通り、雨の匂いすらない。

ふいに、足音がした。

そうだ。あの家が無いのだから、野生動物の危険に晒されるのも自然だ。

イノシシか、野良犬か、と心していると視界に入ったのは猿--ではなく人間だった。

「探したぞクソガキ!あんなメール送りやがって!」

その声は確かに、ヘルメットとライダースジャケットが似合うあのがなり声だった。

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ZOOMER 蟹きょー @seyuyuclub

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