第2話 ズーマーを買わせました

 山中を走り続け、早三十分。

 火野はこの町の数少ない単車の店に辿り着いた。

 とうにシャツは汗を滴らせ、上に着た体操服が無ければ彼女はあられもない姿を晒していただろう。

「ここですよね」

 場所を確認し、ついでに息を整えるためにナップサックの中の地図を広げる。

 間違いない、ここだ。

 顔を上げ、改めて店を見る。

 看板に添う鮮やかな歯車のオブジェの下には、何台もの単車が並んでいた。

 しかし、人がいない。店内もいやに暗い。

「ごめんください!」

 挨拶はしなければと、玄関の前から叫んでみたが、そよ風が町田の汗を撫でただけであった。

 倉庫の方にも歩き、同じく叫んでみるが、やはり誰も応えない。

 ならばと、恐る恐る、並ぶ単車達を鑑賞してみる。

 まず目を留めたのは、尖った車体と吊り目の様なライトが印象的な原付だった。

 上から下までゆっくりと見た後、ハンドルを握って少し動かしてみた。

 次に見たのは、滑らかな車体を持った黄色の原付。

 少し見て、次に行く。

 そうして見たのは、さっきまでの物とは趣と異にした、骨格がはみ出たような二つ目の緑の原付だった。

 隆々たるタイヤとは裏腹に、剝き出しのエンジンがある。

 大きなハンドルとミラーも目を引く。

 ピカピカに磨かれている筈なのに、何故か泥臭さがして、それがまた彼女を引き付ける。

 ふと気が付くと、火野はそれに跨っていた。

「お嬢さん。そいつは売りもんだよ」

 その声に飛び上がり、急いでその方に頭を下げる。

「すみませんでした!あまりに良かったので!」

 火野は心の中で自身の行いを恥じた。

 だんだん顔が熱くなって、空気の代わりにどす黒いものが入り込む感覚がする。

「顔を上げとくれ」

「はいっ」申し訳なさが、彼女の顔を弾いた。

 見るとそこには、小さなワークキャップが印象的な、つなぎ姿の老人が居た。男だろう。

 手を顎に当て、考えているようだった。

 火野がそう思うとすぐ、彼は口を開いた。

「そのバイク、買いたいのかい?」顔を見るでもなく言う。

「いえ、その」

 つい、言いよどんでしまう。

 見てしまったからだ、その値段札を。

 これまで通りに暮らせば三か月分、普通に暮らせば二か月分は余裕で暮らせそうな数字がそこには記してあった。

 ならば、買わぬ方が吉ではないか。

 しかし、どうにもこの単車が目に留まる。それに――。

 思考を巡らせるも、口を開く事は出来ないでいる。

 その様に何か感じたのか、はたまた呆れたのか、老人は倉庫の方へ行ってしまった。

 火野はしばらくは申し訳なさそうに老人の跡を目で追っていたが、気づくとまたもや視線はその原付に向いている。

 そして、跨りたい気持ちが沸き上がってくる。

 一歩、右足が前に出る。

 左足には、もう持ち上げられるだけの力が籠っていた。

「何してんだ?」

 声に呼び止められ、振り返ると、そこには見覚えのあるヘルメットが居た。

 今日はジャケットではなく、ワイシャツにジーンズと軽い服装だ。

 何も言われないように、気を付けの姿勢を作る。

「ズーマー、スクーターだな」

 そう言うと、手を伸ばした。

 すぐさま、その手の前に立ちはだかる。

「どうした。目、付けてたのか?」声を尻上がりにして言う。

「違いますよ。店の物に勝手に触っちゃ駄目なんですよ」

 何故かその言葉が、少しの空白を作った。

 ヘルメットはじっくりと火野とズーマーを見比べる。

「迷ってんのか?」

 えと、声が漏れる。

 ヘルメットが笑ったような気がした。

「そういう時は、取り敢えず突っ込んでみるもんだ。やりたい時にやれる度胸が無いと、人間、死んじまうぞ」

 そう差し出す右手には、今日の日付と200,000の数字が書かれた領収書が握られていた。

 火野が戸惑いながら、少し右手を上げると、早く取れと紙を揺らす。促されるがまま、それを取るとヘルメットは踵を返して、倉庫の方へ行ってしまった。

 町田はその紙切れを見た。じっくり見た。

 すると驚くことに、足は自然と倉庫の方へ向く。

 地面と運動靴を擦り合わせながら、前に引かれている。

 だんだん足が早くなる。

 浮き上がって、地面を蹴っていた。

 次いで、腕が柱に伸びた。体を支えるため、華奢な指が角を力強く鷲掴みにする。

 最後に空気をいっぱいに吸い込んで、涙ながら精一杯に叫ぶ。

「緑のズーマー、売ってください!」


 二週間後、火野は免許を手にしながらスキップをしていた。

 ピカピカのグリーン免許だ。

 火野には、その輝きが全てを、未来さえも照らしてくれるような気がしていた。

「嬢ちゃん」

 その声で我に返ると、彼女の後方に店主の老人が居た。それとズーマーも。

「その様子だと、取れたようだな」

「ええ。免許も、お父様お母様の了承も」

 この二週間、火野が行っていたのは免許のための試験勉強だけではなかった。

 両親とのズーマーに関する交渉である。

 火野がわがままを言ったのは、幼稚園児の頃以来、初めての事であった。

 その事は両親を大いに驚かせ、当然、大いに反発させた。

 しかし、山梨という言わば単車県に通学している事や、ヘルメットの言葉を応用して啖呵を切った事が事を運び、結果として領収書への署名を成し遂げた。加えて――。

「それで――」

「はい。SG、PCSマークの付いたヘルメットと、グリップの効く手袋、です」

 火野はそう、背中のナップサックからシステムタイプの黒のヘルメットと、黄色の革手袋を取り出す。

 これも両親の懐から払わせ、買ってもらったものだ。

「うん。……大丈夫そうだ」

「何のための勉強と試験と思ってるんですか?」

「そうだな」

 老人は傍のズーマーを叩いた。

 十二時の陽気を浴びて、鈍く光っている。

 火野もヘルメットと手袋を着けた。

 不安はあるが、これで準備万端。

 跨ると、あの時と同じ感覚がした。

 世界が映画のように美しく映り、水墨画のように滑らかになり、漫画のように感性を刺激していく。

 火野は、きっと、この魔性からは逃れられないのねと思った。

 口がにやつく。

「キーを下さい」

「はいよ」

 老人が差し出したのはホルダーに入った、エンジンロック用とシャッター用の鍵とそれぞれのスペアキー。

 それを受け取ると即座にふわりひらりと回し、シャッターを開いた。

 そして、鍵を突き刺して「on」の記号に合わせ、エンジンを唸らせる。

 もう抑えきれない。

「ありがとう存じます。御機嫌ようッ!」

 それだけ言うと、慣らし運転もしないまま、左右確認をしてさっさと行ってしまった。

 残されたのは、呆けた老人が一人。

 帽子の中に指を差し、頭を掻く。

「苦労するな」


 全てを手に入れていた筈の少女は、ズーマーを――初めての相棒を手に入れた。

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